日本銀行について考える(2)

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3月 092012

~『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』より~

 

現在の日本経済のデフレ状態は意図的に作り出され、わざと長引かされているといったら、あなたは信用するだろうか。わざわざ誰がそんなことをするのか。

その犯人は、政府でも大蔵省(現財務省)でもなく、日本の中央銀行である日本銀行であり、しかも、その日銀の、ごく少数のプリンスと言われる人たちがやったことだと主張している本が今回紹介するリチャード・A・ヴェルナー氏の『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』(吉田利子訳/草思社刊)である。

著者のヴェルナー氏は10年前、日銀の客員研究員として日銀に在籍し、バブル期の日本経済の研究を続けていた人である。また、この本は、外国人でないと絶対に書けない本であると言われており、日銀の知られざる秘密に迫るものとして貴重な本だとも言われている。あのFRBのグリーンスパーンも英訳を取り寄せて読んだとも言われている!

一番の焦点は、誰がバブルを生み出し誰がそれを潰したかにある。このことが現在の深刻な日本経済の現状につながっていることは言うまでもない。

よく知られるように、日銀の総裁は日銀出身者と大蔵省出身者が交替で就任することになっている。日銀出身の総裁は金融引締め政策寄りで財政による景気刺激策を望み、大蔵省出身の総裁は財政政策を引き締めて金融政策を緩和したがる傾向があるもと金融界では言われている。

 そのため、日銀出身者と大蔵省出身者が交互に総裁を務めるこの人事システムは、どちらにも偏らない政策を実施するうえで、理想的であるようにみえるが、実は決してそうではない。

 大蔵省出身の総裁は、日銀にとって重要な意思決定、すなわち信用創造量にかかわる決定からは一貫して排除されている。通常大蔵省出身の総裁のときは日銀出身者が副総裁となり、総裁が日銀路線を逸脱しないようにコントロールしている。

 それに加えて、日銀以外の総裁を迎えるときは、総裁を補佐する職に日銀幹部が一人つく。この補佐役についてある日経記者は、次のように書いている。以下。

 『「副総裁以上のキーマン」が総裁秘書役。内外どこに行くにも総裁にぴったり寄り添って行動し、総裁に関する諸事万端をさばく「黒子」でもある。・・日銀は否定するが、総裁が日銀路線から逸脱しないように「監視」する役割を担っている』。

 

このように日銀出身者以外の総裁は、ほとんど力を発揮できないシステムになっている。日本は、敗戦から2001年の春まで首相は26人に変わっている。しかし、日本の本当の支配者は6人しかいない。

 その6人の支配者とは、日銀出身の日銀総裁を務めていた次の6人である。

        1.新木栄吉        4.前川春雄 ◎

        2.一万田尚登       5.三重野康 ◎

        3.佐々木直 ◎      6.福井俊彦

 さらに過去50年間では5人、1962年~1994年のとくに大事な時期に国家の操縦桿を握っていたのは、佐々木直、前川春雄、三重野康の3人である。

 政治家は選挙によって選ばれるが、日銀総裁はどのようにして選ばれるのか。

日銀出身者の総裁に関しては、必ず副総裁になっていることが条件となる。その副総裁は理事から選ばれるが、日銀出身の理事は6人しかいない。大学を卒業して日銀に入行する人は毎年約60人というから、そのうち1人が理事になれることになる。確実に総裁になれる副総裁になるのはそれこそ大変な確率ということになる。

 このように考えると、厳しい競争があってそれに勝ち抜かなければならないのであるから、それなりの人物が選ばれると考えてしまうが、日銀に限ってはそうではない。

 日銀トップの選抜手続きは、北朝鮮のような独裁国の後継者を選ぶのに似ている。支配者は自分に忠実で目標も目的も同じくする人物にしか権力を渡したがらない。

 つまり、後継者を選ぶにあたって最優先される規準は、自分への忠誠度と目標を同じくするかどうかであって、必ずしも能力ではないのである。こういう選抜方法では、かなり前から後継者は実際には決められており、どうしても前任者の政策を踏襲する形になっている。こういう人たちに日本という国家の命運が託されてしまうのは大問題であろう。

 さて、1980年代のバブルを作り出したのは、大蔵省出身の澄田智総裁であり、それを強引に潰したのは、次の総裁である三重野康総裁であると一般的にいわれている。しかし、これは事実とかなり異なる。

 澄田総裁は、表向きは日銀総裁ではあっただが、重要な決定は三重野副総裁中心にことごとく決められており、お飾り的な存在に過ぎなかったと言われている。

 いや澄田総裁に限らず、やはり大蔵省出身の松下康雄総裁のときも日銀幹部は総裁に重要な情報を流さず、政府の政策とは逆のことをやって、1ドル80円という事態を招いた。

大蔵省出身の日銀総裁と、日銀出身の副総裁を中心とする日銀スタッフとの関係は、まさに現在の各省庁の大臣と事務次官を筆頭とする、事務方官僚との関係に酷似している。そのため大蔵省出身の日銀総裁はほとんど仕事をさせてもらえなかったといっても過言ではない。とにかく大蔵省と日銀は、非常に長い間にわたって激しい勢力争いを繰り広げてきた。

その暗闘は敗戦直後からはじまっている。『円の支配者』の著者、ヴェルナー氏は、現在、日本を苦しめているデフレは、日銀が大蔵省を貶めるために意図的に作り出したものであり、そのシナリオは、半ば成功しつつあるという分析している。

 国民のほとんどは、かかるデフレ不況を作り出した犯人を日銀ではなく大蔵省であると思っており、その結果として大蔵省はその名称を奪われ、解体の危機に一時陥った。日銀は不況を利用して大蔵省に勝利したとも言えよう。そういう意味で現在の日本の不況は「日銀不況」といっても良い。

エコノミストの森永卓郎氏もこのタイトルで本を書いている。知っている人は知っているということだろう。

 さて、日銀は1998年4月から新しい日本銀行法によって、念願の独立性を手に入れ、金利政策や公開市場操作など、すべての中央銀行の政策を、総裁と2人の副総裁、そして6人の審議委員から構成される政策委員会で決定できるようになった

 この決定にはたとえ、政府といえども異議を唱えることはできずこと金融政策については、日銀は政府よりも強い権力を手に入れることができたのである。現在、金融政策は完全に日銀の手に握られてしまっている。

 

今まで日銀は何をしてきたのか、そして現在日銀は何を考えているのか、日銀がどう動けばデフレは解消するのかについて知るために、一番重要な時期、すなわち1962年~1994年における日銀出身の日銀総裁、佐々木直、前川春雄、三重野康の3氏について少し知っておく必要がある。

 佐々木直は、1962年4月から1964年12月まで副総裁を務め、1969年12月から総裁に就任している。佐々木に目をつけ、後継者として選んだのは一万田尚登と戦後初の日銀総裁である新木栄吉の2人である。

 マッカーサー司令部は、当時の日銀の幹部であった新木と一万田を戦時経済体制の指導者として任命し、何かと援助を与えた。米国の占領体制が続いている間はGHQの力は強く、日銀総裁や蔵相などの重要ポストの人事には露骨に干渉した。そのため新木栄吉は1945年8月に日銀副総裁、2ヵ月後には総裁になる。しかし次の年の6月に公職追放となり、1951年まで蟄居を余儀なくされている。

 この新木に代わって日銀総裁に就任したのは一万田尚登である。彼は優れた仕事をしてのちに「法王」と呼ばれるようになるのだが、新木も一万田もともに生え抜きの日銀マンだ。公職追放令が解けた新木は駐米大使に任命されている。これはきわめて異例な人事であり、GHQの力が働いたのは明らかである。セントラルバンカーを駐米大使にし、日銀総裁の一万田と連携をとらせて、ワシントンとのコミュニケーションの円滑化を図るという米国の高等戦略だ。

 一方、一万田は、誰に資金を与えて誰に与えないかを決める彼の絶対的な指令は、戦後の日本経済を容赦なく動かし、日本経済を復活の軌道に乗せるという重要な仕事を果たした。このように戦後経済の主導権は、大蔵省よりも日銀が握っていたことになる。

 しかも、1954年になると駐米大使の新木栄吉は、日本に戻って再び日銀総裁になり、一万田尚登はなんと蔵相に任命されている。日銀の出身者が蔵相に就任したのは一万田をのぞいて他にはいない。

 一万田蔵相は、このチャンスを利用して日銀法を改正し、日銀を大蔵省から独立させようとするだが、この企ては、失敗に終っている。大蔵省はここから反撃に転じ、日銀は政治レベルで優位性を一時失うことになった。

 そして、逆に日銀の独走に歯止めをかけるため、大蔵省と交互に日銀総裁を出すことを提案し日銀に承知させたのである。このあたりから、大蔵省と日銀の暗闘ははじまっている。

 大蔵省と日銀で交互に総裁を出すというシステムによって、新木や一万田は自らの意思で後継者を選ぶことができるようになった。そして、この二人によって選ばれたのが佐々木直である。どうして選ばれたかというと佐々木が新木や一万田に非常に忠実だったからだ。一万田は、当時まだ若手の日銀マンであった佐々木直を後継者として選んだことを日銀内に伝えた。これによって、佐々木は、将来日銀総裁になるというお墨付きを得た「プリンス」といわれるようになった。日銀においては、どうも早くから次の「プリンス」が決めているようなのである。 新木と一万田は戦時中から佐々木直に目をつけており、戦後総務部企画部長や人事部長の要職に置き、営業局長を長くやらせている。この役職は一万田流のいろいろなノウハウを知るうえで重要なポストだった。佐々木は1969年12月から日銀総裁になるだが、彼のやり方は一万田流の容赦のないやり方であった。規則上は全理事が金融政策について自由に発言ができることになっているが、佐々木総裁にまともに発言できる理事は一人もいなかった。

 一万田は佐々木の次のプリンスも決めていて、それが前川春雄なのである。そういうわけで佐々木総裁が自分の意思で選んだプリンスが三重野康というわけだ。佐々木が人事部長をしていたとき目にとまったのが三重野康であったといわれている。



