自滅するアメリカ帝国

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4月 292012

*今回は本の紹介です。 「自滅するアメリカ帝国~日本よ、独立せよ~」

伊藤 貫(いとう かん、1953年(昭和28年) 

日本の評論家、国際政治・米国金融アナリスト。東京都出身。東京大学経済学部卒業。コーネル大学で米国政治史・国際関係論を学んだ。その後、ワシントンD.C.のビジネス・コンサルティング会社で国際政治・米国金融アナリストとして勤務。アメリカワシントンD.C.在住。





<目  次> 

まえがき 日本よ、目覚めよ

第1章 自国は神話化、敵国は悪魔化

第2章 驕れる一極覇権戦略

第3章 米国の「新外交理論」を論破する

第4章 非正規的戦争に直面する帝国

第5章 アメリカ人の“ミリテク・フェチ”現象

第6章 世界は多極化する—中・印・露の台頭

第7章 パックス・アメリカーナは終わった

終章 依存主義から脱却せよ



以前、アメリカ帝国の時代が終わることを予見したフランスの碩学、エマニュエル・トッド氏の「帝国以後」という本を紹介させていただいたことがある。以下。



「NHK衛星放送で再放送された「未来への提言」で取り上げられていた2002年9月に出版されたエマニュエル・トッドの「帝国以後」

 1976年にその著書「最後の転落」で乳児死亡率の上昇を根拠にソビエト連邦の崩壊を独特の視点で見事に予言したトッドは、この著書のなかで、幾分、遠慮がちにアメリカ帝国の崩壊は2050年までに起こると予想している。

 おそらく、我々は、この控えめな言葉とは、裏腹にアメリカ帝国の崩壊を10年以内に、早ければ数年以内に目の当たりにすることになるのではないかと思われる。

 戦後、あまりにも長く米国の巧みなプロパガンダによって、ある意味洗脳されてしまっている日本人には理解しにくいことであろうが、

 その意味でもエマニュエル・トッドの「帝国以後」は21世紀の日本の未来に心を痛めている人々の必読の書と言えるかもしれない。

 さすが、トッドはヨーロッパ、フランスの知識人である。冷徹にアメリカに対して何の思い入れもなく、その覇権構造を分析している。また、我々が住む日本という国がどのようにその覇権を支えさせられているかを冷ややかに観察している。

  トッドは、単純な経済力や軍事力の分析、宗教やイデオロギーの対立のみに分析の軸足を置いていない。もちろん世界を評価するとき、それらの変数は分析にとって欠かせないものに違いない。従来の伝統的な方法に加えて、人類学者トッドの視野は「識字率」と「出産率」、すなわち教育と人口動態を、そのうえ過去から民族が受け継いできた「家族制度」と「婚姻形態」を、差異ある歴史の理解に不可欠な独立変数として認識する。このことによって、民主主義と自由主義の発展、およびその逆転としての文化的階層分化による民主主義の衰退=寡頭政治の台頭という現代世界の主要な潮流を明らかにし、人々を途方に暮れさせる世界の暴力的な混沌と行く末に迫っている。



『()世界中での成長率の低下や、貧しい国でも豊かな国でも不平等が強まっていることが把握できる。これは経済と金融のグローバリゼーションに結びついた現象で、論理的かつ単純に自由貿易から派生するものである。()しかし左のであれ右のであれ、マルクス主義のであれ新自由主義のであれ、単純すぎる経済主義に身を委ねることを拒むなら、厖大な統計資料のお陰で、現在の世界におけるすばらしい文化的前進がどれほどのものなのかを把握することができる。それは二つの基本的パラメーター、すなわち大衆識字化の全般化と、受胎調節の普及を通して表現される。(p50)

  実例とその展開はいくらでも示すことができるだろう。ここで重要なのは、近代化過程が始まる以前の空間と農民習慣の中に組み込まれていた当初の人類学的様態を知覚することである。さまざまの家族的価値を担う地域と民族が、その時期その速度もさまざまに、次から次へと同じ伝統離脱の動きの中に引きずり込まれていった。農民世界の元々の家族的多様性は人類学的変数であり、識字化過程の普遍性は歴史的変数ということになるが、この両者を同時に把握するなら、われわれは歴史の意味=方向と多様性という分岐現象とを同時に考えることができるのである。(p82)  』



 ソ連邦崩壊後のロシアと東ヨーロッパの旧人民共和国、フランスとドイツを中心とするEU諸国、日本、中国、中南米、アフリカ、さらにイスラム圏を含めて、地域的に差異のある民主主義と自由主義の発展をトッドは確信するのだが、現在のアメリカ帝国に対する評価は、極めて厳しく、帝国が崩壊過程に入っていると断言している。

 

『 1950年から1990年までの世界の非共産化部分に対するアメリカの覇権は、ほとんど帝国の名に値するものであった。(

共産主義の崩壊は、依存の過程を劇的に加速化することとなった。1990年から2000年の間に、アメリカの貿易赤字は、1000億ドルから4500億ドルに増加した。その対外勘定の均衡をとるために、アメリカはそれと同額の外国資本の流入を必要とする。この第三千年紀開幕にあたって、アメリカ合衆国は自分の生産だけでは生きて行けなくなっていたのである。教育的・人口学的・民主主義的安定化の進行によって、世界がアメリカなしで生きられることを発見しつつあるその時に、アメリカは世界なしでは生きられないことに気づきつつある。(p37-38)

  どのようにして、どの程度の早さで、ヨーロッパ、日本、その他の投資家たちが身ぐるみ剥がされるかは、まだ、わからないが、早晩身ぐるみ剥がされることは間違いない。最も考えられるのは、前代未聞の規模の証券パニックに続いてドル崩壊が起こるという連鎖反応で、その結果は、アメリカ合衆国の「帝国」としての経済的地位に終止符を打つことになろう。P143

 アングロ・サクソンの世界への関わり方は、不安定で流動的である。彼らの頭の中には、普遍主義的民族にはない人類学的境界線が存在する。その点で彼らは差異主義的諸民族に近いのだが、ただしその境界線は移動することがある。(

アメリカ合衆国の歴史も、この境界線の変動という主題をめぐる試みとして読むことができる。それによって中心集団は、独立から1965年までは連続して拡大し続けたが、1965年から今日に至るまで、縮小の傾向にある。(

ロシアは、おそらくフランス革命以来最も普遍主義的なイデオロギーに違いない共産主義を作り出し、世界に押し付けようとした。(

冷戦の間、アメリカはこの恐ろしい潜在力に立ち向かわなければならなかった。外に対しても内においても、である。(

共産主義というライバルの崩壊に対応する最近の数年間は、アメリカの普遍主義の後退が見られる。(p152-155)



 アメリカ流の一方的な行動様式と呼ばれるものは、()その基本的帰結は、アメリカ合衆国が帝国というものに不可欠のイデオロギー手段を失ったということである。人類と諸国民についての同質的把握を失ったアメリカは、あまりにも広大で多様な世界に君臨することはできない。(p170-171)



 ロシアの崩壊の結果、アメリカ合衆国は唯一の軍事大国となった。それと平行して金融のグローバリゼーションが加速する。1990年から1997年までの間にアメリカと世界全体の間の資本移動の差額の黒字は600億ドルから2710億ドルに増大した。これによってアメリカは生産によって補填されない追加消費に身を任せることができたのである。(p179-180)

 アメリカ外交の酔っ払いの千鳥足のような行動振りには、一つの論理が隠されている。すなわち現実のアメリカは軍事的小国以外のものと対決するには弱すぎる、ということである。すべての二流の役者たちを挑発すれば、アメリカは少なくとも世界の檜舞台での役割を主張することができる。経済的に世界に依存しているという事態は、実際、何らかの全世界的なプレゼンスを必要とせざるを得ない。(p185-186)  』



 トッドは、冷静な目で経済的に、軍事的に、自由と民主主義などイデオロギー的に、文化的に、アメリカは帝国としての役割を終えつつあることを見通している。

『今日地球上にのしかかる全世界的均衡を乱す脅威は唯一つ、保護者から略奪者へ変質したアメリカそのものなのである。己の政治的・軍事的有用性が誰の目にも明らかであることをやめたまさにその時に、アメリカは全世界が生産する財なしにはやって行けなくなっていることに気がつくのである。P265

 二十世紀にはいかなる国も、戦争によって、もしくは軍事力の増強のみによって、国力を増大させることに成功していない。フランス、ドイツ、日本、ロシアは、このような企みで甚大な損失を蒙った。アメリカ合衆国は、極めて長い期間にわたって、旧世界の軍事的紛争に巻き込まれることを巧妙に拒んで来たために、二十世紀の勝利者となったのである。この第一のアメリカ、つまり巧みに振舞ったアメリカという模範に従おうではないか。軍国主義を拒み、自国社会内の経済的・社会的諸問題に専念することを受け入れることによって、強くなろうではないか。現在のアメリカが「テロリズムとの闘い」の中で残り少ないエネルギーを使い果たしたいと言うなら、勝手にそうさせておこう。(p279)  』

 戦後、半世紀以上にわたって続いたアメリカに対する幻想を捨てるためにも是非、読んでいただきたい本である。2002年の段階で今日のアメリカの状況を予見していたことは特筆に値するだろう。」(引用終わり)



今回は独特のキャラクターでアメリカの要人の懐に入り込み、彼らが日本という国をどう考えているかを聞き出した人の本を紹介させていただく。やはり、彼もアメリカ帝国の終焉を言っている。

 著者の伊藤氏は「リアリスト外交」、バランスオブ・パワー(勢力均衡外交)」の視点から、

(1)アメリカの一極覇権外交が失敗してきたこと。

(2)冷戦後の国際構造の多極化が必然的であること。

(3)米経済力の相対的衰退は、マクロ経済学からみて当然であること。

(4)二十一世紀になっても日本の自主防衛政策を阻止しようとする米政府の対日政策は不正で愚かな同盟政策であること。

以上の視点から「日本の独立」の必要性を説いている。自主防衛するのに一番コストパフォーマンスの良いのが自前で核兵器を持つことだとも著者は指摘している。この点についてはいろいろご意見があるだろうが、不思議な言語空間にいる私たち日本人の目を覚ます本であることは間違いない。心に残る一節。

「一九五〇年代中頃、鳩山一郎政権の重光葵外相が、「日本は自主防衛するから、米軍は六年後に日本から撤退して欲しい」とダレスに述べたところ、ダレスは憮然として「お前たち日本人に、そんなことはさせない!」と一蹴したという。日本がまだ非常に貧しかった時、「自主防衛するから、米軍は出ていってほしい」と要求した重光の知性と度胸は、立派なものである。過去半世紀間の日本の政界と官界には、重光のような人物はいなくなった。」(本書57ページ)



評論家の日下公人氏が良い紹介文を書いているので引用させていただく。

 

固定観念を打破する貴重なアメリカ論

日下 公人

 

著者の伊藤貫氏は無限大の突進力に加えて情愛の心をもった希有の人である。そういう人には眼前の大事が小事に見える。早く言えば大局観で、それがある人はある人同士の交際をつくることができるが。

 長くアメリカに住んだ伊藤貫氏の日米論やアメリカ論にはそれを感ずる。余人の及ばぬ国際関係論が本書にはつぎつぎと開陳されて、本書は日本人の固定観念を打破する貴重な一書になっている。

その骨子はアメリカの一極支配論は間違いで、アメリカはそれを実現できない。したがって世界は多極化し、各国のバランス・オブ・パワー・ポリシー(勢力均衡政策)が交錯する時代になると言うもので、それ自体はごく常識的なものである。



江戸時代の日本人は“強きを挫き、弱きを助ける”のが男のすることで、それがみんなのためになる生き方だと考え、上は徳川幕府から下は町人の一人ひとりまでがそれを実行したが、なぜか戦後の日本外交はちがった。

