リアルなアメリカ入門

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3月 252012

*今回は本の紹介です。
                「アメリカについて本当のことを知るべき時代」
            ~「最もリアルなアメリカ入門」原田武夫著を紹介します~

 今まで何度か、元外交官 原田武夫氏の本を紹介させていただいたが、現在、日本に最も影響を与えているアメリカという国の真実の姿をほんの少しでも知るために、未来の子供たちの教育を担っている教育者、多くの従業員の生活を支えている経営者の方々には是非、読んでいただきたい一冊である。
 ところで、私たちは、学校において、社会において、意図的に戦後史を勉強しないように仕向けられている?ことを改めて、知っていただく必要がある。そのような状態に日本人を放置したままに、しておきたい国が、私たちに一番影響を与えているアメリカというある意味、金儲けだけしか考えていない「ファンド国家」なのである。

 とにかく勉強になる本である。たとえば、この本のコラムで彼はこんなことを書いている。

・「アメリカを支配する「奥の院」とは誰なのか」
・「アメリカ教育使節団が日本に残したもの」
・「オバマがCIAのスパイだったというのは本当か」


如何だろうか。興味深いタイトルではないか。
 北朝鮮外交の舞台を、最後に外務省を退職した原田氏があの六カ国協議の現場で見た米国の外交官は、ほとんどがウオールストリート出身の人たちだったということだ。その意味するところは、米国にとって北朝鮮も金儲けの手段の一つに過ぎないということだろう。日本人である私たちは、米国の強い影響下にある日本のマスコミが「北朝鮮脅威論」を声高に唱える背景をもっと冷静に考える必要があるのではないかとも思われる。

 それでは、まず目次から紹介する。

序章  対立軸で探ると見えてくる 現代アメリカの実状とは
第1章 神の国を標榜するアメリカを作ったのは誰なのか
第2章 アメリカはいつから戦争国家になったのか
第3章 金融資本主義を推し進めるアメリカの目論みとは 
第4章 アメリカの顔・オバマ大統領の真実とは
第5章 ソーシャル・メディアによるアメリカの情報統制とは
第6章 脱アメリカ時代の日本はどこに進むべきなのか
最終章 日本はこれから先 どうなっていくのか

この本は、原田氏の本の中でも読みやすい方に分類されるが、内容は相当踏み込んで書いているので、背景知識のない人は読み落としてしまう部分もあるかもしれない。
そう言った意味では何度も読むことのできる本に仕上がっている。
 前半ではアメリカの歴史が語られているが、原田氏は「アメリカという国はそもそも建国の時から戦争に次ぐ戦争によって営まれて」きており、「しかも『勝ち続けていること』によって止まれなくなり、経済的な理由や宗教的な理由も加わって戦争をし続けている」とはっきりと指摘している。

 第3章以降は、現在の話になってくるが、インターネットにおけるアメリカの考えが解説されている部分も、題名通り、とてもリアルな言葉で表現されている。

「インターネットとは、アメリカにとってそもそも「軍」であり、「インテリジェンス機関」であり、「政治」のための道具なのです。
 
アメリカはとってブログは戦略上、どうしても押さえておきたい相手国の世論操作を行うためのツールに他ならないのです。


日本では一般にまったく問題とはされていませんが、実はスマホの普及にともなってアメリカによる「文化帝国主義」とでもいうべき事態が、人知れず進展しはじめています。」

 では、これから世界は、日本はどうなるのか。そして、日本はどうすればいいと原田氏は言っているのか。以下。

 まず、今の世界の金融メルトダウンは、もはや金融的な手法では解決できない。その解決方策は結論的には2つであり、一つは戦争経済への移行。つまり中東での戦争だ。そして、もう一つが日本や中国に流出した富を奪還することだ。

 まさに今、ホルムズ海峡で大きな問題が起こっているが、その一つ目の流れの動きだ。ただ、今年は米国を初め世界各国で大きな選挙の年であり、色々な情勢を総合的に見ると、実際に戦争にまで至る可能性は低いと予想される。
 そうなると、残された選択肢は一つになってしまう。収穫の前には太らせるのが、効率が良い。つまり、日本は今後、一時的に金融バブル化するが、その後、一気にバブル崩壊を迎えるというのが予想されるシナリオだという。
 さらに、今の状況は1930年代初めの状況に非常に似ているとも言う。その後、日本がどのような道を進んでいったのかは周知のところだ。今度は同じ轍を踏まないよう、準備と覚悟が必要である。

①アメリカがヨーロッパとともに企てているのは、「(東)アジアからの富みの奪還」である。それ以上でもそれ以下でもない。

②「円高ドル安」は少なくとも来年(2013年)春までは続く。そしてそれは時に急激な局面を交えたものとなる。

③急激な円高に見舞われ続ける日本は金融緩和を強力に推し進める。
その結果、日本は歴史的な金融バブルに突入し、短くとも2013年春まではその状態が続く(あるいはそれ以上長引く可能性(2014年後半まで)もある。


④「持つ者」と「持たざる者」との間の差が極端に広がる結果、ついに「持たざる者の叛乱」が世界中で起っていく。先進国でそれがはじまるのはまずヨーロッパ、そして次がアメリカである。
  その中でいよいよ日本においても不満が爆発し、新しい政治体制がつくり出される。
 (*その意味でも「大阪維新の会」の橋下 徹氏は日本の政治のキャスチングボードを握る可能性を秘めている。)


 最後に、著者の言葉をそのまま紹介したい。

「アメリカはいったい、日本をどうしようとしているのだろうか。何がしたいのだろうか。アメリカは毎年、莫大な予算を使って対日プロパガンダ戦略を実施し、札束を使って、アメリカにとって「好ましい日本人」を取り上げるように陰に陽に日本のメディアに対して働きかけ、従わせてきたのです。
それが今、アメリカは「弱体化」しているかのように振る舞い始め、「しばらくしたら自己破産する」と言わんばかりに、騒ぎはじめています。
近未来に向けたアメリカの真意と、日本がどのように立ち向かうべきなのか語る時がやってきたようです。
 結論は先に言っておきましょう。

  アメリカが今、日本に抱いているのは「畏怖心」であり、日本に今必要なのは、「世界史を担う気概」です。
なぜならば、これから起るのは、驚くべきことに私達の国、日本における「歴史的な金融バブル」であり、動き方によっては、日本だけが勝ち組となり、(「ジャパン・アズ・ナンバーワン・アゲイン」)、世界を制してしまうかもしれないからです。

アメリカ、そしてヨーロッパはそのことを知っています。
  だからこそ彼等はよって、たかって日本を叩き、二度と立ち上がれないようにしようと必死なのです。

そして彼等に飼い慣らされた日本人たちが悲しいかな、これに協力してきた歴史、それが戦後の日本史なのです。

しかし、それでもなお世界史を逆転される「金融バブル」というカードは、私達日本人の手にまもなく降ってきます。

したがって今こそ、私達日本人がそのことに「気づく」こと、そして「動く」ことが求められているのです。」
 
原田氏が言うように日本で金融バブルになるためには、以前のレポートでも指摘させていただいたように、日本銀行の金融政策の動きが一番重要である。確かに日銀もその方向で動き始めていることは確かである。その意味で日銀の金融政策に注目すべきである。

とにかくテレビや新聞では報道されることのない内容が書かれている。お時間のある方には、是非、ご一読をすすめたい。

戦後の日米関係を再考する時を迎えている

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3月 222012

以前、「アメリカニズムの終焉」というレポートで米国の国力低下の惨状を指摘させていただいたことがある。そのために現在、日本人は、否応なしに長すぎた戦後を終わらせることを求められる時代に入っている。そして、その戦後を終わらせるためのキーワードの一つが「コラボレーショニスト」(collaborationist)という言葉である。

「ノーブレス.オブリージュ」という言葉の意味する「気高さ、勇気、自尊心」とは正反対の意味を持つ言葉が、「コラボレーショニスト」という言葉である。戦いに敗れて敵軍に占領された途端に手の平を返すように占領軍に協力し始める人間のことをコラボレーショニストと呼ぶ。コラボレーショニストというのは「占領協力者」というよりはるかに悪い意味で、「祖国を裏切った者:売国奴」を意味すると考えても良いのかもしれない。



敗戦後、日本に進駐してきたアメリカ軍と米国務省は、つぎの三つの政策を日本に押しつけてきた。

 ①日本から永遠に自主防衛能力と独立外交能力を剥奪しておくための憲法九条。

 ②戦前の日本は「邪悪な帝国主義国家」であり、その日本を懲らしめたアメリカは「国際正義を実現した道徳的に立派な民主主義国」であるというフイクションとしての東京裁判史観。

(cf ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(“War Guilt Information Program”、略称“WGIP”)とは、文芸評論家の江藤淳が『閉された言語空間』(文芸春秋・1989年)において第二次世界大戦終結後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP、以下GHQと略記)による日本占領政策として行われた宣伝として提示したもの。“WGIP”の略称も江藤淳による。この呼称を最初に使用した江藤淳はこれを「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」とし、「日本の軍国主義者と国民とを対立させようという意図が潜められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている。」と主張している。また「もしこの架空の対立の図式を、現実と錯覚し、あるいは何らかの理由で錯覚したふりをする日本人が出現すれば、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」は、一応所期の目的を達成したといってよい。」)

③日本を属国:保護領として米国の世界支配システムに組み入れ、米占領軍が日本列島に設置した軍事基地を半永久的に使用するための仕組み、すなわち日米安保条約。

 これら三つの政策が、敗戦国日本を半永久的に支配しておくために米政府が考えついた「対日支配政策・三点セット」である。

 (*このことは、何回も引用している片岡鉄哉氏が「日本永久占領」という本で詳細に解説している。)

 満州事変から一九四五年の夏まで、朝日新聞やNHKや日本の学校教師は、軍部の戦争遂行に献身的に協力してきた。彼らは、軍部による戦争プロパガンダを広めて、ナイーヴな国民を洗脳するための道具として八面六臂の活躍をした。ところが1945年9月に占領軍が乗り込んできたら、彼らは手の平を返すように、あっという間に占領軍の反日プロパガンダ、日本を永遠に無力国家としておくためのプロパガンダの手先となってしまったのである。それが、日本の真実の戦後史である。完全に思考能力を放棄させられた朝日・NHK・日教組等は、戦後60年が過ぎても、まだこの「日本無力化プロパガンダ」を慣性の法則のように現在も半ば、無意識のうちに続けている。

 そう言った意味では、いわゆる日本の護憲左翼勢力も無意識のうちにコラポレーショニスト集団にされてしまっていると言っても過言ではない。

  吉田茂首相の補佐官として米占領軍との交渉役を務めた白洲次郎氏は、親米保守派の日本人について、「私は占領中、最下等のパンパンすら風上に置くまいと思われるような相当の数の紳士を知っている。軍国主義全盛時代は軍人の長靴をハンカチで拭き、占領中は米国人に媚びた奴らとパンパンと、どこが違うか」と述べている。

 かつて、ニクソン、フォード両政権で国務長官を務めたキッシンジャー博士が「戦争に負けて敵軍に占領された国には、二つの対応策しかない」という鋭い指摘している。

①占領軍に対して、長期間の徹底的なゲリラ戦を実行する。

②目先の利益と安全を確保するため、占領軍に協力し服従するコラボレーショニストになる。

①についていえば、第二次大戦後のアルジェリア、ベトナム、アフガニスタン、レバノン、パレスチナ等のように、たとえ正規軍同士の戦争で完敗してもゲリラ戦士になって何十年も抵抗を続ける、占領国がギブ・アップするまでゲリラ戦を止めないということだから、人的にも経済的にも大変なコストを払うやり方である。

 それにたいして②のコラボレーショニスト政策は、はるかに楽である。少なくとも国民を大量に殺されなくてすむし、せっせと服従し恭順の意を示していれば、そのうち峻烈な占領政策を緩和してくれるかもしれないという希望を持つことができる。しかし「長期間、コラボレーショニスト体制を続ける敗戦国には、かならず二つの問題が生じる」とキッシンジャー氏は指摘しているのだ。

 一つは、国家の「ディ・レジティマタイゼーション」です。国家がレジティマシーlegitimacy (正統性)を失うということである。

 敵国の占領軍が押し付けてきた憲法や法律、行政制度、教育制度、歴史解釈(敗北した国は「道徳的に劣等な国」であり、戦勝国は「道徳的に優越した正義の国」であるという歴史解釈をそのまま使うわけですから、敗戦国の国民は、「何だ、自分の国は、占領軍の言いなりになっているだけのエセ国家か」と思うようになってしまう。外見的には「立派な独立国(経済大国)に見えたとしても、国民は本音レベルでは、(この国は・戦勝国に服従している属国にすぎない)ということをなってしまう。国際社会もその国を本当の独立国としては扱わない。そうなると国家としての正当性とクレディビリティcredibility(信頼性)を失ってしまう。だれも尊厳を払わない国となる。

 コラボレーシヨニズムの二つ目の弊害は、国の「ディ・モラライゼーションde-moralization)である。

 「モラル」「道徳」ではなく、「モラールmorale」(士気、気概、撃心)を失うということにつながる。国民が士気を失い、「自分の国は、所詮、戦勝国にペコペコするだけの属国か。戦勝国の顔色を窺っている卑怯者国家か」と感じるようになってしまう。そして、「こんな国のことなど、本気で考える必要はない。自分だけが出世して金持ちになれば、それで十分だ「国のために」なんてダサいこと言うよりも、自分の趣味と私生活を大切にする生き方に専念しよう」という「ミーイズム」に陥ってしまう。また、それが戦勝国の狙いでもある。

 キッシンジャー氏が「コラボレーショニズムは、国家のディ・レジティマタイゼーションとディ・モラライゼーションを起こす」と書いているのは、敗戦後の日本のことを言っているのである。

 

フランスのド・ゴール大統領は、「自国の運命を自分で決めようとせず『友好国』の政策判断に任せてしまう国は、自国の国防政策に対して興味を失ってしまう。自国の防衛を他国任せにするような国は、独立国としての存在理由をすでに失っている」という鋭い指摘をしている。

