<知らぬが仏の世界>に住まわされている日本人

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9月 122014

先日、琉球朝日放送が製作した「標的の村」(監督 三上智恵)というドキュメンタリーを見る機会があった。新型輸送機「オスプレイ」着陸帯建設に反対し、座り込んだ東村(ひがしそん)・高江の住民の姿を中心に日本にあるアメリカ軍基地・専用施設の74%が密集する沖縄の厳しく、悲しい姿を市民目線で描写している。たしかに肉眼で見える状況では、本土と沖縄の違いが際立って見えるのではないだろうか。

しかしながら、小生には、そのようには見えない。おそらく、半ば同情心をもって、この映画を観ている本土の人々の方が、本当は目に見えない米国が仕掛けた大きな脅威にさらされている。ほとんどの日本人は全く認識していないが、本土に54カ所ある原子力発電所は、いざとなったら、日本本土を破壊するために米国が仕掛けた核地雷なのである。だから、逆説になるが、米軍が大規模展開する沖縄には、原子力発電所がないのである。わかりやすく言えば、沖縄の人たちが目に見える「米軍の脅威」にさらされているのとは、反対に本土の人は、目に見えない、もっと大きな「米国の脅威」にさらされているということなのである。「日米原子力協定」を読めばわかるが、日本は米国の承認なくして原子力発電所を建設することが現実にはできないようにされている。ということは、何処に原発をつくるかと言うことも、間接的に米国がコントロールしているということを意味している。また、これも多くの人が勘違いしているが、現在、日本の原発はすべて止まっているが、このことによって、地震、津波に対して安全が確保されているかと言えば、全くそんなことはない。多くの原発が使い済み核燃料を原子炉のすぐそばにプールしているが、地震や津波で核燃料プールが破壊すれば、凄まじい臨界がすぐに起こるのである。

*参考 映画「標的の村」公式サイト:http://www.hyoteki.com/





また、現在、沖縄に米軍基地がこれほどある本当の理由もほとんどの日本人には知らされていない。それは、「戦後の昭和天皇の二重外交」における次の言葉によってもたらされたものである。

下記の資料を読んでいただければ、一目瞭然である。

(*沖縄公文書館より)

米国国立公文書館から収集した“天皇メッセージ”(平成20325日)

同文書は、1947年9月、米国による沖縄の軍事占領に関して、宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をまとめたメモです。【資料コード:0000017550】



天皇メッセージ

内容は概ね以下の通りです。

(1)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。

(2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。

(3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。

メモによると、天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られるなどとしています。

1979年にこの文書が発見されると、象徴天皇制の下での昭和天皇と政治の関わりを示す文書として注目を集めました。天皇メッセージをめぐっては、日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする議論や、長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だったという議論などがあり、その意図や政治的・外交的影響についてはなお論争があります。http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/2008/03/post-21.html

それでは、技術コンサルタントの山本尚利氏がブログでわかりやすく、日本の原発が核地雷であることを解説しているので、読んでいただきたい。

以下。

「戦後日本の原発推進勢力は完全にだまされていた!原発は日本を全滅させる核地雷であるという認識が欠落していた」


2014117日)



1.原発推進か脱原発かが東京都知事選の争点に・・・

2014年2月9日に行われる東京都知事選を利用して、細川・小泉コンビが脱原発を国民に訴えることが決まりました。細川氏は、原発は日本を滅ぼす危険性を秘めていると本心から危惧していると思われます。東京都民がどのような判断を示すかで、東電の原発再稼働の行方が左右されるでしょう。今、再稼働問題で東電と泉田新潟県知事との間で齟齬が起きている柏崎刈羽原発も、そして破局事故を起こして廃炉が決定している福島事故原発も、東京を含む首都圏への電源ですから、原発問題に東京都民が無関心でいることは許されません。

戦後70年近く経た日本には、全国規模で50基以上もの原発がつくられました。日本はフランスと並び、原発大国となっています。ところが、2011年の3.11事件にて東電福島原発が破局事故を起こし、国民の原発への信頼感が大きく揺らいでいます。

筆者自身も、この原発事故を経験するまで、原発の技術的問題点に気付きませんでしたが、この事故を経験した今、原発は人間の手に負えないアンコントロラブル技術のかたまりだと理解しています。いかなる人工物も、何らかのトラブルを起こします。その場合、人間の手で修理すればその人工物を復旧させることができます。しかしながら、原発に限って、一定限度を超える事故を起こしたら、致死量の放射能が漏れ、人間が修理のために近づくことすらできません。

その意味で、われら人類は原発のようなアンコントロラブルな人工物をつくってはいけないと思います。

2.なぜ、米国は日本に原発技術を供与したのか

原発技術は核兵器技術と密接につながっています。したがって、原発技術のうち、原子炉のコア技術は依然、米国のWH(ウェスティングハウス)とGEが握っており、日本の東芝、日立、三菱重工はWHとGEからライセンスを受けて原子炉を製造しています。原子炉技術は米国にとって、簡単に他国に供与できない覇権技術のひとつなのです。

にもかかわらず、米国は日本に原発技術を供与したのは確かです。彼らはその代り、日本に対し非核三原則を強要してきました。なぜかというと、日本に核兵器をもたせないようにするためです。

日本が核兵器技術をもつリスクを承知のうえで米国(具体的には米国戦争屋)が、日本に原発技術を供与したのは、彼らが日本に原爆を落とした関係で、戦後、日本を属国支配するうえにおいて、日本国民の反米感情を緩和する狙いがありました。要するに、米戦争屋はやむを得ず、原発技術を日本に供与したのです。

3.日本の原発と北朝鮮のミサイルはセットになっていると知れ

戦後から今日まで70年近くも日本をステルス支配している米戦争屋は日本に日米同盟を強要していますが、彼らの本音は、日本が単独で許容以上の軍事力をもたないように、一定の足かせをはめるためです。

ソ連崩壊後、米戦争屋はソ連の対日脅威の代替として北朝鮮脅威を創出して、日本を絶えず、脅かしてきました。そして、日本が日米同盟を絶対に必要とするために、米戦争屋は闇で北朝鮮の核兵器開発やミサイル開発を密かに支援してきました。それもこれも、ひとえに日本が米戦争屋に依存せざるを得ないようにするための必要悪だったのです。

さらに今は中国も核兵器をもっていますので、なおさら、日本は米戦争屋に依存せざるを得なくなっています。

そのような極東情勢を米戦争屋サイドからみると、日本の原発は実に好都合なのです、なぜなら、日本が米戦争屋に逆らったら、北朝鮮あるいは中国からミサイル攻撃させて絶好の攻撃目標にできるからです。

米戦争屋は中国軍にも北朝鮮軍にも密かに米戦争屋のエージェントを置いていますから、中国軍からも北朝鮮軍からも日本の原発にミサイルを撃ち込ませることはいつでも可能なのです。

4.米国は日本への警戒を一時も怠っていない

米戦争屋は戦争のプロの集団ですから、いかなる国に対しても警戒を怠っていません。とりわけ、かつて米戦争屋に戦いを挑んだ日本に対しては最大級の警戒を常時、実行しているとみなすべきです。

彼らは、もし日本が米戦争屋に逆らったら、ただちに、ミサイルもしくは空爆にて、日本中の原発を攻撃して、全滅させることが可能なのです。

これは冗談ではなく、戦争のプロの本能なのです。

5.原発核地雷説を抜きにする脱原発論は意味がない

戦争のプロである米戦争屋は原発を核地雷と認識していますが、日本の知識人は原発を議論するとき、地震・津波などの自然災害の観点からの原発安全性の議論しかしませんが、これでは、米戦争屋の思う壷に嵌ってしまいます。