 アメリカは強いと考えて盲従したが、そのおろかさが今年は内外ともにハッキリすると思う。

アメリカは日本を従属させるためには“国際社会から孤立する”との圧力をかければ何でもできると考えたが、今はアメリカの方が孤立しかけていて、時代は刻々と変っている。

 それが見える日本人と見えない日本人がいるが、どちらもこの本を読むと良いと思う。ワシントンで活躍する政治家・学者・外交評論家のナマの声がきける。ワシントンにはたくさんの日本人がいるが、外交官でも新聞記者でも学者でも先方とここまでの意見交換をしている人はいない。

 無限大への突進力がないサラリーマンばかりだからである。

  但し、同じ日本人でもビジネスマンはちがう。商売には双方ともが利益になる解決が必らずあるから、本来、衝突は存在しない。必要なのは無限大への突進力とアイデアで、それは不思議なことだが情愛の念から生まれる。



 アメリカには3つの顔があって、第1は、ワシントンのアメリカで、第2は、ニューヨークのアメリカである。どちらも無限大の突進力を自慢にしているので、日本人からみると周囲への情愛と自制心がない。唯我独尊になって、世界に嫌われる。第3は、田舎のアメリカで田舎には自制心と情愛がある。

 ところで日本は、ワシントンのアメリカについては多少知っているが、ニューヨークと田舎については、ほとんど知らない。わずかに金融と貿易の人が部分的な体験をもっているだけで、田舎については、現地の工場建設や資源開発で苦労した人が知っているだけである。そういう日本人が書いた日本語のアメリカ論は、不思議なことにアメリカの書店には各種あるが、日本にはない。

また、日本にはアメリカの狡猾さや弱肉強食の略奪主義を指摘する本がない。日本にあるのはアメリカ賛美の本ばかりだから、そういう本を読んで予備知識としている日本のエリートは最初から位負けである。真実に迫る議論をしないから、先方は日本人に会うのは時間の無駄だと思っている。

 日本の方も、先方への批判ととられかねない質問はさし控えるのが礼儀だと思っているが、アメリカでは質問できないのは愚鈍か、または相手への愛情不足で距離を置いているからだと解釈される。

 その点、ビジネスマンは、商取引実現のためとあらば、何をきいてもいいし、先方も答えてくれる。だから国際交流は、ビジネスマンにさせるのが良いと、かねて思っているが、伊藤貫氏も、なかなかに突っこみ、アメリカは、それに対してまた会おうと答えている。

 この本で、読者は伊藤貫氏の人柄とアメリカ人の気質を学なばねばならない。

 アメリカが20年前「ユニラテラリズム」を唱えたとき、それは無理だと考えて私は『名誉ある孤立の研究』(PHP研究所刊、1993年)を書いたが、いよいよそうなってきた。

 また、10年前にアメリカの略奪主義はいずれ国内の共食いになると書いたが、貧富の差の拡大で中流階級が絶滅危惧種になってきた。

 中流がいないアメリカは世界の信用を失っていずれ一極支配はもちろん、勢力均衡戦略もできなくなるだろう。

  著者はこの展望をもとに「日本よ、自立せよ」と説いている。(引用終わり)



<参考資料> 少々、古いが、田中 宇氏が世界の多極化について良い解説しているので紹介させていただく。

「資本の論理と帝国の論理」

2008年2月28日  田中 宇

 

 私が自分なりに国際政治を何年か分析してきて思うことは「近代の国際政治の根幹にあるものは、資本の論理と、帝国の論理(もしくは国家の理論)との対立・矛盾・暗闘ではないか」ということだ。キャピタリズムとナショナリズムの相克といってもよい。

 帝国・国家の論理、ナショナリズムの側では、最重要のことは、自分の国が発展することである。他の国々との関係は自国を発展させるために利用・搾取するものであり、自国に脅威となる他国は何とかして潰そうする。(国家の中には大国に搾取される一方の小国も多い。「国家の論理」より「帝国の論理」と呼ぶ方がふさわしい)

 半面、資本の論理、キャピタリズムの側では、最重要のことは儲け・利潤の最大化である。国内の投資先より外国の投資先の方が儲かるなら、資本を外国に移転して儲けようとする。帝国の論理に基づくなら、脅威として潰すべき他国でも、資本の論理に基づくと、自国より利回り(成長率)が高い好ましい外国投資先だという、論理の対峙・相克が往々にして起きる。

 帝国の論理に基づき国家を政治的に動かす支配層と、資本の論理に基づき経済的に動かす大資本家とは、往々にして重なりあう勢力である。帝国と資本の対立というより、支配層内の内部葛藤というべきかもしれない。ただ欧米の場合、大資本家にはユダヤ人が多く、彼らは超国家的なネットワークで動いている。その意味では資本と帝国の相克は、ユダヤとナショナリズムとの相克と見ることもできる。

 しかしその一方で、16世紀のスペイン、17世紀のオランダ、18世紀のイギリスと、世界規模の帝国を築いた国々の中枢では、いつもユダヤ人が国際ネットワークの技能を提供しており、それが諸帝国の成功の秘訣の一つだった。欧州のロスチャイルド(ユダヤ)と、アメリカのロックフェラー(非ユダヤ)の対立として描く人もいるが、ロックフェラーは古くから親中国・親ロシアで、多極主義を好む資本家という点でロスチャイルドと同じ側に立っており、両者は根本的な対立をしていない。



産業革命を世界に広げた資本家

 資本の論理が大々的に登場したのは、18世紀末にイギリスで始まった産業革命以降である。イギリスでは、産業革命で儲けた人々が産業資本家として台頭したが、しばらくすると彼らは、産業革命が一段落して経済成長が鈍化し始めたイギリスより、まだ産業革命が始まっていないドイツなど外国に投資した方が、儲けが大きいことに気づいた。

 投資の利回りが良いのは、産業革命(工業化)が軌道に乗ってから20年間ぐらいで、イギリスでは1780-1800年だった。その後イギリスの成長が鈍化し、資本家が海外へと新規投資先を開拓していった結果、1850-1870年にはドイツで、1880-1900年には日本で、それぞれ産業革命が展開した。

 イギリスの資本家が他の国々の産業革命に投資した時、出したものはお金だけではない。イギリスの製造業の技術や、企業経営の技能に加え、封建体制を脱して工業生産に適した社会に転換する過程としての近代化を始めたばかりの日本やドイツなど政府に対し、法律や軍事など近代的国家運営のノウハウまで移植したはずである。その方が新興国家は安定し、資本家の儲けが大きくなる。

 ロスチャイルドのような大手の資本家は、イギリスの国家運営に関与し、自分たちの番頭を首相や政治家、高級官僚として送り込んでいたから、イギリスの国家運営の技能を入手するのは簡単だった。ロスチャイルドのようなユダヤ人資本家は、イギリスだけでなくドイツやフランスにも古くからの拠点を持っていた(そもそもロスチャイルドは産業革命前にドイツからイギリスへと拡大した)。だから、資本や産業技術は簡単にイギリスから独仏などに広がり、資本家の儲けを拡大した。

 産業革命の進展の結果、1830-70年代に鉄道網が世界中に広がり、同時期に外洋船舶や自動車など交通技術が全般的に大進歩して、世界は1870年代以降「第一次グローバリゼーション」の状況になった。人類史上初めて、世界が単一の市場になる傾向が急速に強まり、資本は成長率の高い地域を求めて投資先を探し、工場は労賃の安い地域を求めて移転し、商品は中産階級が勃興する新興国でよく売れるようになった。資本家は世界的に金儲けでき、資本の論理からすると好ましい展開だった。

 

資本と帝国の矛盾の末に起きた第一次大戦

 しかしそもそも、当時は大英帝国の政治覇権が世界を安定させていたパックス・ブリタニカの時代だった。イギリスが帝国の論理に基づいて世界を安定的に支配していたからこそ、資本家は世界的に儲けられた。

 世界には、工業技術の修得がうまい人々と、そうでもない人々がいる。日本やドイツなどの人々は、イギリス人よりも安く優れた工業製品を作れるようになった。欧州各国から移民を集めて作られたアメリカも、イギリスより良い工業製品を作り出した。イギリスは、最初に産業革命を起こし、パックス・ブリタニカで世界を安定させている功労者であるにもかかわらず、産業的には独米日などより劣る、儲からない国になる傾向がしだいに顕著になった。19世紀末には、資本の論理と帝国の論理の間の矛盾・対立が拡大した。

 矛盾が拡大した果てに起きたのが、1914年からの第一次世界大戦だった。前回の記事にも書いたように、イギリスは外交・諜報能力が非常に進んでいたが、軍事製造力でドイツに抜かれるのは時間の問題だった。イギリスは、ドイツが東欧・バルカン半島からトルコ・中東方面に覇権を拡大するのを阻止する目的もあり、フランスやロシアを誘ってドイツとの戦争を起こした。

 ドイツにも投資していたイギリスの国際資本家の中には、イギリスが戦争でドイツを潰そうとしていることに、ひそかに反発した人々もいたふしがある。彼らは、英政府に軍事費を無駄遣いさせたり、欧州のユダヤ系革命勢力がロシアに行くよう誘導して革命を起こし、イギリスと組んでドイツと敵対していたロシアが革命で戦線離脱するよう仕向けたりして、第一次大戦でイギリスが消耗し、帝国として機能できない状態に陥れようとした。こうした暗闘の結果、第一次大戦は長引き、イギリスは最終的に勝ったものの、国力を大幅に落とした。

 第一次大戦でイギリスが勝てたのは、アメリカを参戦させることに成功したからである。当時すでにニューヨークには資本家が数多くおり、第一次大戦でイギリスではなくドイツを支援する勢力も多かったが、イギリスの強い勧誘活動の結果、アメリカはイギリス側に立って参戦した。その見返りとして米政府は、戦後の世界体制を多極的なものにするための主導権を得た。



アメリカを乗っ取ったイギリス

 アメリカが主導して構築した第一次大戦後の世界体制が、国際連盟であり、ベルサイユ体制だった。これは、大国どうしで話し合って世界の安定を維持する戦争防止の国際機構になるはずのもので、イギリスがドイツを潰すような戦争の再発を防ぐ資本の論理と、アメリカは南北米州のことだけに責任を持ち欧州の紛争に巻き込まれないという不干渉主義の両方が満たされるはずだった。しかし、アメリカ自身が議会の反対で参加せず、機構は不完全なものに終わった。

 その後、イギリスは20年かけてアメリカの連邦政府を覇権的な機関に作り替え、アメリカが地方分権の不干渉主義から連邦政府独裁の覇権国へと転換するよう誘導した。その上で第二次大戦を起こして米英が勝ち、第一次大戦で終わっていたイギリス覇権を、アメリカ覇権(パックス・アメリカナ)として再生した。

 アメリカの連邦政府は権限が拡大し、戦争をしやすい機関に作り替えられ、アメリカが「戦争中毒」になる素地が作られたが、その裏にはアメリカを作り替えて世界支配をやらせようとしたイギリスがいた。最初の戦略はイギリスが立案したが、その後はアメリカにCFR(外交問題評議会)などイギリスからコピーされた研究機関が作られ、英諜報機関のMI6が米に移植されてCIAとなり、アメリカ自身がイギリス好みの世界戦略を考案するようになって、イギリスがアメリカに乗り移る過程が完了した。

 私はこれまで「アメリカはイギリスから覇権を移譲された」と書いてきたが、よく考えると「イギリスは自国の衰退を補うため、アメリカを取り込んで米英同盟が覇権を握る体制にした」と言った方が良い。

 アメリカは第二次大戦でも世界の多極的体制を希求し、国際連盟に替えて国際連合を作ったが、新体制はイギリスの冷戦の策略を受け、1950年の朝鮮戦争までに無力化された。おそらくイギリスは、第二次大戦中から、戦争中は日独を潰すためにソ連を味方につけるが、その後はソ連を敵にして米英が中ソと対立する体制を作るつもりだったのだろう。

 アメリカの覇権のもとで世界が安定したら、再び資本家はグローバリゼーションを起こし、儲けるために中ソに投資して成長させ、不干渉主義のアメリカはそれを容認し、イギリスの覇権は10年で崩れただろう。戦後すぐに冷戦構造を作って世界を分断し、先進国をすべて英米覇権下に置いたことで、イギリス黒幕の米英同盟による覇権は長期化し、現在まで続いている。

