「壊れ始めた日本」(1)
                                                               
 
 数々の外交の失態、警視庁の国際テロ捜査資料の流失、海上保安庁の中国漁船衝突ビデオ流失事件、もしかすると、現在、「戦後作られた日本という国のシステム」が壊れ始めているのかもしれない。
 
 間違いなく言えることが一つあるような気がする。第二次世界大戦に負けて米国主導で作られた日本の戦後のシステムは、冷戦という枠組みがあってこそ、有効に機能したのであって、その前提が崩れてしまった以上、冷戦構造の上に成立していた日本の行政、政治、経済の仕組みが、ある意味うまくいかないのは、当然のことだと我々は、考えるべき時期を迎えたのではないかと言うことだ。
 事実、米国は、冷戦終了間際から、「ジャパンアズナンバーワン」と言われる程の経済大国になった日本を「プラザ合意」、その前後には、中国の元の大幅切り下げを認め、「ジャパンパッシング」と称する日本経済封じ込め戦略を着々と実行し、結果、現在の中国経済の成長を演出することとなった。目先の利くユニクロの経営者のような人々はおそらく、米国のその戦略を事前に知っていたのであろう。
 兎も角、現在、機能しなくなった日本の戦後システムすべてを見直す時代に入ったことは、間違いあるまい。以前にも書いたが、米国に呪縛された「永久占領」状態を脱しない限り、本当の意味で日本の未来を切り拓くことは、できないことをある程度の人々が共通の認識として持てるようにすべきではないかと思われる。
 戦後、半世紀以上にわたって、米国の実質上、占領下にある日本では、あらゆる処に米国のソフトパワーの網の目が張り巡らされている。もう、そろそろ心ある日本人は、「帝国以後」の時代(米国の覇権が終焉を向かえようとしている時代)を目前に控えた今、戦後、語られなかった本当の事を多くの人々に知らしめる義務があるのではないか。知識人と言われる方々に期待したいところである。

 十年以上前の話だが、人生の大先輩に「日本永久占領」片岡鉄哉著(講談社α文庫)を読んでいただき、感想を聞かせていただいたことがある。
 そして、その人生の大先輩は、こう言われた。「確かにこの本に書いてあることは、真実だと思う。しかし、戦後の貧しさを考えれば、現在の日本は本当に豊かになった。米国との関係で、世界一の債権大国の豊かさを日本人一人一人が享受しているわけではないが、仕方がない。」と。
 
 果たしてそうだろうか。

「日本永久占領」という本のテーマは、日本を狂わせたのは、戦後、米国から押しつけられた「日本国憲法」であり、ゆえに、憲法が作られた過程、そして、日米関係において、本来、進むべき道が、吉田茂とマッカーサーによって、著しく歪められたという事実の論証にある。現在の沖縄の基地問題しかり、自衛隊の問題もしかり、日本政府の国際政治の対応もしかり。全ての問題の根源は、この本で書かれている歴史を知らない限り、何も解決はしないと言っても過言ではないかもしれない。
おそらく、このままの状態を放置すれば、日本は米国による永久占領状態に止まることになるのだろうが、米国にその状態を維持するだけの覇権力が残っていないとしたら、我々はどうすべきなのか、真剣に考えなければならないだろう。

 ところで、日本の戦後を形作ったのは、象徴天皇制と平和憲法と日米安保条約の三点セットである。そして、昭和天皇自身が日本の戦後体制の形成に大きく関与していたというのが、日本人が聞きたくない、語りたくない歴史の真実なのである。さすがに、片岡氏は、吉田茂の政治行動に関与した昭和天皇の戦後直後の二重外交には、全く触れていない。小生は、この事実を、最近、数冊の本によって確認したために、日本人として大変深い悲しみを胸に抱えることになってしまった。
 昭和天皇自身は、自身が導いた属国日本が、冷戦終了後、米国に巧みに経済的に収奪され、漂流する日本国となった姿を見ることなく、崩御されたのは、まことに幸運なことでは、あった。
 