細川氏も小泉氏も脱原発論者ですが、地震・津波に対する安全性、放射性廃棄物の最終処理困難性の観点からのみ、脱原発論を唱えていますが、これでは、米戦争屋を喜ばすだけです。

安倍政権は現状の既設の原発を再稼働させたいようですが、さすがに新設は考えていないようです。そのときの国民に対する説得は、自然災害に対する安全性の確保の観点しかありません、ミサイル攻撃、テロ攻撃、空爆による原発の被害に関する議論は皆無に等しいわけです。

われら国民は、原発は日本を全滅させる核地雷であるという認識から、脱原発論の是非を議論すべきです。

いずれにしても、戦後日本にて原発を推進してきた勢力は、戦後日本を密かに仮想敵国視している米戦争屋に大きくだまされてきたということです。われら国民は、このことに今、気付くべきです。 (終わり)

<山本尚利氏プロフィール>

1970年 東京大学工学部船舶工学科卒業。石川島播磨重工業㈱にて造船設計,新造船開発,プラント設計,新技術開発などを担当する。1980年 SRIインターナショナル(スタンフォード研究所)東アジア本部に入り,以降コンサルタントとして企業戦略,事業戦略,技術戦略などのコンサルティングを行なう。2000年 SRIから独立し(有)ISP企画代表取締役となる。

SRIアトミックタンジェリンの技術経営コンサルタントを経て現職兼務。

ところで、以前豊橋市にも講演に来られた元外交官村田光平氏が本当に誠実な人柄を思わせる真摯なフクシマ原発事故に関する論文を発表したので、概要を紹介する。以下。

村田光平氏 論文「福島が世界の究極の破局に発展するのを防ぐために(要旨)」


福島が世界の究極の破局に発展するのを防ぐために(要旨)


平成26年8月23日


村田光平


元駐スイス大使


地球システム・倫理学会常任理事

序 言

福島は世界の安全保障問題である。事故現場は制御されておらず危険な情勢の悪化が見られる。日本政府と東電は内外で信用を失っている。事故後3年半以上を経ても日本は如何に対応すべきか途方に暮れており、この国家の危機がなんと東電の経営危機として扱われている。現在の事故処理の体制には重大な欠陥があり、強力な国際協力によりこれを抜本的に改革することが緊急課題となっている。もはや時間は残されていない。

世界の安全保障問題

福島は原発の存在そのものが安全保障問題であることを示した。何故ならば、使用済み燃料を収めたプールの冷却システムが3日以上故障すればメルトダウンが起こりうるからである。このことは世界に存在する440基以上の原発について言えることである。福島が世界の安全保障問題であることは疑う余地がない。現に、世界の究極の破局に通じ得る4号機の崩落をもたらす巨大地震が発生しないよう祈ることしかできないのである。政府と東電が主導する現体制の致命的欠陥を認識すれば、日本の将来が如何に危殆にさらされているかに驚くであろう。

原子力基本法は国民の安全を確保する責任の所在を明確に規定していない。

事故後原子力規制委員会が関係省庁からの独立させるために設置されたが、その事務局職員の「ノー・リターンルール」は最近無視されている。同委員会の委員はこれまで電力会社とつながりのない者から選定することも守られなくなっている。同委員会は公然と住民の安全委責任を持たないとの立場を明らかにしている。

再び過酷事故が起こらないという保証はあり得ない。次に起こる事故は遥かに破壊的なものとなりうる。福島事故の際、風向きのお蔭で8割の放射性物質は海に放出されたが、風向きが逆であったなら東京は避難を余儀なくされたであろうことを忘れてはならない。

汚染水問題

汚染水問題は全く解決の目途が立っていない。事態は悪化している。トリチウム以外の放射能核種を除去しうる水処理施設は何度も作業の中断を余儀なくされ、問題を抱えている。汚染されていない地下水を直接海に流すためのバイパスが最近完成したが、流出水量の減少に貢献していないことが判明した。山側からの地下水の海への流入量は余りにも膨大であり、このようにして地下水は大量に汚染されている。

トレンチの水を凍らせる試みも成功していない。凍土壁の見通しは暗い。

信頼できる専門家は毎日海に流出される汚染水は1000トン、内600トンは地下水とみている。これに加え、頻繁に派生する豪雨が現場に多量蓄積した放射性物質を海に洗い流している。最近の日本の気候の変化を反映した土砂崩れを齎す局地豪雨の頻発がこれに拍車を加えている。

1年前、東電が3号機のがれきを撤去した際、放射性物質が風により4方8方に飛散した。東電はその放射線量を4億ベクレルと発表したが、実際はその10倍あったとみる向きもある。

事故処理が重要な局面を迎える中で東電は職員の低いモラルに悩まされている。

事故後3000名が退職している。深刻な作業員及び資金確保の問題は東京オリンピックにより深刻な影響を受けることとなろう。

太平洋を越える福島の影響

2014年1月、カリフォルニアの住民から発信された記事が注目された。

同記事は「ロシア国防省報告」なるものに言及しているが、次の抜粋が注目される。

[福島から放出された放射線量は全世界の核実験が放出した10倍に及ぶと専門家は見ており、テキサス、コロラド及びミズーリ各州の雪から危険なレヴェルの放射線量が検出されたとの最近の報道は、米国がこの歴史的な制御困難に見える核惨事の最も厳しい影響に直面するであろうことを警告している。]



ここに述べられていることは真剣な検証を必要としている。これに関連し、米国西岸地域に及びつつある福島の影響につき米国の専門家による調査が行われており、今秋中にも「NATURE誌」がその結果を掲載するといわれている。大きなインパクトを与えるものと思われる。

日本は人類が経験したことのない事故がもたらした事態への対応に苦しんでいるが、国際的な支援を深刻に必要としていることは明白である。

新しい国際システム

福島は原発の過酷事故により国家の危機に直面せしめられた政府の限界を浮き彫りにした。また、一国では事故処理をなしえないことも示された。

一般に、政府の存続の寿命は数年であるが、原発事故は半永久的な対応を必要とするものである。メディアの協力を得て事故への対応に全力投球する責務から目をそらして、これを先送りするようなことはあってはならない。

原発の過酷事故については一定の責務を果たすことを義務とする新しい国際システムを設立することを国際社会に提案したい。少なくとも次の2点が求められる。

1.事故対応に最優先で当たり、最大限の努力をする。

2.人類の英知を最大限動員するための国際協力を具体化する。

結 語

福島が世界の究極の破局に発展するのを防ぐことは国際社会の責務である。

現在の事故処理の体制には重大な欠陥があり、これを抜本的に改革することが緊急課題である。日本は国際連帯と強力な国際協力を必要としている。

(終わり)

<村田光平(むらた・みつへい)プロフィール>

1938年、東京生まれ。61年、東大法学部卒業、外務省入省。駐セネガル大使、駐スイス大使などを歴任し、99年、退官。99年~2011年、東海学園大学教授。現在、同大学名誉教授、アルベール・シュバイツァー国際大学名誉教授。外務官僚時代、チェルノブイリ原発事故をきっかけに「脱原発」をめざす活動を開始。私人としての活動だったにもかかわらず、駐スイス大使時代の99年、当時の閣僚から「日本の大使が原発反対の文書を持ち歩いている」と批判され、その後日本に帰国となり、辞職。さまざまな圧力に屈せず、脱原発の主張を貫いて「反骨の外交官」と呼ばれた。以後、現在まで、主に原子力問題やエネルギー問題などをテーマに言論活動を続けている。著書に『原子力と日本病』、『新しい文明の提唱 未来の世代に捧げる』など。