(実際、1990年代に冷戦が終わった直後から第2次グローバリゼーションが始まり、それから10数年後の今、中国は経済大国として台頭し、ロシアも資源大国になり、世界は多極化している)



ニクソン以後に暗闘再燃  

 イギリスが、アメリカを引っ張り込み、日独を潰して傘下に入れ、中ソを永久の敵にして、米英同盟が世界を支配する体制を1950年に完成させた時点で、1910年代からの資本と帝国の暗闘・葛藤は、いったんは帝国の勝利で確定した。

 イギリスが召集してアメリカで開いた1944年のブレトンウッズ会議で、ドルは基軸通貨となり、アメリカは造幣輪転機を回すだけで富を生み出せるようになった(建前は金本位制だったが、米政府はかまわずドルを増発した)。西欧や日本に対する戦後復興投資も米企業の儲けとなり、資本家は1960年代までの20年間は、儲かるので米英中心の世界体制に文句を言わなかった。

 ところが60年代に米経済の成長や欧日の復興が一段落した後、資本家は再び満足しなくなり、70年代にかけて政府にドルを全力で増発させ、71年に金ドル交換停止を引き起こし、ブレトンウッズ体制を潰すという覇権の自滅をやり出した。同時期にニクソン訪中があり、その後は米ソ雪解け、レーガンによる冷戦終結まで、アメリカは20年かけて断続的に冷戦体制を壊していった。

 多極主義に基づいてアメリカの自滅を画策したニクソンは1974年のウォーターゲート事件で辞めさせられた。この事件の騒動からは、アメリカのマスコミを操っているのはイギリスの側であり、資本家の側ではないことが感じられる。ニクソンを辞任に追い込んだ米マスコミは「悪を退治した正義の味方」として描かれ、その後、世界中の多くの若者が英雄談にひかれ、ジャーナリスト志望になった(かつての私自身も)。だが、これは実はイギリス系の謀略であり、ヒットラーや東条やサダムフセインを極悪に描いたのと同じ、イギリスお得意のマスコミを使った善悪操作の戦略だった。

 ニクソン以後、アメリカ側が冷戦終結に向けて動いたのに対抗し、イギリスは、イスラエルをけしかけて米政界に食い込ませた。イスラエルはもともと、イギリスの中東支配の道具として、アラブにかみついて分断・従属させる番犬(羊の群に対するシェパード犬)として建国を容認された国だった。だが、イギリスが国力低下の末に1967年、中東(スエズ以東)からの撤退を決めたため、梯子を外されてイスラエルは危機に陥った。(選民思想のユダヤ人は、羊の群れを飼い主の代わりに一定方向に進ませる牧羊犬シェパードのように、遅れた他の民族を誘導する、神様のためのシェパードを自称している。だが現実のイスラエルは、神様ではなくイギリスの番犬だった)

 危機を乗り越えるため、イスラエルはまず67年に第3次中東戦争を起こしてパレスチナからアラブ諸国(エジプト、ヨルダン、シリア)を追い出してガザ、西岸、ゴラン高原を占領した。同時に米政界に食い込み、アメリカの中東戦略をイスラエル好みのものに変えることで国家存続をはかる戦略を開始した。イスラエルは、イギリスの有能なシェパードとしてアメリカに食いつき、抵抗勢力に「ユダヤ人差別」のレッテルを貼って噛みついた。



イスラエルとの暗闘

 イスラエルはイギリスから、議員への圧力のかけ方、軍事産業との結託の仕方、マスコミの操作術など、アメリカを牛耳るノウハウを提供され、数年で米政界に食い込み、1980年に当選したレーガン政権に政策立案者としてイスラエル系の勢力(のちのネオコン)が数多く入り込んだ。

 アメリカの世界戦略をめぐる資本家とイギリスの暗闘は、資本家とイスラエルの暗闘に変質した。以前の記事に書いたように、もともとイスラエルの建国をめぐっては、ロスチャイルドなど資本家ユダヤ勢力と、活動家ユダヤ勢力(シオニスト)との間に暗闘があったが、その暗闘は数十年後にアメリカで再発した。

 資本家の側は、必要以上に過激なシオニスト右派勢力をアメリカで構成して1970年代後半以降イスラエルの入植地に送り込み、イスラム側とのいかなる和平も許さない過度な強硬姿勢をイスラエルに植え付け、イスラエルが好戦的にやりすぎて自滅していく方向に誘導した。

 イスラエルの代理をつとめるふりをして実は資本家の代理というスパイ的な勢力は、イスラエル側の入植者(リクード右派)だけでなく、米側のネオコンも同様だった。ネオコンが入り込んだレーガン政権は、ソ連のゴルバチョフと談合して冷戦を終わらせ、ドイツを統合するという、イギリスの世界戦略を潰す大事業を挙行した。

 また、レーガンは2期目の最後の1988年、アラファトを亡命先のチュニジアからパレスチナに呼び戻し、パレスチナ国家の建設に道を開いた(任期最後の年にやることでイスラエルの妨害を避けた)。1993年のオスロ合意につながるこの動きは表向き、パレスチナ問題を解決してイスラエルの安定に貢献する戦略とされたが、実際には、パレスチナ国家の創設後、ゲリラが出てきて以前より有利な位置からイスラエルを砲撃する可能性があった。

 イスラエルはアメリカに引っかけられて潰される懸念があると気づき、いったんオスロ合意で結んだ和平を、その後破棄した。和平を破棄したことで、イスラエルでは右派(入植者)の政治力が強まったが、右派もイスラエルを潰そうとする米資本家が送り込んだスパイだったことは、すでに述べたとおりだ。



テロ戦争で巻き返そうとした英イスラエル

 冷戦終結は資本家の勝利だったが、その後、イギリスが反乱してこないよう、冷戦終結と並行して起きた第2次グローバリゼーションで、アメリカだけでなくイギリスも大儲けできる金融システムが採用され、ロンドンはニューヨークと並ぶ世界金融の中心となった。だが1997年のアジア発の国際通貨危機は、米英中心の金融覇権が永続しないことを感じさせた。

(通貨危機の際、IMFが東南アジアや中南米諸国に過度に厳しい借金取り戦略を採り、反米感情を煽った行為には、隠れ多極主義の臭いがする)

 その後イギリスは、イスラム側と戦うイスラエルや、軍事予算増を求める米の軍産複合体ともに「第2冷戦」的なイスラム過激派との永続的テロ戦争を画策した。アメリカでは99年ごろから「近いうちにイスラム教徒によるテロがある」と喧伝され、01年の911でそれが現実化した。この前後、マスコミを使ってイスラム側を極悪に描く、イギリスお得意の善悪操作術が展開された。

 マスコミ制御を英イスラエル側に取られ、議会では反イスラエルの言動も許されないがんじがらめの状況下で、現ブッシュ政権が採った戦略は「英イスラエルの意のままに動きつつ、それを過激にやりすぎることで、英イスラエルの戦略を潰す」という、隠れ多極主義だった(レーガンやニクソンも似た戦略を採っており、ブッシュ政権の発明ではないが)。

 ブッシュ政権の隠れ多極主義は今、成功の直前まできている。ブッシュは今年、任期末なので再選努力をする必要もなく、イスラエルに気兼ねせず好き放題ができる。イスラエルは、イスラム側との自滅的な最終戦争にいつ突入してもおかしくない。イスラエル軍が予定しているガザ大侵攻が、大戦争の幕を落としそうだ。

 金融界では、連銀のグリーンスパン前議長が先日、アラブ産油国(GCC)にドルペッグ破棄を勧めた。連銀のバーナンキ現議長は「アメリカの不況はひどくなる」と景気に冷水を浴びせる発言を何度も繰り返している。いずれも、金融とドルの覇権の大舞台を支える大黒柱を斧で切り倒そうとする、多極化誘発の言動である。かつてイギリス好みの戦争機関の一部だった米連銀は、今では隠れ多極主義の資本家の手先に成り変わっている。



イギリスをEUに幽閉する

 アメリカが金融崩壊していくと、同じ金融システムに乗っているイギリスも連鎖的に崩壊する。以前の記事に書いたように、イギリスは今年、金融財政の危機になると予測されている。スコットランドでは、イギリスから分離独立を目指す動きも続いており、独立支持の元俳優ショーン・コネリーは最近、77歳の自分が死ぬ前にスコットランドは独立すると発言している。

 米英同盟の崩壊、金融財政危機と国土縮小の末、イギリスはアメリカを操作して世界を間接支配することができなくなり、EUに本格加盟せざるを得なくなるだろうが、EUでは今、リスボン条約などによって、政治統合が着々と進んでいる。独仏はすでに軍事外交の統合で合意しており、イギリスもEUに本格加盟するなら、軍事外交の権限をEU本部に明け渡さねばならない。

 これは、イギリスが外交力を駆使してアメリカを牛耳ることを永久に不可能にする。アメリカの資本家から見れば、いまいましいイギリスをEUに永久に幽閉することができる。

 イギリスは、EUを牛耳って覇権の謀略を続けようとするかもしれないが、かつて二度もイギリスに引っかけられて潰された上、50年の東西分割の刑に処されたドイツは、もう騙されないだろう。サルコジのフランスも、親英的なふりをしつつ実際には多極化の方に乗る狡猾な戦略を展開している。独仏とも、イギリスの長年の謀略から解放されたいはずである。

 アメリカは、イギリスとイスラエルから解放されて国際不干渉主義に戻っていくだろうし、ロシアや中国や中東(GCC+イラン+トルコ)も、米英覇権から抜け、独自の地域覇権の勢力になっていくだろうから、たとえイギリスがEUを牛耳れたとしても大したことはできず、世界は多極化していくだろう。アメリカを好戦的にしていたイギリスとイスラエルが無力化されることで、世界は今より安定した状態になることが期待できる。

いい話

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4月 202012

「マインドコントロール」

 ビル・トッテン

2012年04月20日 

~アメリカ国籍を棄て、自分自身の意志で日本に帰化したためか、この国に住み幸せな生活を享受できるのは日本という国の「お蔭」だと思う気持ちは、日本で生まれ育った人よりも強いかもしれない。また、さらにいえば、私がアメリカで生まれ育ったということも大きい。なぜならアメリカは、愛国心を教えることに関して日本よりもはるかに長けているからだ。~ 

私が子どもの頃は、幼稚園から高校まで、朝礼にあたる時間に星条旗に対して忠誠を誓う言葉を述べさせられた。大半のアメリカ人がアメリカは世界一だと信じているのは、愛国心を持つような教育がなされているからなのだ。だからこそ、先進国の中で最も貧富の差が激しく、貧困やホームレスが最も多く、犯罪や麻薬が蔓延した国になっても人々はアメリカンドリームを信じた。

しかしそういった洗脳も、インターネットを通して真実の姿を知る人々が増えるにつれて徐々に解け始めている。アメリカという国がいかに自国民を搾取し、また他の国に対しては二重基準をもって接しているのか、気づき始めたのである。それが昨年ウォール街から始まった占拠運動であり、メディアが報道しなくとも、その運動の勢いは衰えをみせてはいない。

そのようなアメリカ国民の反発に対してか、オバマ大統領は今年、国防権限法に署名した。これはテロに加担していると疑われている人を、罪状や裁判がなくとも無期限に政府が拘留できるというものである。アメリカ政府は2001年9月11日からの有事体制を利用して、テロ対策の名目でアメリカ国民の人権の抑圧政策を強化しているのだ。

さらに今、アメリカの国家安全保障局(NSA)では、巨大な「スパイセンター」をユタ州ブラフデールに建設中だと米Wirec誌が報じた。このセンターの目的は、電子メールや電話など世界中のあらゆる通信網を解読、分析、保存することである。

洗脳、教育、マインドコントロール、なんという名称で呼ばれようとも、これまで少なくとも国家として国民をうまく統制してきた方法が利かなくなれば、あとは権力を使って言うことを聞かせようとする。それがアメリカである。

一方、いまの日本で最も強力なマインドコントロール機関もテレビである。政府の流したい情報だけを伝えるNHKと、広告主が流したい情報を流す民放放送が日本の「世論」を形成している。従ってこれらのメディアがアメリカの真実を報じない限り、日本人はアメリカを崇め続けるのだろう。

社会や国家に奉仕することの大切さではなく、自分の利益をいかに増やすかを教えられてきた人々が今の日本の社会の中心にいる限り、日本の現状を変えることは容易ではないかもしれない。教育がいかに大切であるか、すなわち国にとって重要であるかを熟知していたからこそアメリカは戦後日本から、その精神の根底にあった古神道、仏教、儒教、武士道などを一掃させる教育制度をとらせたのだ。時間はかかるかもしれないが、日本の国の成り立ちとその歴史を思うと私はいつも楽観的になる。そして日本人が崇めるアメリカの本当の姿をできるだけ多くの人に知ってもらいたいと思うのはそのためである。

<ビル・トッテン プロフィール>(Bill Totten, 1941年 -)は株式会社アシスト社長・評論家。2006年9月、日本国籍を取得。カリフォルニア州に生まれる。学歴は南カリフォルニア大学大学院。学位は経済学博士(南カリフォルニア大学)。

カリフォルニア州立大学卒業後、ロックウェル社、システム・デベロップメントに勤務する。在職中に南カリフォルニア大学の経済学博士号を取得し、1969年に来日した。1972年、パッケージソフトウェア販売会社「アシスト」を日本で設立。

1990年、日米の経済摩擦の激しいさなかアメリカの姿勢を厳しく批判した処女作『日本は悪くない』を上梓。以後も日米問題についての著書を精力的に執筆。その姿勢がアメリカ政府の嫌悪感を招き、ブラックリストに載せられたことから、アメリカ国籍を捨てて、日本国籍取得を決意。

東日本大震災の瓦礫処理はなぜ進まないのか?