今回は、戦後の日米関係を再考するのにふさわしい、興味深い論説を二本紹介させていただく。是非、戦後66年続いてきた不可思議な日米関係を今、一度考えていただきたい。





「日本の権力構造と在日米軍」

2012年2月22日  田中 宇

 

沖縄に駐留する米軍海兵隊が、海兵隊普天間基地の名護市辺野古への移転を待たず、グアム島に移転していくことについて、日米政府が話し合いを始めている。(US, Japan mull sending 4,700 Marines to Guam

 米海兵隊が沖縄に駐留していることは、日米同盟の象徴だ。海兵隊は総兵力24万人(定員数)で、そのうち日本に駐留するのは定員数1万8千人(実数は1万2千人前後)にすぎず、海兵隊全体の中に占める割合は低い。だが、米国外で海兵隊が常駐しているのは日本だけだ(海兵隊は3つの遠征旅団から構成され、第1が太平洋岸のカリフォルニア州、第2が大西洋岸のノースカロライナ州、第3が沖縄を拠点としている)。沖縄駐留の海兵隊が減ることは、それ自体が在日米軍の縮小、希薄化である。

 米海兵隊が日本から撤退していく方向性は、1999年ごろに米政府が冷戦後の米軍の世界戦略の再編(米軍再編)を検討し始めた時からの、一貫した流れだ。1971年の沖縄の日本への返還当時から、米海兵隊の任務の中に、日本を防衛することは入っていない。

 沖縄に大量の米軍がいるが、沖縄上空の日本領空に外国の戦闘機が侵入してきた場合、最初に戦闘機を出して防空任務を担当するのは、米空軍でなく、那覇空港に駐留する日本の自衛隊だ。沖縄返還と同時に那覇空港から米軍が出ていき、代わりに自衛隊が入ってきたが、この時に沖縄上空の防空任務は米軍から自衛隊に引き継がれた。これに象徴されるように、日本の防衛は、40年前から、米軍でなく自衛隊の任務だ(日本が外国軍から本格的に侵攻され、日本に駐留する米軍も外国軍から攻撃されれば、米軍は反撃するだろうが)。

 沖縄の米軍の任務は日本の防衛でなく、米国の世界戦略に沿った動きをすることだ。朝鮮戦争、冷戦時のソ連との対峙、ベトナム戦争、アフガン・イラク戦争、イランへの威嚇、ソマリア沖の海賊退治などが、歴史的に沖縄米軍の任務だった。米軍は日本の防衛を任務としていないが、沖縄に米軍が駐留すること自体が、外国軍に日本を攻撃することを躊躇させ、間接的に日本の防衛に貢献しているからいいんだというのが米国側の理屈だ。

 在日米軍は日本の防衛を任務としないので、日本の都合に関係なく、米国の都合だけで増員したり撤退したりできる。冷戦が終わり、輸送機の性能も上がったので、米軍は部隊を米本土から遠い前方に置く必要がなくなった。不必要な前方展開をやめて米軍を効率化し、財政負担を軽減する「米軍再編」が99年ごろから検討された。

だがその後、01年の911事件で「テロ戦争」が始まり、逆に米軍は急拡大した(911の発生を米当局が知りながら黙認した可能性があるが、その理由の一つは、米軍再編による防衛費の削減を、米軍関係者が嫌ったことにある)

 911後、米軍は急拡大したものの、戦争はイラクもアフガンも失敗し、撤退を余儀なくされている。おまけにリーマンショックで米金融界も破綻に瀕し、米国の政府予算や経済的余力を、金融界と軍関係者(軍産複合体)が奪い合っている。再選のため経済再建を優先するオバマ政権は、防衛費の削減と米軍の縮小を押し進め、10年ぶりに米軍再編の政策が戻ってきた。

 米陸軍は、欧州(独伊)に駐留する部隊を半減させる予定だ。欧州は、EU統合の一環で欧州統合軍を創設する方向で、米軍の助けを借りなくても防衛できる方向だ。米軍部隊を海外から米本土の基地に戻せば、基地周辺の経済が活性化し、不況が続く米国の景気回復にも貢献できる。(Defense Cuts Sap Obama’s Asia Pivot

 同様に海兵隊も、長期的に、米本土にある2つの遠征旅団だけで十分やっていける。米軍は、米政府の財政再建策に協力し、現在24万人いる海兵隊員(現役+予備役)を、5年間で2万人弱を減らして22万人台にする計画だ。2万人弱の減員が、3つの海兵隊旅団のうちどこで行われるか発表されていないが、沖縄の第3旅団を中心に減らすのでないかという見方が出ている。(Rethinking Okinawa military relocation

 日本の政治自立を骨抜きにして権力保持した官僚機構

常識的に考えれば、在日米軍は日本を守らないのだし、米軍再編で海兵隊が日本から撤退するなら、どうぞご自由にというのが日本の姿勢になる。しかし、現実は全く違う。日本政府は、海兵隊に1日でも長く日本にいてほしいと考えている。

それについて説明するには、終戦以来の日本の権力構造を分析する必要がある。

 1945年の終戦後の日本は、占領者である米当局(GHQ)が政策を決め、それに沿って日本の官僚機構が行政を行う体制になった。終戦まで力を持っていた軍部や政界は終戦とともに権力を失い、米当局の下に日本官僚機構がつく指揮系統だけが、日本の権力となった。米当局は、しだいに日本を国家として再自立させていこうとしたが、これは、民主主義の原則に沿って、日本の国会や政界(政党)が官僚から権力を奪うことを意味していた。官僚は、米当局が模索する日本の政治的自立を換骨奪胎する戦略を採った。

 GHQは終戦直後、自治体や自治警察を各県に作るなど、日本を強い地方分権体制にしようとした。軍部や政界だけでなく、東京の官僚機構をも解体し、日本の権力機構を地方に分散させ中央集権化を防ぐことで、日本の国際再台頭を防止したかったのだろう。だが、官僚機構がGHQの地方分権策の実質化をのらくらと遅らせている間に、朝鮮戦争が1950年に起こって冷戦体制が東アジアに波及した。米国が日本に求めるものは、国際再台頭の抑止でなく、冷戦体制下で米国の忠実な部下となることになった。日本の中央集権は温存され、地方自治体は東京の官僚(旧自治省など)に支配された。

 朝鮮戦争とともに米国は、冷戦勝利を最重視するアジア戦略に転換し、米当局の意志を日本官僚機構が実行する占領型の体制を再び重視するようになった。朝鮮戦争が続いている間に、日本の再自立を形だけ実行して冷戦体制の中に日本を組み込むサンフランシスコ講和条約が締結された。53年に朝鮮戦争が暫定終結した後、55年の保守合同で自民党が作られ、実質的な権力を握る官僚機構が担ぐ御神輿の上に、官僚の言いなりの自民党が永久与党として乗る、戦後日本の権力構造ができあがった。日本政府の各省の権力は、大臣(政治家)でなく事務次官(官僚のトップ)にあり、日本政府の実質的な意志決定機関は、閣議でなく事務次官会議だった。

 事務次官会議は、09年に官僚から政界への権力奪還を狙って就任した鳩山政権によって廃止されたが、野田政権になって、震災復興支援の名目で「各府省連絡会議」として復活した。大震災が政治的に利用されていることが透けて見える。官僚機構の傘下にあるマスコミが「次は首都圏直下型地震が起きる」と騒ぎ、テレビの出演者が「大震災の教訓を末永く語り継がねばなりません」と深刻そうに言う理由も見えてくる。大震災前のマスコミでは、大地震を予測する報道がタブーだったが、今は逆に、大震災が確実に起きると喧伝されている。朝鮮戦争で焼け太った日本の官僚機構は、今また大震災で焼け太りだ。

 ベトナム戦争後の米軍撤退を引き留めた日本

話を歴史に戻す。朝鮮戦争で確立した東アジアの冷戦体制は、1960年代末のベトナム戦争の失敗によって崩れ出した。ベトナム戦争で財政力と国際信用を消耗した米政府は、アジアからの軍事撤退を検討した。

 米国は第二次大戦後の世界体制として当初、国連の安保理常任理事国に象徴される多極均衡体制を構築したが、それに反対する勢力(軍事産業や英国)が結託してソ連との敵対を扇動し、多極均衡をぶち壊して冷戦体制を作った。約20年後、ベトナム戦争の失敗と、反戦運動や反米感情の世界的な盛り上がりを機に、米国の中枢で多極派が盛り返し、米国の中枢で多極派と冷戦派の暗闘がひどくなった。

 69年に就任したニクソン政権が、多極型世界の復活をめざす政策を行った。中国との関係正常化、ドル崩壊の是認(金ドル交換停止)などのほか、沖縄の日本への返還が行われ、在日米軍の撤収と、日本の軍事的自立が模索された。しかし、日本の権力を握る官僚機構にとって、米軍の撤収や日本の自立は、政界に権力を奪われることにつながるので、何としても避けねばならなかった。

 そこで日本政府は米政府に、米軍が日本から全撤退するのでなく、返還後も沖縄にだけ米軍が残ることにしてくれるなら、本土から沖縄に米軍が移転する費用を大幅に水増しして日本が米国に支払うとともに、その後の米軍の沖縄駐留費のかなりの部分を実質的に日本が負担してあげますと提案した。米側は、日本が金を出してくれるなら沖縄に米軍を駐留したいということになった。

 沖縄返還が決まる直前の69年秋の日米交渉で、本土から沖縄への米軍の移転費と、5年分の駐留費の支援として、日本政府が合計2億ドルを米政府に支払うことが決まった。このうち移転に使われたのは4割ほどで、残りは日本が米軍駐留費を肩代わりする費用だった。5年の期間がすぎた後の1978年からは「思いやり予算」として米軍駐留費を日本が肩代わりする体制が恒久化した。(在日米軍基地の再編:1970年前後

 米国中枢で冷戦派(軍産複合体)と多極派の暗闘が激しくなる中で、日本の官僚機構は冷戦派と結託し、米軍駐留費のかなりの部分を負担して米国側を買収し、日本から米軍を全撤退させようとする多極派の方針をくじき、日米同盟(対米従属)の根幹に位置する米軍の日本駐留を維持することに成功した。日本側でも政界の田中角栄首相らは、ニクソン政権の多極派に頼まれて中国との関係を政治主導で強化しかけたが、米国の冷戦派はロッキード事件に田中を巻き込んで失脚させた。日本の官僚支配は維持された。(田中金脈を攻撃する文章を書いて立花隆が英雄になった件の本質も見えてくる)

 ベトナム反戦運動で高まった日本国内の反米感情を緩和するため、反基地運動が大きな騒ぎになりやすい首都圏から米軍基地を一掃する計画が挙行され、米空軍は厚木基地から出ていき、横田基地から沖縄の嘉手納に移った。本土復帰と抱き合わせにするどさくさ紛れで、沖縄に基地の増加を認めさせた。横須賀の米海軍も佐世保に移り、米軍は首都圏の基地のほとんどから撤収することになっていたが、自衛隊が横須賀軍港を使い切れないなどという理由をつけて、日本側が米海軍第7艦隊を横須賀に戻してもらった。日本政府は、反基地運動を沈静化したい一方で、米軍が日本から撤退する方向が顕在化せぬよう、米軍が出ていった後の基地を「自衛隊と米軍の共同利用」という形にした。これは、米軍が使いたければいつでも日本本土の基地を使えるという意味でもあった。

支配の実態がなく被支配体制だけの日本

  日本では、米国が沖縄への米軍駐留継続や、日本に対する支配続行を強く望んだ結果、沖縄だけ米軍基地が残ることになったと考える歴史観が席巻している。しかし、第一次大戦からの米国の世界戦略の歴史を俯瞰すると、米国が日本を支配し続けたいと考えるのは無理がある。

 米国の世界戦略は「1大陸1大国」「5大国制度のもとでの国家間民主主義」的な多極型均衡体制への希求と、ユーラシア包囲網的な米英中心体制を求める力とが相克しており、1970年前後や現在(2005年ごろ以降)に起きていることは、多極型への希求(裏から世界を多極化しておいて、あとからそれを容認する)が強くなっている。米中関係改善と沖縄返還が行われた70年前後、米国は日本から米軍を全撤退するつもりだったと考えるのが自然だ。

 また、日本の官僚機構が対米従属に固執し続けている戦後史をふまえると、米国は沖縄返還とともに日本から米軍を全撤退しようとしたが、日本が米国を買収して思いとどまらせ、米軍は沖縄だけに恒久駐留を続けることになったと考えるのが妥当だ。日本人は「米国は日本を支配し続けたいのだ」と考えがちだが、これは、官僚機構が自分たちの策略を人々に悟らせないために歪曲された考え方だ。官僚機構の傘下にある学界やマスコミの人々の多くが、歪曲された考えを無自覚のうちに信奉している。

 米政府は、日本を支配したいと考えていない(日本市場で米企業を大儲けさせたいとは考えているだろうが)。日本の権力機構が、支配された体制下でしか権力を維持できない(さもないと政界に権力を奪われる「民主化」が起きてしまう)。そのため日本では、支配者の実態を欠いた「被支配体制」だけが、戦後60年間ずっと演出されている。

 米国防総省は2004年まで、米国の同盟諸国が、自国での米国の駐留費のうち何割を負担したかを発表していた。04年に、日本政府は在日米軍駐留費のうち74・5%を負担していた。これはダントツで世界最高の負担率だ。第2位のサウジアラビアの負担率は64・8%だった(その他アラブ産油諸国の負担率も同水準)。(Allied Contributions to the Common Defense 2004

 サウジなどアラブ産油国は、自前の軍隊を持つと、軍部が反王政の民意を受けて王政転覆のクーデターを起こしかねないので、王室が軍隊を持ちたがらず、石油ガス収入の一部を払って米軍に駐留してもらい、防衛力としている。石油成金の独裁で臆病なサウジの王室より、立派な自衛隊と世界第5位の防衛費を持った日本の方が、米軍駐留費の負担率が10%も大きいのは異常なことだ。日本の官僚機構が米軍を買収して駐留させていることが見て取れる。