 ここで、今から約60年前である1949(昭和24)年に、米国が日本で一体何をしたのかということについて振り返ってみよう。
 1949(昭和24)年、日本は「主権国家」ではなかった。なぜなら、第二次世界大戦における敗戦により、GHQ(連合国最高司令官総司令部)による支配を受けることになったからである。そして、そのGHQを事実上仕切っていたのが、かつての敵国である米国であった。不平等条約(吉田 茂はこの事を熟知していた)である「日米同盟」が連呼される今となってはもはや信じがたいことであるが、この時、米国は日本をどうすることもできた全能の勝者であり、日本はなすがままに任せるしかない悲しき敗者なのであった。
 GHQは日本を占領統治するにあたり、「民主化」と「非軍事化」を掲げ、一斉に日本で構造破壊を始めた。しかし、爆撃機B29による連日の空襲で焼け野原となり、工場が崩壊する中、消費財の生産など一切ままならなかったのが、当時の日本の状況である。しかも、戦地からは続々と人々が引き上げてきて、「需要」は急上昇した。 その結果、「モノ不足」とそれに伴う「価格の急騰(=ハイパーインフレーション)」が日に日に深刻となり、日本政府の失策も重なって、もはや経済崩壊の危機にまで陥った。
 ところが、GHQは米国本国から「日本の経済復興」を当初、宿題として課されてはいなかったため、インフレを抑えるどころか、逆にそれを加速させるかのように「構造破壊(たとえば財閥解体)」を熱心に進めていったのである。
 しかし、1947(昭和22)年ごろになって状況は一変。それまでも不審な動きを見せていたソ連が北ペルシアでの撤退期限を守らなかったことから、一気に東西冷戦が始まったからである。あわてた米国は世界戦略を練り直すはめとなった。その中で、日本を一体どうすべきかということが議題に取り上げられたのである。
 そして、そこで行われた集中的な日本戦略見直しの結果、一人の銀行家が日本に「救世主」として派遣されることとなった。デトロイト銀行の頭取として腕をならしていたジョセフ・M・ドッジである。日本史を学んだことのある方であれば、「ドッジ・ライン」と聞けばピンとくるはずだ。彼が超緊縮型の予算案を日本政府に提示したとき、日本側はこれを「ドッジ・ライン」と呼んだのである。「放漫な財政支出を日本政府がやめることが、極度に進んだインフレを収束させるのにはもっとも有効だ」と考えたドッジによる強硬策であったと、一般の教科書には書いてある。
 そして、このように「苦い良薬」を煎じてくれたからこそ、日本はその後、奇跡と言われる経済復興を遂げたのであって、まさにドッジは戦後日本経済にとっての恩人だとも言われる所以だろう。
 しかし、ここに決定的な「落とし穴」がある。なぜなら、米国人から見たとき、とりわけ現代を生きる米国人のエリートたちの目から見ると、ドッジの功績はもっと別のところにある。それは何か。
 その頃、米国国内では議会を中心として、多額の対日復興援助が「本当に米国のためになっているのか」という批判が高まっていた。したがって、GHQとしてはこうした批判に応えるべく、何らかの仕掛けをしなければならない立場に置かれていたのである。そこでドッジが考えついたのが、「将来、日本経済が豊かになった暁には、米国が正々堂々とその果実を刈り取っていける仕組みをつくること」なのであった。
 ドッジはまず、米国が日本にあたる援助(小麦など食糧支援が主)を日本政府にマーケットで売りさばかせ、それと同額のカネを日本銀行に開設された口座に積ませた。そして、そこに貯まっていく資金を、今度はGHQ、すなわち米国の指示に基づいてだけ日本政府が使うことを許したのである。いわゆる「見返資金」である。
 それでは米国はこの資金を一体何に使わせたのかというと、意外にも「日本人に米国の良さを宣伝する」といったプロパガンダ目的ではほとんど使われていない(総額の2%前後)。それに代わって、もっとも使われたのが、かつて軍国主義の屋台骨として戦争協力をしたために解体されるはずであった「特殊銀行」(当時の日本興業銀行など)を経由する形での、ありとあらゆる日本の企業が復興するための資金提供であった。そして、ドッジによる熱心な指導により、銀行セクターをはじめとする日本経済全体がそれまでの「復興インフレ」による壊滅的な打撃から立ち直ることに成功したのである。
 その後、1952(昭和27)年にGHQは日本から最終的に「撤退」し、日本は、名目上の「再独立」を達成する。例の「見返資金」はどうなったのかといえば、米国に返金されることはなく、そのまま名称を変えて日本の経済発展のために用いられ続けた。そして、やがて日本は高度経済成長を迎えることになる。
 おそらく、小泉政権で、米国の手先として「構造改革」を推し進め、米国のために尽力した竹中平蔵氏が特殊銀行の日本開発銀行出身者なのも偶然ではないと考えるべきであろう。
 竹中氏の改革政策というものは、現実には、ほとんど米国の金融資本のためのものだったことは、現在では、かなりの方が理解されてきたところだと思われる。
結果として下記の様な政策効果がもたらされた。
 
