「10年後にまた来て見てくれ惨禍に見舞われた日本人の不屈の精神」
                                                                                                                      2011.03.29(Tue)  The Economist
                                                                                                                (英エコノミスト誌 2011年3月26日号)

英雄的な国民の精神、しかし脆弱な政府――。

 気仙沼港が水浸しになって燃えさかる遺体安置所と化してから9日経った日曜の早朝、人々は仕事に戻ろうとしていた。
 精神科の看護師は、病院に向かう幹線道路を見つけようとして、ぬかるみの中を自転車を押していた。ところが、道は見つからない。道路は、黒焦げの住宅の骨組みや中身が飛び散った商店、1キロ近く内陸に打ち上げられた全焼した船などの瓦礫の山の下に埋もれているのだ。
 変形した建物の中から、商店主のモギ・カンイチさんが笑みを浮かべ、パソコンを抱えて出てきた。「俺の仕事用のパソコンだ! 見つけたぞ!」と彼は叫んだ。
 病院に向かう途中では、作業着姿の男性5人が造船所の瓦礫をウインチで巻き上げている。ここでは、ホタテ漁用のアルミ製小型モーターボートを年間50艘製造していた。現場の主任は静かな口調で、ボートは流線形のデザインで、燃費が良く、再利用が可能だと自慢する。
 しかし、ボートはすべて流されてしまった。その代わり、造船所の前には錆びたトロール漁船が横転しており、作業員たちはそれを雑種犬を見るような目で眺めている。漁船は津波が来る前には、湾のはるか向こうに浮かんでいたものだ。

地震、津波、火災に襲われた町
 
 気仙沼は、3月11日に津波に襲われた東北地方沿岸部に位置している。この災害では、少なくとも2万5600人が死亡または行方不明となっている。気仙沼で確認された死者は約1000人で、近隣の大船渡と陸前高田よりはましだ。だが、気仙沼は3重の災難に見舞われた。地震と津波の後、漁船の燃料に火がつき、港は4日間にわたって燃え続けたのだ。
 数知れない遺体が灰に埋もれている。その中には日本で名高いフカヒレ加工工場で働いていた中国人も含まれていた。津波は町の位置を変え、黒こげの船体の下の泥には、真珠の首飾りが埋もれている。
 しかし、人々がどれほどの混乱状態にあろうとも、意気消沈している人は少ない。町には、復活に向けた気力がみなぎっている。
 津波が精神科の病院へ押し寄せた時、3階まで届いた洪水から逃げるため、職員は250人の患者を屋根まで駆け上がらせた。患者さえパニックにはならなかったと、冒頭の看護師は話す。日曜日、彼女が職場にたどり着くと、間もなく男性の理髪師が病院を訪れ、患者の散髪を申し出てきた。
 住民たちの公共心を映すスナップ写真は、これだけではない。6時間かけて気仙沼の残骸の中を歩くと、行く先々で、人々が挑むように破壊された生活を立て直そうとしている光景が見られた。
 彼らは世界が日本に示した連帯感に対する謝意を口にした。また、自分たちの不屈の精神が認められたことを誇りに思っている。「10年経ったら、また来て見てくれ」というのが、繰り返し聞かれた言葉だ。