如何だろうか。海外のマスコミがフクシマ原発事故の現実を真剣に報道し始めたら、2020年の東京オリンピックなど、あっと言う間に吹っ飛ぶ、それが多くの日本人に知らされていない現実である。すべては、世界のニュースを配信するロイターを旗艦に世界のマスコミをコントロールしている国際金融資本の思惑次第なのである。

また、福島県産農産物等を「食べて応援」などという愚行を日本国内では、相変わらず官民一体でやっているが、米国は、日本の農産物の輸入禁止措置を着々と強化している。私には「米国のエリートの日本人に対する侮蔑の高笑い」が聞こえてくるのだが、

*参考:「米国の放射性物質に係る輸入規制の変更の概要について」

http://www.maff.go.jp/j/export/e_shoumei/pdf/usa_gaiyo_130927.pdf



そろそろ私たち日本人は<本当の事を知る勇気>を持つ必要があるのではないだろうか。

米国のジャパン・ハンドラー(リチャード・アミテージやジェセフ・ナイ、マイケル・グリーン)の要求通り、集団自衛権の行使を<解釈改憲という法治国家にあるまじき政治行動>で日本政府は決めたようである。おそらく、日本の若者の命を犠牲にしてまでも日本の官僚は、米国利権を手放したくないというのが本音なのだろう。

たしかに戦後日本は、米国に対して「弱いふり」を続け、それによって米国に守ってもらわねばならないという対米従属の状態を続けてきた。天皇制を維持し、天皇の官吏を守るために好都合だと敗戦処理のために、昭和天皇が高度な政治判断したところからすべてが始まったことも下記に参考資料として紹介する豊下楢彦氏が「安保条約の成立」等で発見した事実である。

その後、米国は1970年代に在日米軍を撤退も検討したようだが、日本の政治を実際に動かしている官僚が「自衛隊はまだ弱い」「憲法で戦争できないことになっている」と思いやり予算等を使って米軍を引き留め続けた。考えてみれば、日本の最高権威である昭和天皇の秘めたる意志なのだから、そう主張するのは、あまりに簡単だったはずである。

この対米従属構造は、米国が日本の「お上」であり、日本の官僚機構がその下僕として(お上の意志の解釈権を保持して)国民とお上の間に挟まって行政権力を確固たるものにしてきた。そして、国権の最高機関である国会を無力化し、実質上の官僚独裁を続けるためのシステムして半世紀以上にわたって機能している。もちろん、現在、軍事費の削減が、覇権国アメリカのテーゼになっている状況では、安倍内閣の集団的自衛権容認は、米国、米軍にとっては、願ってもないことだが、昭和天皇が創ったとも言える<安保国体体制>というべきものから考えると、一線を踏み越える重大な政治判断であることも頭に入れておく必要がある。

つまり、今回、日本の官僚は、日本政治における主導権を離したくないために安倍内閣を動かし、<自衛隊という国家の軍隊>をバーゲンセールに出してしまったということなのである。米国産のミサイルや攻撃機やイージス艦を大量に買うという次元を超え、お金だけでなく、命も提供する約束を、米国のジャパン・ハンドラーと日本の官僚によって安倍政権は選択させられたのである。このことを理解しないと今回の政治判断の本筋が見えてこない。

ところで、NATO諸国は、英仏独すべてが、独自の判断で軍事行動を行う原則に変わってきている。英国はシリア介入を拒否したし、ウクライナ介入でも、独仏は米国に積極的協力をするつもりは全くない。いまや、米軍の頼りは、日本とオーストラリだけである。

このことを逆に考えれば、世界最大の債権国である日本が独立自尊の道を選択し、その道を歩み始めれば、現在のアメリカの世界覇権が終了に向かうことを意味していることにそろそろ日本人は、気が付くべきであろう。

ところで、日本の唯一の同盟国で、唯一の集団的自衛権の行使相手である米国はこの半世紀以上、自作自演性や情報歪曲のない明示的な軍事攻撃を受けて戦争をしたことがない。1990年の湾岸戦争はサダムフセインを見事に騙してクウェートに侵攻させたし、日本による真珠湾攻撃も米英による誘導であったことが今日では、いろいろな公開文書で明らかになっている。大体、少子高齢化社会の日本の若者の命を、かつての敵国であるこんな国のために犠牲にするのは、あまりに馬鹿げているのではないだろうか。

また、近現代における戦争とは、18世紀以降、稀に見る温暖な気候に恵まれた時代にあってインフレ拡大を基調とする経済が発展する中、どうしても繰り返し生じる「バブル」とその後に明らかとなる「供給と需要のギャップ」に伴うバブル崩壊を最終的に解消するために行われてきたものである。大量の兵器・装備品を瞬時にして消費してしまう戦争ほど、効率の良い需要創出手段はない。これが、近代、欧米が行ってきた「戦争経済」というものである。

これに対して近代国家は、需給調整に過ぎないはずの戦争を正当化し、国民をそれに駆り立てることを目的としたものとして従来機能してきた。時の権力者はそれを通じて手にする国家権力に魅了され、自ら(とその一族郎党)は決して戦場には出向かないということを大前提としながら、国民を扇動し、造られた「対外的脅威」に対する憎しみを増長させ、武器をその手にとらせてきたのも近現代史の悲しく厳しい現実である。

しかしながら、以前のレポートでも何回か紹介したように現在、言われている地球温暖化は「高貴なる嘘」で、北半球を中心にこれから地球は寒冷化に向かっているのが現実だ。つまり、世界経済は長い目で見れば、気候変動によって、デフレ縮小化の方向に向かっている。その意味ではもう、欧米が主導してきた「戦争経済の時代」が終わろうとしている。現在の日本のエリートは、その時代認識からしてずれているのではないか。

正論を述べれば、覇権国である米国に陰りが見える現在、本来、日本がやるべきことは、まずしっかりと国としての「独立宣言」をすることである。その際、国連憲章から日本の敵国条項の削除を求めることも必要である。そして清算すべき過去があれば、しっかりと清算し、その上で初めて責任を持った独立国家として国連常任理事国入りを目指すべきであろう。そのキーワードは「対米自立」である。もちろん、戦後政治における国民に隠してきた不都合な真実をある程度、公開、説明しなければ、対米自立も憲法改正も有り得ない話だろう。

それでは、今回の閣議決定を豊下楢彦氏がわかりやすく説明しているので、紹介する。読んでいいただければ、わかるが、おそらく、安倍氏は、外務官僚のレクをそのまま喋っているだけで集団自衛権行使容認の意味を半分しか理解していない可能性もあると思われる。恐ろしいことである。

以下。

*ダイヤモンド・オンラインより

「行使容認の閣議決定をどう見る 戦争の「備え」なき戦争へ」


――豊下楢彦・前関西学院大学教授に聞く



集団的自衛権の行使容認が、ついに閣議決定された。「我が国に対する武力攻撃が発生したこと、または我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」など3要件で、自民・公明両党の妥協が成立したからだ。だが、政府がいかに厳しい限定がついていると説明しようとも、次元の違う世界に踏み出したことは間違いない。国際政治・外交史が専門の豊下楢彦・前関西学院大学教授に、問題の背景を論じてもらった。(聞き手/ダイヤモンド・オンライン編集長 原 英次郎)



