*日本人もこの二律背反の現実をしっかり認識すべきでしょう。

以下、月刊日本 20011年 9月号より

「脱原発なくして対米自立なし 核拡散防止体制から離脱せよ」 

 藤井厳喜・竹田恒泰

<藤井 厳喜>(ふじい げんき、本名:藤井昇、1952年8月5日 – )

日本の国際問題アナリスト、未来学者、評論家。保守派言論人として知られている。東京学芸大学附属高校卒。早稲田大学政治経済学部政治学科卒、クレアモント大学大学院修士課程、ハーバード大学大学院博士課程修了。専門は国際政治。

現在、拓殖大学日本文化研究所客員教授、警察大学校専門講師、株式会社ケンブリッジ・フォーキャスト・グループ・オブ・ジャパン代表取締役。



<竹田 恒泰>(たけだ つねやす、1975年(昭和50年) – )

日本の作家、法学者。専門は憲法学、環境学。学位は学士 (法学)(慶應義塾大学・1998年)。慶應義塾大学講師。家系は伏見宮家より分かれた北白川宮家の分家にあたる竹田宮家。明治天皇の玄孫に当たり、皇太子徳仁親王の三いとこにあたる。竹田恒和は父。



~原発は一度の事故でゲーム・オーバーだ~

竹田 事故の直接的原因は、冷却機能が完全にダウンしたことですが、十分な安全対策が講じられていなかったということです。「千年に一度の大津波」という言い方をしていますが、あれは嘘です。同程度の規模の津波は百五十年の間に三回来ているからです。
 国民は、大津波への対策は十分に講じられていると思っていました。ところが、全く対策は講じられていなかった。今回事故が起こっていなかったとしても、五十年、百年という期間で見れば、いつか、どこかで原発事故は起きていた可能性は高いと思います。今回、「想定外」という言葉が氾濫しましたが、あらゆる事態を想定するのが安全対策の基本です。事故の当事者が「想定外」などと言って責任を回避するのは許し難いことです。
 電源をもっと上部に設置しておくべきだったとか、そういった小手先のことではありません。大津波に対する様々な対策を講じていなかったにもかかわらず、安全だと言ってきたことが問題なのです。
 

原発推進派は、「この部分を少し工夫すれば、より安全になる」というような言い方をしていますが、原発事故の被害はあまりにも甚大で、一度の事故も許されません。もちろん、列車事故や飛行機事故の被害も大きな被害をもたらすケースがありますが、原発事故の被害はそれらの事故の被害とは桁が違います。原発の場合には、事故を繰り返し、試行錯誤をして、安全なシステムに改善していくというようなことは許されないのです。絶対にミスを犯してはいけない。「今回ここに問題があったので事故が発生しましたが、そこを改善しましたから同じ原因の事故は起こらないでしょう」というようなことは、原発に関する限り成り立たないのです。原発は一度でも事故が起きたら、そこでゲーム・オーバーなのです。





藤井 仰る通りだと思います。例えば、列車であれば、事故が起きたらその原因を究明し、改善していくことは可能です。しかし、原発は原理的に改善していくことはできないと思います。原発事故は、他の事故とは質が全然違います。火力発電所の事故とか、石油コンビナートの爆発事故とかは、たとえ大事故に発展したとしても局地的な被害に留まります。しかし、原発事故の被害は、その規模と範囲があまりにも大き過ぎる。核兵器は「大量破壊兵器(Weapons of Mass Destruction)」と呼ばれていますが、私は原発事故を「大量破壊事故(Accident of Mass Destruction)」と定義したいと思います。
 

原発は一度事故が起きれば、取り返しのつかないことになります。竹田さんの前だから言うわけではありませんが、今回の原発事故について、私は心から天皇陛下に対して申し訳ない、靖国の英霊に対して申し訳ないと思います。広島、長崎への原爆投下は許せないことではありますが、戦争中に敵がやったことです。これに対して、今回の事故は、三発目の原爆を日本人の手で落としたに等しいのです。とんでもないことをしてしまった。ところが、当事者には大変なことを仕出かしてしまったという感覚がない。

那須の御用邸にも放射能汚染は広がっています。東京の中心にある皇居も僅かではありますが、放射能汚染を受けてしまいました。もちろん一般国民にも健康被害が広がっていくかもしれない。国を愛する者として、そういうことに思いいたらず、ただの事故で済ませてしまうことはできません。
 

「自動車事故では年間七千人死んでいるが、原発事故では死んでいないではないか」という議論がありますが、これは事故とテクノロジーの本質を全く理解していない議論なのです。自動車は完成されたテクノロジーです。しかし、それでも事故は起こる。ただし、自動車事故はほとんどの場合、技術的な問題によって事故が起こるわけではなく、人為的なミスで起こるのです。ところが、原発は運転しているうちに、やがて事故が起こるようにできているのです。技術として未完成なのです。
 しかも、何億年も動かない岩盤があるという条件があるならばまだしも、地震列島日本で安全に原発を動かすことなどできません。実際に事故は起こったのです。ここにいたれば、もう原発は諦めるしかないのだと思います。

 

竹田 完璧な技術など、もともとないのです。飛行機は、どんなに安全になったとはいえ、墜落することもあります。ライト兄弟が空を飛んでからまだ百年ちょっとしか経っていません。人類が五千メートル以上の深海に潜る技術を開発したのも、つい数十年前の話なのです。人類は未だマントルまで掘る技術を持っていません。私たちは意外と地球のことをわかっていないのです。
 蚊が飛ぶ原理も人類はまだ解明していません。鳥が飛ぶ原理は、航空力学上、説明がつくのですが、蚊は飛び立つときの周波数が高過ぎて、理論上は飛ばないらしいのです。蚊が飛ぶ原理がわからないほど人類は無知だということです。そのことがわかれば、原発を安全に動かせるという考えが人類の奢りであることもわかります。



藤井 非常に漠然とした言い方になりますが、原子を燃やすというのは非常に難しいことなのです。いままでは分子を燃やしてエネルギーにしてきましたが、原発は原子を燃やしてエネルギーに変えようとしているのです。原発は、従来とは全然次元の違うテクノロジーなのであり、確立されたものではありません。

 

核保有のためには脱原発しかない……藤井
―― 脱原発と核保有は両立するのでしょうか。

藤井 両立するというよりも、核保有のためには脱原発をするしかないのです。原発を推進するためにはNPTに加盟していなければならいのです。NPTに入っている限り、核武装はできません。NPT体制とは、憲法九条体制と同じように、日本の自立した防衛力の整備を不可能にする体制なのです。
 一九五三年のアイゼンハワー大統領の「平和のための原子力」演説以来、いわゆる原子力の平和的利用が促進されてきました。これに対応して、日本への原発導入の旗を振ってきたのが、中曽根康弘氏や正力松太郎氏です。
 しかし、アメリカは、原子力の平和的利用を促進する一方、核保有国を増やさないという方針を貫いてきたのです。つまり、原発を推進することと核兵器を保有しないこととは、予めパッケージなのです。これが条約として明文化されたのが、NPT体制にほかならないのです。「原発をやらせてやる、そのために原料もノウハウも提供してやる。しかし、絶対に核兵器を持ってはいけない」ということです。
 実際、私が「核武装しよう」と言うと、「それはだめだ。原発が止まる」と言った原発推進派の人がいました。その通りなのです。NPTを脱退すれば、核燃料を輸入できなくなります。そして、NPTに加盟している限り核武装は推進できないのです。二律背反なのです。

 <以下略>

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