惨状から抜け出す道のりは困難
 
 それでも、この惨状から抜け出す道のりは、恐ろしく困難なものになるだろう。数百キロにわたって広がる鉄とコンクリートの残骸を掘り起こすのに何カ月もかかることだけがその理由ではない。また、これほど危険な沿岸部に町を建て直すべきかどうか、いかにして建て直すのかを決める困難も、この際おいておこう。
 行く手が困難なのは、独自のやり方に凝り固まって、聖書に出てくるような規模の緊急事態は言うまでもなく、徐々に進行する変化にも適応できない日本の政治システムのせいでもある。あまりに多くの場合、日本人の恭順の裏には、抗議活動や社会的対立を恐れずに失態を重ねていける体制がある。
 気仙沼で、これを見落とすことはまずない。ある家の屋根の上では、男性2人が、津波で屋根に乗っかったままになっている自分たちの小さな船をいじっていた。船外機の燃料を抜き取って車に入れ、食料を探しに出かけようとしていたのだ。
 というのも、今度は概して人災と言える新たな災害が沿岸部の社会を襲ったからだ。深刻な燃料不足(このため食料と暖房も不足している)が、すべてを失った26万人の避難民だけでなく、家は無事だった人々の窮状をも悪化させているのだ。
 このため、気仙沼の避難所で暮らす被災者たちは、ご飯と温かいスープしか食べていない。赤十字の職員によれば、スープを求めて並ぶ列は「食料難民」で膨れ上がっているという。店が品切れのため、家は残っていても食べ物がない人々だ。
 この問題には、困惑せざるを得ない。東京から気仙沼まで17時間かけて走った道中、ほぼすべてのガソリンスタンドで、車が長蛇の列を作っていた。被災地から何百キロも離れた地域のレストランや店舗も閉まっていた。
 ガソリンスタンドのスタッフは、燃料は津波に襲われた沿岸部に回されていると話していた。だが、気仙沼では、丸1日待った末に20リットルだけ支給された人もいた。

滞った救援物資
 
 この点については、官僚組織の柔軟性のなさに責任の一端がある。津波が起きて間もなく、全国的なコーヒーチェーンの元経営者で、野党の参議院議員である松田公太氏は、4トンの大型トラックに乗って、自身の選挙区である宮城県(気仙沼も同県内にある)に向かった。途中、緊急車両以外に閉鎖されていた幹線道路を通る許可証を得るために、当局と戦わねばならなかったという。
 目的地には食料がたくさんあったが、それを最も大きな被害を受けた被災地に運ぶ手段が見つからなかったと松田氏は言う。
 その後、松田氏は友人のヘリコプターを使って食料や医薬品、携帯電話の充電器を宮城県に空輸したが、着陸許可が下りなかった。そこで、地上1メートルのところでホバリングして物資を投下できないか聞いた。ここでもまた、規則違反になると言われたという。
 燃料の流通を所管する経済産業省は、燃料危機の原因をいくつも挙げる。災害対策のために民間部門から呼び戻されたカドノ・ナリオ氏は、被災地の主な製油所に加え、東京近郊の5つの製油所が損傷を受けたと指摘する。そのうち3つが依然、休止したままだ。
 北に向かう貨物列車は1週間にわたってサービスが停止された。供給に関する不安が高まるに従い、ガソリンの買い占めも起きた。カドノ氏によれば、経産省の職員は24時間体制で働き、節電のために照明が消された暗いオフィスで仮眠を取っているという。
 しかし、同氏は、日本各地で精製を増やしたために、全体的な燃料供給量は決して不足していないと言う。となると、燃料を求めてできた長蛇の列はなおのこと奇妙に思える。
 問題の一端は、石油会社に70日分の石油備蓄を義務づける法律にある。この備蓄量を45日分に引き下げるのに、10日かかった。経産省としては、企業に備蓄放出を促す「行政指導」しか行えない。放出を指示できないのだ。また、経産省は、北に向かうがらがらの高速道路を使ってタンクローリーを派遣するのも遅かった。