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4月 172012

愛知県でも現在、話題になっている地方自冶体による瓦礫の受け入れは、下記の文章を読んでいただければわかるように、よく考えてみれば、本質を外した全く枝葉の問題です。放射性物質拡散のリスクを考えるなら、なぜ、国がこんなキャンペーンを繰り広げているのか、理解に苦しむところです。



*取りあえず分かりやすい資料を並べてみました。

まず、問題点を整理している武田邦彦氏のブログから紹介。以下。

1. 瓦礫の量は阪神淡路大震災と大きく違うのか?

阪神淡路大震災の時の瓦礫の量は2000万トン、東日本大震災2300万トン(環境相発表)で、わずかに東日本大震災の方が多いが、地域が広いことを考えるとほぼ同じか、むしろ東日本の方が面積あたりにすると少ない。

2. 瓦礫全体の内、どのぐらいを被災地の外で処理するのか?

瓦礫総量の内、わずか20%の約400トンを東京やその他の地域で処理する。80%が現地処理。

3. 瓦礫の処理が遅れている理由は何か?

「瓦礫の処理が5%しか進んでいない。これは瓦礫の引き受けが進んでいないから」と2月21日に発表した。しかし、もともと被災地外で処理するのはたったの20%だから、被災地外の引き受けが順調で、もし半分が引き受けても10%の処理率になるに過ぎない。

 つまり、環境省はこれまでと同じように瓦礫の処理が遅れている理由を、国民が誤解するように発表し、専門家と言われる人はこの辺の事情を十分に知っているのに言わない。新聞も同じである。

さらにNHKは2月末の放送で「瓦礫を不当投棄するので、瓦礫処理が進まない」という自治体の言い分をそのまま放送した。山のように積んである震災瓦礫の数100分の1しかないのに、それがあたかも瓦礫の処理が遅れている理由にしている。またさらにそれを知っているNHKが自治体の言い分だけを放送するというのだから、国民が税金や受信料を支払っていることを忘れているとしか思えないのは当然だろう。

「がれき処理なぜ進まない お役所仕事が原因?」

東京新聞(3月20日 紙面から)

 

東日本大震災で発生したがれきの処理が遅れている原因は、環境省や県の「お役所仕事」にある可能性が浮上した。焼却炉の新設を求める陸前高田市の申し出を岩手県が“門前払い”にしていたのだ。野田政権は、がれきを全国の自治体で受け入れる「広域処理」に血道を上げているが、被災地での処理体制を見直すのが先決ではないか。(佐藤圭)

陸前高田市長県に提案

専用焼却炉 門前払い

沿岸部の中心市街地が津波で壊滅した陸前高田市。高台に建てられたプレハブの仮市庁舎で戸羽太市長は、国や岩手県の対応に怒りをあらわにした。

市の推計量は県内最大100万トン

「やる気のない人たちだ。とにかく新しいことには挑戦したくない。環境省と県は責任をなすりつけ合っている」

戸羽市長ががれき専用の焼却炉の建設を県に提案したのは震災直後のこと。陸前高田市のがれき推計量は県内最大の100万トン。がれきの撤去、仮置き場での破砕、選別までを氏が担当し、となりの大船渡市にある太平洋セメントでの焼却処分などの事務を県に委託した。

戸羽市長は「太平洋セメントも津波被害で動き出せない状況だった。処理が始まったとしても大船渡分が優先される可能性があった。このままでは大きく後れを取る。自前の焼却施設を造らなければならない。被災地全体のがれきを処理するためにも必要な施設だった」と、強調する。

提案は具体的だった。

建設場所は、被災した県立高田松原野外活動センターの敷地。その背後に仮置き場を設置する。だが、県の担当者の反応は、

「環境アセスメントの手続きなどで、2,3年はかかる」と素っ気なかった。

昨年5月の衆院東日本大震災復興特別委員会で戸羽市長はの窮状を知った遠山清彦議員(公明)が、「被災地の市町村が処理プラントを建てる時、国が支援するべきだ」と訴えた。

当時の松本龍防災担当相も「県や市と相談して取り組んでいきたい」と前向きな姿勢を示した。それでも、案が具体化することはなかった。

環境省と責任なすり合い

戸羽市長は、「何がしかの動きがあると思ったが、県に問い合わせれば『環境省はやる気がない』環境省にきけば、『県から正式な話は来ていない。話があれば当然検討する』という始末だった」とあきれる。

県や国の非協力的な態度は、焼却炉にとどまらなかった。戸羽市長は、米軍から大型破砕機を借り受ける計画を県に持ちかけたが、案の定、「前例がない」と断られた。

「(だから試せよ)という話だ。住民に少しでも動き出したところを見せたいのに、全く理解してもらえなかった」と、戸羽市長。

「国は現実見て手立て講じて」

陸前高田市は今のところ、広域処理は予定しておらず、全て太平洋セメントに依頼することにしている。「他に困っている被災地が沢山ある。広域処理には賛成だが、広域分は宮城県で全体の2割。岩手県で全体の1割。広域処理が進んだからと言って、一気に解決されるという話ではない。国は被災地ぼ現実をしっかり見てあらゆる手立てを講じてほしい。

 

独自処理の仙台先行

「阪神」に学びスピード歴然

神戸市環境保全指導課嘱託職員の笠原敏夫さん(61)は、1995年の阪神淡路大震災の際、がれき処理の最前線に立っていた。

「がれき処理は厚かましくやらないといけない。制度や金は後から付いてくる」と力を込める。震災後の処理率6.7パーセントにとどまる

阪神淡路大震災と比べると、東日本再震災でのもたつきぶりは目を覆うばかりだ。

がれきの発注量は、今回が約2200万トン。(岩手・宮城・福島3県の合計)、

阪神淡路が約2000万トンでそれほど変わらない。ところが、震災後1年経った処理率は、東日本大震災の6.7%に対し、阪神淡路は約50%。今回は被害地域がけた違いに広く、津波や福島原発事故の影響があったとはいえ、その差は歴然としている。

明暗を分けたのは仮説焼却炉だ。

阪神淡路では、神戸市など兵庫県内7市町に24基設置された。最も早いものは、震災後3か月、遅くとも、1年後には稼働し始めた。

笠原さんは、「最初に稼働した炉は、1日当たりの処理能力が40トン程度。大した規模ではなかったが、とにかく住民に処理が進んでいるところを見せる事が一番大事だった」と振り返る。

今回はと言えば、何ともお寒い状況だ。

仙台市を除く被災市町から処理を受託した宮城県は、20機程度の整備を計画しているが、ようやく今月24日、1基目が試運転に入るところだ。岩手県では、宮古市に2基、釜石市に2基整備するが、フル稼働には至っていない。

唯一の例外が、国や県に頼らず独自で対応できた政令市の仙台市。3基の焼却炉のうち、昨年10月に2基、12月に残る1基が稼働。環境省と岩手、宮城両県が処分目標に据える2014年3月末よりも半年以上も早い3年度夏までに終える見通しだ。

笠原さんは、昨年3月下旬の1週間、仙台市に派遣された。

「仙台は阪神淡路大震災の時の神戸と同じか、それ以上のスピードで物事を進めていた。

震災のがれき処理を相当研究していた」と称賛する。

しかし、7月に出向いた岩手県では、様子が違った。国の動きを気にするような姿勢が目に付いたといい、笠原さんはやんわりと苦言を呈する。

「岩手県の職員はがまん強い。国の補助金が付くまで待ち続ける。一般廃棄物の処理は市町村の事務。許認可官庁の県には実力がなかった」

細野豪志環境相は16日の衆院環境委員会で、がれき処理の遅れについて、

「被災地での処理が、仙台市のようなスピードで出来なかった事と、広域処理がなかなか進まなかった事との両面がある」と答弁した。

 

「被災地の対応充実を」

質問した斎藤恭紀議員(きづな)は、宮城2区(仙台市)選出だ。「がれきの処理が遅れている原因が現地処理にあるのは、仮説焼却炉の状況を見ても明らかだ。広域処理に責任を押し付けるのは間違っている。政府は自らの失策を認めるべきだ」と憤り、今後のがれき処理について次のように提案する。

「広域処理に絶対反対ではないが、現地で処理する環境を整えることの方が優先度は高い。仮説焼却炉の増設や、再利用の促進が欠かせない。がれきは財産だ。有効に活用する方法はいくらでもある。被災市町村が主体的に取り組むことのできる仕組みを造り、思い切った政策を打ち出すべきだ」(引用終わり)

*礫受け入れが復興の助けになると思っている間違いを指摘し、瓦礫受け入れを反対する理由を解説しているマンガもあります。

 出所<http://madoka8madoka.seesaa.net/article/263159555.html>

「瓦礫受け入れが復興の助けになると思ってませんか?」







「民主党政権に大疑獄の噂 今、復興利権の奪い合いをする時なのか」

(日刊ゲンダイ2012/3/7)

東日本大震災からもうすぐ1年が経つ。本来ならば、被災3県のあちこちで復興の槌音が響き渡り、ブルドーザーがうなりをあげているところだ。復興需要が経済を押し上げ、被災者にも希望が見えてくる。こうならなければいけないのに、現実はひどいものだ。

ガレキ処理は2月末時点で、岩手県が8%、宮城県が5%。これしか最終処理が済んでいないのだ。1ケタ台とは唖然とするが、それでも2県はガレキをどけただけまだマシだ。放射能汚染にさらされた福島県では35万トンのガレキが手付かずで放置されている。(引用者注:福島県のガレキは広域処理の対象外)どけるにしても行き場がないからだ。中間貯蔵施設もできていない。

今なお、仮設住宅で暮らす人は11万人。アパートや公営住宅などの「みなし仮設」に住む人は15万人。震災で損壊した防潮堤は3県で約190キロに及ぶが、今年度中に復旧工事が始まるのは18キロにとどまる。「なんだこりゃ?」という数字ばかりではないか。

震災から1年も経っているのに、なぜ、こんな惨状が続いているのか。実はカネが全然、回っていないのだ。

民主党政権は4回の補正予算を組んだ。1、2次補正で6.7兆円、3次補正で9兆円。2.5兆円の4次補正にも被災者の二重ローン対策など、復旧復興関連が盛り込まれた。今後も含めると、20兆円以上の金が復興につぎ込まれるのだが、こうした予算があろうことか、てんで執行されていないのである。