ところで、日銀の『窓口指導』とは何か。 

佐々木直、前川春雄、三重野康、これら3人のプリンスの関係をもう少し調べてみる必要がある。佐々木が人事部長をしていたときのこと、一人の目立った学生と面接した。それが三重野康だった。彼は野心家で上方志向があり、第一志望は大蔵省で、日銀は第二志望だった。佐々木は本能的にこの男を大蔵省にやってはならないと考えて三重野を説得し、日銀に入社させた。そしてほどなく、自分のはじめてのプリンスにすることを決意し、計画的に重要なポストを歴任させていった。1958年から60年まで、三重野はニューヨーク日銀駐在事務所の勤務を命じられる。そのときのニューヨーク事務所長が前川春雄だった。一万田が蔵相をしていた時代のことである。佐々木、前川、三重野はこうように繋がっており、そのバックには一万田蔵相がいた。

 さて、日銀の政策について研究する際、「窓口指導」というものについて知っておく必要がある。この「窓口指導」こそ、一万田が作り出した銀行の信用統制の方法であり、1991年7月にそれが突如廃止されるまで、この信用統制システムを佐々木、前川、三重野らが引き継いでいくことになる。1950年代のはじめには経済は2桁の成長をしており、融資の申し込みは莫大になっていた。1946年6月から1954年6月までの8年間、一万田は日銀総裁として、さらに1957年7月から1958年6月までは蔵相として金融界に絶大な権力を振るった。

 その銀行信用の統制システムとは、日銀総裁が融資総額の伸び率を決定し、それから営業局長と2人で増加分を各銀行に融資割り当てをして配分する。このときの営業局長は、もちろん佐々木直である。その際、銀行は、大口の借り手の氏名にいたるので細かい融資計画を毎月日銀に提出するよう求められていた。営業局は、信用配分計画(どの銀行にいくら出すかを決める計画書)を作り銀行の融資計画と調整をして銀行に伝える。その融資の配分額を聞くために銀行首脳が日銀に行くと、文字通り日銀のカウンター、つまり窓口で融資割り当て額を告げられたので、誰がいうともなく「窓口指導」というようになったのである。

 これは銀行間の過当競争を防ぐために、一万田が考案した銀行の競争を制限するシステムだった。このように、銀行の命運を握る信用統制の権限を一手に握っていたのは、一万田と佐々木だった。佐々木は、1951年4月から54年9月まで元締めである営業局長を務めていた。しかも、1962年4月から佐々木は副総裁になり、1969年からは総裁に就任、以後5年間総裁として君臨する。つまり、佐々木は実に12年間にわたって、日本経済の操縦桿をにぎっていたことになる。

 しかし、戦後一万田総裁を中心に信用配分を行う日銀の権力の阻止に動いたのは大蔵省である。戦時中大蔵省は軍部と企画院に報告義務を負い、さらに内務省によってその持てる力を大きく制約されていた。ところが戦後軍は消滅し内務省は解体、企画院は経済企画庁という下位官庁になり、そこに権力の大きな空間がぽっかりと空いたのである。大蔵省は、そこにたちまち割り込み、徴税、関税、国際金融、金融機関の監督、財務政策、金融政策を司るという政府機関の中で最大の官庁になっていった。

 当時、日銀はその大蔵省に属する政府機関であり、大蔵省には頭が上がらなかった。占領軍は1949年に日銀法を改正したが、金融政策は依然として大蔵省の手の内にあった。しかし、一万田総裁は日銀ために巧妙な策をめぐらして日銀に何とか金利のコントロールと市場資金量の調節機能を取り込むために活躍する。一万田総裁は大蔵省に金利の裁量権を委ねることを持ちかけると大蔵省はそれに飛びついてきたのである。しかし、大蔵省が金利コントロールの政策について教えを乞うと、一万田とその部下は専門用語を多用して素人にわかる代物ではないことを印象づけることに成功した。

 そして、一万田総裁は世間に対して次のようにPRを行い、金利と市場資金量の調節機能の権限を握ることに成功する。

『中央銀行にゆだねるべきことは、何といっても公定歩合の問題である。これは日本銀行にまかせ、政治的な介入があってはならないと思う。また、準備預金制度についての、これは市場資金量の調節操作であり、技術的なことが多いので、日本銀行にまかせる方がよいと思われる』。

        (ヴェルナー著、『円の支配者』P114より。草思社刊)



 ところで、1920年代の日本は、自由放任の経済システムを有し、純粋な自由市場資本主義の国だった。企業は必要に応じて中途採用を行い、必要がないと判断したときは容易に解雇した。従業員の方もより良い職場があれば躊躇なく辞め、条件の良い職場に移ったので、転職率は1980年代の日本に比べて3倍以上になっている。

 それに1920年代には本物の資本家がいた。個人や一族が企業の株式の相当部分を保有していた。どの株式でも個人株主が大半を占めた。1990年代初期の個人株主の比率は15%以下であり、対照的である。また、大企業の取締役の大多数は社外重役であり、いずれも株主から送り込まれた人たちであった。これに対して1990年代は、大企業の取締役の90%以上が社内の企業経営陣から選ばれていることはご承知の通りである。1920年代において株主の力が強かったのは、企業が資金の半分以上を株式市場で調達していたからである。この時代の株主は高い配当を要求し、企業は利潤のできるだけ多くを配当として支払わなければならなかった。

 貯蓄率についてはどうだろうか。現在の国内総生産に占める消費の割合は、現在は60%以下だが、1920年代には80%であり、現在の米国とそっくりである。所得の中で貯蓄に回される割合は、現状は20%だ、1920年代は5%に過ぎなかった。

 このように戦前の1920年代の日本と1990年代の日本とはまるで別の国のように変わってしまっている。どうしてこのように変わってしまったのか。

 その理由ははっきりしている。それは戦争があったからだ。戦争によって日本は戦時経済に移行することになり、1920年代の経済体制とは大きく変わらざるを得なかった。それに1920年代が深刻なデフレ経済であったことも当時の経済体制を変えようという方向に力が働いたことは確かであろう。また、1929年の株価大暴落が起こって世界中の経済が混乱し、失業者が街にあふれるという事態が発生し、資本主義体制というものに対する疑問が出てきたのもこの頃である。政府があまり介入できない自由市場資本主義が果たしてうまくやっていけるのかという疑念が起こっていたのである。当時、ソ連は大恐慌の影響をほとんど受けず、失業者も出ていなかった。

 さて、一般的な認識では、日本の戦前の体制はおかしかったが、戦争に負けて日本は新しい民主主義国家に生まれ変わったというとことになっている。

 しかし、よく調べてみると、それは違う。それは戦時経済体制と、戦後に占領軍主導でとられた体制を調べてみるとわかる。そこには、ある意図によって、戦後体制を1920年代のような自由市場資本主義にはあえて戻さず、むしろ戦時中にとられていた体制を民主主義の旗の下に、巧妙に維持する政策がとられていたといえる。

 どうしてそんなことができたかというと、戦時経済体制を作り上げたエリート官僚たちが、戦後も引き続き指導的な地位に留まり、首相にまで就任するなど日本を支配したからである。もちろん、日銀もその中で重要な役割を果たしている。

 1938年4月、国家総動員法案が議会に提出され、多くの反対を押し切って成立した。この法律は国中のあらゆる物資の動員を許すというものであり、具体的な内容は政令で定めるという事実上白紙委任状に等しいものだった。この時期、国を動かしていたのは軍部だが、その手足となって動いていたのはエリート官僚たちだ。国家総動員法によって彼らは何でもできる権限を手に入れた。1940年にこれら日本の官僚は、新金融体制、新財政政策、新労働体制という3つの柱から成る新経済体制を宣言する。

 全体の調整機能は1937年に設立された企画院が握ることになったのだが、この企画院はいわば軍事経済の参謀本部の役割を果たした。この新経済体制の狙いは、簡単にいうと、個人が貯蓄し、企業は利益を再投資する経済機構を作ることにあった。そしてそのためのインセンティブを与えることもその狙いなのである。

 株主の目標は利潤を多く得ることだ。株主が一番関心を持つのが高い配当であるとすると、企業が再投資する資金はなくなり経済成長は遅れることになる。この論理から株主は成長にとって邪魔な存在であるということになった。

 一方、経営者は企業内部で出世すると威信が高まり、企業の資源に対して大きな権限をふるうことができる。株主と労働者の目的は経済成長には結びつかないものの、経営者の目標は経済成長を促進する国家の目的と一致する。

 要するに、株主と労働者の力を奪い、経営者の力を強めてやれば、経済成長を促進できる――1930年代の為政者はそのよう考えたわけである。しかし、労働者の力を収奪しすぎると、その不満が共産主義に結びつく恐れがあり、むしろ労働者に企業内部の事柄に対する発言力を強めるようにし、会社家族主義のイデオロギーを植え付けるべきであるというように考えたのである。

 結局、成長に一番の障害になるのは株主であり、大企業が優勢に立つ経済では、資本家なしの資本主義が一番ベストであるという結論に達した。戦前の為政者たちはこれをひとつずつ実行に移していく。経営者の地位は引き上げら、株主の権限は縮小された。  企業は株主の所有物ではなく、そこで働く者の共同体であるということになり、配当の伸びに制約が加えられるようになった。このようにして、1920年代の経済体制から、現在の日本に近い体制が作り上げられていったのである。

1937年に中国での紛争が激化して戦争が始まり、もっと大きな戦争も眼前に迫っているときのことである。何としても日本経済を急成長させる必要がある、成長を促進するために成長率を可能な限り高め、あらゆる資源を総動員して失業というムダをなくす必要がある――そのための理論構築をしたのは、軍部と大量失業時代に入省した革新官僚であり、彼らが一体となって日本のいわゆる日本株式会社体制がつくられていった。

 そのためにまずやるべきことは、当時強大な権限を有していた株主の力を奪うことだった。1943年10月に会社法が改正され、新しい軍需会社法が成立した。これにより企業経営における株主の影響力は消滅してしまうことになった。株主配当は厳しく抑えられ、利潤の大半は再投資と経営者の報酬、従業員の給与、それに生産性向上に対して与えられる褒賞に分配されることになった。このシステムによって経営者と従業員の報酬が増えたのだが、国家非常時にあまり多額の報酬を受け取るのはまずいため、勤続年数に対応して報酬を受け取るシステムをとり入れたのである。これが年功給の始まりである。その他、企業福祉制度としての健康保険制度、労働者年金保険制度などもこの時期にできている。そして企業を管轄する官庁としての商工省は企画院と合併して軍需省が誕生する。これにより株の大半を政府が持つ国策会社が、1937年の27社から1941年には154社に増加することになった。