 05年以降、国防総省がこの統計を発表しなくなったのは、日本政府が米政府に発表しないでくれと頼んだからかもしれない。グアム移転費という新たな名目を含む思いやり予算の総額は、04年から昨年まで、ずっと6500億-7000億円で推移しており、買収体質は今も全く変わっていない。(Allied Contributions to the Common Defense

 すでに述べたことだが、24万人の米海兵隊のうち22万人以上が米国の東西海岸部を拠点としている。定員1・8万人、実数1・2万人以下の、比較的小さい第3海兵遠征旅団だけが、唯一の海外常駐海兵隊として日本(沖縄)に駐留している。

なぜ世界の中で日本だけに米海兵隊が海外駐留しているのかという疑問も「思いやり予算の見返りに駐留している」と考えれば合点がいく。沖縄の海兵隊は、日本の官僚機構が「被支配」を演出するための道具立てとして、思いやり予算で雇われて駐留している。

 その海兵隊が、辺野古建設とグアム移転の費用支払いという、現行の日本からの買収体制を無視して、グアムや米本土への撤退を始めることになった。日本の官僚機構にとっては、ベトナム戦争後以来40年ぶりの、米軍撤収・対米従属体制瓦解の大危機である。ここまで書いてかなり長くなったので、現行の危機についての説明は次回に回すことにする。

 

 

*内田 樹氏のブログより

2012.02.27

「沖縄の基地問題はどうして解決しないのか?」

 

沖縄タイムスの取材で、沖縄の基地問題について少し話をした。この問題について私が言っていることはこれまでとあまり変わらない。

沖縄の在日米軍基地は「アメリカの西太平洋戦略と日本の安全保障にとって死活的に重要である」という命題と、「沖縄に在日米軍基地の70%が集中しており、県民の91%が基地の縮小・撤収を要望している」という命題が真正面から対立して、スタックしている。デッドロックに追い詰められた問題を解くためには、「もう一度初期条件を点検する」のが解法の基本である。

 まず私たちは「アメリカの西太平洋戦略とはどういうものか?」という問いから始めるべきである。ところがまことに不思議なことに、沖縄の基地問題を論じるためにマスメディアは膨大な字数を割いてきたが、「アメリカの西太平洋戦略とはどういうものか?」といういちばん大本の問いにはほとんど関心を示さないのである。どこを仮想敵国に想定し、どこを仮想同盟国に想定し、どういう軍事的緊張に、どういう対応をすることを基本とする軍略であるのか、といういちばん重要な問いをメディアはほとんど論じない。

 例えば、米露関係や米中関係、米台関係、米韓関係は、多様な国際関係論的入力によって短期的に激変する。東西冷戦期には、米露がその後これほど親密になり、ほとんど「パートナー」といえるほどに利害が近接することを予想した人はいないだろう。

中国についても同じである。iPadの商標問題でアップルが焦っているのは、中国市場がiPad、iPhoneの巨大市場であり、中国との友好関係なくしてアメリカ経済の維持はありえないことを知っているからである。米中関係ではイデオロギーよりもビジネスが優先しており、両国の間に軍事的緊張関係を生じることは仮にホワイトハウスや中南海が腹をくくっても、米中の財界人たちが絶対に許さない。

米韓関係もデリケートだ。南北関係が緊張すれば「北から韓国を守る」米軍への依存度は高まるが、統一機運が高まると「アメリカは南北統一の妨害者だ」という国民感情が噴き出してくる。その繰り返しである。

その韓国ではすでに米軍基地の縮小・撤収が進んでいることはこれまでブログで何度も取り上げた。基地全体は3分の1に縮小され、ソウル駅近くの米軍司令部のあった龍山基地は2004年にソウル市民たちからの激しい移転要請に屈して移転を余儀なくされた。

フィリピンのクラーク空軍基地、スービック海軍基地はベトナム戦争のときの主力基地であり、アメリカ国外最大の規模を誇っていたが、フィリピン政府の要請によって1991年に全面返還された。



これらの事実から言えるのは、「アメリカの西太平洋戦略とそれに基づく基地配備プラン」は歴史的条件の変化に対応して、大きく変動しているということである。

当然、これらの全体的な戦略的布置の変化に即応して、沖縄米軍基地の軍略上の位置づけも、そのつど経時変化をしているはずである。だが、その変化について、それが「沖縄における米軍基地のさらなる拡充を求めるものか」「沖縄における米軍基地の縮小撤収を可能にするものか」という議論は政府もメディアも扱わない。

というのは、沖縄の米軍基地はこれらの劇的な地政学的変化にもかかわらず、その軍略上の重要性を変化させていないからなのである。

少なくとも、日本政府とメディアはそう説明している。

だが、もし地政学的条件の変化にかかわらずその地政学的重要性を変化させない軍事基地というものがあるとすれば、論理的に考えれば、それは「その地域の地政学的変化と無関係な基地」、つまり「あってもなくても、どちらでもいい基地」だということになる。そのような基地の維持のために膨大な「思いやり予算」を計上し、沖縄県民に日常的な苦痛を強いるのは、誰が考えても政策的には合理的ではない。

つまり、沖縄基地問題がスタックしている第一の理由は、「沖縄に基地はほんとうに必要なのか?必要だとすれば、どのような機能のどのようなサイズのものがオプティマルなのか?」というもっともリアルでかつ核心的な問いについて、日本政府が「それについては考えないようにしている」からなのである。



もっともリアルで核心的な問いを不問に付している以上、話が先に進むはずがない。だが、そろそろこの問いに直面しなければならない時期が来ているのではないか。

アメリカの共和党の大統領候補であるロン・ポールは沖縄を含む在外米軍基地すべての縮小・撤収を大統領選の公約に掲げている。

これが公約になりうるということは「在外米軍基地はアメリカの国益増大に寄与していない」という考え方がアメリカ国内でかなり広く支持されてきているということを意味している。

アメリカの世論調査会社ラスムセンによると、米軍が安全保障条約によって防衛義務を負っている56カ国のうち、アメリカ国民が「本気で防衛義務を感じている」国は12カ国だそうである(その中に日本が入っていることを願うが)。アメリカが「本気で防衛義務を感じない」国々を守るために他国の数倍の国防予算を計上していることに4分の3の米国民はもう同意していない。

大統領選の行方はいまだ未知数だが、オバマが再選されても、共和党の大統領が選ばれても、国防費の削減はまず不可避である。

そのときにアメリカが日本の基地に対してどういう提案をしてくるか。

考えられるのは二つである。

(1)在日米軍基地の管理運営コスト、兵器のアップデートに要する費用、兵士の給与の大半または全額を日本政府が負担すること

(2)在日米軍基地の大胆な縮小・一部の撤収(この場合は、アメリカの国防上必須な軍事的機能の一部を、日本の自衛隊が安全保障条約の同盟国の義務として担うことも条件として付される)。

どちらもやたらに金がかかる話だから、財政規律の立て直しに必死な日本政府が「そんなことは考えたくない」と思うのはよくわかる。

気持ちはよくわかるが、いずれこの提案はアメリカから出てくる。

「もっと金を出す」か「自前で国防をするか」どちらかを選べと必ず言ってくる。

そして、今の日本政府には金もないが、国防構想はもっとないのである。戦後67年間ずっとアメリカに日本は国防構想の起案から実施まで全部丸投げにしてきた。自分で考えたことないのである。国防はもちろん軍事だけでなく、外交も含む。



日本のような小国が米中という大国に挟まれているわけだから、本来なら、秦代の縦横家のよくするところの「合従連衡」の奇策を練るしかない。

だが、「日米基軸」という呪文によって、日本人はスケールの大きな合従連衡のビッグピクチャーを描く知的訓練をまったくしてこなかった。

ここでアメリカに去られて、自前で国防をしなければならなくなったときに、対中、対露、対韓、対ASEANで骨太の雄渾な東アジア構想を描けるような力をもった日本人は政治家にも外交官にも学者にもいない。どこにも、一人も、いない。

だって、「そういう構想ができる人間が必要だ」と誰も考えてこなかったからである。

日本のエスタブリッシュメントが育ててきたのは、「アメリカの意向」をいち早く伝えて、それをてきぱきと実現して、アメリカのご機嫌を伺うことのできる「たいこもち」的な人士だけである。

アメリカが日本の国防を日本の主権に戻した場合に、日本にはその主権を行使できるだけの力がない。

できるのは、とりあえずは自衛隊の将官たちを抜擢して、閣僚に加え、彼らに国防政策の起案と実施を丸投げするだけである。

国民のかなりの部分はこれに賛同するだろう。既成政党の政治家より制服を着た軍人さんたちの方がずっと頼りになりそうだし、知的に見えるからだ。

だが、政治家たちも霞ヶ関の官僚たちもメディアも「軍人に頥使される」ということを想像しただけでアレルギーが出る。

さきのいくさの経験から、軍人たちを重用すると、政治家と官僚が独占してきた権力と財貨と情報が軍部にごっそり奪われることを知っているからである。

だから、「日本に国防上の主権を戻す」という、独立国としては歓呼で迎えるべきオッファーを日本政府は必死で断ることになる。

国防上の主権は要りません。主権を行使する「やり方」を知らないから。

これまで通り、ホワイトハウスから在日米軍司令官を通じて自衛隊に指示を出してください。それが日本政府の本音である。



だから、日本政府に残された選択肢は一つしかないのである。

アメリカが帰りたがっても、袖にすがりついて、「沖縄にいてもらう」のである。

金はいくらでも出します。消費税を上げて税収を増やすので、それを上納しますから。どうかいかないで。Dont leave me alone. それが日本政府の本音である。

だから、「アメリカの軍略の変化」については言及しないのである。基地問題がスタックしているのは、「スタックすることから利益を得ている当事者」がいるからである。

ひとりは「もめればもめるほど、日本政府から引き出せる金が増える」ということを知っている国防総省であり、ひとりは「いつまでもアメリカを日本防衛のステイクホルダーにしておきたい」日本政府である。

交渉の当事者双方が、「話がつかないこと」の方が「うっかり話がついてしまうこと」よりも望ましいと思っているのだから、沖縄の基地問題の交渉は解決するはずがないのである。悲しいけれど、これが問題の実相なのである。

別に沖縄問題の裏事情に通じているわけではないが、新聞を読みながら推理すると、こう考えるしか合理的な説明が存在しないのである。

 

<田中 宇(たなかさかい)プロフィール>

 1961年(昭和36年)、東京生まれ。東北大学経済学部卒業。1986年(昭和61年)、東レ勤務。1987年(昭和62年)、共同通信社に入社。そこで外信部に配属され、英語のニュース記事を多読する内にそれらに魅了される。1996年(平成8年)頃、「田中宇の国際ニュース解説」を始める。1997年(平成9年)、その頃コンテンツの充実を模索していたマイクロソフト社に誘われて同社に入り、ニュースの配信業務に従事する。1999年(平成11年)末、独立。2001年(平成13年)のアメリカ同時多発テロ事件や2003年(平成15年)のイラク戦争以降、多くの書籍を出版している。

2008年(平成20年)、田中宇の国際ニュース解説が「まぐまぐ大賞2008」の総合大賞で、3位を受賞した。



 <内田 樹(うちだたつる)プロフィール>

1950年9月30日生まれ。東京都出身。日比谷高校中退、東京大学文学部仏文科卒、

東京都立大学大学院人文科学研究科中退。

2003年6月現在、神戸女学院大学文学部総合文化学科教授。

研究領域 フランス文学・フランス思想(レヴィナス、カミュ、ブランショ) 近現代フランス思想史(ユダヤ教思想、反ユダヤ主義)

身体技法論(武道論) 映画記号論

合気道(合気会)六段(1998年1月)

全日本剣道連盟 居合道 三段(1998年5月)

全日本剣道連盟 杖道  三段(2001年6月)

日本はアメリカ人の財布?

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3月 102012

「日本の「貿易赤字」は怖くない」

 ~困るのは「魔法の財布」失う米国~

山田厚史 [ジャーナリスト 元朝日新聞編集委員]

 

<山田厚史(やまだ あつし)プロフィール>

1971年朝日新聞入社。青森・千葉支局員を経て経済記者。大蔵省、外務省、自動車業界、金融証券業界など担当。ロンドン特派員として東欧の市場経済化、EC市場統合などを取材、93年から編集委員。ハーバード大学ニーマンフェロー。朝日新聞特別編集委員(経済担当)として大蔵行政や金融業界の体質を問う記事を執筆。2000年からバンコク特派員。2012年からフリージャーナリスト。CS放送「朝日ニュースター」で、「パックインジャーナル」のコメンテーターなど務める。

*山田氏は、朝日新聞の主流畑を歩いてきた人ではないので、御用学者・評論家になり損ねた人です。そのため、こんな真実を伝える記事を時々書いてしまいます。興味深い指摘ですので、是非、お目通し下さい。

2011年の貿易収支が2兆円近い赤字になった。貿易で黒字を稼ぎ日本の富を増やす、という国家的ビジネスモデルの崩壊に「日本沈没」のイメージを重ねる人は少なくない。

貿易や経常収支を「赤字」「黒字」で表現することが世の中の誤解を生む

 生産の海外移転、資源価格高騰がもたらす所得の流出。輸出鈍化の背景にある経済構造の変化に日本経済への不安が広がっている。だが貿易赤字は、本当に「怖いことか」なのか。黒字の恩恵とは何か。数字に示される表層の裏でどのような事態が進んでいるのか、考え直してみたい。

 赤字は悪いこと、黒字は幸せなこと。

 語感からそう受け取るのが普通だが、実はここにトリックがある。

 赤字=損失=経済不安=衰退だとしたら米国の好景気はなんだったのか。2000年代の初頭、米国の経常収支は猛烈な赤字を記録した。だがこの頃が米国の絶頂で「史上最高の繁栄」といわれた。

 逆に、この時期に黒字を貯め込み「世界最大の債権国」になった日本は「失われた20年」のまっただ中にあった。バブル経済に酔った1980年末期、日本の黒字は大幅に細った。貿易や経常収支の黒字とは、経済の好不況と関係ないのである。なぜ、と多くの人は思うだろう。貿易や国際収支を「赤字」「黒字」で表現することが、世の中の誤解を生んでいる。