◆復興庁のフレコミはすべてが大ウソ

「1、2次補正は去年の7月に成立した。ところが、年末になっても復興のために使われた予算は2.7兆円程度で、40%くらいだった。そのうち道路や公営住宅の建設などのインフラ公共事業には1.4兆円の予算が組まれたが、執行されたのは2100億円だけ。執行率はたった15%です。被災者向けの公営復興住宅やダムの修理などに使われた予算はゼロでした」(関係者)

目をこすりたくなるような現実だが、驚くのは早かった。民主党政権は今年2月、鳴り物入りで復興庁をスタートさせた。復興のための省庁横断組織である。ここが1.9兆円の「復興交付金」を配る。自治体の負担ゼロ、しかも、自治体のやりたい事業に「ワンストップ」でカネをつける。そうやって、地域主体の復興事業をスピーディーに進めていく。そんな触れ込みだったが、大ウソだった。

カネを出し惜しみ、「不要不急の事業は削る」(平野復興相)と圧力をかけて、自治体からの申請を絞らせ、それもエラソーにばっさばっさと切り捨てた。結局、1回目の交付が決まったのは3053億円。ナント全体の6分の1である。これには各自治体の怒ったこと。

陸前高田市の戸羽太市長は「われわれに不要不急の事業などない」とカンカンだったし、宮城県の村井嘉浩知事は「復興庁ではなく査定庁だ。4月から一気に復旧復興に進もうとしているのに、国が後ろから袖を引っ張っている」と切り捨てた。

それなのに、消費税引き上げしか頭にない野田は、「予算の執行が十分進んでいないところもある」と他人事なのである。これじゃあ、被災地は踏んだり蹴ったり。復旧復興は永遠に進まないことになる。

◆中央省庁の官僚は復興予算で焼け太りしている

それにしても、民主党政権のお粗末、能天気はもはや犯罪的ではないか。大新聞は復興が遅れていることについて「自治体の職員不足」とかイロイロ書いているが、全然違うのではないか。

国民だって、被災地のために増税を受け入れたのである。あとは自治体に任せればいい。そんな簡単なことができないのは、そこに怪しげな思惑があるからだろう。何でもかんでも仕切ろうとする中央省庁の官僚たちとその利権。それに連なる政治家たちの思惑。そんなものがチラチラする。被災地を取材しているジャーナリストの鈴木哲夫氏はこう言った。

「放射能の除染が進まない福島では、農民たちが農地に屋根をつけるハウス栽培を思い立ち、隣に加工工場を造る計画を立てて、復興交付金を申請しようとした。ところが、復興交付金がつくのは国交、文科、厚労など5省庁が仕切る40事業と決まっている。加工工場は経産省マターで5省庁に入っていない。『交付金が欲しければ工場のプランを外せと言われた』というのです。こんなバカなことがまかり通っているのですよ。しかも、復興庁がウンといっても、最後は財務省が出てきて査定する。これじゃあ、これまでの予算とどこが違うのか。金額が増えた分、財務省を筆頭に中央省庁の官僚の権限が拡大し、彼らは焼け太りしたことになる。中越地震のときには、国がカネを出して基金を組んだ。使い道は官僚ではなく、民間の有識者が決めた。今度もそうしたプランがあったが財務省が潰した。自分たちの出番がなくなるのは困るからです」

こんな連中が権限をかさに着て、復興を遅らせているのである。その財務省について、ある民主党議員はこんなことを言っていた。

「彼らは巧みだ。知らない間に自分の選挙区に有利な予算をつけて“やっときましたよ”などと言う」

予算をつけてもらった議員は地元で感謝される。選挙ではこういうことが効く。一方で、財務省には頭が上がらなくなってしまう。こんなことが多くの民主党議員の地元で行われている。なにしろ、20兆円の復興予算なのである。

*東京新聞 「こちら特報部」2012年 2月15日より

震災がれき広域処理は問題の山 環境総合研・池田副所長に聞く

 

野田政権が復興庁の発足を機に、宮城、岩手両県で発生した震災がれきの広域処理キャンペーンを一段と強力に推進し始めた。旗振り役の環境省は「がれきは安全」「復興の足かせになっている」と受け入れを迫るが、他に選択肢はないのだろうか。

「広域処理は必要性、妥当性、正当性の観点から問題」と主張する環境専門シンクタンク「環境総合研究所」(東京)の池田こみち副所長に聞いた。

野田佳彦首相は、復興庁がスタートした10日の記者会見で、今後の復旧復興の重要課題として

(1)住宅再建・高台移転

(2)がれきの広域処理

(3)雇用の確保

(4)被災者の孤立防止と心のケア

(5)原発事故避難者の帰還支援-の5項目を挙げた。

がれきについては「安全ながれきを全国で分かち合って処理する広域処理が不可欠だ」と力を込めた。池田氏は真っ先に、政府の言う「復興の足かせ論」に疑問を投げかける。

「被災地に何度も足を運んでいるが『瓦礫があるから復興が進まない』という話は聞かない。被災地では住宅再建や雇用の確保、原発事故の補償を求める声が圧倒的だ。

がれきは津波被害を受けた沿岸部に積まれるケースが多いが、そこに街を再建するかはまだ決まっていない。

高台移転には、沿岸部のがれきは全く障害にならない。がれきが復興の妨げになっているかのような論調は、国民に情緒的な圧力を加えているだけだ

次に広域処理の妥当性だ。

池田氏は環境・安全面と、経済的、社会的な観点からの議論を促す。環境・安全面は住民が最も心配している点だ。

環境省の広域処理ガイドラインでは、被災地からの搬出から受け入れまでに複数回、放射線量を測定することになっているが、いずれもサンプル調査。

その精度については、同省も「サンプルを採取しなかった部分で、放射線量が高いところがないとは言えない」(適正処理・不法投棄対策室)と認めざるを得ない。

「測定を繰り返して安全性を強調しているが、実は非科学的だ。がれきを全部測ることができないのは分かるが、公表されているデータでは、がれきのボリューム、採取方法、なぜサンプルが全体の線量を代表できるかの根拠などが不明だ」

焼却炉の排ガス測定もサンプル調査だ。

「環境省は、4時間程度採取した排ガスを測定する方法を示しているが、サンプル量が少なすぎるのではないか。サンプル量を増やして定量下限値を下げ、実際にどれくらい出ているかを把握しないと、汚染の程度は分からない」

池田氏は、焼却灰の埋め立て処分にも首をかしげる。放射性セシウムが1キロ当たり8000ベクレル以下であれば「管理型最終処分場」に埋め立てる計画だ。

「管理型の浸出水処理施設ではセシウムは除去できない。灰を普通のごみと同じように埋め立てる基準が8000ベクレルでは高すぎる。どうしても埋め立てるのであれば、コンクリート製の仕切りで厳重に管理する『遮断型最終処分場』で保管するしかない」

問題は放射性物質に限らない。池田氏は津波の影響にも警鐘を鳴らす。

「津波によって流されたがれきは、油類や農薬類などの有害物質を吸収している。日本の焼却炉における排ガス規制は、ヨーロッパに比べて非常に甘い。規制されているのは窒素酸化物、ダイオキシン類など5項目にすぎず、重金属などは野放しだ。こうした未規制の物質が拡散する恐れがある」池田氏は「経済的妥当性も検討されていない」とあきれ顔だ。

「放射性レベルが低いというのであれば、がれき処理専用の仮設焼却炉を現地に作って処理するのが最も効率的だ。雇用も生まれる。高い輸送費をかけて西日本まで持って行くのは、ばかげている」

「東京都が既に協力しているが、問題は山積している。都心部で新たに処分場を確保するのは困難。焼却炉の維持管理や更新にもコストがかかる。できるだけ延命されなければならないのに、震災がれきを燃やしたり、埋め立てたりすれば、焼却炉や最終処分場の寿命は確実に縮まる」

妥当性の3点目が社会的側面だ。

広域処理をめぐっては、被災地と被災地以外で“対立構図”ができつつある。

「被災地の人たちは、普段の生活ではがれきのことをあまり気に掛けていなくても、全国で『受け入れる、受け入れない』という騒ぎになれば、反対する住民への不信感が募るだろう。

受け入れを迫られる住民たちも、本当は被災地をサポートしたいのに信頼できる情報もない中で心の余裕を失う。こうした対立構図をつくっているのは国だ」

意思決定、政策立案プロセスの正当性はどうか。

環境省は関係省庁との検討を経て、昨年4月8日には、宮城、岩手、福島の被災3県と沖縄県を除く各都道府県に受け入れの協力を要請している。

同省の有識者会議「災害廃棄物安全評価検討会」は一連の非公開会合で、広域処理の方針にお墨付きを与えてきた。

『広域処理』ありきの進め方だ。環境省は自治体や国民を蚊帳の外に置いたまま、一方的にものごとを決めている。とても正当な手続きとは言えない」

では、どうするか。

首相は、冒頭に紹介した会見の中で「被災地の処理能力には限界がある。岩手県では通常の11年分、宮城県では19年分だ」と述べている。がれきの量は、宮城県が約1569万トン、岩手県が約476万トン。2009年度の年間量で割れば、首相が言う通りの数字になる。

だが、実際に広域処理される量はずっと少ない。現段階で県が把握しているのは、宮城が4年分の約344万トン、岩手が1・2年分の57万トン。

しかも、宮城県の広域処理分には、仙台市は含まれていない。同市が市内3カ所に仮設焼却炉を設置し、4年分の約135万トンを13年夏までに自前で処理するからだ。環境省と岩手、宮城両県が処分目標に据える14年3月末よりも半年以上も早い。

池田氏はこう提言する。

「現地で処理する場合、焼却しない場合などそれぞれの事情に応じて選択できる多様な代替案を早急に検討すべきだ。汚染が少なく分別が徹底されていれば、木材などはチップにして燃料にすることもできる。広域処理する場合でも期間は1年のみとし、輸送距離の短い範囲でしっかりした施設を持つところに限定する。その間にリサイクルを促進したり、専用の仮設焼却炉を増設したりすることが考えられる」

    原田武夫氏や佐藤 優氏のような元外交官出身の評論家の方々を中心に「情報リテラシー」という言葉が日本でもよく使われるようになってきた。何となくわかるが、わかりにくい言葉である。内田 樹氏が良い解説をしているので今回はその紹介させていただく。



まず、<Wikipediaより>

情報リテラシー(information literacy)とは

情報 (information)と識字 (literacy) を合わせた言葉で、情報を自己の目的に適合するように使用できる能力のことである。「情報活用能力」や「情報活用力」、「情報を使いこなす力」とも表現する。したがって情報リテラシーとは、情報を主体的に選択、収集、活用、編集、発信する能力と同時に、情報機器を使って論理的に考える能力が含まれている。”情報=IT”との連想やインターネットの利用時において情報リテラシーが要求される等の理由から、しばしばコンピューターリテラシーと混同される。しかし、以下に定義されるように、本来必ずしもコンピュータと直結するものではない。

 

朝日新聞の「紙面批評」より

(*長すぎたので、本紙では数行削られているが、これがオリジナル。)



「情報格差社会」

内田 樹

 

 情報格差が拡大している。一方に良質の情報を選択的に豊かに享受している「情報貴族」階層がおり、他方に良質な情報とジャンクな情報が区別できない「情報難民」階層がいる。その格差は急速に拡大しつつあり、悪くするとある種の「情報の無政府状態」が出現しかねないという予感がする。このような事態が出来した理由について考えたい。



少し前まで、朝日、読売、毎日などの全国紙が総計数千万人の読者を誇っていた時代、情報資源の分配は「一億総中流」的であった。市民たちは右から左までのいずれかの全国紙の社説に自分の意見に近い言説を見いだすことができた。国民の過半が「なんとか折り合いのつく範囲」のオピニオンのうちに収まっていたのである。これは世界史的に見ても、かなり希有な事例ではないかと思う。

欧米には「クオリティ・ペーパー」と呼ばれる知識階級のための日刊紙が存在する。それはせいぜい数十万の「選ばれた」読者しか対象にしていない(『ル・モンド』は35万部、『ガーディアン』は25万部)。日本には「クオリティ・ペーパー」が存在しないことに非を鳴らす人がいるが、「クオリティ・ペーパー」は階層社会に固有のものであり、権力と財貨と文化資本がある社会集団に集中している場合にしか成立しない。