 その結果、軍需産業が繁栄し、個人が消費する商品やサービスは著しく減少した。そこでこの段階で貯蓄が奨励され、全国貯蓄奨励運動が開始された。このようにして消費が巧妙に抑えられ、家計部門の富は企業部門へと移されていった。この1937年から1945年までの構造改革によってほとんどの企業は、利益ではなく、成長を目指す半官の事業に変貌してしまうことになる。

 それに政治の面で軍部と官僚は政治家が口出しをすることを排除するため、1940年に政党は廃止され、ほとんどの政治家はひとつの政党に統合されてしまった。この政党が大政翼賛会である。この年に戦時動員に対応するため、隣組制度ができているのだが、戦後もこれらの制度はかたちを変えて存続することになる。

 言うまでもなく日本の省庁の実質的運営は政治家ではなく官僚がやっている。そういう基礎は戦前においてすでに出来上がっていた。この1937年から1945年にいたる国家の構造改革は、ほとんどそのままのかたちで戦後の日本経済を支えることになった。奇跡といわれた戦後日本の復興は戦前にその基礎が築かれていたことになる。

 しかし、この経済システムの真の立案者は誰なのか。このシステムは驚くほど一貫しており、論理的に整合性があり、無駄が一切ない。しかも、信じられないほど短期間で作り上げられている――どうしてそんなことができたのか。

 この改革プランの立案者たちは、当時すでに日本の傘下にあった満州でこの経済システムの実験をやっていたのである。その上で日本にその制度を導入し、さらに戦後いくつかの変更を加えて戦後経済体制として定着させた。

 このように、戦後の経済システムや社会システム、政治システムが戦前に完成していたとすれば、米国の占領政策とは一体何だったのか。

米国の占領政策とは、日本を民主化し、非軍事化し、規制を緩和し、自由化するという点にあったはずだ。確かに、占領軍司令部はこの目標を達成するため、国家総動員法などの戦時下の法律や規則を廃止し、軍部および戦時団体は消滅。軍需省、内務省は1945年に廃止されている。

 また、GHQは3つの大改革――財閥解体、農地改革、労働の民主化を掲げて、戦時経済体制はほぼ完全に解体したように見えた。しかし、1952年4月に米国による日本の占領が終了したとき、当初占領軍に課せられていた目標とは正反対の体制が日本に出来上がっていたのである。

 どうしてそのようなことになったのか。それを遂行する過程で米国側の事情が大きく変化していた。それはソ連との冷戦の激化によって、米国は日本を共産主義に対する確かな橋頭堡とするため、日本経済を急速に成長させる必要に迫られていた。そこで米国の対日政策は急転換したのである。

 その結果、1930年代の体制で行くのが一番良いという結論に達したのではないか。これに合わせて日本の占領政策は、ドイツに対するよりもはるかに緩やかな占領政策がとられることになった。占領軍はドイツでは直接支配をしたが、日本では間接支配――つまり、官僚を通しての支配を行ったのである。それらの官僚は、戦時経済体制を構築した官僚たちと同じであり、戦時中は彼らの権限を法的に保証していた国家総動員法などの法律がなくなったとはいえ、占領軍のバックアップを受けて、むしろ彼らの権限は強化されたということがいえる。それにかつて彼らをけん制していた軍部と内務省がなくなっていることもそれを後押ししたといえよう。

 要するに自由民主党という政党は、官僚支配を前提とする翼賛会そのものであったのである。

                         

かつての橋本内閣における省庁再編は、名称こそ変わったものの実態は何も変っていないが戦後の占領軍司令部による戦時体制の解体もまさにそれだった。

 例えば、軍需省は、通商産業省と経済企画庁に分割されただけであり、その実態は戦時中と何も変わっていない。また、戦時中全部門の業種団体を傘下に置いていた中央統制会は経団連になるなど、戦時中の団体もほとんど名前を変えて復活している。日本生産性本部、全国銀行協会などみなそうだ。省庁や団体だけではない。戦時法令も名前を変えてほとんど残っている。とくに金融関係の法令は無傷なのである。1937年の臨時資金調整法、1940年の銀行等資金運用令、1942年の日本銀行法もそのままだ。

 1949年に制定された外国為替・外国貿易管理法は、1932年の資本逃避防止法と内容はほとんど同じ。しかも、この外国為替・外国貿易管理法と日本銀行法は、1998年まで改正されることなく効力を発揮していた。

 省庁、法律だけでなく、それに加えて、戦時経済を企画・運営してきた指導者や官僚は、ほとんど同じ地位を維持して生き残っている。とくに戦時経済の立案者である指導者や官僚はほとんど追放になることはなく、たとえなってもすぐ解除されて元の地位に戻っており、中には首相にまで登りつめた者もいる。もちろん、占領軍司令部の配慮によるものだ。それは両者の利害が一致したからだ。

 実は戦後の重要な経済および政治指導者の多くは、戦時中のエリート官僚であり、“満州閥”といわれる人たちだったのである。その代表的な一人が岸信介である。今の若い人に満州といってもピンとこないと思うが、満州は当時日本が統治しており、そこには陸軍の主力が駐在していた。

 岸信介は満州を支配していたエリートの一人であり、軍需省のトップ官僚だった。戦時経済システムの重要な立案者の一人であるとともに戦後日本経済の立案者の中心的存在なのである。岸は戦争中商工大臣を務めたが、戦後は首相になり、そのあとでやはり首相になる弟の佐藤栄作とともに1972年まで、あわせて10年も首相の座を独占した。この岸、佐藤によって日本政治の保守本流が築かれ、それが田中角栄に受け継がれていくことになる。

 戦時中岸信介と同じ経済相を務めていたドイツのアルベルト・シュペーアがベルリンのシュパンダウ刑務所に投獄されていたその時期に岸は首相になっていたのだから、米国占領軍がドイツに厳しく日本に甘かったことがわかる。それは、共産主義の進出を食い止めるために米国としては、日本の経済復興を急ぐ必要があったからだ。

 戦時経済体制の立案者のエリート官僚の中に、もう一人誰でも知っている有名な人物がいる。中曽根康弘だ。彼は内務省出身の官僚であり、若くしてこのプロジェクトに参加している。

 つまり、戦前に構築された戦時経済システムは、戦後に米国の意向を受けて戦後経済体制として復活し、諸外国の自由市場システムを徹底的に打ち負かし、奇跡の経済成長を成し遂げることに結びついていく。そして、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれ、米国に次ぐ経済大国の地位を占めるまでになったのである。

 そしてこの体制を自民党という官僚翼賛政党で、1993年までの40年にわたって守り切ってきた。表面上はいくつかの野党も存在し、批判勢力に発散の場所を与えているので、民主主義のように見えるが、その実態はかなり違うものだ。

 しかし、この経済発展プランも半世紀以上経過してかなりの金属疲労を起こしている。優秀だった官僚も年々、質が低下してきている。「構造改革」とは、この体制を壊すことを本来、意味しているはずだが、日銀という巨大な中央銀行の変革も必要である。戦時の経済官僚が戦後においてもっとも力を入れて取り組んだのは、1920年代のように市場から資金を集める直接金融を復活させないで、銀行融資による間接金融を常態化させることだった。

 その理由は株主よりも企業の経営者の力を強くしたかったからだ。直接金融では株主を強くしてしまうことになり、これでは急速な経済成長は望めないからである。

 銀行融資であれば、その融資の使い方は銀行が監視し、その銀行を中央銀行である日銀が監視する体制がとれる。しかし、その銀行にしても企業であるので、銀行の所有者(オーナー)と銀行の経営者は厳しく分離されたのだ。株についても他の銀行と相互に持ち合う方式を勧め、株主が強くならないよう慎重な手が打たれた。日本企業に多い株の持ち合いはこうした理由により多くなっている。

 そして銀行経営者には、利潤よりも成長に関心を持たせるようモチベートして、銀行を貸し出し競争に走らせた。これが、バブル期の信じられない貸し出しに結びつき、大量の不良債権をかかえる結果になった。

 経済官僚が、銀行融資を選んだもうひとつの理由は、資金調達が迅速に行えることであった。銀行融資は市場調達よりも迅速さでは勝っている。

 戦時中、国策会社が多数作られたが、それらの国策会社は、生産目標を達成させるための資金を大蔵省によって割り当てられた特定の銀行から受け取るようになっていた。これがメインバンクの始まりであり、戦後もこの制度は踏襲された。



 この戦時経済体制は戦後の経済復興に驚くべき力を発揮したことは間違いない。

そのような日本を米国に言われて共に変えようとした政策提案が「前川レポート」と呼ばれている。

 このレポートは、日本の経済構造の改革を訴えている。製造業からサービス業へ、輸出主導型から内需主導型に、大幅な規制緩和と自由化へと構造を変えるべきであると主張している。要するに、戦時経済システムを構造改革して、米国流の自由市場経済にするべきであると主張しているのだ。しかし、この前川レポートは真剣に受けとめられなかった。当時日本経済は好調であり、政治家やエコノミストの多くは日本を米国社会にする構造改革をする必要を全く感じていなかったからだ。それに戦時経済システムの既得権者がそんな改革に賛成するはずもなかった。

 現在の日本経済の真の性格が、戦時経済システムであることは一般にはあまり知られておらず、ましてそれを公表した人は、少なくとも1997年までは一人としていなかった。しかし、それを最初に口にした2人の大蔵官僚がいる。当時大蔵省を離れて学者をしていた榊原英資氏と野口悠紀雄氏である。彼らは「中央公論」の1997年8月号において『大蔵省・日銀王朝の分析』というレポートの中ではっきりとそのことにふれている。

 彼らは、日本経済の特質を「戦時総力戦経済体制」といい切り次のように述べて、根本的な構造改革が必要であることを訴えている。

 