日本の黒字が減ることで困るのは米国

 

結論から述べよう。日本の黒字が減ることで、困るのは米国だ。以下、その理由を説明する。

貿易収支や経常収支は、経済の世界を半分しか表していない。この二つの指標は製品や素材の売買、運送や特許料、投資収益など、平たくいえば国境を越える「所得」の帳尻を記したものだ。国境を越えるカネの流れは、ほかにもある。融資や投資、援助などカネのやり取りだ。こうした金融取引をすべて含めると国の内外の「収支尻」はゼロになる。企業のバランスシートが資産と負債が均衡するのと同じことだ。ちょっと分かりにくいので概略を説明しよう。

 貿易や投資で稼いだ黒字は、国境の外に流出する。投資・融資・援助など形は様々だが、黒字は外国に流れ、そこで使われる。

 「せっかくの黒字だ。国内で使えばいいじゃないか」と考える人は多いと思う。その通りだが、貿易で稼いだカネを設備投資や消費など国内で使えば、輸入が増え黒字は相殺される。つまり黒字は、国内で使いきれない余ったおカネを表している。

 

わたし貯める人あなた使う人という構図

 

家計で考えてみよう。家計の黒字は貯蓄となる(場合によっては義援金になるかもしれない)。貯蓄は銀行を通じて他人が使う。同じことが国家間でも起きている。

 国家の黒字は、投資や融資・援助などの形になって海外に送られる。現地生産、外国企業への融資などさまざまだが、典型が米国債の購入だ。政府の外貨準備の大部分は米財務省証券、つまり米国債だ。生命保険や投資信託など機関投資家も米国債をしこたま買っている。日本の黒字の多くが、軍事費を含め米国予算をファイナンスしている。

 米国債の保有で1位は中国で日本は2位だ。中国は米国債を買いまくっているが、外国から中国に流入する資金も豊富で、流出と流入を差し引きすると日本は世界最大の債権国である。

日本人がせっせと働いた汗の結晶が「対外債権」だが、見方を変えれば、日本の購買力が海外に流出している。わたし貯める人、あなた使う人、の構造だ。

「アメリカ人は幸せだ。私はトヨタのレクサスに乗っているが、この資金も日本がファイナンスしてくれた」

 

 米国の経済学者であるプレストウイッツ氏は、筆者にそう語ったことがある。日本は輸出で稼ぎ、稼いだ黒字を海外に流出させる。米国は国家も家計も赤字で、その穴を埋めるのは日本の黒字。そんな図式が定着していた。

 日米の貿易・金融関係は、輸出した製品と、それを買うための金融とがセットになって米国に流れ込むという特徴がある。

 もちろん日本の貿易や金融は米国だけが相手ではない。だが世界をならして見ると、一番の債権国が日本で、最大の債務国は米国。つまり日本は米国の消費と資金繰りを支えてきた。

 経済アナリストの三國陽夫さんは、著書『黒字亡国」(文春新書)で、この構造を「アメリカの魔法の財布」と指摘した。

 日本からの輸入品を買っても、その代金は再び日本から米国に戻ってくる。米国民はその資金でまた日本製品を買う。プレッストウッツ氏が「レクサスも資金も日本からやってくる」といったのは、まさに「魔法の財布」の構造を述べたものだ。

大英帝国時代の英国とインドの関係に似ている

 

日本と米国の関係を、三國さんは「大英帝国時代の英国とインドの関係」に重ねて説明する。インドは英国にお茶や香料をせっせと輸出し貿易は大幅な黒字となったが、そのカネは東インド会社などを通じて英国に送られ、英国人の消費を支えたという。経済の背後にある「支配・被支配」の関係が、黒字の使い方を決定する。

 並みの社会では、債権者と債務者が対峙すれば、力関係で債権者が優位に立つ。いつでもカネを取り立てられるという強みが債権者にあるからだ。債務者はその顔色をうかがわざるをえない。

日米はそうなっていない。日本は米国の了解なしに米国債を売れない関係にある。

これを「日米関係」とか「同盟関係」という。

 リーマンショックの時、米国の住宅金融会社であるフレディマックとファニーメイの経営が揺らいだ。市場では2社の債券が売られたが、金融関係者によると「米国から日本の財務省に『売られては困る』と指示が来て、日本の機関投資家は売却を自粛させられた」という。

 自由に買って、好きなときに売れる。これが投資である。売りたいときに売れないなら「寄付」に等しい。

 日本国民は一生懸命働き、貯金通帳の数字は年々大きくなった。しかし、この貯蓄を引き出して使えない。通帳の数字を眺めて自分は豊かになったと思っているが、このカネを使っているのはアメリカ人だ。身の丈を越えた消費に費やされているのである。

「失われた貯蓄」の奪回作戦を考える

 「日本は米国政府の資金繰りを支える」という密約が、日米間にあるのではないかと私は疑っている。

 アメリカの財務省証券に投ぜられた日本の黒字は、もはや「取り戻す」ことは出来ない。これが日米安保条約の経済的側面なのではないか。思いやり予算や対米輸出の自主規制など、経済原則では考えられない出来事が多すぎる。

 中国は、自分の意志で米国債を売ることが可能だ。だから米国は中国を脅威に感じている。日本にその心配がない。日本は米国財政を支える「従属国」なのだろうか。

プレストウイッツ氏は「アメリカの財政通の間では日本は保護領と見られている」と言った。

さて日本の貿易赤字である。赤字が拡大すれば経常収支の黒字が縮小する。困るのは誰か。

 日本にとって、毎年の黒字が小さくなるが、日本で使われるカネではない。マクロ経済で見れば日本経済への影響はないだろう。困るのは「魔法の財布」がなくなる米国である。

 貿易赤字が更に拡大し、経常収支まで赤字になったらどうなるか。日本人の貯蓄で賄われている日本国債の暴落を、心配をする人もいる。

 家計で考えてみよう。所得が減って家計が赤字になったら、まずは貯蓄を取り崩す。

 これを国際関係に当てはめれば、米国に預けてあった債権を取り崩すことだ。これは難儀だろう。しかし、見方を変えればチャンスである。赤字になったから支払いは貸金から引いてくれという交渉は成り立つ。

 国外に置いていた貯蓄が戻ってくれば、日本の経済にカネが回りだす。米国に預けていた「購買力」が返ってくるのだ。米国はいやがるだろうが、日本はいつまでもいい顔ばかりできない。いまから、新たな時代をイメージし「失われた貯蓄」の奪回作戦を考えておくことが大事ではないか。

日本銀行について考える(2)

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3月 092012

~『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』より~

 

現在の日本経済のデフレ状態は意図的に作り出され、わざと長引かされているといったら、あなたは信用するだろうか。わざわざ誰がそんなことをするのか。

その犯人は、政府でも大蔵省(現財務省)でもなく、日本の中央銀行である日本銀行であり、しかも、その日銀の、ごく少数のプリンスと言われる人たちがやったことだと主張している本が今回紹介するリチャード・A・ヴェルナー氏の『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』(吉田利子訳/草思社刊)である。

著者のヴェルナー氏は10年前、日銀の客員研究員として日銀に在籍し、バブル期の日本経済の研究を続けていた人である。また、この本は、外国人でないと絶対に書けない本であると言われており、日銀の知られざる秘密に迫るものとして貴重な本だとも言われている。あのFRBのグリーンスパーンも英訳を取り寄せて読んだとも言われている!

一番の焦点は、誰がバブルを生み出し誰がそれを潰したかにある。このことが現在の深刻な日本経済の現状につながっていることは言うまでもない。

よく知られるように、日銀の総裁は日銀出身者と大蔵省出身者が交替で就任することになっている。日銀出身の総裁は金融引締め政策寄りで財政による景気刺激策を望み、大蔵省出身の総裁は財政政策を引き締めて金融政策を緩和したがる傾向があるもと金融界では言われている。

 そのため、日銀出身者と大蔵省出身者が交互に総裁を務めるこの人事システムは、どちらにも偏らない政策を実施するうえで、理想的であるようにみえるが、実は決してそうではない。

 大蔵省出身の総裁は、日銀にとって重要な意思決定、すなわち信用創造量にかかわる決定からは一貫して排除されている。通常大蔵省出身の総裁のときは日銀出身者が副総裁となり、総裁が日銀路線を逸脱しないようにコントロールしている。

 それに加えて、日銀以外の総裁を迎えるときは、総裁を補佐する職に日銀幹部が一人つく。この補佐役についてある日経記者は、次のように書いている。以下。

 『「副総裁以上のキーマン」が総裁秘書役。内外どこに行くにも総裁にぴったり寄り添って行動し、総裁に関する諸事万端をさばく「黒子」でもある。・・日銀は否定するが、総裁が日銀路線から逸脱しないように「監視」する役割を担っている』。

 

このように日銀出身者以外の総裁は、ほとんど力を発揮できないシステムになっている。日本は、敗戦から2001年の春まで首相は26人に変わっている。しかし、日本の本当の支配者は6人しかいない。

 その6人の支配者とは、日銀出身の日銀総裁を務めていた次の6人である。

        1.新木栄吉        4.前川春雄 ◎

        2.一万田尚登       5.三重野康 ◎

        3.佐々木直 ◎      6.福井俊彦

 さらに過去50年間では5人、1962年~1994年のとくに大事な時期に国家の操縦桿を握っていたのは、佐々木直、前川春雄、三重野康の3人である。

 政治家は選挙によって選ばれるが、日銀総裁はどのようにして選ばれるのか。

日銀出身者の総裁に関しては、必ず副総裁になっていることが条件となる。その副総裁は理事から選ばれるが、日銀出身の理事は6人しかいない。大学を卒業して日銀に入行する人は毎年約60人というから、そのうち1人が理事になれることになる。確実に総裁になれる副総裁になるのはそれこそ大変な確率ということになる。

 このように考えると、厳しい競争があってそれに勝ち抜かなければならないのであるから、それなりの人物が選ばれると考えてしまうが、日銀に限ってはそうではない。

 日銀トップの選抜手続きは、北朝鮮のような独裁国の後継者を選ぶのに似ている。支配者は自分に忠実で目標も目的も同じくする人物にしか権力を渡したがらない。

 つまり、後継者を選ぶにあたって最優先される規準は、自分への忠誠度と目標を同じくするかどうかであって、必ずしも能力ではないのである。こういう選抜方法では、かなり前から後継者は実際には決められており、どうしても前任者の政策を踏襲する形になっている。こういう人たちに日本という国家の命運が託されてしまうのは大問題であろう。

 さて、1980年代のバブルを作り出したのは、大蔵省出身の澄田智総裁であり、それを強引に潰したのは、次の総裁である三重野康総裁であると一般的にいわれている。しかし、これは事実とかなり異なる。

 澄田総裁は、表向きは日銀総裁ではあっただが、重要な決定は三重野副総裁中心にことごとく決められており、お飾り的な存在に過ぎなかったと言われている。

 いや澄田総裁に限らず、やはり大蔵省出身の松下康雄総裁のときも日銀幹部は総裁に重要な情報を流さず、政府の政策とは逆のことをやって、1ドル80円という事態を招いた。

大蔵省出身の日銀総裁と、日銀出身の副総裁を中心とする日銀スタッフとの関係は、まさに現在の各省庁の大臣と事務次官を筆頭とする、事務方官僚との関係に酷似している。そのため大蔵省出身の日銀総裁はほとんど仕事をさせてもらえなかったといっても過言ではない。とにかく大蔵省と日銀は、非常に長い間にわたって激しい勢力争いを繰り広げてきた。

その暗闘は敗戦直後からはじまっている。『円の支配者』の著者、ヴェルナー氏は、現在、日本を苦しめているデフレは、日銀が大蔵省を貶めるために意図的に作り出したものであり、そのシナリオは、半ば成功しつつあるという分析している。

 国民のほとんどは、かかるデフレ不況を作り出した犯人を日銀ではなく大蔵省であると思っており、その結果として大蔵省はその名称を奪われ、解体の危機に一時陥った。日銀は不況を利用して大蔵省に勝利したとも言えよう。そういう意味で現在の日本の不況は「日銀不況」といっても良い。

エコノミストの森永卓郎氏もこのタイトルで本を書いている。知っている人は知っているということだろう。

 さて、日銀は1998年4月から新しい日本銀行法によって、念願の独立性を手に入れ、金利政策や公開市場操作など、すべての中央銀行の政策を、総裁と2人の副総裁、そして6人の審議委員から構成される政策委員会で決定できるようになった

 この決定にはたとえ、政府といえども異議を唱えることはできずこと金融政策については、日銀は政府よりも強い権力を手に入れることができたのである。現在、金融政策は完全に日銀の手に握られてしまっている。

 

今まで日銀は何をしてきたのか、そして現在日銀は何を考えているのか、日銀がどう動けばデフレは解消するのかについて知るために、一番重要な時期、すなわち1962年~1994年における日銀出身の日銀総裁、佐々木直、前川春雄、三重野康の3氏について少し知っておく必要がある。

 佐々木直は、1962年4月から1964年12月まで副総裁を務め、1969年12月から総裁に就任している。佐々木に目をつけ、後継者として選んだのは一万田尚登と戦後初の日銀総裁である新木栄吉の2人である。

 マッカーサー司令部は、当時の日銀の幹部であった新木と一万田を戦時経済体制の指導者として任命し、何かと援助を与えた。米国の占領体制が続いている間はGHQの力は強く、日銀総裁や蔵相などの重要ポストの人事には露骨に干渉した。そのため新木栄吉は1945年8月に日銀副総裁、2ヵ月後には総裁になる。しかし次の年の6月に公職追放となり、1951年まで蟄居を余儀なくされている。

 この新木に代わって日銀総裁に就任したのは一万田尚登である。彼は優れた仕事をしてのちに「法王」と呼ばれるようになるのだが、新木も一万田もともに生え抜きの日銀マンだ。公職追放令が解けた新木は駐米大使に任命されている。これはきわめて異例な人事であり、GHQの力が働いたのは明らかである。セントラルバンカーを駐米大使にし、日銀総裁の一万田と連携をとらせて、ワシントンとのコミュニケーションの円滑化を図るという米国の高等戦略だ。

