今から百年以上も前に詩人、石川啄木が時代閉塞の状況を次のように嘆いている。

「我々青年を囲繞(いぎょうする)空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普(あまねく)国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々(すみずみ)まで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥の日一日明白になっていることによって知ることができる。」

 そして今も、あの小泉純一郎氏によって顕著になった「テレビ型劇場政治」の展開が続く中で “本当の価値”、簡単な言葉でいうと生死にかかわる選択の問題は、311という戦後日本の大きな節目を告げる事件があったにもかかわらず、ある意味、現実逃避の東京オリンピック騒ぎのなかでかき消されていき、直感的、直情的、非論理的、扇動的な政治が、今も展開され続けている。2011年3月11日に発令された「原子力緊急事態宣言」は、いまだに解除されていないのだが、多くの国民はそのことさえ、忘れてしまっている。

さらに驚くべきことは、コロナパンデミックによって東京オリンピックの開催がほぼ、絶望的になったにもかかわらず、今回の都知事選挙の結果を見れば、明らかなように日本社会全体が現実逃避の現状維持の選択を許容し続けていることである。

全く未来の展望が見えない時代閉塞の状況にあるにも関わらず、それを認めたくない空気が日本社会に蔓延しているのである。世界的なコロナ危機が襲い、世界全体の経済システムが大きく変わろうとしているにも関わらず、諦められないカジノ誘致、万博誘致、リニア新幹線。

おそらく、それらは、私たち多くの日本人が、あの平成バブルの時代に戻れる、<ジャパンアズナンバーワン>の幻想に耽ることができるから今も取り上げられているのだろう。それは、明らかに厳しい現実を直視したくない、大きな時代の変化を認めたくない気持ちが生む現実逃避である。

 なぜ、私たちはこんなにも惨めな現実にしがみ付きたいほど不安なのか

それは、私たちが簡単に明るい未来を展望できない状況に陥っているからだ。

ちょっと、振り返ってみればわかるが、戦後日本経済のピークは1980年代でその経済膨張は、結果的にはバブル経済を生み、バブル崩壊に到る。その結果、終身雇用と年功序列を基本とした日本型経営は完全に過去のものになり、戦後、高度成長によって創られた企業と個人の幸福な関係は、あっという間に終焉を迎えてしまった。

実際、日本企業の業績を見ると興味深い事実が浮かび上がってくる。

日本企業の売り上げは、1990年代前半にピークを迎え、その後は全く増えていないのだ。バブル期の売上高のピークは、1991年度の1475兆円。これに対し、2017年度は1554兆円と全体で5%も伸びていない。要するに日本企業の売上高は、30年近く、ほとんど伸びていないのである。それにもかかわらず、企業の経常利益は、バブル期のピークである1989年度の39兆円に対し、2017年度は84兆円と215%も伸び、過去最高益を更新している。

このことは何を意味しているのか。

グローバリズムの進展がもたらした株主優先資本主義路線に従って、企業経営者は、労働分配率を、給与カット、非正規雇用の活用によって大幅に圧縮し、売上高が上がらなくても利益を出せるようにしたことを如実に物語っている。

実際、この間、日本企業の外国株主比率は上がり続けているし、また、この間、日本企業は、中国が上位10社のうち4社を占め、韓国のサムソンが4位に入り、日本はソニーがやっと10位に入っている現在の5Gの特許件数を見ても分かるように、独自製品やイノベーションにも大きく遅れを取ってしまったので、企業利益を、ほとんど労働分配率を下げることによって出してきたと言っても過言ではないだろう。その象徴がリストラの神様であった日産のカルロス・ゴーンである。その意味でカルロス・ゴーンの逮捕劇、海外逃亡は、大きな時代の変化を象徴する事件であったと言えよう。

普遍的職業の消滅=サラリーマンの終焉

現在の日本社会においては、今までは安心で確実な選択であるはずの高学歴、大企業、東京暮らしを手に入れても必ずしも安心が手にはいることにはならない。今回の新型コロナパンデミックがそのことをはっきりと浮かび上がらせている。

かつて精神科医の中井久夫氏が「現代中年論~<つながり>の精神病理」(ちくま学芸文庫)のなかで「ある気質、ある特性、ある特異性、ある個性、ある特技のなどの持主でなければ就けないという職業でなく、普通の人が青少年期という自己決定の時期において、やけつくほどになりたく思うものがない場合に選択する職業であり、多くの性格や好みや希望や安定性をそれぞれの形である程度実現する基盤になりうるもの」として<普遍的職業>というものを定義した。日本ではいわゆるサラリーマンが高度成長期を経てこの普遍的職業になったのであるが、バブル崩壊とともにそういう時代は終わり、特技のないものには、働く場がなくなりつつあり、コンビニのような特別な技能を有しない水準のサービス業しか仕事がない時代を迎えてしまったのである。そう言った意味で、普通の人にとって、これほど、生きにくい時代はないと言えよう。

日本のように完全雇用を実現させることによって、その稼ぎをセーフティーネットとしてきた社会では、その稼ぎが不安定になれば、社会のセーフティーネットそのものが完全に空洞化してしまうのである。日本の先進国の中でも突出して高い自殺率がそのことを如実に物語っている。

 コロナ危機は大都会から移住を促す

コロナ危機が起こる以前から若者たちの間に田舎暮らしが憧れとなり、実際に移住したり、都心で働いて週末だけ田舎で暮らす二地域居住が小さなブームとなっていたが、今回のコロナ騒動は、その動きをもっと大きなものにしていくことは間違いない。

地方圏の移住相談窓口を持ち、移住相談会を実施している東京有楽町の「ふるさと回帰支援センター」のセミナー等の参加者数は、2012年には4058人、2018年には4万人を超えている。コロナ騒ぎの後の現在は、予約制になるほどの盛況ぶりである。

興味深いのは、田舎を目指す若者たちが起業、多業、兼業、複業で生計を立てているということだろう。彼らはかつての普遍的職業であったサラリーマンをやって生きていこうとは全く思っていないのだ。新しい地方づくりを考える政治家は、この点に改めて注目するべきだろう。

私たちに必要なのは次の社会の物語だ

日本の長い歴史を振り返ってみればわかるが、日本では、この国独自の<伝統>と海外からもたらされた<未来>とが出会ったときに真に新しいものが生まれている。

たとえば、1万年以上、続いた<世界で最も豊かな狩猟採集社会>であった縄文社会は、存続の危機に瀕した時、渡来人がもたらした米づくりとモノづくりの文化を取り入れ、融合することで独自の水田稲作文明を作り上げた。また、約3000万人が、山水の自然の恵みだけを元手に生活した江戸時代に熟成させた技術や文化が、西洋の近代科学技術と融合することで、世界最高水準のモノづくり産業が生まれている。

 そういった意味で、アフタコロナの日本の新しい物語は、一見、何もかもあるように思われる東京のような大都会ではなく、自然豊かな日本の伝統を残す地方から第四次産業革命(デジタル技術革命)を起こすことによって生まれてくる可能性がきわめて高い。

なぜなら、既存の技術設備がない、自然が豊かな小規模の地域の方が新しいデジタル技術の試行錯誤をしやすいからである。

その意味で、今秋の豊橋市長選においてこの地域にふさわしい新しい豊橋、東三河の物語を市長選に挑戦する政治家が語ることができるかに私たちは、注目すべきだろう。

私たちが一番、聞きたいのは、この時代閉塞の状況を打ち破る地方発の新しい物語なのだから。

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