『われわれの観点に立てば、いままさに戦時総力体制が終焉しつつあるのであり、真の戦後処理が今後の課題でなければならない』。

 彼らのうち榊原英資氏はのちに大蔵省に復帰し、1997年に財務官にまでのぼりつめた。野口氏は以来一貫して学者の世界にとどまっており文筆活動に力を入れている。

 よく読めば矛盾のある主張をしている前川レポートも基本的には同じことをいっている。そこで、日銀のプリンスたちは、ある目標を立てて戦時経済システムを壊す計画を実行に移した。 前川レポートを彼らは「10年計画」と呼んでいただが、ヴェルナー氏によるとその目標はちょうど12年後にほぼ達成されたと分析している。

 1986年からスタートして12年後というだから、1998年にすべての目標は、達成されたということになる。そういえば、1998年には日本銀行法が改正されている。1986年から1998年までというと、バブルの5年間と不況の7年間ということになるが、この12年間に日銀は一体何をしたのか。

 前川レポートの実現の前提として彼らが掲げた目標とは次の3つである。

      1.日本の消費者にお金を使う楽しさを堪能させること

      2.対外投資の波を送り出したこと/海外への工場移設、産業の空洞化

      3.銀行バブルは必ず破裂し、不況になるとの学習効果



 確かに1998年以降の状況を見れば、あらゆるもののシステムに変化の波が生じている。不況の深刻化によって企業は労働者の解雇を余儀なくされ、失業率が上昇し、伝統的な終身雇用も年功制度も崩壊してしまった。

 かつての日本の商法はドイツをモデルとして作られていただが、政府は法制度を米国のモデルにならって改革しようとしている。会社法の改正、企業の会計基準の改正など相次ぐ改正により、前川レポートで述べられている:米国が要望していた改革が結局のところ実現しつつある。

 日銀は、戦時経済体制を変革するために、意図的にバブルを創り出し、それを急激に潰して日本経済を不況に誘導し、その結果として前川レポートで唱える改革が実現しつつある――リチャード・ヴェルナー氏はこう言っている。

 バブルを意図的に創り出したり、それを潰したりする――そんなことを日銀と言えども、できるのかという疑問を持つ人も多いだろうが、日銀が紙幣を印刷すれば可能なのである。日銀は1986年以降の1980年代に相当大量の信用創造、つまり紙幣を印刷しているが、1990年に入るとその逆の急激な信用破壊をやり、名目GDPも急降下させている。名目GDPは、日銀の信用創造量と完全にリンクしている。

                 

 かつての日銀の法王、一万田尚登はその体験から後輩たちに次のようにいっていたといわれている。



       『日銀は鎮守の森のように静かで目立たないほうがいい』

 これは逆にいうと日銀の権力がいかに大きいかということを示している。「力のある者は決してそれを誇示してはならない」というのが一万田尚登の教訓だった。

 日銀とかつての大蔵省といえば、どうみても大蔵省の方が、権力があるように見える。法的にいえば、日本経済は明らかに大蔵省がコントロールしていた。

 国税庁と税務署を通じて税を、主計局を通じて国家予算を、理財局を通じて債券発行を、国家金融局を通じて外国為替への介入と国際的な資本の流れを、税関を通じて輸出入を、証券局と証券取引委員会を通じて証券取引を、銀行局を通じて銀行部門を支配していた。このように書いてみると大蔵省が、いかに凄い権力を持っていたかということがわかるだろう。

 大蔵省に比べると日銀などは完全な黒子に見える。日銀は金融政策を実施できるが、大蔵省は法律によって日銀を監督する権限を与えられていた。しかし、それは日銀が独立性を勝ち取った1998年までの話だ。

 それに日銀総裁をはじめとする日銀関係者は、かの一万田教訓を守っていているせいか、あまり人前には出てこない。

 日銀のプリンスたちとしては、この強大な権力を持った大蔵省を何とかしたいと心の中では考えていた。日銀はそのため意図的にバブルを創り出し、それを潰して不況を長期化させた疑いが濃厚なのである。そういう状況になって一番困るのは大蔵省だからだ。

 大蔵省にとって不況はその存立基盤を脅かす。不況は法人税や所得税、消費税の減少を招くすし、失業給付や社会保障給付も増大する。それに不況が長引けば政治家が政府に総合景気対策費の支出を要求してくるに決まっている。

 入ってくるものが減少して出ていくものが多くなれば、予算は赤字になる。赤字は国債発行で賄うことになるが、これも大蔵省の責任になってしまう。だから大蔵省は不況を嫌う。日銀はこれを狙って長期不況を創り出したのではないか。

 法的に大蔵省に監督されているはずの日銀が長期不況を創り出すことができるのだろうか。

 結論からいうと、それは可能なのだ。しかし、これを説明するにはいくつかの前提的な知識が必要だ。

ところで、1992年~1994年まで政府は4回にわたって45兆円という総合経済対策費を投入している。1990年度後半には一連の景気対策としてさらに60兆円以上が使われている。しかし、景気は回復しなかった。それは、財政支出が国債発行でまかなわれたからだ。国債を発行すれば民間部門から資金を吸い上げることになる。そういうときこそ日銀は信用創造拡大をやるべきなのである要するに、通貨を印刷してマネーサプライを増やすことだ。そのときに日銀が何をやったか。

 1980年代に日銀は信用創造量を大量に増やしている。これはバブルの時期だから、バブルのときにせっせと通貨の量を増やしてバブルを過熱させる結果となっている。

 しかし、1990年代に入ると日銀は一挙に信用創造量を減少させている。それも急転直下に。そして政府が総合経済対策費を投入しはじめた1992年にはほとんどゼロになり、1995年にはマイナスの領域に入っている。これは、日銀が購買力を経済から引き上げたことを意味している。

 本来であれば、信用創造量を増加させなければならないときに逆のことをやっているだから、せっかくの総合経済対策費、45兆円が効くはずがない。1995年5月から1997年のはじめまで信用創造量は少し増大に転じるが、その年の後半にはまた減少している。要するに、日銀は1990年代を通じて積極的に通貨を印刷しようとしていない。

 大蔵省はなかなか不況から抜け出すことができないため、円安政策をとろうとする。その場合、大蔵省は額を指定してドルを買えと日銀に命令する。日銀はその命令にしたがって素直にドル買いを行う。この場合、大蔵省としては日銀がドルや米国債を買うのに必要となる円を印刷すると考えている。市場から大量のドルを買い円が市場に増えれば当然円の価値が下がるからだ。しかし、日銀は国債その他の債券を国内投資家に売り、その代金で外国為替市場介入を行った。つまり、通貨を印刷しないで円を国内経済から吸い上げたのである。これでは、ドルが減っても円が少なくなるから、円安にはならない。

 「通貨を印刷する」というと、すぐインフレになると素人は考える。しかし、今の日本の経済状態では少しぐらい通貨を印刷しても、インフレなどにはならない。インフレになるぞというのは、日銀がそれをしないための断り文句なのである。明らかに日銀は不況を創り出していると言える。               



 構造改革や景気回復の問題を考えるとき、過去の日本の景気循環がどうであったかについて知っておく必要がある。1970年代のはじめに大規模な投機ブームがあり、それが、1974年以降の不況につながっている。70年代後半には経済成長が加速したのだが、80年代のはじめに失速する。それから80年代後半には空前のバブル経済が発生。このバブルがはじけて、90年代の10年はずっと不況と記録的な失業が続き、2000年以降もこの傾向が続いている。その間日本はインフレとは無縁だった。1976年から96年までの20年間消費者物価の上昇率(インフレ率)は、平均して2.9%、1986年から96年までの10年間でみると、1.2%という低さ。同じ20年間を米国は5.3%、ドイツは3.1%、10年間では米国3.5%、ドイツ2.4%だから、日本のインフレ率は、1986年から96年までの10年平均については、低インフレのお手本といわれるドイツの半分なのだ。

 それほど、インフレコントロールに優れている日銀が、なぜ、デフレを放置したのか。とくに1900年台以降10年以上にわたる不況において、日銀はなぜ信用創造量を大幅にダウンさせたままにしたのか。日本の中央銀行の実力からみてこれは明らかに意図的な“事件”といえよう。

 1970年のはじめに起こった投機ブームによって、起こされた小さなバブルがはじけて不況になるが、1975年に日銀は積極的に信用創造量を増加させて不況を克服し、日本経済を経済成長の波に乗せることに成功している。要するに、紙幣を積極的に印刷して経済を急回復させている。

 このときの日銀総裁は森永貞一郎という大蔵省出身の総裁だったが、事実上、日銀をコントロールしていたのは副総裁の前川春雄であり、信用創造の量を決定する権限を有する営業局長の地位いたのが三重野康なのだ。この75年の経済回復は、前川―三重野コンビによる鮮やかな経済コントロールの手腕といえよう。

 その三重野康は1989年12月に日銀総裁になるが、以来日銀は、信用創造量を大幅にダウンさせ、今日の不況の原因をあえて作っているように見える。ヴェルナー氏によるとその不況によって今まで目の上のタンコブだった旧大蔵省から、日銀は金融政策の権限を事実上奪取し、独立性を勝ち取ることに成功した。

 その権限を手にしたうえで、日銀としてはもっと大きな目標があった。それは三重野康が総裁時代に発言した次のことばによくあらわれている。

『(経済の構造調整を完成させるには)金融政策を運営するに当たっても、中長期的な課題を十分に念頭に置いておくことが重要である。この点、もう少し具体的に申し上げれば、私どもがこの調整過程のなかで、政策運営の最大のよりどころとしてきた判断基準は、単に目先の景気をよくするという短期的な物 差しではなく、やや長い物差しでみて、日本経済をインフレなき、バブルなき、長続きする成長過程に、いかにしてつないでいくかということである』。



 要するに、三重野元総裁は、日本経済の体制の変革を成し遂げる必要があると考えていたのだ。しかし、米国に言われた構造改革の重要性は不況にならないと認識されないこともよく知っていた。そこで、金融政策によって危機を深刻化させ、それによって日本を構造改革に向かわせることを考えたのである。

日本銀行について考える(1)

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2月 292012

先日、日銀が「インフレ目標1%」を掲げたが、これは先月発表されたFRBの「インフレ目標2%」に追随したもので、主体性のなさが表れている。ただ、インフレ懸念のある米国と、重症のデフレに陥っている日本では事情が異なるので、同様の目標を設定しても効果があるかどうかは疑問だ。

毎日新聞は、2月14日付けでこう報じている。(http://mainichi.jp/select/biz/news/20120215k0000m020068000c.html)