日本国憲法は戦争することを前提にしていない



――最初に、閣議決定を前提にして、集団的自衛権が行使される場合を具体的に考えてみると、どういう問題が出てくるでしょうか。



とよした・ならひこ


1945年兵庫県生まれ、1969年京都大学法学部卒業。京都大学法学部助教授、立命館大学法学部教授を経て、関西学院大学法学部教授、2013年に退官。『安保条約の成立』(岩波新書)、『集団的自衛権とは何か』(岩波新書)、『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫)、『「尖閣問題」とは何か』(岩波現代文庫)など多数。近刊に『集団的自衛権と安全保障』(共著、岩波新書)。

例えば、中国が南シナ海の島嶼の領有権をめぐる争いからベトナムに侵攻し、ベトナムが日本に軍事支援を要請してきた場合を考えてみましょう。閣議決定では、「これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」に集団的自衛権を行使すると規定していますから、南シナ海の紛争は必ずしもこの規定にあたらないと判断して、ベトナムの要請を拒否することも考えられます。しかし、日本が拒否すると、中国は「大歓迎」をして、安倍政権は強気な発言を繰り返してきたが結局のところは何もできないのだと、日本の「弱腰」を嘲笑するでしょう。そして、この瞬間に、集団的自衛権の抑止力は失われます。これが、国際政治の力学です。

全く逆に、「今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る」という文言に依拠して、ベトナムを助けるために日本が集団的自衛権を行使する場合はどうなるでしょうか。そもそも、安保法制懇の報告書が出された5月15日の記者会見でも安倍首相は、南シナ海の問題は「他人ごとではない」と明言した以上、ベトナムは「密接な関係にある他国」のはずですし、抑止力を高め中国包囲網をつくりあげるために集団的自衛権に踏み込んだのですから、ベトナムの要請を拒否する理由はありません。

こうして集団的自衛権を行使し、ベトナムを支援するために軍事物資を送っただけでも、日本は中国の「敵国」になるわけですから、日中両国は戦争状態に入ることになります。ところが、そうした時に、実は日本には開戦規定も交戦規定もないのです。さらに、戦争する場合に不可欠の軍法会議も持っていないのです。そもそも、国際法的に見れば集団的自衛権の行使は戦争です。ところが、今の日本国憲法は戦争することを前提にしていない。だから憲法七六条で軍法会議のような特別裁判所を禁止しているのです。軍の規律を守るための軍法会議のない軍隊なんて考えられません。



だからこそ、自民党の憲法改正草案でも、自衛隊に代えて正式の国防軍を組織すると定め、さらに「審判所」と書かれていますが、事実上の軍法会議の設置を規定しているのです。つまり、本来であれば憲法を改正し、自衛隊を本格的な軍隊として位置づけ直し、軍法会議を設け、その上で、戦争としての集団的自衛権の行使を行わなければならないのです。安倍政権は「憲法改正は難しく時間がかかる」と言いますが、昨年、憲法九六条の改正論が出されましたね。あの中に一つの答えがあると思います。九六条を改正して憲法改正の発議に必要な国会議員の数を、現在の三分の二以上から二分の一以上にしようというわけです。しかし考えてみれば、そもそも九六条を改正するためには、あくまで九六条の規定に従わないといけないのです。

九六条を改正しろと唱えた勢力は、三分の二を取る自信があるからこそ、あの運動を始めたわけでしょう。つまりは「やる気」の問題であって、九六条改正論が出されたこと自体に示されているように、「説得力」があれば三分の二以上を獲得できるはずなのです。だから正面切って憲法改正を提起すればいいと思います。そうでないと、そもそも「戦争」としての集団的自衛権の行使はできないのです。



土台のないところに急ごしらえの

家を建てようとしているようなもの



――だからでしょうか、安倍政権や安保法制懇の集団的自衛権をめぐる議論には、具体性を欠いているところが、見受けられるのですが。



それは当然です。すでに述べましたように、そもそも土台のないところに急いで家を建てようとしている訳ですから、議論が支離滅裂になるのは当たり前です。例えば、5月15日の記者会見で、安倍首相は、まず最初に朝鮮半島有事を想定し、アメリカの艦船で邦人が救出されるケースをパネルに描いて説明しました。つまりこういう場合、米艦船が攻撃されても、集団的自衛権を行使できないなら自衛隊は何もできず、日本は邦人を救うことができない、という訳です。

しかし、米軍は朝鮮半島有事の際の民間人救出のマニュアルを持っていて、まずは在韓米国市民、次いでグリーンカードの持ち主、次いでアングロサクソン系の人たち、最後に「その他」があって、そこに日本人が含まれるかどうか、ということです。さらに、救出作戦は基本的に航空機で行われます。要するに、安倍首相が挙げたようなケースは絶対に起こり得ないのです。だから、なぜこうしたあり得ないシナリオを持ち出したのか疑問ですし、仮に安倍政権がこうした米軍のマニュアルさえ知らないとすれば、日本の情報収集能力は無きに等しいと言わざるを得ません。

それから、ミサイルの脅威の問題ですが、石破さん(自民党幹事長)がダイヤモンド・オンラインのインタビューで、グアム島に北朝鮮のミサイルが落ちて何万人もの人が亡くなったら日米同盟は破棄されるとおっしゃっています。だから、日本は集団的自衛権を行使して、そのミサイルを迎撃しなければならないと。しかし、こうしたシナリオをつきつめて考えると、何万人ものグアムの人たちが殺されるほどに、アメリカのミサイル防衛システムは“お粗末なもの”なのか、ということになります。そんな機能しないアメリカのミサイル防衛システムを、1兆円もかけて日本に導入した時の責任者は、他ならぬ、当時の防衛庁長官であった石破さんなのです。何とも皮肉な話です。

さらに、北朝鮮のミサイル攻撃で何万人も死ぬ事態を想定するのであれば、日本の原発はどうするのでしょうか。北朝鮮が米国を攻撃するということは、米国の総反撃によってピョンヤンが壊滅し体制が崩壊することを意味します。こういう「理性を欠いた」北朝鮮であれば、まずは日本を狙うでしょう。実は安倍首相は515日の記者会見で、東京も大阪も、日本の大部分が北朝鮮のミサイルの射程内にあると、その脅威を訴えました。ということは、当然、50基近い原発もターゲットになっている、ということです。ところが安倍政権は、原発の再稼働を急いでいる。特に日本海側に、再稼働を準備する原発が多くあります。稼働中にミサイル攻撃を受けたら、その被害は想像を越えます。これほどにミサイル攻撃は深刻な脅威なのに、なぜ攻撃される危険性の高い原発を再稼働させるのか、根本的に矛盾しています。

安全保障環境悪化の具体的分析が何もない



――集団的自衛権の問題は、日本を巡る安全保障環境をどう認識するかという問題と深く関わります。安倍政権や安保法制懇の報告書は、中国や北朝鮮の脅威ばかりを強調しますが、国際情勢についてはどうお考えですか?