小泉・竹中改革は新たな税金略奪者を日本政府に招き入れた

・骨太の改革は税金の収奪者を国内の利権団体から欧米の強大資本に移転させる結  果になる
・国内の利権団体も欧米の強大資本も日本人の税金を私物化しようとしている点にお いてまったく同じだ
・90年代の米国式改革が短期的ではあるが、成功した国は米国だけであり、他の国 々には混乱だけが残された。米国においても想定元本5京円というとんでもないデ リバティブ金融商品の借金だけが残され、現在、米国はデフォルトするか、戦争を するしかない 状況にまで追い込まれている
・民間企業の最大の利益は民間人同士のフェアなビジネスにではなく、上手に税金を 引っぱり出すことで得られる これは世界における大財閥の形成の過程を勉強すれ ば、明らかである
・日本の政治家や官僚は、米国政府+欧米の強大資本がどうやって日本で金儲けをし ようとしているか、金儲けの絵図面が理解できていないか、もしくは自分たちさえ よければいいと考えている
 ・だから絶好の格好のカモとして狙われているのではないか
 意図するとせざるとにかかわりなく、こういう改革を売国奴的改革というしかないのではないか 
                   それでは、米国政府から日本銀行・日本政府への要求とは何だったのか。
一言で言えば、「ここまで育ててやったのだから、金=富をよこせ」ということだったのである。そのための方法が下記のようなものであった。
・量的金融緩和:豊富な円資金を米国に還流させろ
・金融システム安定化(不良債権処理を加速化させ、整理統合)させ、金融機関を米 国資本に差し出せ
・内需を支えるために失業対策などを行え
・米国にとって都合のよいルールに変えろ
・成長のための日米経済パートナーシップ(商法改正等)
・規制改革(金融改革、司法改革、医療改革、通信改革、etc)
・市場重視
・米国の民間人を公的・民間部門のリストラに活用しろ
 
 一言でまとめてしまえば、1985年(昭和60年)のプラザ合意以降の日本の経済史の裏面史は、米国による日本の富の収奪の歴史なのである。一例を上げるなら、1980年代に「セイホ」と名を轟かせ、米国経済を米国債購入によって支え続けた日本の生命保険会社が、莫大な為替差損を被り、外資に乗っ取られていったことは、まだ、記憶に新しいのではないだろうか。

 それでは、1955年の保守合同以降、半世紀以上にわたって日本の政治を担ってきた自民党の戦後政治とは、どのようなものだったのだろうか。
 一言で表現すれば、「自民党政治の終わり」という本で、野中尚人氏が主張しているように
「自民党システムは一種のインサイダー政治であったが、その網の目が自民党だけでなく野党のネットワークをも通じて、社会の隅々まで広がっていたのである。「一億総中流」とは、まさにその結果であった。自民党はもちろん、それと協働した行政官僚制が大きな役割を担い、国対政治を通じて野党も暗黙の参加者であった」
 