 一方、一万田は、誰に資金を与えて誰に与えないかを決める彼の絶対的な指令は、戦後の日本経済を容赦なく動かし、日本経済を復活の軌道に乗せるという重要な仕事を果たした。このように戦後経済の主導権は、大蔵省よりも日銀が握っていたことになる。

 しかも、1954年になると駐米大使の新木栄吉は、日本に戻って再び日銀総裁になり、一万田尚登はなんと蔵相に任命されている。日銀の出身者が蔵相に就任したのは一万田をのぞいて他にはいない。

 一万田蔵相は、このチャンスを利用して日銀法を改正し、日銀を大蔵省から独立させようとするだが、この企ては、失敗に終っている。大蔵省はここから反撃に転じ、日銀は政治レベルで優位性を一時失うことになった。

 そして、逆に日銀の独走に歯止めをかけるため、大蔵省と交互に日銀総裁を出すことを提案し日銀に承知させたのである。このあたりから、大蔵省と日銀の暗闘ははじまっている。

 大蔵省と日銀で交互に総裁を出すというシステムによって、新木や一万田は自らの意思で後継者を選ぶことができるようになった。そして、この二人によって選ばれたのが佐々木直である。どうして選ばれたかというと佐々木が新木や一万田に非常に忠実だったからだ。一万田は、当時まだ若手の日銀マンであった佐々木直を後継者として選んだことを日銀内に伝えた。これによって、佐々木は、将来日銀総裁になるというお墨付きを得た「プリンス」といわれるようになった。日銀においては、どうも早くから次の「プリンス」が決めているようなのである。 新木と一万田は戦時中から佐々木直に目をつけており、戦後総務部企画部長や人事部長の要職に置き、営業局長を長くやらせている。この役職は一万田流のいろいろなノウハウを知るうえで重要なポストだった。佐々木は1969年12月から日銀総裁になるだが、彼のやり方は一万田流の容赦のないやり方であった。規則上は全理事が金融政策について自由に発言ができることになっているが、佐々木総裁にまともに発言できる理事は一人もいなかった。

 一万田は佐々木の次のプリンスも決めていて、それが前川春雄なのである。そういうわけで佐々木総裁が自分の意思で選んだプリンスが三重野康というわけだ。佐々木が人事部長をしていたとき目にとまったのが三重野康であったといわれている。



ところで、日銀の『窓口指導』とは何か。 

佐々木直、前川春雄、三重野康、これら3人のプリンスの関係をもう少し調べてみる必要がある。佐々木が人事部長をしていたときのこと、一人の目立った学生と面接した。それが三重野康だった。彼は野心家で上方志向があり、第一志望は大蔵省で、日銀は第二志望だった。佐々木は本能的にこの男を大蔵省にやってはならないと考えて三重野を説得し、日銀に入社させた。そしてほどなく、自分のはじめてのプリンスにすることを決意し、計画的に重要なポストを歴任させていった。1958年から60年まで、三重野はニューヨーク日銀駐在事務所の勤務を命じられる。そのときのニューヨーク事務所長が前川春雄だった。一万田が蔵相をしていた時代のことである。佐々木、前川、三重野はこうように繋がっており、そのバックには一万田蔵相がいた。

 さて、日銀の政策について研究する際、「窓口指導」というものについて知っておく必要がある。この「窓口指導」こそ、一万田が作り出した銀行の信用統制の方法であり、1991年7月にそれが突如廃止されるまで、この信用統制システムを佐々木、前川、三重野らが引き継いでいくことになる。1950年代のはじめには経済は2桁の成長をしており、融資の申し込みは莫大になっていた。1946年6月から1954年6月までの8年間、一万田は日銀総裁として、さらに1957年7月から1958年6月までは蔵相として金融界に絶大な権力を振るった。

 その銀行信用の統制システムとは、日銀総裁が融資総額の伸び率を決定し、それから営業局長と2人で増加分を各銀行に融資割り当てをして配分する。このときの営業局長は、もちろん佐々木直である。その際、銀行は、大口の借り手の氏名にいたるので細かい融資計画を毎月日銀に提出するよう求められていた。営業局は、信用配分計画(どの銀行にいくら出すかを決める計画書)を作り銀行の融資計画と調整をして銀行に伝える。その融資の配分額を聞くために銀行首脳が日銀に行くと、文字通り日銀のカウンター、つまり窓口で融資割り当て額を告げられたので、誰がいうともなく「窓口指導」というようになったのである。

 これは銀行間の過当競争を防ぐために、一万田が考案した銀行の競争を制限するシステムだった。このように、銀行の命運を握る信用統制の権限を一手に握っていたのは、一万田と佐々木だった。佐々木は、1951年4月から54年9月まで元締めである営業局長を務めていた。しかも、1962年4月から佐々木は副総裁になり、1969年からは総裁に就任、以後5年間総裁として君臨する。つまり、佐々木は実に12年間にわたって、日本経済の操縦桿をにぎっていたことになる。

 しかし、戦後一万田総裁を中心に信用配分を行う日銀の権力の阻止に動いたのは大蔵省である。戦時中大蔵省は軍部と企画院に報告義務を負い、さらに内務省によってその持てる力を大きく制約されていた。ところが戦後軍は消滅し内務省は解体、企画院は経済企画庁という下位官庁になり、そこに権力の大きな空間がぽっかりと空いたのである。大蔵省は、そこにたちまち割り込み、徴税、関税、国際金融、金融機関の監督、財務政策、金融政策を司るという政府機関の中で最大の官庁になっていった。

 当時、日銀はその大蔵省に属する政府機関であり、大蔵省には頭が上がらなかった。占領軍は1949年に日銀法を改正したが、金融政策は依然として大蔵省の手の内にあった。しかし、一万田総裁は日銀ために巧妙な策をめぐらして日銀に何とか金利のコントロールと市場資金量の調節機能を取り込むために活躍する。一万田総裁は大蔵省に金利の裁量権を委ねることを持ちかけると大蔵省はそれに飛びついてきたのである。しかし、大蔵省が金利コントロールの政策について教えを乞うと、一万田とその部下は専門用語を多用して素人にわかる代物ではないことを印象づけることに成功した。

 そして、一万田総裁は世間に対して次のようにPRを行い、金利と市場資金量の調節機能の権限を握ることに成功する。

『中央銀行にゆだねるべきことは、何といっても公定歩合の問題である。これは日本銀行にまかせ、政治的な介入があってはならないと思う。また、準備預金制度についての、これは市場資金量の調節操作であり、技術的なことが多いので、日本銀行にまかせる方がよいと思われる』。

        (ヴェルナー著、『円の支配者』P114より。草思社刊)



 ところで、1920年代の日本は、自由放任の経済システムを有し、純粋な自由市場資本主義の国だった。企業は必要に応じて中途採用を行い、必要がないと判断したときは容易に解雇した。従業員の方もより良い職場があれば躊躇なく辞め、条件の良い職場に移ったので、転職率は1980年代の日本に比べて3倍以上になっている。

 それに1920年代には本物の資本家がいた。個人や一族が企業の株式の相当部分を保有していた。どの株式でも個人株主が大半を占めた。1990年代初期の個人株主の比率は15%以下であり、対照的である。また、大企業の取締役の大多数は社外重役であり、いずれも株主から送り込まれた人たちであった。これに対して1990年代は、大企業の取締役の90%以上が社内の企業経営陣から選ばれていることはご承知の通りである。1920年代において株主の力が強かったのは、企業が資金の半分以上を株式市場で調達していたからである。この時代の株主は高い配当を要求し、企業は利潤のできるだけ多くを配当として支払わなければならなかった。

 貯蓄率についてはどうだろうか。現在の国内総生産に占める消費の割合は、現在は60%以下だが、1920年代には80%であり、現在の米国とそっくりである。所得の中で貯蓄に回される割合は、現状は20%だ、1920年代は5%に過ぎなかった。

 このように戦前の1920年代の日本と1990年代の日本とはまるで別の国のように変わってしまっている。どうしてこのように変わってしまったのか。

 その理由ははっきりしている。それは戦争があったからだ。戦争によって日本は戦時経済に移行することになり、1920年代の経済体制とは大きく変わらざるを得なかった。それに1920年代が深刻なデフレ経済であったことも当時の経済体制を変えようという方向に力が働いたことは確かであろう。また、1929年の株価大暴落が起こって世界中の経済が混乱し、失業者が街にあふれるという事態が発生し、資本主義体制というものに対する疑問が出てきたのもこの頃である。政府があまり介入できない自由市場資本主義が果たしてうまくやっていけるのかという疑念が起こっていたのである。当時、ソ連は大恐慌の影響をほとんど受けず、失業者も出ていなかった。

 さて、一般的な認識では、日本の戦前の体制はおかしかったが、戦争に負けて日本は新しい民主主義国家に生まれ変わったというとことになっている。

 しかし、よく調べてみると、それは違う。それは戦時経済体制と、戦後に占領軍主導でとられた体制を調べてみるとわかる。そこには、ある意図によって、戦後体制を1920年代のような自由市場資本主義にはあえて戻さず、むしろ戦時中にとられていた体制を民主主義の旗の下に、巧妙に維持する政策がとられていたといえる。

 どうしてそんなことができたかというと、戦時経済体制を作り上げたエリート官僚たちが、戦後も引き続き指導的な地位に留まり、首相にまで就任するなど日本を支配したからである。もちろん、日銀もその中で重要な役割を果たしている。

 1938年4月、国家総動員法案が議会に提出され、多くの反対を押し切って成立した。この法律は国中のあらゆる物資の動員を許すというものであり、具体的な内容は政令で定めるという事実上白紙委任状に等しいものだった。この時期、国を動かしていたのは軍部だが、その手足となって動いていたのはエリート官僚たちだ。国家総動員法によって彼らは何でもできる権限を手に入れた。1940年にこれら日本の官僚は、新金融体制、新財政政策、新労働体制という3つの柱から成る新経済体制を宣言する。

 全体の調整機能は1937年に設立された企画院が握ることになったのだが、この企画院はいわば軍事経済の参謀本部の役割を果たした。この新経済体制の狙いは、簡単にいうと、個人が貯蓄し、企業は利益を再投資する経済機構を作ることにあった。そしてそのためのインセンティブを与えることもその狙いなのである。

 株主の目標は利潤を多く得ることだ。株主が一番関心を持つのが高い配当であるとすると、企業が再投資する資金はなくなり経済成長は遅れることになる。この論理から株主は成長にとって邪魔な存在であるということになった。

 一方、経営者は企業内部で出世すると威信が高まり、企業の資源に対して大きな権限をふるうことができる。株主と労働者の目的は経済成長には結びつかないものの、経営者の目標は経済成長を促進する国家の目的と一致する。

 要するに、株主と労働者の力を奪い、経営者の力を強めてやれば、経済成長を促進できる――1930年代の為政者はそのよう考えたわけである。しかし、労働者の力を収奪しすぎると、その不満が共産主義に結びつく恐れがあり、むしろ労働者に企業内部の事柄に対する発言力を強めるようにし、会社家族主義のイデオロギーを植え付けるべきであるというように考えたのである。

 結局、成長に一番の障害になるのは株主であり、大企業が優勢に立つ経済では、資本家なしの資本主義が一番ベストであるという結論に達した。戦前の為政者たちはこれをひとつずつ実行に移していく。経営者の地位は引き上げら、株主の権限は縮小された。  企業は株主の所有物ではなく、そこで働く者の共同体であるということになり、配当の伸びに制約が加えられるようになった。このようにして、1920年代の経済体制から、現在の日本に近い体制が作り上げられていったのである。

1937年に中国での紛争が激化して戦争が始まり、もっと大きな戦争も眼前に迫っているときのことである。何としても日本経済を急成長させる必要がある、成長を促進するために成長率を可能な限り高め、あらゆる資源を総動員して失業というムダをなくす必要がある――そのための理論構築をしたのは、軍部と大量失業時代に入省した革新官僚であり、彼らが一体となって日本のいわゆる日本株式会社体制がつくられていった。

 そのためにまずやるべきことは、当時強大な権限を有していた株主の力を奪うことだった。1943年10月に会社法が改正され、新しい軍需会社法が成立した。これにより企業経営における株主の影響力は消滅してしまうことになった。株主配当は厳しく抑えられ、利潤の大半は再投資と経営者の報酬、従業員の給与、それに生産性向上に対して与えられる褒賞に分配されることになった。このシステムによって経営者と従業員の報酬が増えたのだが、国家非常時にあまり多額の報酬を受け取るのはまずいため、勤続年数に対応して報酬を受け取るシステムをとり入れたのである。これが年功給の始まりである。その他、企業福祉制度としての健康保険制度、労働者年金保険制度などもこの時期にできている。そして企業を管轄する官庁としての商工省は企画院と合併して軍需省が誕生する。これにより株の大半を政府が持つ国策会社が、1937年の27社から1941年には154社に増加することになった。

 その結果、軍需産業が繁栄し、個人が消費する商品やサービスは著しく減少した。そこでこの段階で貯蓄が奨励され、全国貯蓄奨励運動が開始された。このようにして消費が巧妙に抑えられ、家計部門の富は企業部門へと移されていった。この1937年から1945年までの構造改革によってほとんどの企業は、利益ではなく、成長を目指す半官の事業に変貌してしまうことになる。

 それに政治の面で軍部と官僚は政治家が口出しをすることを排除するため、1940年に政党は廃止され、ほとんどの政治家はひとつの政党に統合されてしまった。この政党が大政翼賛会である。この年に戦時動員に対応するため、隣組制度ができているのだが、戦後もこれらの制度はかたちを変えて存続することになる。

 言うまでもなく日本の省庁の実質的運営は政治家ではなく官僚がやっている。そういう基礎は戦前においてすでに出来上がっていた。この1937年から1945年にいたる国家の構造改革は、ほとんどそのままのかたちで戦後の日本経済を支えることになった。奇跡といわれた戦後日本の復興は戦前にその基礎が築かれていたことになる。