官邸の関係文書や安保法制懇の報告書にみられるように、「安全保障環境の悪化」というのが、もうキャッチコピーみたいになっています。ところが、その中身はほとんど分析されていません。北朝鮮のミサイルが強化されている、中国の軍事大国化が進んでいる。それだけがあって具体的な分析は何もない。

例えば今の米中関係、それから韓国と中国の関係はどうなのでしょうか?それについては何の具体的な分析もない。そこで、まず米中関係ですが、確かに現在の米中両国には、いろいろな対立軸があり、米国は中国の軍事的脅威に「全次元」で対抗する軍事戦略を構築しようとしていますが、他方でオバマ大統領はずっと、「米中関係は世界で最も重要な二国間関係だ」と言っています。

なぜ重要かと言えば、実は4月の安倍さんとオバマさんの首脳会談を経て出された日米共同声明のなかで、イランの問題、アフガンの問題、北朝鮮の問題、ウクライナの問題など、いろんな問題を挙げて、こういう重要な国際問題について中国は非常に重要な役割を果たしうる、だから中国との間には生産的、建設的な関係を結ばねばならないと明記され、もちろん安倍首相もそれに同意したのです。

つまりアメリカは、国際社会のいろいろと重要な課題について、中国は一緒になってそれを解決していく対象国だと認識している。だから、もちろんアメリカは中国を警戒しているけれど、なんとか国際社会に取り込んでやっていこうというのが、今の米中関係ですね。だから、いま演習中のリムパックに中国海軍が初めて招待され、米軍に次ぐ規模の1000人以上の中国軍人が参加していますし、79日からは北京で米中経済戦略対話が開かれ、米中「共同閣僚会議」とも言われるように、あらゆる課題について包括的な協議がなされ、危機管理体制の構築が目指されています。

次に韓国と中国の関係です。なぜ朴大統領があれほど「反日主義」なのかについては、親日大統領だった父親との関係や彼女の“独善体質”なども挙げられていますが、少なくとも事実関係としては、朴さんが大統領に就任した当初は、早く日韓首脳会談をやりたい、そこで、まず外相を派遣してお膳立てするという日程を考えていたのです。ところが、それを潰したのが麻生副大臣の靖国参拝で、それですぐに外相の派遣が取りやめになって、全部ご破算になった。当時は、安倍さんも村山談話や河野談話を見直すなどと、どんどん発言する。だから結局、朴さんをある意味で中国に追いやる形になってしまった。

その後もいろいろな経緯ありますが、今の朴政権の外交は「親米和中」といって、米韓同盟を軸にしながら中国と和するというものです。中国の習近平主席が、恒例となっている北朝鮮首脳との会談に先んじて、初めて韓国を7月3日から訪問し朴大統領と会談したことは、象徴的です。両首脳の会談は、これで5回目の会談であり、今回は中韓FTAの年内妥結を目指すことでも合意がみられたとのことです。

以上のように見てきますと、米国にとっても韓国にとっても、中国は「敵」ではない、ということが明らかになってきます。そもそも、集団的自衛権というのは、「共通敵」の存在を前提にします。安倍さんは事実上、中国を対象に集団的自衛権を考えている訳ですが、今や肝心のこの構図が成り立たない。つまり中国は、日米韓の「共通敵」と単純に位置づけることなど全くできない情勢なのです。安倍さんの構図を前提にするなら、皮肉な言い方をすれば、こうした情勢こそ「安全保障環境の悪化」と言うべきでしょうね。



安倍政権に対する米国の立ち位置は複雑



――安倍政権が集団的自衛権の行使に向けた閣議決定を行ったことについて、米国の軍部も国務省も「歓迎」を表明しています。他方で、これまで最も強く日本に集団的自衛権を求めてきたジャパン・ハンドラーのなかには、ジョセフ・ナイ氏のように、安倍政権のナショナリズムに警告を発したりする動きもありますね。

たしかに、安倍政権に対する米国の立ち位置は複雑です。ジョセフ・ナイやリチャード・アーミテージもそうですが、最も危惧しているのが、安倍首相の靖国参拝に象徴されるナショナリズムの問題です。そもそも、なぜ靖国参拝が国際問題化するかと言えば、ご承知のように1978年に松平永吉宮司は、「東京裁判を否定しなかったら、戦後の日本は生まれ変われない」という信念をもってA級戦犯の合祀に踏み切りました。つまり、A級戦犯の合祀は明らかに、日本の戦争責任を問うた東京裁判を否定する行為として行われたのです。だから当然、首相や政治指導者たちの靖国参拝が国際問題化するわけです。

そもそも、東京裁判を否定するということは、戦後アメリカが作ってきたサンフランシスコ体制を軸とした戦後秩序というものを否定することを意味します。私は、論理的に、あるいは心情的に戦後秩序を否定する政権が、かなりの支持基盤をもって誕生し、それが運営されているということは、戦後初めてのことだと考えています。だからこそ、韓国や中国ばかりではなく、米国も警戒を怠らないのです。

例えば、4月の日米首脳会談でオバマさんは安倍さんの進める集団的自衛権の行使を「歓迎し支持する」と言っていますが、実はここには、「日米同盟の枠内」と「近隣諸国との対話」という二つの条件が付けられています。つまりこれは、仮に日本が集団的自衛権を行使するにしても、米軍の指揮下で行えということ、さらにはその前提として、「近隣諸国」、つまりは韓国や中国ときちっと話し合え、ということなのです。厳重にタガをはめているのです。だから、日本をめぐる「安全保障環境の悪化」という場合、安倍さんが靖国を参拝したことが、どのような影響を及ぼしているかということを、しっかりと分析する必要があります。

未曽有の「全次元」戦争に われわれは直面する

――安倍首相は「積極的平和主義」を掲げていますが、本当に「平和主義」なのか、あちこちから疑問が提出されていますが。

まず、安倍首相の路線が推し進められていった先に、どういう事態が待ち受けているのかを考えてみましょう。安倍さんは「積極的平和主義」を唱えているけれども、具体的に展開されていることは、自衛隊の軍事的役割を増大させることばかりで、本質的には「積極的軍事主義」と言うべきだと思いますね。

その軍事主義を象徴的に示すのが武器輸出です。4月には、これまでの「武器輸出三原則」を撤廃して「防衛装備移転三原則」を打ち出しましたが、紛争国の定義を曖昧にしている。なぜかといえば、F35ステルス戦闘機をイスラエルにも輸出できるようにしたいからです。イスラエルのような紛争のただ中にある国にも輸出できるとしたら、どこの国にでも輸出できる。だから事実上、日本が「死の商人」になっていく、ということです。つまり、「兵器を輸出して平和になろう」という路線なのです。

こうした軍事と軍事の対決路線を前提に、国際政治における「最悪シナリオ」を想定すると、それは米中戦争です。この戦争は、宇宙、空、海、陸、サイバー空間、無人機なども含む、未曽有の「全次元」の戦争となるでしょう。例えば中国からすれば、アメリカの軍事戦略は、宇宙に張り巡らした圧倒的な衛星網があるからこそ展開できる訳で、当然こうした軍事衛星に攻撃を加えるでしょうし、米軍は宇宙空間から迎え撃つでしょう。

さらにサイバー戦争ですが、これの怖いところは、米軍とイスラエルがイランの核施設にサイバー攻撃を仕掛けたように、原発が破壊される可能性が現実のものとなることです。さらに無人機戦争は当然のことですが、ロボット兵士やロボット軍団も登場してくるでしょう。この点で、アメリカをはじめとした国際的な軍事産業にとって、日本のロボット工学を軍事に取り込むことが重要な狙いとなっています。

こうした、かつて人類が経験したことのないような新たな次元の戦争に、日本も軍事的に積極的に加担していくのかどうか、これが今問われていることなのです。

紛争の危機が増大している今こそ

憲法の平和諸原則が重要な意味を持つ

――それでは、集団的自衛権も行使でき戦争もできる「普通の国」ではなく、憲法の「平和主義」を生かした形で、東アジアやグローバルな平和の構築に、貢献する方策はないのでしょうか。