早期に非常事態宣言を出すべきだった
 
 前出の松田氏は、政府は危機の初期段階で、災害支援を混乱させるつまらない規制を無効にする非常事態宣言を行うべきだったと言う。だが、今でも、沿岸部の物資不足の度合いを認識している政治家は少ないと指摘する。
 これは、東京にとって最も重大な問題に固執する全国メディアで沿岸部の物資不足が十分報道されていないことが理由の1つかもしれない。先日、経産省が議員たちに対して、燃料不足の問題に対応していると説明した時、全員が黙って肯いたと、松田氏は言う
松田氏はさらに、日本の統治が「垂直構造」であるために、強力なリーダーシップがことさら重要になると指摘する。菅直人首相はこれを発揮していない。もっとも、それは完全に首相の落ち度というわけではない。何しろ菅政権は2週間で、大方の政権が任期中に直面する以上の大惨事に見舞われていた。
 当初から、関心の大部分は、東京から240キロ離れた福島第一原発から漏れ出す放射能の制御に向けられていた。原発を所有する東京電力が、被災した原子炉6基すべてに電源を復旧した後も、放射能漏れは続いた。
 菅首相は、ヒステリックな反応を抑える努力もしている。3月23日には、東京の水道局で乳児に悪影響を及ぼすと考えられる量の放射性ヨウ素が検出されたことを受けて、ヒステリーが再び起きる恐れが生じた(もっとも日本の基準は非常に厳しい)。
 現在、東京の店ではペットボトル入り飲料水が不足している。また、これは原発近辺で取れた牛乳、野菜、海産物の安全性に関する不安を増大させた。
 日本人は食の安全性にうるさいが、政府が安全を確約した後は平静さを保っている。東京で働く人たちは昼食時に、野菜と海老の天ぷらを食べている。
 しかし3月23日、米国は他国に先駆けて、原発周辺で生産された食品の輸入を停止した。これが初めてのケースではないが、米国は日本人よりも安全性の保証を信用していないように見える。他国も米国に追随した。
 原発危機が進展する中で、昔ながらの勇敢な行為が国民のムードを盛り上げた。消防士と東電の職員は、過熱した核燃料棒を冷やすための放水を続け、電力供給を復旧するために、高い放射線量に何度もさらされる危険に立ち向かうことを志願した。
 福島原発の近くの避難所に取り残されていた多くの市民は、何日も助けを求め続けた末に、バスに乗って東京に避難した。今のところ低水準とはいえ、継続的な放射能漏れを考えると、もう二度と自宅に戻れないのではないかと心配している人もいる。

危機に追いつけ
 
 政府にとっては、危機の先を行くことが課題だ。これまでのところ、政府は常に、事態の展開に1日か2日後れを取っているように見えた。さらに言えば、企業などの専門家が参画し、災害のすべての分野でリーダーシップを感じさせる危機対策チームを結成できていない。
問題の一端は、野党のあくどい強硬姿勢にある。挙国一致内閣を野党に呼びかけた菅首相の申し入れは、拒絶されている。一方、野党は今も新年度の予算案を巡って点数稼ぎをしている。災害支援のためにもっと多額の資金が必要になるにもかかわらず、予算の財源を確保する法律の制定が障害に見舞われている。
 仮に当局がもっと確かに危機を掌握したにせよ、短期的な問題は途方もなく大きい。燃料不足と輪番停電は既に、工業生産を損なっている。大手銀行のモルガン・スタンレーは、国内総生産(GDP)は4月から6月にかけて、少なくとも年率換算で6%減少すると見ている。
 日本の工業生産の1割を占める自動車産業は、重要なマイクロコントローラーを作る工場が災害で破壊されたこともあって、生産が滞った。ジャスト・イン・タイム方式の在庫システムを開発したトヨタ自動車は、部品や樹脂の不足のために、国内工場を一時休止した。
 輪番停電も、お粗末な計画だったことが露呈した。ある大手化学会社のトップは、ほんの数時間電力が止まっただけで、1日中工場を停止せざるを得ないことがあると言う。1度停止すると、機械を再調整するのに何時間もかかるのだという。

復興に向けた静かな自信
 
 それでも、ビジネスマンの間では、日本の復興に向けた静かな自信が強まっている。大手銀行のUBSは、失われる恐れのある原子力発電を補うために省エネ技術を見つけることが、日本に新たな創造的使命を与えると予想している。
 そして、気仙沼でも、ダイヤモンドのように強固な商魂が再び芽生えている。家と店を失った若い雑貨店主は、ピックアップトラックを使って露天を始めた。1週間以上も生鮮食品なしで暮らしていた人々に果物を売る商売は賑わっていた。
 彼の顔に浮かぶ笑みには、見覚えがあった。ほんの数時間前に、ぺちゃんこになった家から顧客情報がすべて入った大事なパソコンを救い出したモギさんだったのだ。「ガンバリマス」と彼は言った。最善を尽くすという意味である。
 

政治のシステムを変えて元気な愛知、東三河、豊橋を創り上げて被災地を助けるのが、我々の責務である。

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