日本にそれがなかったというのは、「一億総中流」の日本社会が欧米ほど排他的に階層化されていなかったためだと私は理解している。日本のマスメディアの欠点とされる「個体識別しがたさ」「横並びの凡庸さ」でさえ、情報資源が全国民に均質的に分配される「情報平等主義」を達成したことの代償と言えないことはない。



その「情報平等主義」がいま崩れようとしている。理由の一つはインターネットの出現による「情報のビッグバン」であり、一つは新聞情報の相対的な劣化である。人々はもう「情報のプラットホーム」を共有していない。私はそれを危険なことだと思っている。

私が小学生の頃、親は朝日新聞と週刊朝日と文藝春秋を定期購読していた。私は(暇だったので)寝転んでそれらを熟読した。それだけの情報摂取で、世の中で起きていることについて(政治経済からファッションや芸能まで)小学生でさえ「市民として知っておくべきこと」はだいたいカバーできた。思えば牧歌的な情報環境であった。全国民が同じような事実しか知らず、同じようなことに興味を持ち、同じような意見を口にしていた時代(紅白歌合戦の視聴率が80%を超えていた時代)がかつて存在し、今消え去ろうとしている。だが、そのことのリスクについては誰も語らない。



インターネット・ユーザーとして実感することは、「クオリティの高い情報の発信者」や「情報価値を適切に判定できる人」のところに良質な情報が排他的に集積する傾向があるということである。そのようなユーザーは情報の「ハブ」になる。そこに良質の情報を求める人々がリンクを張る。逆に、情報の良否を判断できないユーザーのところには、ジャンク情報が排他的に蓄積される傾向がある。

「情報の良否が判断できないユーザー」の特徴は、話を単純にしたがること、それゆえ最も知的負荷の少ない世界解釈法である「陰謀史観」に飛びつくことである。

 

(*内田氏の言う通りだが、陰謀論も普通に報道される表向きの情報も311の報道を見ればわかるように玉石混交である。確かに陰謀論の本で100%本当だと思われるものに出会ったことはない。しかし、表の情報も陰謀論に分類される情報も物事を単純に解釈しようとする傾向は私には全く同じだと思われる。どちらにしろ情報発信者の意図が意識しているかどうかは別にしてどんな情報にも含まれている。)

 

ネット上には、世の中のすべての不幸は「それによって受益している悪の張本人(マニピュレイター)」のしわざであるという「インサイダー情報」が溢れかえっている。「陰謀史観」は、この解釈を採用する人々に「私は他の人たちが知らない世の中の成り立ちについての“秘密”を知っている」という全能感を与えてしまう。そして、ひとたびこの全能感になじんだ人々はもう以後それ以外の解釈可能性を認めなくなる。彼らは朝から晩までディスプレイにしがみついている自分を「例外的な情報通」だと信じているので、マスメディアからの情報を、世論を操作するための「嘘」だと退ける。こうやって「情報難民」が発生する。彼らの不幸は自分が「難民」だということを知らないという点にある。



情報の二極化がいま進行している。この格差はそのまま権力・財貨・文化資本の分配比率に反映するだろう。私は階層社会の出現を望まない。もう一度「情報平等社会」に航路を戻さなければならないと思っている。そして、その責務は新聞が担う他ない。

その具体策について述べる紙数が尽きた。

というのが原稿。



その続きを書き足しておく。

本稿では「情報の階層化」について書いたが、実際に起きているのは、「階層化」というよりはむしろ「原子化」である。

人々は今では個人単位で情報を収集し、「自分が知っている情報の価値、自分が知らない情報の価値」についての中立的なメタ認知能力を失いつつある。

「自分が知っている情報の価値、自分が知らない情報の価値についての中立的なメタ認知能力」のことをここでとりあえず「情報リテラシー」を名付けることにする。

情報リテラシーとは一言で言えば「情報についての情報」である。

「自分が知っていることについて、何を知っているか」というメタレベルの情報のことである。

例えば、「この情報をあるメディアは伝えているが、違うメディアは伝えていない」という情報の「分布」についての情報。

「この情報には信頼性の高いデータによる裏付けが示されているか、いないか」という情報の「信頼性」についての情報。

「この情報はこれまで何度も意匠を変えて登場してきたある種のデマゴギーと構造的に同一か、先例の見いだしがたい特異性を示しているか」という情報の「回帰性」についての情報。などなど。

私たちは一般的傾向として、自分が知っている情報の価値を過大評価し、自分が知らない情報の価値を過小評価する。

「私が知っていること」は「誰でもが当然知らなければならないこと」であり、「私が知らないこと」は「知るに値しないこと」である。

そういうふうに考える人間がいれば(アカデミズムの世界にもけっこうたくさんいるが)、その人の情報リテラシーは低いと判断してよい。

情報リテラシーが高いというのは、自分がどういう情報に優先的な関心を向け、どういう情報から組織的に目を逸らしているのかをとりあえず意識化できる知性のことである。

私たちはつねにある種の情報を選好し、ある種の情報を忌避する。そこには個人的な基準がある。

基準となっているのは、私たちがひとりひとり選び取っている「世界についての物語」である。

そのストーリーに整合する情報は「よい情報」であり、そのストーリーになじまない情報は「悪い情報」である。

私たちは客観的事実よりも主観的願望を優先させる。

「世界はこのようなものであって欲しい」という欲望は「世界はこのようなものである」という認知をつねに圧倒する。それは人間である以上しかたがない。

しかたがないけれども、「人間とは(自分を含めて)そういうものである」という認知を行うことはできる。

「私の眼に世界はこのように見える」という言明と、「私の世界経験には主観的なバイアスがかかっており、かつ限定的であるので、私の見ているものが『世界そのもの』であり、『世界の全容』であるということは私にはできない」という言明はレベルが違う。

「レベルが違う」ということは「問題なく共存できる」ということである。

私たちの世界経験はつねに限定的である。

フッサールの「他我」の例で繰り返し引用したが、私が一軒の家の前に立っているとき、私にはその前面しか見えない。家の側面や裏面や屋根の上や床下はさしあたり非主題的なものにとどまっている。

しかし、今、家の前面を見ている私は、この家に側面や裏面があることを「知っている」。

知っていなければ、そもそも私は自分の見ているものが「一軒の家の前面である」と言うことさえできないはずだからである。

私は家の前から横に回り込めば側面が見え、さらに進めば裏面が見えることを確信している。

そう確信できるのは、「家の側面を見ている想像上の私」「家の裏面を見ている想像上の私」たちが「家の前面を見ている現実の私」の経験の真正性を担保してくれているからである。

この「今、ここにいる、この私」の経験の真正性を担保してくれている「想像上の私」たちのことをフッサールは「他我」と呼んだ。

「今、ここ、私」という直接性は、これら無数の「他我」たちとの協働作業抜きには存立し得ない。

それゆえ、「主観性とはそのつどすでに間主観性である」と現象学は教えるのである。

情報リテラシーというのは、自分が受信している情報をつねに「疑え」ということではない。

どのような情報も(嘘もデマゴギーもプロパガンダも妄想も夢も)、紛う方なくこの世界の真正な一部であり、その限りでは、世界と人間の成り立ちについて程度の差はあれ有益な知見を含んでいる。

情報リテラシーとは、それらがどのような間主観的構造によって「私の世界経験」に関与しているかを知ろうとすることである。

私たちはある種の情報の組織的な欠如や歪曲からも「ほんとうは何が起きているのか」を推理することができる。

嘘をついている人間についても「この人は嘘をつくことによって、何を達成しようとしているのか?」を問うことができる。



情報リテラシーとは、一般に信じられているように、「精度の高い情報と、そうでない情報を見分ける力」のことではない。

それはリテラシーのほんの第一歩というにすぎない。

精度の低い情報や、虚偽の情報からでさえ、私たちは「精度の低い情報を発信せざるを得ない必然性」や「虚偽の情報を宣布することで達成しようとしている功利的目標」を確定することができる。

「主観的な情報操作や歪曲はそのつど間主観的に構造化されている」がゆえに、それらもまた「きわめて重要な情報」であることに変わりはない。

そして、私自身による情報の選好や操作もまたまたそのつど間主観的に構造化されているがゆえに、その検討を通じて、私たちは「私自身の知がどのように構造化されているか」を知ることができるのである。

情報リテラシーとはそのことである。



「情報についての情報」とは「おのれの知についての知」のことである。というところまでは「よくある話」である。



問題はこの先。

では、この「おのれの知についての知」を私たちは単独で構成しうるか?

できない、と私は思う。

メタ認知とは、コンテンツの問題ではなく、主体の問題だからである。

メタ認知の認知主体は集合的であり、単独ではない。

それはカール・ポパーのいう「反証可能性」のありかたと同一である。

ロビンソン・クルーソー的単独者は、無人島でどれほど厳密な手続きで、どれほど精密な実験を行っても、科学的真理に到達することはできない。

それは彼が実験によって到達した命題が科学的に間違っているからではない。

命題の当否を吟味するための「集合的な知」の場が存在しないからである。科学者たちが集まって、ある命題の真偽について議論するための「公共的な言論の場」が存在しないからである。

「反証不能」とはそのことである。

命題そのものがどれほど正しくても、他の専門家たちによる「反証機会」が奪われている限り、それは「科学的」とは言われない。

それと同じく、情報リテラシーとは個人の知的能力のことではない。「公共的な言論の場」を立ち上げ、そこに理非の判定能力を託すことである。

情報の階層化とは、そのことである。



私が「情報貴族」と呼んだのは、「自分たちが所有している情報についての情報」を集合的なかたちで形成できる集団のことである。

「情報難民」と呼んだのは、原子化されたせいで、自分が所有している情報を吟味する「公共的な言論の場」から切り離されてしまった人々のことである。

もちろん、「情報難民」たちもネット上に「広場」のようなものをつくって、そこに情報を集約することはできる。けれども、彼らがそこに集まるのは、「自分に同調する人間がたくさんいることを確認するため」であって、「自分の情報の不正確さや欠落について吟味を請うため」ではない。

情報リテラシー問題は実は「情報の精度」にかかわる知力のレベルの問題ではなく、「情報についての情報を生み出す『集団知』に帰属しているか、していないか」というすぐれて「政治的な問題」なのである。

 

政治的な問題である以上、それは政治的なしかたで解決するしかない。



もう一つ、少々、古いですが、興味深い指摘です。

<参考資料>

「インテリジェンスとWEB2.0

原田武夫

 

インターネットでいういわゆる「WEB2.0」以降の世界は、米系インテリジェンス機関とは切っても切れない関係にある。例えば私たちの国=日本で、米系インテリジェンス機関が情報収集活動を展開することにしたとしよう。この時、やり方は大きく分けて3つある。まず1つは直接、青い目の諜報員を日本に派遣する方法。2番目は現地人を何らかのインセンティヴによって、エージェント(協力者)とするやり方。そして3番目が、これらとは全く異なり、本国である米国からいわば「遠隔操作」により情報収集を行う方法だ。



第1の方法は、訓練を受けた諜報員が「現場(=日本)」に潜入して情報を収集するため、そこで得られた情報の信頼度は極めて高い。しかし、このやり方には難がある。というのも考えて頂きたい、「青い目をした諜報員」が日本の巷をうろうろしたのでは、余りにも目立ちすぎてしまうからだ。もちろんアジア系の米国人を派遣するという手もあるが、相手が無防備な日本ならまだしも、巧妙な手段で米国籍を取得した二重スパイである可能性があることを考えると、これでも全く問題が無いというわけではない。



そこで第2の手段はどうかということになるわけだが、これはこれで問題がある。なぜなら、そもそも「米国」という国家に対して忠誠心があるかどうかが疑問である上、米国勢以上のインセンティヴを支払う集団・組織・国家があればそちらになびいてしまう危険性は十二分にあるからだ。したがってこの手段はあくまでも時限付きで行うべきものなのかもしれない。