この問題を考えるためにはまず、いわゆる「パワーシフト」と言われる問題の構図を捉え直しておくことが必要でしょう。戦後の世界はある意味で、アメリカの「例外主義」を認めてきました。つまり、アメリカは「国際紛争を武力で解決する」という前提でやってきたわけで、国際法から外れたような「軍事介入」や紛争を引き起こしても、その「例外主義」で世界の秩序が一定に保たれてきたと見なされ、事実上国際社会で認められてきた訳です。しかし、アメリカがアフガン、イラクで泥沼の戦争にはまり込んでいる間に、中国が急速に台頭してきたために、アメリカの力が相対的に衰退したのではないか、「パワーシフト」が進んでいるのではないか、として論じられているのです。

ここでの問題は、中国があまりにも急に大国化したため、国際社会でどう振る舞ったら良いのか分からない、という事態に直面していることです。私はこれを中国の“学習過程”と捉えていますが、例えば防空識別圏も、あたかも自国の領空だと思い込んでいたとか、自衛艦にレーダー照射して、それがいかに危険きわまりない行為であるか分かっていない、あるいは領土、領海をめぐる国際法の認識の欠落などです。

こうした中国に対して、オバマ大統領は「国際社会のルールを守りなさい」という形で、国際社会に取り込もうとして臨んでいる。私は、これは基本的に正しい主張と考えます。ただ厄介なことは、上に述べたように、アメリカはずっと「例外主義」でやってきた。その典型が、国連海洋法条約の問題です。この条約は海の憲法、海のルールと言われているわけで、オバマさんは盛んに中国に対して「この海のルールを守りなさい」と言っている。ところが、先進諸国のなかで、唯一国、アメリカだけがこの条約を批准してないのです。

問題は、上院が批准に反対していることなのですが、なぜ上院が反対するかというと、アメリカ海軍の「行動の自由」が縛られる、アメリカの「単独行動」ができなくなる、という理屈なのです。しかし、この論理を出せば出すほど、喜ぶのは中国です。この論理に固執している限り、中国の勝手な行動を抑えられない。だから、「拡張主義」に走る中国を抑えるためには、アメリカも「例外主義」を捨てて、普遍的なルールに従う必要がある、ということなのです。そして、こうした米国の「例外主義」と中国の「拡張主義」の狭間にある日本こそが、普遍的なルール、国際社会のルール化に向けて、重要な役割を果たすべきなのです。

以上のように考えてくると、実は、憲法九条を背景として作りあげられてきた、武器輸出三原則とか、非核三原則とか、宇宙の平和利用原則とか、原発の平和利用原則とか、専守防衛の原則などの、憲法の平和諸原則が、単に日本のためばかりでなく、安全保障のジレンマに落ち込み、紛争の危機が増大している今日の国際社会においてこそ、非常に重要な意味を持ってきていると考えるのです。

実は、去る5月にロボット兵器の規制に向けての専門家会合がジュネーブで初めて非公式に開かれたのですが、日本は軍事化の方向に走るのではなく、宇宙空間の軍事利用やサイバー問題をはじめ、野放し状態であったこうした軍事分野において国際的なルール化が構築されていくように、そうした方向においてこそ、最大限の力を傾注すべきなのです。(引用終わり)

欧米が創り出したおとぎ話?

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6月 252014

もうだいぶ前のことだが、配偶者に勧められてパトリック・ジュースキントの「香水~ある人殺しの物語~」という小説を読んだことがある。舞台は18世紀のフランスのパリ。町は汚濁と猥雑にまみれ、至るところに悪臭が立ちこめている。あまりにも不衛生で、貧しいヨーロッパの大衆の生活が見事に描写されていた小説だった。その後、この小説が映画化されたので見たが、主人公の出生シーンはなかなか衝撃的だった。腐った魚やらゴミやらが回りに悪臭を放っている下町のとある魚屋の女性が主人公:ジャン=バティスト・グルヌイユのヘソの緒を自身で、包丁で切り落とし、そのまま、ゴミ溜めに捨ててしまう場面を映画は忠実に再現していたからだ。





ところで、16世紀の「大航海時代」以降、アフリカ、アジア、北アメリカ、南アメリカの人たちから大規模な略奪を重ねたヨーロッパ人が、近現代史、200年の勝利者であったために西洋に対して、私たち日本人はあまりにも美しい誤解を巧みに植え付けられたまま、現在に至っているようだ。そろそろ冷静にありのままの事実を直視すべき時であろう。



以前のレポートでも紹介させていただいたが、ヨーロッパが200年にわたる略奪、殺戮をほしいままにしていた1820年においても、まだ、アジアの方が豊かだったのである!

1820年において中国、インド、東南アジア、朝鮮、日本からなるアジアの所得は、世界の58%を占めていた。その後、19世紀におけるヨーロッパの産業革命、20世紀に入ってアメリカの工業化が進むことによって、1950年には、ヨーロッパとイギリスとイギリスの4つの旧植民地(アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド)が世界所得の56%を占める一方、アジアのシェアは、19%までに落ち込んだ。ところが、この頃からアジアは成長し始め、1992年の段階で、39%までに回復。2025年には、57%に達し、200年ぶりにかつての地位を取り戻すことが予想されている。(「アジア経済論」原洋之介編NTT出版、「近代中国の国際的契機」東京大学出版会)



そこで今回は、21世紀の新しい時代に備えて私たち日本人が目を覚ますための本を紹介したい。「ものぐさ精神分析」という本で一世を風靡した岸田 秀氏の「日本がアメリカを赦す日」(毎日新聞社)である。有名な政治学者である京極純一氏がこの本の書評を書いていたので、まず初めに紹介させていただく、以下。

<歴史における正義とは何か>



著者の岸田秀先生は精神分析の専門家で著書が多い。このたび、「日本とアメリカの歴史の、これまたそのごく一部にほんのちょっぴり触れただけ」と謙遜(けんそん)する新著『日本がアメリカを赦(ゆる)す日』が毎日新聞社から出版された。読み易く、分かり易いことは、これまでの著書と同様で、ご一読をおすすめしたい。



表題が示すように、この本は、日米関係150年の歴史を資料に、日本人とアメリカ人の生活心理と相互交流の実際を、精神分析の角度から、的確に解説した、面白い読みものである。

この書物の冒頭、1853年、ペリー艦隊来航の後、「近代日本はアメリカの子分として出発しました。」と著者は説明する。その後の「日本は屈辱感、敗北感、劣等感に呻(うめ)きつづけてきました。その屈辱感から逃れるためには、日露戦争は日本民族の優秀さのゆえに勝ったのだという、この神話を是が非でも信じる必要がありました。のちの日米戦争惨敗の原因は、この神話です。」



ところで、日本の相手役であるアメリカ側は、「自分が相手のプライドを傷つけたことに鈍感で無神経です。自分以外の人間の行動におけるプライドという動機が見えません。」



その上、「近代日本は、外国を崇拝し憧憬する卑屈な外的自己と、外国を嫌い憎む誇大妄想的な内的自己に分裂して」いた。そして、日米お互いに相手の神経を逆撫でするとき、「アメリカは意識的、意図的に日本をイライラさせ、日本はつい気づかずにアメリカをイライラさせた。」「真珠湾奇襲に対するアメリカのすさまじい怒りは、アメリカ人の主観としては、恩知らずの裏切り者に対する善意の恩人の怒りでした。」「さらに深い理由、第一の根本的理由は、僕(著者)によれば、アメリカの歴史、インディアン虐殺の歴史にあります。アメリカ人は無意識的に日本人をインディアンと同一視していると考えられます。人間は自分が犯し、かつごまかした悪事と似たような悪事を他人が自分に対して犯すと、激しく非難するものです。罪悪感を外在化するためです。」「アメリカにとっても、日米戦争はやる必要のなかった戦争でした。」「日本は敗戦後から今に至るまでずうっとアメリカの属国で、その占領下にあります。」