 しかし、この経済システムの真の立案者は誰なのか。このシステムは驚くほど一貫しており、論理的に整合性があり、無駄が一切ない。しかも、信じられないほど短期間で作り上げられている――どうしてそんなことができたのか。

 この改革プランの立案者たちは、当時すでに日本の傘下にあった満州でこの経済システムの実験をやっていたのである。その上で日本にその制度を導入し、さらに戦後いくつかの変更を加えて戦後経済体制として定着させた。

 このように、戦後の経済システムや社会システム、政治システムが戦前に完成していたとすれば、米国の占領政策とは一体何だったのか。

米国の占領政策とは、日本を民主化し、非軍事化し、規制を緩和し、自由化するという点にあったはずだ。確かに、占領軍司令部はこの目標を達成するため、国家総動員法などの戦時下の法律や規則を廃止し、軍部および戦時団体は消滅。軍需省、内務省は1945年に廃止されている。

 また、GHQは3つの大改革――財閥解体、農地改革、労働の民主化を掲げて、戦時経済体制はほぼ完全に解体したように見えた。しかし、1952年4月に米国による日本の占領が終了したとき、当初占領軍に課せられていた目標とは正反対の体制が日本に出来上がっていたのである。

 どうしてそのようなことになったのか。それを遂行する過程で米国側の事情が大きく変化していた。それはソ連との冷戦の激化によって、米国は日本を共産主義に対する確かな橋頭堡とするため、日本経済を急速に成長させる必要に迫られていた。そこで米国の対日政策は急転換したのである。

 その結果、1930年代の体制で行くのが一番良いという結論に達したのではないか。これに合わせて日本の占領政策は、ドイツに対するよりもはるかに緩やかな占領政策がとられることになった。占領軍はドイツでは直接支配をしたが、日本では間接支配――つまり、官僚を通しての支配を行ったのである。それらの官僚は、戦時経済体制を構築した官僚たちと同じであり、戦時中は彼らの権限を法的に保証していた国家総動員法などの法律がなくなったとはいえ、占領軍のバックアップを受けて、むしろ彼らの権限は強化されたということがいえる。それにかつて彼らをけん制していた軍部と内務省がなくなっていることもそれを後押ししたといえよう。

 要するに自由民主党という政党は、官僚支配を前提とする翼賛会そのものであったのである。

                         

かつての橋本内閣における省庁再編は、名称こそ変わったものの実態は何も変っていないが戦後の占領軍司令部による戦時体制の解体もまさにそれだった。

 例えば、軍需省は、通商産業省と経済企画庁に分割されただけであり、その実態は戦時中と何も変わっていない。また、戦時中全部門の業種団体を傘下に置いていた中央統制会は経団連になるなど、戦時中の団体もほとんど名前を変えて復活している。日本生産性本部、全国銀行協会などみなそうだ。省庁や団体だけではない。戦時法令も名前を変えてほとんど残っている。とくに金融関係の法令は無傷なのである。1937年の臨時資金調整法、1940年の銀行等資金運用令、1942年の日本銀行法もそのままだ。

 1949年に制定された外国為替・外国貿易管理法は、1932年の資本逃避防止法と内容はほとんど同じ。しかも、この外国為替・外国貿易管理法と日本銀行法は、1998年まで改正されることなく効力を発揮していた。

 省庁、法律だけでなく、それに加えて、戦時経済を企画・運営してきた指導者や官僚は、ほとんど同じ地位を維持して生き残っている。とくに戦時経済の立案者である指導者や官僚はほとんど追放になることはなく、たとえなってもすぐ解除されて元の地位に戻っており、中には首相にまで登りつめた者もいる。もちろん、占領軍司令部の配慮によるものだ。それは両者の利害が一致したからだ。

 実は戦後の重要な経済および政治指導者の多くは、戦時中のエリート官僚であり、“満州閥”といわれる人たちだったのである。その代表的な一人が岸信介である。今の若い人に満州といってもピンとこないと思うが、満州は当時日本が統治しており、そこには陸軍の主力が駐在していた。

 岸信介は満州を支配していたエリートの一人であり、軍需省のトップ官僚だった。戦時経済システムの重要な立案者の一人であるとともに戦後日本経済の立案者の中心的存在なのである。岸は戦争中商工大臣を務めたが、戦後は首相になり、そのあとでやはり首相になる弟の佐藤栄作とともに1972年まで、あわせて10年も首相の座を独占した。この岸、佐藤によって日本政治の保守本流が築かれ、それが田中角栄に受け継がれていくことになる。

 戦時中岸信介と同じ経済相を務めていたドイツのアルベルト・シュペーアがベルリンのシュパンダウ刑務所に投獄されていたその時期に岸は首相になっていたのだから、米国占領軍がドイツに厳しく日本に甘かったことがわかる。それは、共産主義の進出を食い止めるために米国としては、日本の経済復興を急ぐ必要があったからだ。

 戦時経済体制の立案者のエリート官僚の中に、もう一人誰でも知っている有名な人物がいる。中曽根康弘だ。彼は内務省出身の官僚であり、若くしてこのプロジェクトに参加している。

 つまり、戦前に構築された戦時経済システムは、戦後に米国の意向を受けて戦後経済体制として復活し、諸外国の自由市場システムを徹底的に打ち負かし、奇跡の経済成長を成し遂げることに結びついていく。そして、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれ、米国に次ぐ経済大国の地位を占めるまでになったのである。

 そしてこの体制を自民党という官僚翼賛政党で、1993年までの40年にわたって守り切ってきた。表面上はいくつかの野党も存在し、批判勢力に発散の場所を与えているので、民主主義のように見えるが、その実態はかなり違うものだ。

 しかし、この経済発展プランも半世紀以上経過してかなりの金属疲労を起こしている。優秀だった官僚も年々、質が低下してきている。「構造改革」とは、この体制を壊すことを本来、意味しているはずだが、日銀という巨大な中央銀行の変革も必要である。戦時の経済官僚が戦後においてもっとも力を入れて取り組んだのは、1920年代のように市場から資金を集める直接金融を復活させないで、銀行融資による間接金融を常態化させることだった。

 その理由は株主よりも企業の経営者の力を強くしたかったからだ。直接金融では株主を強くしてしまうことになり、これでは急速な経済成長は望めないからである。

 銀行融資であれば、その融資の使い方は銀行が監視し、その銀行を中央銀行である日銀が監視する体制がとれる。しかし、その銀行にしても企業であるので、銀行の所有者(オーナー)と銀行の経営者は厳しく分離されたのだ。株についても他の銀行と相互に持ち合う方式を勧め、株主が強くならないよう慎重な手が打たれた。日本企業に多い株の持ち合いはこうした理由により多くなっている。

 そして銀行経営者には、利潤よりも成長に関心を持たせるようモチベートして、銀行を貸し出し競争に走らせた。これが、バブル期の信じられない貸し出しに結びつき、大量の不良債権をかかえる結果になった。

 経済官僚が、銀行融資を選んだもうひとつの理由は、資金調達が迅速に行えることであった。銀行融資は市場調達よりも迅速さでは勝っている。

 戦時中、国策会社が多数作られたが、それらの国策会社は、生産目標を達成させるための資金を大蔵省によって割り当てられた特定の銀行から受け取るようになっていた。これがメインバンクの始まりであり、戦後もこの制度は踏襲された。



 この戦時経済体制は戦後の経済復興に驚くべき力を発揮したことは間違いない。

そのような日本を米国に言われて共に変えようとした政策提案が「前川レポート」と呼ばれている。

 このレポートは、日本の経済構造の改革を訴えている。製造業からサービス業へ、輸出主導型から内需主導型に、大幅な規制緩和と自由化へと構造を変えるべきであると主張している。要するに、戦時経済システムを構造改革して、米国流の自由市場経済にするべきであると主張しているのだ。しかし、この前川レポートは真剣に受けとめられなかった。当時日本経済は好調であり、政治家やエコノミストの多くは日本を米国社会にする構造改革をする必要を全く感じていなかったからだ。それに戦時経済システムの既得権者がそんな改革に賛成するはずもなかった。

 現在の日本経済の真の性格が、戦時経済システムであることは一般にはあまり知られておらず、ましてそれを公表した人は、少なくとも1997年までは一人としていなかった。しかし、それを最初に口にした2人の大蔵官僚がいる。当時大蔵省を離れて学者をしていた榊原英資氏と野口悠紀雄氏である。彼らは「中央公論」の1997年8月号において『大蔵省・日銀王朝の分析』というレポートの中ではっきりとそのことにふれている。

 彼らは、日本経済の特質を「戦時総力戦経済体制」といい切り次のように述べて、根本的な構造改革が必要であることを訴えている。

 

『われわれの観点に立てば、いままさに戦時総力体制が終焉しつつあるのであり、真の戦後処理が今後の課題でなければならない』。

 彼らのうち榊原英資氏はのちに大蔵省に復帰し、1997年に財務官にまでのぼりつめた。野口氏は以来一貫して学者の世界にとどまっており文筆活動に力を入れている。

 よく読めば矛盾のある主張をしている前川レポートも基本的には同じことをいっている。そこで、日銀のプリンスたちは、ある目標を立てて戦時経済システムを壊す計画を実行に移した。 前川レポートを彼らは「10年計画」と呼んでいただが、ヴェルナー氏によるとその目標はちょうど12年後にほぼ達成されたと分析している。

 1986年からスタートして12年後というだから、1998年にすべての目標は、達成されたということになる。そういえば、1998年には日本銀行法が改正されている。1986年から1998年までというと、バブルの5年間と不況の7年間ということになるが、この12年間に日銀は一体何をしたのか。

 前川レポートの実現の前提として彼らが掲げた目標とは次の3つである。

      1.日本の消費者にお金を使う楽しさを堪能させること

      2.対外投資の波を送り出したこと/海外への工場移設、産業の空洞化

      3.銀行バブルは必ず破裂し、不況になるとの学習効果



 確かに1998年以降の状況を見れば、あらゆるもののシステムに変化の波が生じている。不況の深刻化によって企業は労働者の解雇を余儀なくされ、失業率が上昇し、伝統的な終身雇用も年功制度も崩壊してしまった。

 かつての日本の商法はドイツをモデルとして作られていただが、政府は法制度を米国のモデルにならって改革しようとしている。会社法の改正、企業の会計基準の改正など相次ぐ改正により、前川レポートで述べられている:米国が要望していた改革が結局のところ実現しつつある。

 日銀は、戦時経済体制を変革するために、意図的にバブルを創り出し、それを急激に潰して日本経済を不況に誘導し、その結果として前川レポートで唱える改革が実現しつつある――リチャード・ヴェルナー氏はこう言っている。

 バブルを意図的に創り出したり、それを潰したりする――そんなことを日銀と言えども、できるのかという疑問を持つ人も多いだろうが、日銀が紙幣を印刷すれば可能なのである。日銀は1986年以降の1980年代に相当大量の信用創造、つまり紙幣を印刷しているが、1990年に入るとその逆の急激な信用破壊をやり、名目GDPも急降下させている。名目GDPは、日銀の信用創造量と完全にリンクしている。

                 

 かつての日銀の法王、一万田尚登はその体験から後輩たちに次のようにいっていたといわれている。



       『日銀は鎮守の森のように静かで目立たないほうがいい』

 これは逆にいうと日銀の権力がいかに大きいかということを示している。「力のある者は決してそれを誇示してはならない」というのが一万田尚登の教訓だった。

 日銀とかつての大蔵省といえば、どうみても大蔵省の方が、権力があるように見える。法的にいえば、日本経済は明らかに大蔵省がコントロールしていた。

 国税庁と税務署を通じて税を、主計局を通じて国家予算を、理財局を通じて債券発行を、国家金融局を通じて外国為替への介入と国際的な資本の流れを、税関を通じて輸出入を、証券局と証券取引委員会を通じて証券取引を、銀行局を通じて銀行部門を支配していた。このように書いてみると大蔵省が、いかに凄い権力を持っていたかということがわかるだろう。

 大蔵省に比べると日銀などは完全な黒子に見える。日銀は金融政策を実施できるが、大蔵省は法律によって日銀を監督する権限を与えられていた。しかし、それは日銀が独立性を勝ち取った1998年までの話だ。

 それに日銀総裁をはじめとする日銀関係者は、かの一万田教訓を守っていているせいか、あまり人前には出てこない。

 日銀のプリンスたちとしては、この強大な権力を持った大蔵省を何とかしたいと心の中では考えていた。日銀はそのため意図的にバブルを創り出し、それを潰して不況を長期化させた疑いが濃厚なのである。そういう状況になって一番困るのは大蔵省だからだ。

 大蔵省にとって不況はその存立基盤を脅かす。不況は法人税や所得税、消費税の減少を招くすし、失業給付や社会保障給付も増大する。それに不況が長引けば政治家が政府に総合景気対策費の支出を要求してくるに決まっている。

 入ってくるものが減少して出ていくものが多くなれば、予算は赤字になる。赤字は国債発行で賄うことになるが、これも大蔵省の責任になってしまう。だから大蔵省は不況を嫌う。日銀はこれを狙って長期不況を創り出したのではないか。

 法的に大蔵省に監督されているはずの日銀が長期不況を創り出すことができるのだろうか。

 結論からいうと、それは可能なのだ。しかし、これを説明するにはいくつかの前提的な知識が必要だ。

ところで、1992年~1994年まで政府は4回にわたって45兆円という総合経済対策費を投入している。1990年度後半には一連の景気対策としてさらに60兆円以上が使われている。しかし、景気は回復しなかった。それは、財政支出が国債発行でまかなわれたからだ。国債を発行すれば民間部門から資金を吸い上げることになる。そういうときこそ日銀は信用創造拡大をやるべきなのである要するに、通貨を印刷してマネーサプライを増やすことだ。そのときに日銀が何をやったか。