毎日新聞 2012年2月14日 21時52分(最終更新 2月15日 1時16分)



日銀:インフレ目標1% デフレ脱却へ強い決意

 

 日銀は14日の金融政策決定会合で、金融政策で目指す物価水準となる「中長期的な物価安定のめど(Price Stability Goal)」を新設、当面は消費者物価上昇率1%を目指す方針を全会一致で決めた。従来は消極的だった「インフレ目標」を事実上採用、資産買い入れ基金を10兆円拡大し65兆円程度とする追加緩和も決め、物価下落の継続が経済を圧迫するデフレからの脱却に強い決意を示した。白川方明総裁は会合後の記者会見で「どうすれば、中央銀行の責任を果たせるかを考えた」と説明した。

 日銀は従来、デフレ脱却を展望する物価水準について、各政策委員が考える望ましい物価上昇率を集計した「物価安定の理解」を公表。「2%以下のプラス領域で、中心は1%程度」と説明してきたが、市場では「数値は目標か、単なる目安か。分かりにくい」と批判があり、政府・与党内では「インフレ目標」の採用を求める声も根強かったが、日銀は消極的だった。

 インフレ目標は元来、物価高騰が国民生活を苦しめる状況で、中央銀行が金融引き締めなどで物価を抑えるための手段として使われてきた。実質ゼロ金利状況もあり、日銀は「インフレ目標を採用しても物価上昇効果は期待できない」(幹部)と主張。白川総裁は講演で「物価上昇率を過度に重視した金融政策は逆に経済の安定を損なう」としてきた。

 しかし、米連邦準備制度理事会(FRB)が1月25日、長期的な物価上昇率の目標を2%とする「インフレ目標」導入を決定。実質ゼロ金利を「少なくとも14年終盤」まで続ける方針を示すと、状況は一変した。



 政府・与党内では「日銀がFRBより金融緩和に慎重とのイメージが円高を助長している」との批判が噴出。民主党の前原誠司政調会長は政府と日銀が政策協定を結び、デフレ脱却の目標を共有する可能性に言及した。今月13日には、11年10~12月期に2期ぶりのマイナス成長に転落したことが判明。次の一手を迫られた日銀はインフレ目標の封印を解いた。

 「物価安定のめど」は金融政策が目指す物価上昇率を「2%以下のプラス。当面は1%」と明示。「それ(1%上昇)が見通せるまで実質ゼロ金利政策と資産買い入れなど強力な金融緩和を推進する」と宣言した。政策委員の物価上昇率予想は12年度0.1%、13年度0.5%で、市場ではゼロ金利を含む緩和策の長期化観測が広がる。



 これがより期間の長い金利の低下につながれば、企業や個人は資金が借りやすくなり、投資や消費を活発化させる可能性がある。その結果、モノがもっと売れ、賃金や物価も上昇し、デフレから脱却するのが期待される道筋だ。ただ、雇用不安もくすぶる中、インフレ目標の効果は見通せない。【谷川貴史】



 これまで何回もレポートで指摘させていただいたように日本は1996年から名目GDPが全く増えていない、その結果、同じように名目賃金が下がり続けているただ一つの先進国である。そのことに一番寄与しているのが、一般人には、通貨を発行している以外何をやっているのかわからない銀行の中の銀行、日本銀行である。今回は、そのことをよく理解できる本をいくつか紹介したい。マスコミではこのような論説は封印されているので、戸惑う方がいるかもしれないが、真実は案外単純なものである。まず、一冊目は「日銀~円の王権」である。



『日銀―円の王権』吉田祐一著(学習研究社)

 「円の王権」という言葉にこの本の主張が込められている。円という通貨を発行するのは日銀が持っている権限であることだけがよく知られている。吉田氏は、円すなわち、マネーを発行する権限を持っている存在、つまり、金融を支配している存在こそが資本主義社会における「真の権力者」だと言っている。

 さらに、同時に、日銀は王権の所有者でもあり、日銀総裁は日本国王であるとまで言い切っている。ここで国王というのは、皇帝(王の中の王)に認められた属国の指導者のことをいうとまではっきり言い切っている。

 彼は、この本の中で二つの仮説を立てている。それは、「近代、現代の経済は中央銀行によってコントロールされており、中央銀行の支配者が本当の権力者である」というものであり、もう一つは、「現在の日本は、米国の属国であり、覇権国、米国からの指示で動いている」というものである。

 本書は、この二つの仮説、(モデル)を基本に置きながら、過去の歴史書を検証し、自分の仮説の正しさを検証しようというものである。



本書巻末の参照文献一覧をみると、著者が、本書を書くにあたり、本人が書き残すか、他者に口述筆記させたものをまとめた財界人回想録の類を徹底的に収集している事がわかる。

 また、日本ではこれまで、政治の側面だけに注目し、経済の話題は補足的に論じられることが多かった。だが、現在の国際情勢を理解するのも、経済の問題を前提に考えた方がわかりやすいことは言うまでもない。2007年夏、リーマンショックから始まった世界金融危機は、ウォール街の銀行家の強欲(グリード)が原因であり、それを可能にしたのは、ブッシュ政権の住宅政策や、金融工学の存在である。

 現在同様、過去も多かれ少なかれ、そのように世の中は動いていたと考えるべきである。ところが、現在の日本では、明治時代の最初から現在に至るまでの日本の金融史を、そのような国際情勢の変動という視点を含めて描いた本はいままでなかった。

 日本の明治以降、戦争終結までの歴史といえば、せいぜい司馬遼太郎氏の一連の歴史小説に始まり、半藤一利氏や秦郁彦氏らの歴史家が描く終戦秘話で終わるのが慣例だった。  

どれもこれも、明治維新前後のヒーローにはじまり、なぜか大正時代をすっ飛ばして、昭和時代の戦争指導者とそれに反対した政治家、そして、国の命令で死地に赴く日本軍兵士、そして原爆、終戦という同じパターンで埋め尽くされている。

これらの歴史作家や歴史家たちには、経済権力の姿をまったく見ようとしていない。半分は故意にやっているに違いない。

 『日銀・円の王権』を一読してわかることは、司馬遼太郎氏や半藤一利氏のような歴史作家たちがことさらにもてはやされる背景には、歴史において本当に重要な金融の支配の歴史を日本の一般国民に知られたくないという大きな目的があったということかもしれない。

 

それではなぜ、そのような情報コントロールをしなければならないのか。

これは、本書を一読すればすぐにわかる疑問なのだが、簡単にまとめると、「戦前と戦後の日本の経済人脈はひとつながりの系譜でつながっている」からである。

 現在の日銀で王権を保持している人物と、明治時代に日銀が誕生したときに王権を与えられた人物が一つの系譜でつながっている。こういう事を知られてしまっては、日銀にとって非常に不都合なのである。過去の歴史が「過去のこと」としてすまされなく危険性がある。

 

<日銀を作ったのはフランス・ロスチャイルド家>

 著者は、「円の王権」を与えるのは、日本国内の政治家ではなく、その時々の世界覇権国にいる帝国の権力者たちであると解説している。日銀を作ったのは、松方正義という人物である。この人物に、日本初の中央銀行である「日本銀行」を設立するように指示したのは、フランスのアルフォンス・ド・ロスチャイルドだと分析している。

 この松方とロスチャイルドの交友については、ロスチャイルド家の番頭(支配人)であった、レオン・セーという人物を通して行われている。吉田氏は、レオン・セーとロスチャイルド、セーと松方の人脈を記した文献を引用し、議論の余地がないほどに「日銀を作ったのはロスチャイルドだ」という立証をしている(なお、松方は日銀総裁には就任していない)。また、セーを論じるにあたって、祖父にあたるジャン=バティスト・セーを、フランスの思想家ミシェル・フーコー『言葉と物』から説き明かしている。

 このように、日銀を設立したのは大蔵卿であった松方正義で、彼はロスチャイルドのカウンターパート(現地における受け皿)であるが、重要なのは、覇権国とのこのカウンターパートの関係を歴代の日銀総裁が継続して築いているということである。そして、大蔵大臣と日銀総裁を前後して務める例を多数示している。

 吉田氏はこの帝国-属国の関係をきわめて単純に示している。一例を挙げると次のようになる。



 高橋是清(第7代総裁)-ジェイコブ・シフ(ロスチャイルド-クーン・ローブ)

 井上準之助(第9,11代)-トーマス・ラモント(モルガン)

 池田成彬(第14代)- オーウェン・ヤング(モルガン→ロックフェラー)

 渋沢敬三(第16代)- ロックフェラー3世 

  新木栄吉(第17代)- ロックフェラー3世

  一万田尚登(第18代)-ロックフェラー3世

 前川春雄(第24代)-デイヴィッド・ロックフェラー



 むろん、これらの「人脈」がどのように成り立っていったのか、という経緯についても、当事者の証言である「回顧録」を使って複雑な人間関係の糸を解きほぐしている。



<覇権国の権力移動が属国に波及する>

 帝国側で属国の国王に指令を与えている人物が変遷していくことに注目して欲しい。この権力移行の影響を受けて属国の指導者、すなわち国王も変わるのだ。日本は明治維新以降、英米という覇権国の属国であり、ときの覇権国の衰亡や権力闘争の結果として、「世界皇帝」が移り変わり、国王も変わっていくということである。

 著者は、イギリスやアメリカ本国の、金融覇権の移り変わりに目を向けた上で、その変動が時間差で日本にも津波のように押し寄せてくるという事実をていねいに説明している。



 一例を挙げよう。吉田氏は、池田成彬(いけだしげあき)という日本の財界人を取り上げている。池田は、いわゆる洋行帰りである。慶応大学を出て、ハーヴァード大学に留学した後は、三井銀行に入行している。

 三井といえば、もともとはロスチャイルド系の銀行であった。1920年代にもなると、アメリカがイギリスに変わって、金融の主役に躍り出てきた。イギリスとアメリカを股に掛けて活躍していた、高橋是清とつながっていた、クーン・ローブ商会に変わって、1907年のニューヨークの金融恐慌を契機に、モルガン商会が台頭してきていた。モルガン商会では、ファミリーの信任を受けて経営者になる大番頭として、トーマス・ラモントが実力を付けてきており、これが井上準之助と友好関係を築き上げるのである。