「現在の日本人の平和主義は、平和主義でなく、降伏主義、敗北主義です。」「一種のマゾヒズムでしょうね。」「現状では、日本の平和主義は偽善でしかない。」



生活と文化については「一般性とか普遍性の面でアメリカ文化のほうが日本文化より上だ。」日本文化の基盤は「和」と「世間の眼」に基づく「一種の性善説」の人間観である。しかも、「言語化されていないため、外国人との関係を築くのが難しい。」「が、捨てることもできない。どこでも日本人ムラができる。」

アメリカは「おのれを普遍的正義の立場、善悪の絶対的判定者の立場におき、それに従わざるを得ないような無条件降伏に敵を追い込んでおいて、敵を裁くのが好き」である。

アメリカは「インディアン虐殺を正当化」する「正義の国」とされ、「強迫神経症の患者で、反復強迫の症状を呈している。」「今日の日本の繁栄は、インディアン・コンプレックスに苦しむアメリカ人の精神安定のために必要だったのです。」日本の繁栄は「アメリカ文化の普遍性の夢がついに実現した物語でした。」



アメリカと日本の社会と文化の特性をよく心得た解説書、実際生活の中で参考になる事柄の多い有用な手引書としておすすめしたい。

「毎日新聞2001年4月8日」(引用終わり)

ところで、著者の「アメリカの子分としての近代日本」という分析は、多くの日本人のプライドを傷つけるかもしれない。しかしながら、現実を冷徹に認識できなければ、現実を変える対処法を見つけることは、できないことを肝に銘じるべきだろう。特に日本は敗戦後から今に至るまですっとアメリカの属国で、その占領下にあることを冷静に認識していないと、米国から要求のあった集団自衛権、TPP等の問題を安易に捉えることになり、これから大変なことになるだろう。米国覇権に陰りが見える時代に入った今、読み返してみる価値は十分にある。



もう、1冊は「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」というこれも同じく岸田氏の本である。この本は、大論争を欧米に巻き起こした英国人歴史学者マーティン・バナールの「黒いアテナ」の解説を主に岸田氏が独自の見解を述べるユニークなものになっている。山川出版の世界史の教科書とあまりに内容がかけ離れていることに吃驚される方も多いと思われるが、著者は、現在、一般に流布している世界史は、西洋人が自分たちを優位に立たせるために作ったプロパガンダ、コマーシャルだと言っているのだから、全く立場が違うわけだ。



以下、本書から引用。(208ページ)

<ヨーロッパ中心主義の悪魔的魅力>



アーリア主義を頂点とする、ヨーロッパ人しか文明をつくれないとか、ヨーロッパ文明は最高の普遍的文明であるとか、ヨーロッパ民族は世界を支配すべき優秀民族であるとかの近代ヨーロッパ中心主義の思想をヨーロッパ民族がつくった動機は、ほかの諸民族に対する嫉妬と劣等感である。隠蔽されているというか、あまり認識されていないようであるが、世界の各民族がそれぞれ主として自分たちの土地の産物で暮らしていた近代以前においては、土地が痩せていて気候条件にも恵まれなかった(もちろん、不利な条件はそれだけではなかったが)ヨーロッパ民族は世界の諸民族の中でいちばん貧しい民族であった。もうとっくに嘘がバレているが、いわゆる「未開人」が貧しく惨めな野蛮生活を送っていることを「発見」したのは、近代ヨーロッパ人の探検家たちであった。ところが、いわゆる「未開人」を貧しく惨めな生活に追い込んだのは近代ヨーロッパ人であって、そのような「発見」はこのことを隠すために必要だったのである。



近代ヨーロッパ人は、世界の情勢を知るにつれ、ますます他民族への嫉妬に駆られ、劣等感に苦しめられ、そして、貧しさに苛まれて、どこかほかにいいところがあるような気がして故郷のヨーロッパに安住できず、難民あるいは出稼ぎ人となって世界各地に押し出されてゆくようになった。そして追い詰められた者の強さで必死にがんばったのであった。ヨーロッパ中心主義の歴史観では、「大航海」時代のヨーロッパ人は、冒険心に富み、進取の精神に満ち溢れ、あらゆる危険をものともせず、未知の世界の果てまで余すところなく探求して飽きなかった勇敢な人たちだったことになっているらしいが、それは自己粉飾である。なかには、そういう者もごく一部いたかもしれないが、故郷のヨーロッパをあとにした者の大部分が飢餓や宗教的、人種的迫害から必死に逃れようとした難民であった。地球規模で言えば、近代はヨーロッパに大量の難民が発生した時代であった。故郷で何とか過不足なく暮らしてゆけている者がどうして故郷を捨てて見知らぬ土地へ逃げてゆきたいと思うであろうか。



その結果、必然的に、ヨーロッパ以外の世界の各地でヨーロッパ民族と他の諸民族とがぶつかることになった。ヨーロッパ民族と他の諸民族との争いは、貧しく惨めな家に生まれ、そのため、いじけて意地悪ですれっからしで疑い深く、せこい性格に育ち、争いの絶えない厳しい環境のなかで場数を踏んでいるために喧嘩が滅法強く、暴れん坊で、家にいたたまれず飛び出してきて帰るところのない餓鬼と、お金持ちの裕福な両親のもとに生まれ(自然に恵まれ)、可愛がられてのんびりした性格に育って、人の悪意というものをあまり知らず、のほほんとわが家で豊かに暮らしていたお坊ちゃん(中略)との争いであった。

勝負は初めから決まっていた。この争いの最も典型的な例は、十六世紀初め(1531~1533年)のスペイン王国のごろつきピサロとインカ帝国の皇帝アタウァルパとの争いであった。要するに、ヨーロッパ人と比べれば裕福に暮らしていた他の諸民族の多くは、無警戒だったということもあって、手もなくやられてしまったのであった。それ以来、貧富は逆転し、ヨーロッパ民族は世界の諸民族の中でいちばん豊かな民族となった。



そのときに、惨めで劣悪な過去を隠蔽し、立派な過去を捏造しようとするヨーロッパ人の大掛かりな企てが始まった。その結果できあがったのがヨーロッパ中心主義の思想であり、ヨーロッパ製世界史である。それは近代ヨーロッパ人の他の諸民族に対する嫉妬と劣等感に基づく何かに駆り立てられたような残忍さ(中略)、すでにヨーロッパ内の少数民族を相手に習得していた技術を応用した他の諸民族の支配と搾取を正当化し、それに伴う罪悪感をごまかすということを動機として形成された思想であった。

ローマ人から蛮族と呼ばれていた古代ヨーロッパを古代ギリシアにすり替え、あまり自慢にならない中世の「暗黒時代」をすっ飛ばし、近代ヨーロッパ文明を栄光ある古代ギリシア文明の直系の子孫とする歴史の捏造もこの思想の一環であった。それは、卑賤から身を起こして成り上がった一家が滅亡した昔の名家の系図を買い、過去を隠してその末裔と称するようなものであった。だから、「お家復興」というか、再生、すなわちルネサンスと称したのである。」              (引用終わり)