その結果、たどり着くのが3番目の方法ということになる。そしてその典型例が、実はいわゆるWEB2.0、あるいは最近のWEB3.0なのである。

例えばWEB2.0の例としてブログの例を挙げてみよう。一時に比べれば下火になったものの、日本人は放っておいても、個人情報満載のブログを毎日毎日書いてくれるのである。それを海の向こう側から「検索」すれば、たいていの場合はターゲットとした特定の日本人に関する情報は“無料”で集まってしまう。何事にも「効率性」「経済性」が国家運営において強く求められる今日、米系インテリジェンス機関にとってこれほどまでに好都合なツールはないというべきだろう。逆に彼らからターゲットにされる各国勢からすれば、最も好ましくないツールなのであって、あの手この手でWEB2.0以上を正当化し、普及させようとする米国勢には時に怒りの礫(れき)を投げるようになるというわけなのである。



Facebookを攻撃し始めたドイツ勢こうした観点でマーケットとそれを取り巻く国内外情勢をウォッチしていると、一つの気になる情報が飛び込んできた。

ドイツ勢の中でもハンブルク市の個人情報保護当局が突然、米系インターネット関連企業の雄であり、SNSサイトの典型である「Facebook」を運営する企業に対し、違法な手段で個人情報を集積しているとして「提訴」したというのである。同社の側も既に訴状を受け取ったことを認めており、迅速に善処することを表明しているのだという(8日付シンガポール「ストレーツ・タイムズ」参照)。日本勢の中でも非常に有名な「Facebook」であるが、米欧勢の“角逐(かくちく)”が続く中、実はその渦中に置かれていることをご存じない読者の方々も多数いらっしゃるのではないだろうか。しかし、これはあくまでも「現実」なのだ。私たちが何気なく使っているWEB2.0が、実は情報漏洩という観点からは極めて危険であることを、ドイツ勢は法的手段をもって示しているということも出来るだろう。



もっともこうしたドイツ勢による動きを、単に一民間企業に対するものであると考えると、物事の本質を見失う可能性があるような気がしてならない。なぜなら、ドイツ勢は当局より米系最大手検索サイト「Google」に対しても、同様の非難を行ってきた経緯があるからだ。つまりドイツ勢は、ここに来て急激に米国勢が仕掛けてくるインターネット攻勢に対し、「個人情報保護」を盾に待ったをかけている感があるわけなのである。



一方、やや視野を広げてみると米国勢は欧州勢、とりわけドイツ勢と日本を含む各国のマーケットにおいて、熾烈な闘争を繰り広げてきた経緯がある。その様子はまさに「米独戦争」と呼ぶにふさわしいものであったわけだが、そこで常に焦点となってきたのが、金融マーケットの根幹というべき「情報」なのであった。確かに、私たちとは異なり、ドイツ人もいわば「青い目」をしており、米国人とはその意味で区別がつきにくいと言えなくもない。しかし、ドイツ勢には「ドイツ語」という言語の防御壁があり、情報収集で上記に示した3つの手段でいえば、第1番目の手法を用いるとどうしても目立ってしまうという難点を米系インテリジェンス機関は抱えてきた。それが証拠に第二次世界大戦直後より、戦勝国・米国勢は敗戦国・ドイツ勢がナチス時代から育成してきたスパイ網を活用し、現在のドイツ連邦諜報庁(=米中央情報局(CIA)に相当)を育成してきたのである。そうである以上、遠隔操作で、しかも自動翻訳ソフトを用いればこの「言語の防御壁」すら、やすやすと乗り越えることのできるインターネットによる対独情報収集ほど、米国勢にとって魅力的なものはないに違いない。



しかし、ここで問題となるのが、無邪気な日本勢と同様に、ドイツ勢も果たして日常的にインターネット上へ「個人情報」をまたぞろ書いてくれるかどうかなのである。そこでWEB2.0が登場するわけなのであって、逆にいえば迎え撃つドイツ勢としても米系インターネット関連企業でWEB2.0、あるいはそれと密接不可分な関係にあるものについては厳しい目で監視をし、必要があれば「法的措置」すら講じるべしということになってくる。――つまり、「米独戦争」はWEBの世界においていよいよ燃え盛っている可能性があるというわけなのだ。



日本勢の中ではほとんど語られていないことであるが、実のところ、2005年頃より米国勢の中でもエスタブリッシュメント層に近づけば近づくほど、インターネットは日常的な通信手段としては用いられなくなりつつあることをご存じだろうか。いや、もっといえば携帯電話ですら、必要最小限で会話をし、ごく短時間で切るということがマナーとなっている感がある。なぜか?その理由は簡単だ。――金融メルトダウンがいよいよ“最終局面”に到達しつつある中、米国勢の中では熾烈な勢力争いが始まっており、相互にインテリジェンス機関を巻き込みつつ、諜報戦が国内であっても繰り広げられてきているからだ。そのような中、無邪気に電子メールで「今日の予定」「待ち合わせ場所」を書いたり、あるいは盗聴可能な携帯電話を用いた会話の中で個人情報をしゃべったりすることなど、しかるべき立場にある人間であればあるほど、「控えるべき行為」となってきているというわけなのである。



しかし、ここで疑問が一つ浮かんでくる。「では米国勢の中でも統治階級というべきエスタブリッシュメント層たちは一体、どのようにしてコミュニケーションをとっているのだろうか」と。私は“その答え”が、意外にも相当程度プリミティヴ(原始的)なところであり、同時に極めて“限られた者”だけに許された形で用意されているのではないかと考えている。よくよく考えてみれば、この“答え”を即座に理解出来るものだけが、長期化する金融メルトダウンの中で「生き残り」を可能にすることが出来てきたのである。なぜなら、拡大し続けるWEBの世界にあふれる金融情報に翻弄されれば、その分混乱し、金融メルトダウンの中で損失を拡大するリスクが大きくなり続けてきたからだ。逆にいえば、WEBに対して過度に依存しない形で生活の根幹を立て直した者だけが、情報の洪水におぼれることなく、金融メルトダウンの中でも着実に富を拡大し、あるいはその規模を維持し続けてこられたのである。この意味でWEB2.0を忌避(きひ)し始めたドイツ勢もまた、“そちらの方向”へと自らの社会を導こうとしているのかもしれない。――WEBが張り巡らされ、しかし意味ある人々はWEBを用いない世界へと。



金融メルトダウンの向こう側にある世界は、この意味で「“答え”を知るが故にWEBすら用いない者」と「“答え”を理解できず、だからこそWEBに依存してもらう者」が完全に二極化されてしまう世界なのかもしれない。



Web 2.0とは、2000年代中頃以降における、ウェブの新しい利用法。

ティム・オライリーによって提唱された概念。狭義には、旧来は情報の送り手と受け手が固定され送り手から受け手への一方的な流れであった状態が、送り手と受け手が流動化し誰もがウェブを通して情報を発信できるように変化

*そろそろ日本国民も眼を覚まさないと従米意識の抜けない官僚と政治家にとんでもない道を歩まされることに気がつくべきであろう。

  

「TPP=自由貿易」の嘘

米国の術中にはまる事前協議

山田厚史 [ジャーナリスト 元朝日新聞編集委員]

<山田厚史プロフィール>

1971年朝日新聞入社。青森・千葉支局員を経て経済記者。大蔵省、外務省、自動車業界、金融証券業界など担当。ロンドン特派員として東欧の市場経済化、EC市場統合などを取材、93年から編集委員。ハーバード大学ニーマンフェロー。朝日新聞特別編集委員(経済担当)として大蔵行政や金融業界の体質を問う記事を執筆。2000年からバンコク特派員。2012年からフリージャーナリスト。CS放送「朝日ニュースター」で、「パックインジャーナル」のコメンテーターなど務める。

「アジア太平洋に質の高い自由貿易ルールを作るのがTPP交渉の狙いだ」。野田佳彦首相はことあるごとにそう言うが、2月7日から始まった米国との事前協議は、TPPがそんなきれいごとではないことを見せつけてくれた。

なぜか自動車も問題視

米政府の主張は「言いがかり」

米国が突きつけてきたのが農業、保険、自動車の3分野での市場開放だ。「日本が自由貿易交渉に加わる資格があるか、市場開放の姿勢を見たい」というわけだが、コメや牛肉を抱える農業を突かれるのは分かる。保険では簡易保険や共済などを問題視している。だが、なぜ自動車が問題になるのか。米国の言い分はあまりにもメチャクチャだ。

 「日本で米国のクルマが売れないのは、非関税障壁があるからだ。日本政府の責任で輸入台数を保証しろ」と要求している。

 屁理屈というか「いいがかり」でしかない。日本市場の売れ筋は2000cc以下の小型車だ。このクラスで日本で売られている米国車はシボレーのソニックだけ。それも評判はいまいちだ。フォルクスワーゲンやBMW、ベンツなどドイツ車は売れている。

 外車の販売は年間25万台から30万台だが、アメ車は8000台から1万台しか売れていない。日本のユーザーが魅力的と思うクルマを作っていないから売れないだけだ。

 それを「非課税障壁」のせいにする。日本人の感覚では「そんな恥ずかしいことを言ってはダメ」だが、米国の交渉チームは堂々と屁理屈を並べる。「輸入枠」とは、日本政府の責任で買い付けを保証しろ、と言っているのだ。商品力の乏しい自国製品を、相手政府の責任で買わそうとするのは、世界でアメリカぐらいだが、こういうワガママを、これまでの日米関係が許してきた。今回は「TPPへの入会金」として求めてきた。

もう一つ重要なポイントがある。非関税障壁として米国が挙げたのが「軽自動車の優遇」だ。税制などで軽に特典を与える政策を日本は採用してきたが、これを「米車が売れない理由」としている。

 この言いがかりは、実は巧妙な対日作戦である。日本の自動車業界の危うい構造を突いているからである。この点については、後段で詳しく述べるが、外圧を利用して国内制度を変えたいメーカーがある。

相手側の分裂を誘い

裏で手を握ることも

貿易交渉はきれいごとではない。相手側の分裂を誘い、裏で手を握ることだってやる。交渉は形を変えた戦争だ。「自由で質の高い貿易ルールをみんなで話し合う」などと極楽トンボのようなことを言っていると、国民は道を誤る。

 TPPの正確な名称は「環太平洋戦略的経済連携協定」。貿易でぶつかる品目がほとんどないシンガポール、ブルネイ、ニュージーランド、チリが細々と始めた局部的な経済ブロックだった。そんなローカルな動きに米国が目を付けて乗り出した。リーマンショックで傷ついた経済を立て直すには、貿易で稼ぐことが欠かせない。発展するアジア市場に乗り込んで「太平洋国家」として再出発しようという国家戦略だ。中国や、ASEAN(東南アジア諸国連合)が警戒する中、当面の狙いは日本の引き込みだ。

 2月7日から米国による事前審査が始まった。いわば「入会試験」である。TPP交渉は9ヵ国で始まっている。すでにブルネイ、シンガポール、ベトナム、マレーシア、チリ、アルゼンチンの6ヵ国は「受け入れ」を表明している。最大の関門が米国だ。

 窓口は対外経済交渉を担当するUSTR(米通商交渉代表部)。米国の業界を代弁して強硬な対日要求を掲げる交渉の専門機関だ。

「言いがかり」のような「自動車輸入枠」を掲げたのは、全米自動車政策会議(AAPC)という業界のロビー団体が背後で動いているからだ。野田政権はTPPに入りたい。反対の世論を抑えるには「コメ」を例外扱いにしてもらいたい。そんな日本の事情を見込んで「自動車」を盛り込んだ。「コメは大目に見るから自動車の輸入枠を認めろ」という圧力である。

30年前の輸出自主規制を

日本側が飲んだ理由

「30年前の体験が蘇るような気分だ。あの時日本は、輸出枠を飲まされた。今度は輸入枠。いかにも米国らしいやり方です」

 通産(現経済産業省)官僚のOBは呆れながらいう。日本は1981年、米国に輸出する自動車の台数を168万台とする「自主規制枠」を決めさせられた。通産省とUSTRが交渉して「輸出枠」が決まり、通産省が自動車会社ごとに輸出台数を割り振る、ということで米国の要求に屈した。