 池田が財界で名をとどろかせたのは、帝国のモルガン財閥が大打撃を受けた、1929年のウォール街株価大暴落の直後に行った、「ドル買い」であった。ドル買いのきっかけになったのは、井上準之助が大蔵大臣の時に進めた「金解禁」政策であった。

 重要なのは池田が、モルガンに変わってアメリカ経済を支配した、国内民族資本であったロックフェラー財閥の存在を察知する情報収集力があったことである。これが彼のドル買いの判断にも影響を与えたというのである。

 池田を指導したのが、オーウェン・ヤングという財界人だ。彼は、ニューヨークに当時建設されたロックフェラーセンターの中心部をなす、RCAビル(現在のGEビル)を保有する、大企業GE(ゼネラル・エレクトリック)の会長であった。

 一般的には、GEはモルガン系の企業だということになっており、日本の欧米企業研究でもこれが主流である。ところが、吉田氏は、ヤングはモルガンとロックフェラーの両方に巧みにつながっていた人物であったと分析している。その証拠としては、GEビルをロックフェラーセンターの中枢に置いた事に加え、ヤング自身がロックフェラー財団の理事を務めていたことがあげられるという。



 要するに、権力の移行期に活躍していたヤングは、モルガン家の没落を見て取るや、すぐさまロックフェラー家に「鞍替え」できるように、事前から「両天秤」を仕掛けておいたわけだ。これは、吉田氏が、ヤング、フランクリン・ルーズヴェルト大統領とロックフェラーの三者の関係を検討して思いついたことらしい。

 例えば、吉田氏は池田の口述による『財界回顧』という本の一部分を引用し、「池田成彬の親分はオーウェン・ヤングである」と立証する。

 ( 『日銀・円の王権』185~86ページから引用開始) 

 ヤング・プランで有名なあのオーエン・ヤングという人、――あの人は私達がアメリカから日本に帰ってきてから、次期大統領の選挙に出るだろうという噂がありましたが、本人は「自分は政治家にならん」と断ったことが新聞に出ておりましたが、私があの人に会ったのはパリーでヤング・プランの会議の時に一、二遍でした。しかしそのとき深くは話さなかった。ところがニューヨークに行ってG・E(ジェネラル・エレクトリック)社長のスゥオープに逢うと、(彼が社長でヤングは会長)スゥオープは私に、「あなたはヤングとゆっくり話をして貰いたい。自分の別荘へ(日曜だったと思うが)きてくれ。ほかの人は呼ばないから、二人だけでゆっくり話してくれ」という触れ込みです。(中略)



  しかし私はよくいうのですよ。私はベルリン、ロンドン、パリー、ニューヨーク、--主なるところを渡り歩いたが、政治家には会わないという建前だから誰にも会わない。しかし銀行家にはことごとく会っておる。なかには二遍も三遍も会っておる者もある。

  また、銀行家以外の企業家や実業家の人たちにも会っておる。この数ある中で、偉いと思ったのはヤングですね。どこが偉いといわれると困るが・・・・・

 この人は、身体も大きく、いうことがはっきりしており、何となく信頼できるような心持ちがしました。不思議なひとです。人を引きつけるようなところがあった。芝浦の関係で日本にも来たことがあります。(『財界回顧』86ページ)

(引用終わり)



 上の『財界回顧』の引用文は、何も背後関係を知らずに読むと、読み飛ばしてしまいそうなところであるが、吉田氏は、池田特有のぼやかした表現の奥に込められた真意を解読している。

 (『日銀・円の王権』(186ページ)から引用開始)

 池田はヤングを通して、モルガン家ではなくロックフェラー家の意向を知ることになったのである。当時の日本の財界は、井上準之助をはじめ、モルガン家からの情報に依存していた。そのなかで、池田のみロックフェラー財閥のコネクションを持ち、先行した情報を持っていたことになる。

 (引用終わり)



 吉田氏は、このように世界帝国における権力の移行と日本における王権の移行をとらえている。重要なのは、権力変動期に鋭くその事実を他に先んじて情報として入手することが出来る人物だけは最終的に生き残るということかもしれない。そうすれば、「先行者利得」の独占が可能になるからだ。

 上記のロスチャイルドからロックフェラーへと言う分析をしているが、この点については、金融においては、ロスチャイルドの力が依然、まだ、大きいのではないかと小生は考えている。また、国際金融資本の一族は密接に結びついているので、そのような枠組みにここまでこだわる必要はないと小生は考える。

 

<戦争指導者の歴史はさほど重要ではない>

 さらに財界・経済から見た日本の近現代史という視点を取っていくと、日本の歴史ものの主流である政治家や軍人を主役にした歴史物語がいかに真実から遠ざかり、隠蔽しているのかがわかる。吉田氏は、『日銀・円の王権』の中で、経済史研究者の松浦正孝の『財界の政治経済史』や、ジョン・ロバーツの『三井』などの著作を参照しながら、それを立証している。

 財界の恐ろしいところは、戦争を継続しつつも、ビジネスをちゃんと行っていくというところである。

 これは、第二次世界大戦中も、各国の中央銀行によって結成される、国際決済銀行(BIS)が、資金決済を継続して行ってきたことからもわかるが、吉田氏は、戦時中の日本国内を見ても、財界が戦争とビジネスの両天秤で動いていたと説明している。単純に軍部=悪者とする歴史家は見習うべきである。以下の説明は秀逸である。



 (『日銀・円の王権』(203ページ)から引用開始) 

 戦後の史観では戦前はとにかく「軍部独裁」であり、それ以外にはなかったように描かれることが多いが、実際は軍部と財閥がしのぎを削っていたのが真実であろう。財閥はみずからの軍需産業が潤うので、その点では軍部と利害をともにしているが、やりすぎると英米諸国により禁輸(embargo)などの制裁を受けることになる。だから財閥は戦争をしながら、一方で英米との講和に動き出すのである。

(引用終わり)

 このように、財界は、戦争をしながら、いずれ対応しなければならない英米との講和の道を模索していた。戦争をすることは絶対悪だと私達は考えがちである。しかし、これらの世界最高支配層の財界人にとっては、手っ取り早い金儲けである。池田成彬は、そのような財界人のネットワークに属する人物の一人である。

 著者は、別の場所で、池田の回顧録を引き、彼が一般大衆を「蟻(あり)」だと表現する部分を紹介している。池田は、この中で、「商売をしていくうちに、大きくなったものが小さくなったものを、歩いているうちに踏みつぶしてしまうことは、自然に生じてくることだ」と語っている。このことを池田は、大きな利益を得た者は慈善事業で社会に還元するのがいいという文脈で語っているのだが、この考えは金儲けと戦争と慈善活動をともに成り立たせたロックフェラーの考え方そのものである。

 池田の例は一例で、戦争期においては、ロックフェラー系の財界人たちが、戦争の相手となるナチス・ドイツを手助けしていたことも事実である。一般大衆の感覚で、財界人がビジネスをやっていないことだけは確かである。貿易も、戦争もビジネスなのである。

 ジョン・ロバーツの『三井』には、終戦期になると、戦争指導者を「監視」する、七人の財界人からなる「内閣顧問」の指名が、東条英機に対して押しつけられたと書かれているという。吉田氏は、この事実をふまえ、日銀総裁の結城豊太郎をはじめとする英米との講和を考えていた財界人たちが、東条英機の首に縄を掛けるべく動いたと述べている。戦時中においては、財界と軍部が国内で権力闘争をしていたというのである。



 こう考えると、従来のように、東条英機をはじめとする政治家や軍人のレベルで、第二次世界大戦を語ることが全く表層しか見ていないことに気がつくことになる。トップレベルの財界人にとって見れば、戦犯であれ、戦死した人々であれば、皆財界人たちの駒に過ぎないのかもしれない。

 戦後に東京裁判に掛けられて死んでいったのは、みな軍関係者である。財界人たちはおおむね生き残っている。戦犯たちを、一部の人たちが英雄だと言って褒め称えるのは自由だが、それでは歴史の本当の姿は絶対に見えてこない。以下に引用するように、吉田氏の言うとおりだ。これが真実であろう。



(『日銀・円の王権』(208ページ)から引用開始)

 戦時中は、財界は軍部と対立しながらも相互依存関係を築いてきた。それなのに軍部のみが厳罰処分になったのはなぜか。それは、天皇を含む、日本の財閥グループの総意であったからである。

(引用終わり)



 このようにして、著者は戦前の日本史の真の姿を金融経済のキーパーソンを追っていくことで、今まで表に出なかった事実を鮮やかに描き出している。

 戦後史についても触れられている。簡単に述べれば、戦後のアメリカの日本支配は、「日銀生え抜きの総裁=プリンス」を通じたものと、松本重治や山本正らの国際交流人脈による文化交流路線の二種類があるという。

 ここで、新たな視点として吉田氏は、経済学者のリチャード・ヴェルナーが暴露した「日銀生え抜きの総裁」、通称「プリンス」からなる系譜をこれに「接ぎ木」している。

 そして、「山本正-ロックフェラーのネットワーク」と、「日銀総裁のネットワーク」は、相互に連関し、交流がある。例えば、プラザ合意の青写真を描いた、前川春雄・日銀総裁が、同時に三極委員会メンバーであったことが挙げられる。



 吉田氏はプラザ合意とは、日銀による急激な信用拡大政策であり、その狙いは日本に意図的なバブルを生み出すことにあったとヴェルナーや、そのほかの人物の著作を引用しながら論証している。実はプラザ合意は、前川が三極委員会で指示された日本に対する「経済構造改革計画」の一環であった。このことは、信頼できる文献に引用された三極委員会の公式文書でも確認できる。

 

<日本とアメリカのバブルを生み出した中央銀行>

 ところで、中央銀行が、信用創造の拡大を通じて、バブルを生み出すというテーマは、オーストリア学派の経済学者の理論である。だから、ハイエクやミーゼス、ロスバード、そして、ウッズなどの経済学者、エコノミストの理論は、ヴェルナー理論と整合性がある。

 誤解されがちであるが、ヴェルナーは、何でもかんでも信用創造すれば景気は回復すると言ったわけではない。ヴェルナーは、日銀が一九九〇年代のバブル崩壊後の経済状態を意図的に放置したことを信用創造の縮小という事実をもって論じたのである。