 江戸時代から行政官僚制が先行して確立していた日本においては、権能が憲法によって保障された国会が、民主主義が確立された戦後から巧みに行政に融合していったのである。もちろん、戦後、GHQが軍隊以外の官僚機構をそのまま温存して占領政策を推し進めたことが、このことを決定的にしたことは言うまでもない。そして、大きな政策決定は政府が行うが、日々の細かい政府の仕事は、行政官僚が担う役割分担が確立されたのである。このような官僚が政府と一体となったボトムアップとコンセンサス重視式の政治運営は、冷戦という限られた経済圏の中で、経済成長を追求するには、まことに効率的に機能したのである。
 そして、このシステムは、戦後の冷戦期における経済成長と世界秩序の安定を前提にある意味、議員の後援会活動等を通じて「草の根民主政治」を具現してきたが、その限界、問題点としては、
①利害による民意吸収の裏腹として利権による腐敗を生じやすく、公共財や政治理念 から遠くなりがちであること、
②世界秩序の変動や低成長経済や社会の高齢化による分配の困難化といった大きな環 境変動に対処するには、自民党システムにおけるリーダーシップの欠如が致命的で あることが挙げられる。

 この戦後の冷戦構造の下で、自民党政治が創りあげてきたのが、日本型の安定した資本主義システムであった。その特色は、
   (1)終身雇用と年功序列を機軸とする日本型雇用システム
  (2)メインバンクとの金融的な結びつきを背景にした長期的な信用関係(間接 金融システム)
   (3)ケインズ的経済政策を主体とした政府主導の旺盛な公共投資による有効需要の創出
   (4)地域と政治家のインフォーマルな関係によって決定される公共投資を通した所得の再分配システム
 
 このようなシステムは、日本企業の安定成長をもたらし、所得の再分配を保障し、安定した社会をつくりあげるのに極めて有効に機能した。しかし、政治家や官僚のインフォーマルな関係を通して所得の再分配が決定されたため、投資に関与する人間が利益を掠め取るという腐敗した関係の温床にもなるという欠陥も併せ持っていた。
  しかしながら、このシステムが、会社村、専業主婦の共同体、学校の共同体というような戦後日本社会の安定した生活環境をもたらしたことは疑いのないところだろう。
  先程から何回も指摘しているが、このような環境に日本が置かれたのは、冷戦という国際社会の構造があったからに他ならない。冷戦が終了したときに、「この冷戦の勝者は日本だ」と米国に言われたことを思い出していただきたい。
 レポートで何回も指摘したように冷戦の勝者である日本から国富を奪うための米国の戦略が、「ワシントンコンセンサス」であり、「グローバリズム」であり、それを進めるための「構造改革」であった。身も蓋もない言い方をしてしまえば、日本で言われていた「構造改革」とは、1980年代半ばに考え出された米国の対日経済戦略そのものだったのだと言っても過言ではないのである。いろいろ他のまともな改革も一緒にして、その本質が見えないように「構造改革」と言われたので、多くの国民が勘違いをしてしまったのである。
 その真意は、上記に述べた「将来、日本経済が豊かになった暁には、米国が正々堂々とその果実を刈り取っていける仕組み」それが、あれほど党内、国内に反対の多かった竹中氏が主導した構造改革を推し進めることを可能にしたのである。もちろん、米国の政策に対して意識的に、無意識に協力するような仕掛けが戦後、日本社会のあらゆる処にに仕掛けられていたことは言うまでもない。
 その結果、現在、日本の公共圏は、大変な劣化をし、「格差社会」と言われるようになってしまったのである。現在、安定した社会が失われつつある不安を、いろいろな思惑がある勢力が扇動しようとしているのが、日本の状況であろう。
 
 このように「戦後つくられた日本というシステム」が壊れていこうとしていると同時に米国による第二次世界大戦後につくられた世界秩序(パックスアメリカーナ)も砂上の楼閣のように、消え去ろうとしている。

 ところで、小生が異国人であったなら、世界一の債権大国、つまり、世界一の金持ち国、そして潜在的資源大国の国をどのような状況においておきたいだろうか。
 その国の国民を覚醒させないで、自分の言うとおりに動く状態にずっと置いておきたいと考えるだろう。おわかりだろう。すべての国は、日本に対してそう考えているのである。

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