 そのころ米国では小型車ブームが起きていた。イラン革命が起こるなど中東でイスラム勢力が強まり、米国の石油支配が崩れ、石油価格は高騰した。一方で排気ガスなど環境問題が深刻化し、ガソリンをがぶ飲みする大型車は敬遠された。品質と燃費がいい日本車が快走していた。

 GMを筆頭とするビッグ3はシェアを奪われ、経営者は政府に支援を求め、労働組合は「雇用を奪う」と日本車をハンマーで叩き潰す過激なキャンペーンを展開した。

 自国製品を守るなら、輸入品に高い関税を課したり、メーカーに補助金を出すなど政府の責任で対策を採るのが普通のやり方だ。米国はそうせず、日本の政府に「自主規制」をさせた。当時も、米国は「自由貿易」の旗手で、他国に市場開放を迫っていた。そのご本尊が、特定品目に高い関税を掛けたり、業界を補助金で護るのは都合が悪かった。「保護主義」という言葉は、米国が他国に浴びせる常套句だった。

 どう見ても、強い製品を持っている国が自主規制する、というのは異常である。しかも「強いられた自主規制」である。

それを飲んだ日本側にも事情があった。第1は、米国に盾突けない従属国であること。第2は、輸出枠を握ることで業界への支配力を高めたい通産省の思惑、第3は輸出シェアを固定する「カルテル」を歓迎するメーカーが日本にあったことだ。

 

自動車業界が強くなり官民の力関係が変わり、特にトヨタ自動車は通産省の言うことを聞かなくなっていた。天下りを排除する動きさえ出ていた。ドル箱の米国輸出を役所が握ることは、通産省の力を増すことにつながる。

 業界では「日産の退潮」が始まっていた。トヨタに完敗し、米国でホンダの追撃にあっていた。「自主規制」を受け入れた時の日本自動車工業会会長は、日産の石原俊社長だった。米国での販売数を固定することは「衰え目立つ日産」に都合が良かった。シェアを維持しようと安売りすれば、利益は減る。国内はトヨタに対抗して無理な販売を続け大赤字になっていた。

「軽」を標的にする

米国の日本分断戦略

こんな「昔話」をするのは、似た状況が今もあるからだ。米国が「軽自動車」をやり玉に挙げるのは、揺さぶりである。

 ろくな小型車がないアメ車にとって「軽」はライバルではない。なのに「非関税障壁」として挙げているのは、トヨタを筆頭とした日本の自動車メーカーが「軽」を目障りに思っているからだ。

  2000年に自動車工業会会長に就任した奥田碩(ひろし)社長(当時)は、業界の課題として「軽自動車を含む税制の改正」を挙げた。軽に対する優遇税制を廃止して普通車と同じにしよう、という狙いだった。

 スズキの鈴木修会長が猛然と反発した。「自動車工業会はメーカーの団体だ。トヨタの都合で税制を変えるなど会長の職務を逸脱している」と親しい記者に語った。自工会の理事会では「優遇税制廃止」は議論にさえならなかった。それが2002年の退任会見で奥田会長は「やり残した仕事」として軽の税制改正を挙げた。

自動車業界が元気だったころ、「軽」は1ランク下とされ、業界で「差別」された車種だった。それが今や売れ筋のど真ん中に位置するようになった。

ズズキとダイハツが強く、トヨタも日産も独自の軽を持っていない。ダイハツはトヨタのグループ企業の一つで、国内ではスズキに競り勝ち、軽のトップに上り詰めた。グループの軽部門を担っているが、トヨタにとって大事なのは販売の主力である小型車だ。税制で有利な軽の価格に引きずられ、十分な利益を稼げない。冷え込む国内市場で、軽の優遇は目障りに映る。

 米国は「軽の税制改正」を本気で日本に求めていないだろう。わざわざ「非関税障壁」にリストアップすることで、大手メーカーが「優遇是正」に動く足場を作ったとも言える。本丸は、日本の自動車メーカーに「輸入枠」を認めさせることだ。8000台しか売れていないアメ車が5割り増しになっても1万2000台である。421万台(2011年)売れている日本市場で誤差程度の話だ。大手メーカーにとってみれば、端数のようなアメ車より年間152万台(同)売れている「軽」の方が悩ましい。

 今年は米国大統領選挙の年だ。自動車業界や全米自動車労組の協力を得るには、分かりやすい成果が必要だ。日本をTPPに引き込むのは米国の戦略だが、頭を下げて入ってもらうなどということはしない。逆に、「入りたいなら入会料」をと手を出す。農業や簡保で日本を追いつめ、自動車で譲歩を引き出す。

 米国の交渉術は、そういうものだ。理不尽な要求でも、交渉全体の中で、相手から譲歩を引き出す受け皿になっている。

  

*山本尚利氏のブログより

新ベンチャー革命2012年2月10日 

 

「日本は米国にいったいいくらドルを貸しているのか:消費税増税や年金改悪の前に国民は知る権利がある」

 

1.日本は、ほんとうは世界一のドル金持ち国のはず

 もうすぐ3.11地震の1周忌を迎えますが、2011年、遂に貿易収支が赤字となっています。第二次オイルショックの1980年以来、31年ぶりの貿易赤字となったようです。しかしながら、この31年間の日本の経済力はたいしたものだったのです。その証拠に、この31年間の日本の国際収支(注1)の累計は3.2兆ドルの黒字となります。1980年から2011年までの円ドル相場は平均的に見て、およそ130/ドルくらいですから、3.2兆ドルはだいたい400兆円超です。これを米国政府などに貸した場合、累積利子分を加える必要があります。80年から2011年までの31年間の日本の国際収支黒字分のドル資産400兆円相当の対外貸出期間平均15年として標準的金利年率5%単利と仮定すると元利合計は40010.05×15)=700兆円という計算になります。要するに、日本は世界一のドル債権国であるのは確かです。

 ところで財務省は、日本は先進国の中でもっとも対GDP比の借金の大きな国と喧伝しています。確かに国の財政上、日本は1000兆円の借金大国ですが、この借金の大半は国民資産からの日本政府の借金です。一方、日本国民の金融資産は1500兆円ありますから、差し引き、まだ500兆円の黒字です。

 にもかかわらず、財務省が野田総理に増税が必要と言わせているのは、上記、単純計算だけでも700兆円もあるドル債権の大半を持っていると思われる米国政府が日本政府にドル借金を返済していないからではないでしょうか。

2.国民経済統計上、日本は確かに貧乏化している

 一橋大学准教授・小黒氏の分析によれば、日本の経済状況が悪化していることがよくわかります。日本国民の貯蓄(対・国民総所得)は低下の一途で、2013年には国民貯蓄がマイナスに転じると予測されています。つまり国民は平均的に収入より支出の方が上回るということで、2011年における貿易赤字と同様、国民の家計が平均的に赤字に転じるわけです。

 国民の家計が火の車になれば、当然、国民からの税金徴収で成り立つ国家財政も火の車になります。ところが、財務省は、自分たちの税収不足を消費税の増税で穴埋めしたいがため、家計が赤字の国民からとことん搾取する魂胆です。

  上記、小黒氏が日本経済破綻を予測するのも無理ありません。

3.官僚と国民の利害対立が深刻化する

 過去30年間、日本国民はせっせと貯蓄するゆとりがあったのですが、近未来、国民の家計は平均的にみて破綻する可能性が出てきました。これまで久しく経験してこなかった厳しい状況が国民の間に生まれます。この状態で、もし増税されたらひとたまりもありません。われら国民は現在でも、ありとあらゆるところで税金を取られていますが、それがさらに増やされるわけです。近未来の日本において左団扇で居られるのは官僚や公務員のみという事態が生じます。そこで、一般国民と官僚の対立はかつてないほどに深刻化すると思われます。

4.ドル長者日本の増税推進者はなぜ増税が必要かを国民に説明する義務がある

 われら国民が解せないのは、この30年間、日本国家の家計はずっと黒字だったはずで、日本にはしこたまおカネが貯まっていてもおかしくないのです。少なくとも、日本の国際収支黒字の累積3.2兆ドルおよびその貸出利子がどこにあるのか国民は知る権利があります。日本は世界一のドル債権国なのになぜ、日本の国家財政が苦しくなったのか、国民はまったく知らされていません。

 本ブログでは、日米間にて新帝国循環が起きており、日本の国富が合法的に米国に移転されていると主張しています。なぜなら、米国政府が日本政府から借りているドル借金を返していないからです。

5.財務省・日銀は日本国家の対米ドル債権総額を国民に開示すべき

 本ブログでは、日本全体(官産合計)で、対米ドル債権の総額は700兆円から1000兆円規模あると主張する日米関係専門家の副島隆彦氏の試算を支持しています。なぜなら、上記のように、日本の国際収支黒字累積額から、その規模の巨額ドル債権を日本全体がもっている計算になるからです。しかしながら、この数字の実態は公表されていません。公表されているのは財務省の外貨準備高が2012年1月末現在で1.3兆ドル存在するという統計のみです。

 現在、1ドルが77~78円ですからほぼ100兆円規模の米ドル資産を日本政府だけで保有している計算です。

  上記のように日本政府の外貨準備高が公表されるようになったのは2001年、大蔵省が財務省に変更されてからであり、それ以前の大蔵省時代の日本政府の対米債権額は公表されていません。

 ところで現在、日本政府は米国政府から毎年15兆円相当の満期米国債の償還を受けていることが国会で公表されています。この年15兆円という日本政府への対米ドル債権返済額は日本の対米貿易黒字額プラス米国債利子分ではないかと推測されます。現在、財政赤字に苦しむ米国政府は日本政府に年15兆円の借りを返すゆとりはないので、日本政府は米国政府より返済された米国債償還金にて再び米国債を買っているのです。

6.亀井静香氏は、日本政府は米国政府に200兆円貸していると証言

 2009年、亀井静香氏が小沢・鳩山政権時代に金融・郵政担当大臣であった頃、日本政府は米国政府に200兆円貸していると証言しています。この200兆円という数字と財務省が公表している外貨準備高は合致しません。ちなみに、2009年(平成21年)12月末の外貨準備高は1兆ドル(1ドル90円として90兆円)です。

 この当時の亀井氏証言からわかることは、財務省公表の外貨準備高と日本政府の対米政府ドル債権額は一致していないという事実です。要するに、財務省は2001年以降に貯まった日本政府のドル資産のみ公表して、日本政府の対米政府ドル債権総額を公表していないということです。もっと言うと、民間(日本の金融機関や日本企業)のもつ対米ドル債権総額も公表されていません。

 このように国民は日本全体のもつ対米ドル債権総額を正確に知らされていないのです。これを個人の家庭に例えれば、亭主(国民)に内緒で、妻(財務省)が他人(米国政府)に多額のおカネを貸して返してもらっていないのに、亭主(国民)には金欠だと妻(財務省)がヒステリーを起こしているのと同じです。汗水たらしておカネを稼いでくる亭主はたまったものではありません。

*(参考資料)日本の経常収支の推移(1985~2011年)



<山本尚利プロフィール>

1970年 東京大学工学部船舶工学科卒業。石川島播磨重工業㈱にて造船設計,新造船開発,プラント設計,新技術開発などを担当する。1980年 SRIインターナショナル(スタンフォード研究所)東アジア本部に入り,以降コンサルタントとして企業戦略,事業戦略,技術戦略などのコンサルティングを行なう。2000年 SRIから独立し(有)ISP企画代表取締役となる。SRIアトミックタンジェリンの技術経営コンサルタントを経て現職兼務。

著書「テクノロジー・マネジメント」1991年,「中長期技術戦略プランニング・ガイド」1992年、「技術投資評価法」1993年、「日本人が東アジア人になる日」1995年(以上、日本能率協会マネジメントセンター)。「リエンジニアリング導入・計画マニュアル」1994年、「米国ベンチャー成功事例集」2000年(以上、アーバンプロデュース社)。「スーパーベンチャー戦略」1999年(同友館)「EMSビジネス革命」(共著)2001年(日科技連出版社)。「ナレッジマネジメントによる技術経営」2001年(同友館)がある。

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