 1980年代に日銀は信用創造量を大量に増やしている。これはバブルの時期だから、バブルのときにせっせと通貨の量を増やしてバブルを過熱させる結果となっている。

 しかし、1990年代に入ると日銀は一挙に信用創造量を減少させている。それも急転直下に。そして政府が総合経済対策費を投入しはじめた1992年にはほとんどゼロになり、1995年にはマイナスの領域に入っている。これは、日銀が購買力を経済から引き上げたことを意味している。

 本来であれば、信用創造量を増加させなければならないときに逆のことをやっているだから、せっかくの総合経済対策費、45兆円が効くはずがない。1995年5月から1997年のはじめまで信用創造量は少し増大に転じるが、その年の後半にはまた減少している。要するに、日銀は1990年代を通じて積極的に通貨を印刷しようとしていない。

 大蔵省はなかなか不況から抜け出すことができないため、円安政策をとろうとする。その場合、大蔵省は額を指定してドルを買えと日銀に命令する。日銀はその命令にしたがって素直にドル買いを行う。この場合、大蔵省としては日銀がドルや米国債を買うのに必要となる円を印刷すると考えている。市場から大量のドルを買い円が市場に増えれば当然円の価値が下がるからだ。しかし、日銀は国債その他の債券を国内投資家に売り、その代金で外国為替市場介入を行った。つまり、通貨を印刷しないで円を国内経済から吸い上げたのである。これでは、ドルが減っても円が少なくなるから、円安にはならない。

 「通貨を印刷する」というと、すぐインフレになると素人は考える。しかし、今の日本の経済状態では少しぐらい通貨を印刷しても、インフレなどにはならない。インフレになるぞというのは、日銀がそれをしないための断り文句なのである。明らかに日銀は不況を創り出していると言える。               



 構造改革や景気回復の問題を考えるとき、過去の日本の景気循環がどうであったかについて知っておく必要がある。1970年代のはじめに大規模な投機ブームがあり、それが、1974年以降の不況につながっている。70年代後半には経済成長が加速したのだが、80年代のはじめに失速する。それから80年代後半には空前のバブル経済が発生。このバブルがはじけて、90年代の10年はずっと不況と記録的な失業が続き、2000年以降もこの傾向が続いている。その間日本はインフレとは無縁だった。1976年から96年までの20年間消費者物価の上昇率(インフレ率)は、平均して2.9%、1986年から96年までの10年間でみると、1.2%という低さ。同じ20年間を米国は5.3%、ドイツは3.1%、10年間では米国3.5%、ドイツ2.4%だから、日本のインフレ率は、1986年から96年までの10年平均については、低インフレのお手本といわれるドイツの半分なのだ。

 それほど、インフレコントロールに優れている日銀が、なぜ、デフレを放置したのか。とくに1900年台以降10年以上にわたる不況において、日銀はなぜ信用創造量を大幅にダウンさせたままにしたのか。日本の中央銀行の実力からみてこれは明らかに意図的な“事件”といえよう。

 1970年のはじめに起こった投機ブームによって、起こされた小さなバブルがはじけて不況になるが、1975年に日銀は積極的に信用創造量を増加させて不況を克服し、日本経済を経済成長の波に乗せることに成功している。要するに、紙幣を積極的に印刷して経済を急回復させている。

 このときの日銀総裁は森永貞一郎という大蔵省出身の総裁だったが、事実上、日銀をコントロールしていたのは副総裁の前川春雄であり、信用創造の量を決定する権限を有する営業局長の地位いたのが三重野康なのだ。この75年の経済回復は、前川―三重野コンビによる鮮やかな経済コントロールの手腕といえよう。

 その三重野康は1989年12月に日銀総裁になるが、以来日銀は、信用創造量を大幅にダウンさせ、今日の不況の原因をあえて作っているように見える。ヴェルナー氏によるとその不況によって今まで目の上のタンコブだった旧大蔵省から、日銀は金融政策の権限を事実上奪取し、独立性を勝ち取ることに成功した。

 その権限を手にしたうえで、日銀としてはもっと大きな目標があった。それは三重野康が総裁時代に発言した次のことばによくあらわれている。

『(経済の構造調整を完成させるには)金融政策を運営するに当たっても、中長期的な課題を十分に念頭に置いておくことが重要である。この点、もう少し具体的に申し上げれば、私どもがこの調整過程のなかで、政策運営の最大のよりどころとしてきた判断基準は、単に目先の景気をよくするという短期的な物 差しではなく、やや長い物差しでみて、日本経済をインフレなき、バブルなき、長続きする成長過程に、いかにしてつないでいくかということである』。



 要するに、三重野元総裁は、日本経済の体制の変革を成し遂げる必要があると考えていたのだ。しかし、米国に言われた構造改革の重要性は不況にならないと認識されないこともよく知っていた。そこで、金融政策によって危機を深刻化させ、それによって日本を構造改革に向かわせることを考えたのである。

日本銀行について考える(1)

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2月 292012

先日、日銀が「インフレ目標1%」を掲げたが、これは先月発表されたFRBの「インフレ目標2%」に追随したもので、主体性のなさが表れている。ただ、インフレ懸念のある米国と、重症のデフレに陥っている日本では事情が異なるので、同様の目標を設定しても効果があるかどうかは疑問だ。

毎日新聞は、2月14日付けでこう報じている。(http://mainichi.jp/select/biz/news/20120215k0000m020068000c.html)

毎日新聞 2012年2月14日 21時52分(最終更新 2月15日 1時16分)



日銀:インフレ目標1% デフレ脱却へ強い決意

 

 日銀は14日の金融政策決定会合で、金融政策で目指す物価水準となる「中長期的な物価安定のめど(Price Stability Goal)」を新設、当面は消費者物価上昇率1%を目指す方針を全会一致で決めた。従来は消極的だった「インフレ目標」を事実上採用、資産買い入れ基金を10兆円拡大し65兆円程度とする追加緩和も決め、物価下落の継続が経済を圧迫するデフレからの脱却に強い決意を示した。白川方明総裁は会合後の記者会見で「どうすれば、中央銀行の責任を果たせるかを考えた」と説明した。

 日銀は従来、デフレ脱却を展望する物価水準について、各政策委員が考える望ましい物価上昇率を集計した「物価安定の理解」を公表。「2%以下のプラス領域で、中心は1%程度」と説明してきたが、市場では「数値は目標か、単なる目安か。分かりにくい」と批判があり、政府・与党内では「インフレ目標」の採用を求める声も根強かったが、日銀は消極的だった。

 インフレ目標は元来、物価高騰が国民生活を苦しめる状況で、中央銀行が金融引き締めなどで物価を抑えるための手段として使われてきた。実質ゼロ金利状況もあり、日銀は「インフレ目標を採用しても物価上昇効果は期待できない」(幹部)と主張。白川総裁は講演で「物価上昇率を過度に重視した金融政策は逆に経済の安定を損なう」としてきた。

 しかし、米連邦準備制度理事会(FRB)が1月25日、長期的な物価上昇率の目標を2%とする「インフレ目標」導入を決定。実質ゼロ金利を「少なくとも14年終盤」まで続ける方針を示すと、状況は一変した。



 政府・与党内では「日銀がFRBより金融緩和に慎重とのイメージが円高を助長している」との批判が噴出。民主党の前原誠司政調会長は政府と日銀が政策協定を結び、デフレ脱却の目標を共有する可能性に言及した。今月13日には、11年10~12月期に2期ぶりのマイナス成長に転落したことが判明。次の一手を迫られた日銀はインフレ目標の封印を解いた。

 「物価安定のめど」は金融政策が目指す物価上昇率を「2%以下のプラス。当面は1%」と明示。「それ(1%上昇)が見通せるまで実質ゼロ金利政策と資産買い入れなど強力な金融緩和を推進する」と宣言した。政策委員の物価上昇率予想は12年度0.1%、13年度0.5%で、市場ではゼロ金利を含む緩和策の長期化観測が広がる。



 これがより期間の長い金利の低下につながれば、企業や個人は資金が借りやすくなり、投資や消費を活発化させる可能性がある。その結果、モノがもっと売れ、賃金や物価も上昇し、デフレから脱却するのが期待される道筋だ。ただ、雇用不安もくすぶる中、インフレ目標の効果は見通せない。【谷川貴史】



 これまで何回もレポートで指摘させていただいたように日本は1996年から名目GDPが全く増えていない、その結果、同じように名目賃金が下がり続けているただ一つの先進国である。そのことに一番寄与しているのが、一般人には、通貨を発行している以外何をやっているのかわからない銀行の中の銀行、日本銀行である。今回は、そのことをよく理解できる本をいくつか紹介したい。マスコミではこのような論説は封印されているので、戸惑う方がいるかもしれないが、真実は案外単純なものである。まず、一冊目は「日銀~円の王権」である。



『日銀―円の王権』吉田祐一著(学習研究社)

 「円の王権」という言葉にこの本の主張が込められている。円という通貨を発行するのは日銀が持っている権限であることだけがよく知られている。吉田氏は、円すなわち、マネーを発行する権限を持っている存在、つまり、金融を支配している存在こそが資本主義社会における「真の権力者」だと言っている。

 さらに、同時に、日銀は王権の所有者でもあり、日銀総裁は日本国王であるとまで言い切っている。ここで国王というのは、皇帝(王の中の王)に認められた属国の指導者のことをいうとまではっきり言い切っている。

 彼は、この本の中で二つの仮説を立てている。それは、「近代、現代の経済は中央銀行によってコントロールされており、中央銀行の支配者が本当の権力者である」というものであり、もう一つは、「現在の日本は、米国の属国であり、覇権国、米国からの指示で動いている」というものである。

 本書は、この二つの仮説、(モデル)を基本に置きながら、過去の歴史書を検証し、自分の仮説の正しさを検証しようというものである。



本書巻末の参照文献一覧をみると、著者が、本書を書くにあたり、本人が書き残すか、他者に口述筆記させたものをまとめた財界人回想録の類を徹底的に収集している事がわかる。

 また、日本ではこれまで、政治の側面だけに注目し、経済の話題は補足的に論じられることが多かった。だが、現在の国際情勢を理解するのも、経済の問題を前提に考えた方がわかりやすいことは言うまでもない。2007年夏、リーマンショックから始まった世界金融危機は、ウォール街の銀行家の強欲(グリード)が原因であり、それを可能にしたのは、ブッシュ政権の住宅政策や、金融工学の存在である。

 現在同様、過去も多かれ少なかれ、そのように世の中は動いていたと考えるべきである。ところが、現在の日本では、明治時代の最初から現在に至るまでの日本の金融史を、そのような国際情勢の変動という視点を含めて描いた本はいままでなかった。

 日本の明治以降、戦争終結までの歴史といえば、せいぜい司馬遼太郎氏の一連の歴史小説に始まり、半藤一利氏や秦郁彦氏らの歴史家が描く終戦秘話で終わるのが慣例だった。  

どれもこれも、明治維新前後のヒーローにはじまり、なぜか大正時代をすっ飛ばして、昭和時代の戦争指導者とそれに反対した政治家、そして、国の命令で死地に赴く日本軍兵士、そして原爆、終戦という同じパターンで埋め尽くされている。

これらの歴史作家や歴史家たちには、経済権力の姿をまったく見ようとしていない。半分は故意にやっているに違いない。

 『日銀・円の王権』を一読してわかることは、司馬遼太郎氏や半藤一利氏のような歴史作家たちがことさらにもてはやされる背景には、歴史において本当に重要な金融の支配の歴史を日本の一般国民に知られたくないという大きな目的があったということかもしれない。

 

それではなぜ、そのような情報コントロールをしなければならないのか。

これは、本書を一読すればすぐにわかる疑問なのだが、簡単にまとめると、「戦前と戦後の日本の経済人脈はひとつながりの系譜でつながっている」からである。

 現在の日銀で王権を保持している人物と、明治時代に日銀が誕生したときに王権を与えられた人物が一つの系譜でつながっている。こういう事を知られてしまっては、日銀にとって非常に不都合なのである。過去の歴史が「過去のこと」としてすまされなく危険性がある。

 

<日銀を作ったのはフランス・ロスチャイルド家>

 著者は、「円の王権」を与えるのは、日本国内の政治家ではなく、その時々の世界覇権国にいる帝国の権力者たちであると解説している。日銀を作ったのは、松方正義という人物である。この人物に、日本初の中央銀行である「日本銀行」を設立するように指示したのは、フランスのアルフォンス・ド・ロスチャイルドだと分析している。

 この松方とロスチャイルドの交友については、ロスチャイルド家の番頭(支配人)であった、レオン・セーという人物を通して行われている。吉田氏は、レオン・セーとロスチャイルド、セーと松方の人脈を記した文献を引用し、議論の余地がないほどに「日銀を作ったのはロスチャイルドだ」という立証をしている(なお、松方は日銀総裁には就任していない)。また、セーを論じるにあたって、祖父にあたるジャン=バティスト・セーを、フランスの思想家ミシェル・フーコー『言葉と物』から説き明かしている。

 このように、日銀を設立したのは大蔵卿であった松方正義で、彼はロスチャイルドのカウンターパート(現地における受け皿)であるが、重要なのは、覇権国とのこのカウンターパートの関係を歴代の日銀総裁が継続して築いているということである。そして、大蔵大臣と日銀総裁を前後して務める例を多数示している。

 吉田氏はこの帝国-属国の関係をきわめて単純に示している。一例を挙げると次のようになる。



 高橋是清(第7代総裁)-ジェイコブ・シフ(ロスチャイルド-クーン・ローブ)

 井上準之助(第9,11代)-トーマス・ラモント(モルガン)

 池田成彬(第14代)- オーウェン・ヤング(モルガン→ロックフェラー)

 渋沢敬三(第16代)- ロックフェラー3世 

  新木栄吉(第17代)- ロックフェラー3世

  一万田尚登(第18代)-ロックフェラー3世

 前川春雄(第24代)-デイヴィッド・ロックフェラー



 むろん、これらの「人脈」がどのように成り立っていったのか、という経緯についても、当事者の証言である「回顧録」を使って複雑な人間関係の糸を解きほぐしている。



<覇権国の権力移動が属国に波及する>

 帝国側で属国の国王に指令を与えている人物が変遷していくことに注目して欲しい。この権力移行の影響を受けて属国の指導者、すなわち国王も変わるのだ。日本は明治維新以降、英米という覇権国の属国であり、ときの覇権国の衰亡や権力闘争の結果として、「世界皇帝」が移り変わり、国王も変わっていくということである。