 吉田氏は、ヴェルナーとオーストリア学派経済学の両方の理論に精通している。そこで、中央銀行が、本来生産的な用途に使用されるべきマネーが、投機性の高い証券にむかったことが問題であるという点で両者の共通点を見いだしている。ヴェルナーは、中央銀行(日銀)が信用量を拡大するべきときに意図的に信用量を縮小したということを批判しているだけである。

 ヴェルナーも、生み出された信用=貸し出しが「生産的な投資」に回らず「投機行為」(=バブル)に回ることは容認していない。吉田氏はオーストリア学派とヴェルナー理論の理解を通じて、その両者の共通点と相違点についても理解できるように筆を進めている。

この両者をつなぐ作業は非常に重要なものである。今後、二〇〇八年の金融恐慌をきっかけに、オーストリア学派経済学の認知が我が国でも高まるだろう。その際に、我が国の識者達が、ヴェルナー理論を再評価する上で、この作業がきわめて重要な意味を持ってくるだろう。



 『日銀・円の王権』には、ヴェルナーの著書『円の支配者』が引用されている。

これが、21世紀に入ってもアメリカの経済状況と似ているのである。ヴェルナーは、一九八五年当時、日銀は「もっと使いなさい」とばかりに、銀行がいらないというのにお金を貸し続けたという事実を書いている。この結果、余ったマネーを民間銀行が野放図に貸しまくり、これが全部不良債権になっていく。この流れは住宅バブルを煽った、住宅ローン専門会社の行為を彷彿とさせる。

 日銀の一般銀行に対する指導を窓口指導という。この当時の有様を見るに付け、グリーンスパン時代のアメリカにおいて、貧乏人にまで住宅ローン資金をろくな審査をしないで貸し付けていたアメリカの銀行の姿が二重写しになってくる。

 吉田氏の理解に従えば、今回の金融危機も、中央銀行の人為的な信用量(マネーの量)の操作によって引き起こされた「人災」ということになる。

 吉田氏はリベラル派の経済学者のポール・クルーグマンが、ノーベル経済学賞を受賞したのも、完全な「出来レース」だと指摘している。

 以上のように、『日銀・円の王権』は、日銀総裁=日本国王という視点をとりながら、日銀総裁を中心に広がる財界人脈をこれ以上なく明快に解き明かした一冊である。

 

以前、紹介した「通貨戦争」いう本と併せて読まれれば、日本を含めた世界の金融史が見えてくるはずだ。時間のある方には一読をすすめたい。次回は、15万部も売れたのに日本の論壇に意図的に無視されている「円の支配者~誰が日本経済を崩壊させたのか~」(リチャード・A・ヴェルナー)を紹介させていただく。

世界で規制が広がるトランス脂肪酸

バターとマーガリン、どちらを選びますか?

 この問いに「マーガリンの方が体に良いからマーガリン」と答える人が意外に多い。これは「バターはコレステロールを上げる飽和脂肪酸が多いので、植物油からできているマーガリンを食べましょう。」という誤った栄養指導とマーガリンのメーカーのイメージ戦略の勝利と言って良いだろう。(実はこの数年来、小生はマーガリンを食べていない。)

マーガリンにはリノール酸が豊富に含まれている。たしかにこのリノール酸はヒトが生命を維持するために必要な栄養素なのだが、最近の研究によると、摂り過ぎると炎症が起きやすくなったり、血液が固まりやすくなることがわかっている。そのため、平均的な食生活をしている日本人はリノール酸の摂取を控えるべきなのだ。

さらに、マーガリンにはトランス脂肪酸と呼ばれる「やっかいもの」が含まれている。そもそも、マーガリンの原料である植物油は常温で液体だが、なぜマーガリンが半固形状かというと、植物油に強制的に水素を添加して固まらせているためで、この際にトランス脂肪酸が生じる。

このトランス脂肪酸は自然界では存在しない物質であり、摂取量が増えると血液中の悪玉コレステロールが増え、動脈硬化症や心疾患などのリスクが増大するのだ。そのため、WHO(世界保健機関)ではトランス脂肪酸について、1日に摂取する総カロリーの1%未満にすることを勧めている。

ここで、再び質問。水に溶ける物質(食品類に含まれるもの)と油に溶ける物質はどちらが危険か?

正解は油に溶ける物質。水に溶ける物質は摂り過ぎても尿中に排泄されるが、油に溶ける物質は体内の脂肪組織などに紛れ込んで蓄積してしまうのだ。したがって、トランス脂肪酸は要注意。

実際、デンマークでは全ての食品について油脂中のトランス脂肪酸の含有量を2%以下に制限しているし、米国とカナダでも加工食品中の含有量の表示を義務づけている。

マリナーズの本拠地のセーフコ・フィールドスタジアム内の売店では、トランス脂肪酸を含む調理用の油やフライオイルを「トランス脂肪酸フリー」の油に切り替えると宣言した。売店で販売するドーナツやクッキー、フライドポテトなどからトランス脂肪酸を追放する目的だ。

 ニューヨーク市では全ての飲食店を対象に、調理油中のトランス脂肪酸の含有量を「1食で0.5グラム未満」にするように義務化した。カリフォルニア州のある町では、全米で初めての「トランス脂肪酸のない町」(First Trance Fat-Free City)を目指し、キャンペーンを行い、トランス脂肪酸を完全に追放しているレストランには緑のハートマークが掲示されている。

こうした動きに対してわが国はと言うと「トランス脂肪酸だけを問題視するのではなく、脂肪全体の摂り過ぎをやめる方が大切だ。」(内閣府食品安全委員会)と言った見解で、規制は当面必要ないという立場をとっている。

メーカー側も、マーガリンに含まれるトランス脂肪酸の含有量をホームページで公表しているメーカーもあれば、全く公表しないというメーカーもあり、対応はまちまちだ。

しかし、ここにきて大手コンビニエンスストアや大手ファーストフードチェーンでは、自主的にトランス脂肪酸の低減に取り組む動きが活発化している。消費者の意識や購買行動が変われば、メーカーや販売業者もその姿勢を改めるだろう。男性に比べて脂肪が多く、ホルモン系への影響が出やすい女性は特に注意すべきである。

マーガリンの他に要注意の食材がもうひとつある。加工食品に使われるショートニングだ。ちなみに、食品100グラム中のトランス脂肪酸の含有量ではマーガリンが平均7グラムなのに対し、ショートニングは平均13.6グラム。(食品安全委員会調べ)あなたもスーパーやコンビニでお菓子やパンを買うときに、商品に記載されている表示をよく見て欲しい。慣れてくると表示を見なくても、マーガリンやショートニングが使われている食品を見分けることができるようになる。

<各国の規制>

米国では、加工食品に総脂肪量、飽和脂肪酸量、コレステロール量、トランス脂肪酸含有を表示しなければならない。さらにニューヨーク市は2006年12月、外食産業における原則使用禁止を決めた。そして2007年7月ついに同条例を施行。これによってフライ、マーガリン、ショートニング、食用油が使用制限を受けている。さらに1年後にはパン生地にも適用される。

デンマークではトランス脂肪酸の含有を2%以下と規制している。

ドイツでは腸の慢性炎症疾患でクローン病という難病があり、マーガリンの摂取との因果関係が証明された。そのためにマーガリンの使用が制限されている。

<外食産業の対応例>

米マクドナルドのトランス脂肪酸の使用を停止

アメリカのマクドナルドは2007年1月、公式サイト上で心臓病や肥満との関連を指摘されているトランス脂肪酸の使用を、アメリカ内における一部店舗で中止したことを明らかにしました。

そして、いよいよニューヨーク市のトランス脂肪酸規制施行2007年6月を迎えましたが、有力消費者団体の公益科学センター(CSPI)が独自調査を行い、いまだ多くのファーストフード店舗が基準を大幅に上回るフライドポテトを販売している中、マクドナルドのポテトは 0.2gで合格だった、と公表しました。

米マクドナルド、過去の訴訟で9億円で和解

米マクドナルド社は2002年9月、心臓病疾患の原因になると指摘されたトランス脂肪酸を減らすため、揚げ物に使う油を2003年2月までに新しいタイプに替えると発表しました。ところが、新タイプの油への切り替えが遅れ、この事実を2003年2月に公表しましたが、、健康問題活動家らが消費者への告知が不十分だったとして損害賠償などを求め、カリフォルニア州の地裁に提訴したのです。この訴訟に対して、米マクドナルド社は約850万ドル(約9億円)を支払って和解しました。

このような訴訟を背景に、マクドナルドのトランス脂肪酸フリー調理油への切り替え検討は急ピッチで進められたと考えられる。

米マクドナルド、過去の訴訟で9億円で和解

マクドナルドはすでに過去7年間に50もの混合比率で18種類もの油をテストし、トランス脂肪酸フリー油についてリサーチしていると報じられました。

こんな中でニューヨーク市のトランス脂肪酸禁止条例が制定されたわけです。マクドナルドはこの規制をクリアしましたが、全米の1万3700店舗すべてにおいて代替油を使用するに至っていないようです。

日本マクドナルドのトランス脂肪酸への対応

このような状況で、新しい調理油への切り替えはアメリカ国内だけにとどまり、日本での調理油切り替えは予定すらされていません。日本政府がトランス脂肪酸に対して表示義務も削減方向も打ち出していないので、マクドナルドの対応はルール違反ではありませんが、不誠実。

日本の再生

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2月 212012

植草氏の「日本の独立」(飛鳥新社)という本を以前、紹介したことがあった。以下。

「日本の政治経済の大きな動きを間違いなく読み取る一つの法則・秘訣が存在することをご存じだろうか。 

 戦後の政治経済の動きは、善悪を超えて、この視点で眺めることによってすべてのマクロの政治・経済の動きが整合性をもって読むことができるのである。

 今までのレポートでも時々紹介してきたが、その秘訣は、すべての幻想、思い込みを捨てて、日本が戦争に負けた国であり、現在も米国の実質上、植民地(属国)であると冷徹に眺めることである。おそらく、今までは、この視点を貫徹することによって、日本の政治経済の大きな動きは間違いなく読み取ることができたのである。

  今回、紹介する本、植草一秀著「日本の独立」(飛鳥新社)は、そのことを逆証明するような本である。植草氏と言えば、「シャルウイ・ダンス」の周防正行監督が「それでもボクはやっていない」という映画に取り上げた痴漢冤罪事件で有名になってしまったエコノミストである。

 彼は、米国の後ろ盾を得て日本の権力の頂点にいた小泉・竹中氏の経済政策を強烈に批判していたので、当然のように不可思議な事件に巻き込まれて一時、完全に表舞台から追放された人間である。 そのために彼は、米(アメリカ)、官(官僚組織)、業(財界)政(議員を中心にした政界)、電(マスメディア)に対して「悪徳ペンタゴン」という過激な言葉を使うので、もしかするとアレルギーを起こす方がいるかもしれない。

 しかし、このことを大阪大学の教授松田 武氏はもっと上品に、学術的に「『戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー――半永久的依存の起源』(岩波書店, 2008年)で解説しているので、松田教授の本を読めば、植草氏の言っていることが大旨理解できるはずである。

  一言で言ってしまえば、日本という国では、米国の都合と日本のエリートと言われる人々のある意味、私的利益のために、「戦後」がかくも長く続いているのである。」

 その植草氏が「日本の再生」という本を出されたので少し、遅くなったが紹介させていただく。

  

「日本の再生」 植草一秀

第一章 東日本大震災・東電福島第一原発事故で日本は沈没してしまうのか

「未曽有の大震災」を強調する隠れた意図

原発震災がもたらした半永久的な影響

インフラ資産・サプライチェーンの破壊による日本経済崩壊

「旧政復古」の菅直人政権時に大震災が起きたという悲劇

事態を悪化させた菅政権の三つの「大罪」

「Be on the safe side」を果たせなかった菅政権の不始末

崩壊しゆく日本経済に追い打ちをかける大増税の愚策

インフラ資産整備の財源としては増税よりも建設国債発行に合理性がある

増税によって経済が危機に陥るという「繰り返される歴史」

震災復興のどさくさまぎれに盛り込まれた「市場原理主義」

日本が法治国家であれば東京電力を法的整理すべし

日本はでたらめな国家に成り下がった

第二章 日本の財政は本当に危機にあるのか

財政危機を煽る政府のアピールは真実なのか

霞が関の権力にひれ伏すマスメディア

財政赤字の規模を正確に把握するために必要な「正しい尺度」

子や孫の世代に借金を残すことは財政上特段の問題なし

財政赤字のリスクをはるかに上回る緊縮財政のリスク

「日本の財政は危機に直面している」は明らかな嘘

財政再建目標を達成した中曽根政権

大増税政策強行実施で財政赤字を激増させた橋本政権

小泉政権の超緊縮財政政策がまたしても日本経済を撃墜した

世論操作を企図する財務省の大増税推進大キャンペーン

財務省は財務省の利権・権限維持のために財政健全化の主張を展開する

「利権官庁」と「政策官庁」財務省はなぜ社会保障費削減にこだわるのか

「天下り根絶」という政権公約を捨て去った野田民主党

ポピュリズムに責任転嫁する官僚の傲慢さ

日本経済浮上のチャンスを二度も潰した近視眼的な財政再建原理主義

的確な「経済病状診断」がなされていない恐ろしさ

経済情勢暗転下での超緊縮財政政策発動は究極の誤り

経常収支黒字国日本の財政問題と経常収支赤字国の本質的な相違

財政収支の改善は日本の経常収支が黒字の間に実現せよ

日本財政の何が問題で、何が問題でないのか

第三章 市場原理主義の亡霊

緊縮財政政策強行の末路

財務省の言いなりになる御用経済学者

経済学は現実の経済政策運営に生かされているのか

ケインズ経済学の「功」と「罪」

市場原理信奉主義の復活

冷戦の終焉とともに始まった大競争の嵐

BPRへと突き進んだ世界経済

「根拠なき熱狂」の崩壊

日本に持ち込まれた弱肉強食の市場原理主義

セーフティネット強化が必要なときにセーフティネットを破壊する政策対応の倒錯

「デフレ」という新たな脅威

完全雇用こそ究極の経済政策目標

大規模な経済政策発動で、まずは経済活動水準を引き上げよ

円高にどう立ち向かえばいいのか

成長を促進していく四つの産業分野

「分配問題」が二一世紀の最重要経済政策課題

所得税・住民税の最高税率引き上げを実施すべし

「同一価値労働・同一賃金制度」を早期に導入せよ

国が経済成長に関与するウェイトは大きくない

地方への人口分散が、国民に豊かさをもたらす

官僚利権の根絶なくして増税論議なし

第四章 エネルギーと日本経済の未来

予測されていた福島原発の重大事故

否定されていた原子力安全神話

福島第一原発の津波対策不備は警告されていた

原発という選択肢はなくしてしかるべき

核廃絶こそ日本が追求すべきテーマ

市場メカニズムに則った原発からの撤退方法

原子力マフィアが推進した日本の原子力事業

法治国家の根本原則をゆがめた東電救済

強欲資本主義が支配する日本

第五章 対米隷属の経済政策からの脱却

外国為替資金特別会計の改革を進めよ

外貨準備で衝撃の超巨大損失がもたらされるプロセス

母屋でおかゆを食っているときに、放蕩息子が賭場で巨大損失

「良い為替介入」と「悪い為替介入」

外貨準備は米国に対する「上納金」

TPPは現代版マンハッタン計画における核爆弾級の経済兵器だ

TPPによって農林水産業と金融が狙い撃ちされる

一七・六%のために八二・四%を犠牲にすることが正しい選択であるのか

日本の美しい田園風景と相互信頼の共同体社会が破壊される

米国の隷属国である現状を修正せよ

一〇〇年の計をもって必要不可欠なインフラを集中整備すべし

官僚利権を排除する財政運営透明化が求められている

日本には、再生できる力がある

<参考資料>

ところで、彼はこんな内容の講演をしている。http://www.ustream.tv/recorded/18569180

「財務省と財務官僚の犯罪」

1.財務省は戦前の「関東軍」と同じ非常に危険な「独立王国」

財務省は「省益最優先」の「国家の中の国家」であり、戦前の「関東軍」が中国侵略から太平洋戦争へと日本を滅亡の淵に立たせたのと同じく、対米従属、増税、セーフテイーネット解体、不況、失業、貧困、格差、戦争へと導く非常に危険な存在であること。

2.財務官僚は「説明責任」を果たさない

財務官僚が何かの政策決定する際、責任者による国民への経過報告はない。記者クラブを通して決定事項を流すだけですある

3.財務省は「最強の権力機関」

財務省は10の権力を持つ法務省以上の最強の権力機関。

予算案作成権、予算執行権、徴税権、国有財産管理権、国税庁査察権、金融庁を通しての金融業界支配、金融政策立案件、法律起案権、為替介入権、権力の一点集中を法律で禁止し省庁再編をしなければならない。

4.財務省は「大嘘つき」

財務省は日本の借金は2011年度末には1000兆円となりこのまま放置すればギリシャと同じ財政破綻は避けられないと宣伝している。

実際政府債務は391兆円の赤字国債残高でしかなく、しかも国家資産が647兆円あるので財政危機どころではない。財務 省は国民に危機感を煽って国民に増税を飲ませるために「大嘘」をついている。

5.財務官僚は「失敗の責任」をとらない

*橋本内閣は1996年当時の大蔵省官僚の「消費税増税」と「緊縮財政」に騙されて「増税と緊縮財政」を強行したため、せっかく上向き始めた景気 の腰を折り大不況に落とし込めた。1997年には山一證券や北海道拓殖銀行、三洋証券など大企業の倒産が相次いだ。

*小渕内閣は1998年「積極財政」と」金融緩和」政策を実行して「消費税増税」で落ちこんだ景気を回復させたが、小渕首相の急死の後を継いだ森 内閣と小泉内閣は再び財務省主導の「財政緊縮政策」を強行した結果「失われた10年」と呼ばれデフレ不況に陥った。

*財務官僚は「消費税増税」と「緊縮財政」の失敗による「不況」の責任を政治家にとらせて自分たちは責任を一切取らないできた。

*2007年から2011年までの4年間にドル安・円高によって、日本が所有する米国債1.2兆ドルは50兆円の為替差損をだしたが、為替介入と 米国債購入の権限を持つ財務省は誰一人として責任をとっていない。

6.財務省は「買収工作」を平然と行っている

*財務省は影響力のある政治家、財界、マスコミ、学者、評論家など3000人をリストアップし、「消費税増税」や「緊縮財政」など自分たちの「省益確保」のための政策に賛成させるための「買収工作」を平然と行っている。

*財務官僚は8月30日の民主党代表選挙で野田財務相(当時)を民主党代表に選出するために民主党中間派に対する猛烈な働きかけを行った。野田氏 に投票すれば予算をつけるなど露骨な「買収作戦」を行い対抗馬の海江田経産相(当時)に圧勝した。

7.財務官僚は「売国奴」

財務官僚はTPP参加を積極的に推進し、日本国民の命と財産と独立を米国に差出、日本を米国の「完全な植民地」にしようとしている。彼らにとって「国益」や「国民の利益」よりも「省益」と「自己益」が大事であり宗主国米国の手先となった「売国奴」になりはてている。

<参考資料> *日本人であることを思い出して下さい。

http://www.youtube.com/watch?v=L6HXwT6fPtk&feature=player_embedded

*青い眼の日本人がいい指摘をしています。

日本人の底力

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2月 172012

東日本大震災から11ヶ月が経ち、もうすぐ一年になろうとしている。

「英デイリーメール紙オンライン」が、震災直後と今の写真を同じ場所に撮影し、その復興ぶりに英国の人々が素直に驚き、絶賛している。英国ならなら今頃、やっと復興のための委員会が立ち上がる時期という皮肉まで交えている。日本政府の対応の悪さをものともしない普通の日本人の生真面目さを物語っている写真をご覧いただきたい。

What a comeback! Eleven months after the tsunami ravaged Japan, a series of pictures reveals the incredible progress being made to clear up the devastation

津波の被害から11ヶ月、様子を表す一連の写真が、津波による被害からの復興の驚くべき速さを物語っている。と同時に原発の事故さえなければ、津波など日本人には恐るるに足らないことを教えてくれているような気もする。その意味で原子力発電所をどうするのか、エネルギー問題を含めてもっと我々は真剣に考える必要があると思われる。





*同じ女性です。





























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