 著者は、イギリスやアメリカ本国の、金融覇権の移り変わりに目を向けた上で、その変動が時間差で日本にも津波のように押し寄せてくるという事実をていねいに説明している。



 一例を挙げよう。吉田氏は、池田成彬(いけだしげあき)という日本の財界人を取り上げている。池田は、いわゆる洋行帰りである。慶応大学を出て、ハーヴァード大学に留学した後は、三井銀行に入行している。

 三井といえば、もともとはロスチャイルド系の銀行であった。1920年代にもなると、アメリカがイギリスに変わって、金融の主役に躍り出てきた。イギリスとアメリカを股に掛けて活躍していた、高橋是清とつながっていた、クーン・ローブ商会に変わって、1907年のニューヨークの金融恐慌を契機に、モルガン商会が台頭してきていた。モルガン商会では、ファミリーの信任を受けて経営者になる大番頭として、トーマス・ラモントが実力を付けてきており、これが井上準之助と友好関係を築き上げるのである。

 池田が財界で名をとどろかせたのは、帝国のモルガン財閥が大打撃を受けた、1929年のウォール街株価大暴落の直後に行った、「ドル買い」であった。ドル買いのきっかけになったのは、井上準之助が大蔵大臣の時に進めた「金解禁」政策であった。

 重要なのは池田が、モルガンに変わってアメリカ経済を支配した、国内民族資本であったロックフェラー財閥の存在を察知する情報収集力があったことである。これが彼のドル買いの判断にも影響を与えたというのである。

 池田を指導したのが、オーウェン・ヤングという財界人だ。彼は、ニューヨークに当時建設されたロックフェラーセンターの中心部をなす、RCAビル(現在のGEビル)を保有する、大企業GE(ゼネラル・エレクトリック)の会長であった。

 一般的には、GEはモルガン系の企業だということになっており、日本の欧米企業研究でもこれが主流である。ところが、吉田氏は、ヤングはモルガンとロックフェラーの両方に巧みにつながっていた人物であったと分析している。その証拠としては、GEビルをロックフェラーセンターの中枢に置いた事に加え、ヤング自身がロックフェラー財団の理事を務めていたことがあげられるという。



 要するに、権力の移行期に活躍していたヤングは、モルガン家の没落を見て取るや、すぐさまロックフェラー家に「鞍替え」できるように、事前から「両天秤」を仕掛けておいたわけだ。これは、吉田氏が、ヤング、フランクリン・ルーズヴェルト大統領とロックフェラーの三者の関係を検討して思いついたことらしい。

 例えば、吉田氏は池田の口述による『財界回顧』という本の一部分を引用し、「池田成彬の親分はオーウェン・ヤングである」と立証する。

 ( 『日銀・円の王権』185~86ページから引用開始) 

 ヤング・プランで有名なあのオーエン・ヤングという人、――あの人は私達がアメリカから日本に帰ってきてから、次期大統領の選挙に出るだろうという噂がありましたが、本人は「自分は政治家にならん」と断ったことが新聞に出ておりましたが、私があの人に会ったのはパリーでヤング・プランの会議の時に一、二遍でした。しかしそのとき深くは話さなかった。ところがニューヨークに行ってG・E(ジェネラル・エレクトリック)社長のスゥオープに逢うと、(彼が社長でヤングは会長)スゥオープは私に、「あなたはヤングとゆっくり話をして貰いたい。自分の別荘へ(日曜だったと思うが)きてくれ。ほかの人は呼ばないから、二人だけでゆっくり話してくれ」という触れ込みです。(中略)



  しかし私はよくいうのですよ。私はベルリン、ロンドン、パリー、ニューヨーク、--主なるところを渡り歩いたが、政治家には会わないという建前だから誰にも会わない。しかし銀行家にはことごとく会っておる。なかには二遍も三遍も会っておる者もある。

  また、銀行家以外の企業家や実業家の人たちにも会っておる。この数ある中で、偉いと思ったのはヤングですね。どこが偉いといわれると困るが・・・・・

 この人は、身体も大きく、いうことがはっきりしており、何となく信頼できるような心持ちがしました。不思議なひとです。人を引きつけるようなところがあった。芝浦の関係で日本にも来たことがあります。(『財界回顧』86ページ)

(引用終わり)



 上の『財界回顧』の引用文は、何も背後関係を知らずに読むと、読み飛ばしてしまいそうなところであるが、吉田氏は、池田特有のぼやかした表現の奥に込められた真意を解読している。

 (『日銀・円の王権』(186ページ)から引用開始)

 池田はヤングを通して、モルガン家ではなくロックフェラー家の意向を知ることになったのである。当時の日本の財界は、井上準之助をはじめ、モルガン家からの情報に依存していた。そのなかで、池田のみロックフェラー財閥のコネクションを持ち、先行した情報を持っていたことになる。

 (引用終わり)



 吉田氏は、このように世界帝国における権力の移行と日本における王権の移行をとらえている。重要なのは、権力変動期に鋭くその事実を他に先んじて情報として入手することが出来る人物だけは最終的に生き残るということかもしれない。そうすれば、「先行者利得」の独占が可能になるからだ。

 上記のロスチャイルドからロックフェラーへと言う分析をしているが、この点については、金融においては、ロスチャイルドの力が依然、まだ、大きいのではないかと小生は考えている。また、国際金融資本の一族は密接に結びついているので、そのような枠組みにここまでこだわる必要はないと小生は考える。

 

<戦争指導者の歴史はさほど重要ではない>

 さらに財界・経済から見た日本の近現代史という視点を取っていくと、日本の歴史ものの主流である政治家や軍人を主役にした歴史物語がいかに真実から遠ざかり、隠蔽しているのかがわかる。吉田氏は、『日銀・円の王権』の中で、経済史研究者の松浦正孝の『財界の政治経済史』や、ジョン・ロバーツの『三井』などの著作を参照しながら、それを立証している。

 財界の恐ろしいところは、戦争を継続しつつも、ビジネスをちゃんと行っていくというところである。

 これは、第二次世界大戦中も、各国の中央銀行によって結成される、国際決済銀行(BIS)が、資金決済を継続して行ってきたことからもわかるが、吉田氏は、戦時中の日本国内を見ても、財界が戦争とビジネスの両天秤で動いていたと説明している。単純に軍部=悪者とする歴史家は見習うべきである。以下の説明は秀逸である。



 (『日銀・円の王権』(203ページ)から引用開始) 

 戦後の史観では戦前はとにかく「軍部独裁」であり、それ以外にはなかったように描かれることが多いが、実際は軍部と財閥がしのぎを削っていたのが真実であろう。財閥はみずからの軍需産業が潤うので、その点では軍部と利害をともにしているが、やりすぎると英米諸国により禁輸(embargo)などの制裁を受けることになる。だから財閥は戦争をしながら、一方で英米との講和に動き出すのである。

(引用終わり)

 このように、財界は、戦争をしながら、いずれ対応しなければならない英米との講和の道を模索していた。戦争をすることは絶対悪だと私達は考えがちである。しかし、これらの世界最高支配層の財界人にとっては、手っ取り早い金儲けである。池田成彬は、そのような財界人のネットワークに属する人物の一人である。

 著者は、別の場所で、池田の回顧録を引き、彼が一般大衆を「蟻(あり)」だと表現する部分を紹介している。池田は、この中で、「商売をしていくうちに、大きくなったものが小さくなったものを、歩いているうちに踏みつぶしてしまうことは、自然に生じてくることだ」と語っている。このことを池田は、大きな利益を得た者は慈善事業で社会に還元するのがいいという文脈で語っているのだが、この考えは金儲けと戦争と慈善活動をともに成り立たせたロックフェラーの考え方そのものである。

 池田の例は一例で、戦争期においては、ロックフェラー系の財界人たちが、戦争の相手となるナチス・ドイツを手助けしていたことも事実である。一般大衆の感覚で、財界人がビジネスをやっていないことだけは確かである。貿易も、戦争もビジネスなのである。

 ジョン・ロバーツの『三井』には、終戦期になると、戦争指導者を「監視」する、七人の財界人からなる「内閣顧問」の指名が、東条英機に対して押しつけられたと書かれているという。吉田氏は、この事実をふまえ、日銀総裁の結城豊太郎をはじめとする英米との講和を考えていた財界人たちが、東条英機の首に縄を掛けるべく動いたと述べている。戦時中においては、財界と軍部が国内で権力闘争をしていたというのである。



 こう考えると、従来のように、東条英機をはじめとする政治家や軍人のレベルで、第二次世界大戦を語ることが全く表層しか見ていないことに気がつくことになる。トップレベルの財界人にとって見れば、戦犯であれ、戦死した人々であれば、皆財界人たちの駒に過ぎないのかもしれない。

 戦後に東京裁判に掛けられて死んでいったのは、みな軍関係者である。財界人たちはおおむね生き残っている。戦犯たちを、一部の人たちが英雄だと言って褒め称えるのは自由だが、それでは歴史の本当の姿は絶対に見えてこない。以下に引用するように、吉田氏の言うとおりだ。これが真実であろう。



(『日銀・円の王権』(208ページ)から引用開始)

 戦時中は、財界は軍部と対立しながらも相互依存関係を築いてきた。それなのに軍部のみが厳罰処分になったのはなぜか。それは、天皇を含む、日本の財閥グループの総意であったからである。

(引用終わり)



 このようにして、著者は戦前の日本史の真の姿を金融経済のキーパーソンを追っていくことで、今まで表に出なかった事実を鮮やかに描き出している。

 戦後史についても触れられている。簡単に述べれば、戦後のアメリカの日本支配は、「日銀生え抜きの総裁=プリンス」を通じたものと、松本重治や山本正らの国際交流人脈による文化交流路線の二種類があるという。

 ここで、新たな視点として吉田氏は、経済学者のリチャード・ヴェルナーが暴露した「日銀生え抜きの総裁」、通称「プリンス」からなる系譜をこれに「接ぎ木」している。

 そして、「山本正-ロックフェラーのネットワーク」と、「日銀総裁のネットワーク」は、相互に連関し、交流がある。例えば、プラザ合意の青写真を描いた、前川春雄・日銀総裁が、同時に三極委員会メンバーであったことが挙げられる。



 吉田氏はプラザ合意とは、日銀による急激な信用拡大政策であり、その狙いは日本に意図的なバブルを生み出すことにあったとヴェルナーや、そのほかの人物の著作を引用しながら論証している。実はプラザ合意は、前川が三極委員会で指示された日本に対する「経済構造改革計画」の一環であった。このことは、信頼できる文献に引用された三極委員会の公式文書でも確認できる。

 

<日本とアメリカのバブルを生み出した中央銀行>

 ところで、中央銀行が、信用創造の拡大を通じて、バブルを生み出すというテーマは、オーストリア学派の経済学者の理論である。だから、ハイエクやミーゼス、ロスバード、そして、ウッズなどの経済学者、エコノミストの理論は、ヴェルナー理論と整合性がある。

 誤解されがちであるが、ヴェルナーは、何でもかんでも信用創造すれば景気は回復すると言ったわけではない。ヴェルナーは、日銀が一九九〇年代のバブル崩壊後の経済状態を意図的に放置したことを信用創造の縮小という事実をもって論じたのである。

 吉田氏は、ヴェルナーとオーストリア学派経済学の両方の理論に精通している。そこで、中央銀行が、本来生産的な用途に使用されるべきマネーが、投機性の高い証券にむかったことが問題であるという点で両者の共通点を見いだしている。ヴェルナーは、中央銀行(日銀)が信用量を拡大するべきときに意図的に信用量を縮小したということを批判しているだけである。

 ヴェルナーも、生み出された信用=貸し出しが「生産的な投資」に回らず「投機行為」(=バブル)に回ることは容認していない。吉田氏はオーストリア学派とヴェルナー理論の理解を通じて、その両者の共通点と相違点についても理解できるように筆を進めている。

この両者をつなぐ作業は非常に重要なものである。今後、二〇〇八年の金融恐慌をきっかけに、オーストリア学派経済学の認知が我が国でも高まるだろう。その際に、我が国の識者達が、ヴェルナー理論を再評価する上で、この作業がきわめて重要な意味を持ってくるだろう。



 『日銀・円の王権』には、ヴェルナーの著書『円の支配者』が引用されている。

これが、21世紀に入ってもアメリカの経済状況と似ているのである。ヴェルナーは、一九八五年当時、日銀は「もっと使いなさい」とばかりに、銀行がいらないというのにお金を貸し続けたという事実を書いている。この結果、余ったマネーを民間銀行が野放図に貸しまくり、これが全部不良債権になっていく。この流れは住宅バブルを煽った、住宅ローン専門会社の行為を彷彿とさせる。

 日銀の一般銀行に対する指導を窓口指導という。この当時の有様を見るに付け、グリーンスパン時代のアメリカにおいて、貧乏人にまで住宅ローン資金をろくな審査をしないで貸し付けていたアメリカの銀行の姿が二重写しになってくる。

 吉田氏の理解に従えば、今回の金融危機も、中央銀行の人為的な信用量(マネーの量)の操作によって引き起こされた「人災」ということになる。

 吉田氏はリベラル派の経済学者のポール・クルーグマンが、ノーベル経済学賞を受賞したのも、完全な「出来レース」だと指摘している。

 以上のように、『日銀・円の王権』は、日銀総裁=日本国王という視点をとりながら、日銀総裁を中心に広がる財界人脈をこれ以上なく明快に解き明かした一冊である。

 

以前、紹介した「通貨戦争」いう本と併せて読まれれば、日本を含めた世界の金融史が見えてくるはずだ。時間のある方には一読をすすめたい。次回は、15万部も売れたのに日本の論壇に意図的に無視されている「円の支配者~誰が日本経済を崩壊させたのか~」(リチャード・A・ヴェルナー)を紹介させていただく。

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