亡くなった小田実氏がマーティン・バナールの「黒いアテナ」の書評を書いているので、紹介する、以下。

『黒いアテナ』の鮮烈な主張



昔はよく現代のギリシア人が「黒い」のは、金髪、白い肌、長身、長脚のギリシア彫像の栄光の時代のあと、ギリシアの周囲の蛮族(英語のバーバリアンということばは、ギリシア語の「バルバロス」から来ている。すなわち、文明人のギリシア人の耳にはバルバルとしか聞こえないわけの判らないことばをしゃべる連中はそれだけで野蛮人だ。そういうことになった)と混交、混合し、さらには蛮族中の蛮族のトルコ人の支配を長期間にわたって受けたからだと言われたものだ。最近はそうでもなくなって、あれは昔からそうだったのだと言われるようになって来ていたが、それをまちがいなくそうだと強力に主張した一書が近年になって現れた。それが、この1987年に第1巻が世に出たマーティン・バナールの『黒いアテナ』だ。彼はそう証拠を集めて主張しただけではなかった。元来が本質的に「黒いアテナ」だったのを「白いアテナ」に変えたのは1785年に始まるドイツを中心とした「ヨーロッパ、西洋」の歴史の「偽造」だと、これもまた強力、鮮烈に主張した。



ギリシア語の語彙に見られる西セム系、エジプトのルーツ



この本のことをここで長々と説明するつもりはない。すべては『黒いアテナ』自体を読めば判ることだ。ただ、ここで私なりにまとめ上げた紹介を少し書いておけば、バナールは、今はアメリカ合州国のコーネル大学の教授だが(それともすでに引退しているかも知れない、それほどの年齢だ)、もともとはイギリスのケンブリッジ大学で中国学を勉強し、教えもしていたイギリス人の70歳に近い年の学者だ。若いときには、ベトナム反戦運動に参加し(そのころ、ひょっとしたら、私は彼に会っていたかも知れない)、同時に当時イギリスでは事実上何の研究もされていなかったベトナムを研究、日本史も勉強した。両者ともに、混合しながら、同時に独自に文明をつくり出していて、それはのちのギリシア研究のいい「モデル」になった(そう彼は『黒いアテナ』第1巻の「はしがき」で書いている)。

そのあと、同じ「はしがき」のなかでの彼自身のことばを引用して言えば、「世界の危険と興味の中心となる焦点はもはやアジアではなくて東地中海になった」と彼には見えて来て、そちらに研究対象を移し、ヘブライ語(彼には少しユダヤ人の血が入っている、そう彼は言う)、エジプト語を学び、さらにギリシア研究に至って、彼は重大な「発見」を二つする。ひとつは、ギリシア語の語彙の半分はインド・ヨーロッパ語系のものだが、あと25パーセントは西セム語系(ヘブライ語――古来のユダヤ人言語もそこに入る)、20―25パーセントはエジプト語だという「発見」だ。しかし、なぜかくも混交が起こったのか。それはかつて古代ギリシアがエジプトと西セム語系言語をもつ古来のユダヤ人の国フェニキアの植民地だったからだ――これがバナールの第二の「発見」だが、そうだとすれば、当然、古代ギリシアには、フェニキアのユダヤ人要素とともに、「黒い」アフリカの一部のエジプトもギリシアの構成要素のなかに入って、古代ギリシアは「白いアテナ」ではなくなり、「黒いアテナ」、そうとしか考えられないものになる。そうバナールは強力に主張する。



西欧による歴史の「偽造」



これだけでも大問題になって論争がまきおこって不思議はないが、もうひとつ、彼は重大な主張を、証拠を集めてやってのけた。それは、さっき述べた歴史の「偽造」である。それは大航海時代以来、侵略と植民地支配で世界の中心にのし上がって来た「ヨーロッパ、西洋」が、ことにそのなかで新興勢力のドイツが牽引力になって、近代になって自分たちの文明を古代ギリシアに始まるものとして、ここ200年のあいだに元来が「黒いアテナ」だったはずの古代ギリシアを、「白い」自分たちの先祖であるのにふさわしく「白い」アテナに「偽造」してのけたというのだ。この本の副題は「古典文明のアフロ・アジア的ルーツ」だが、その第1巻(これが1987年にまず出版された)にさらにもうひとつつけられた副題は「古代ギリシアの偽造 1785年―1985年」とまさに激しい。また、きびしい。



『黒いアテナ』をめぐる論争



これでこの本が「ヨーロッパ、西洋」で問題にならなかったら不思議である。案の定、大論争がまき起こり、それはまだ続いている。「聖書以来、東地中海についてのもっとも論議された本」と評した学者もいるし、「好むと好まざるとにかかわらず、バナールの事業は、ギリシア文明の起源と古代エジプトの役割についての次の世紀における認識を深いところで示している」と言った学者もいる。そして、この二つの発言を紹介しているのは『大学における異端』と題した、これまでの『黒いアテナ』にかかわっての論争を「肯定」「否定」あわせてまとめて紹介した本だが、こうした本が出版されていることだけでも、論争の規模の大きさと激しさが判るだろう。「賛否」両論半ばと言いたいが、マーティン・バナール自身が書いているように、「否」が「賛」より多いようだ。そして、「否」が古代ギリシア研究の専門家に多くて、「賛」は私自身をふくめて、この本をこれから読もうとしている読者のような専門家でない知識人――「知的大衆」に多いと、これもバナール自身が書いていた。



バナールによるパラダイム転換



こうした事態にあって、よく使われるのは、研究、本の質の理由だ。質が劣っているので、この研究、本はわが図書館には置かない――これがよく使われる理由だが、この質の問題でいつでも出て来るのは、専門家が見てどうかという問題だ。

私にはバナールの学識、あるいは、逆にバナールを「アマチュア」とこきおろすレフコビッツの「専門家」としての学識を判定する能力はないが、私にはバナールの学識、そして、研究それ自体は決して「アマチュア」程度のものとは思えない。しかし、たとえ、彼が「アマチュア」だとしても、バナール自身が主張するように、トロイの遺跡をみごとに発掘してみせたハインリッヒ・シュリーマンは言うに及ばず、クレタ線文字Bをギリシア語としてこれまたみごとに解読してみせたマイケル・ベントリスも偉大な「アマチュア」だった。シュリーマンの本業が企業家なら、ベントリスは建築家だ。

バナールは『黒いアテナ』第1巻の「序文」の冒頭に、科学における「パラダイム」転換の必要を説いたトーマス・クーンのことば、「新しいパラダイムの根本的な発案をなしとげる者は、たいてい常に、彼らがパラダイムを変えるその領域において非常に若いか、非常に新しいか、そのどちらかである」を引用したあと、中国研究を長年して来た自分が今『黒いアテナ』でしていることは、厳密な意味でのパラダイム転換ではないとしても、それと同じように根本的なことだと述べていた。私も彼のことばに同意する。

(引用終わり)



どう判断されるかは、別にしてあまりにも興味深い指摘である。

ここで、私たちが忘れてはならないのは、ジョージ・オーウェルの次のことばである。



「過去を支配する者は未来を支配する。そして現在を支配する者は過去を支配する」

(『一九八四年』)





*ところで、日本では宮司の三島敦雄氏が1927年に「天孫人種六千年史の研究」を刊行し、シュメル人と日本人を結び付ける歴史学説を唱えたことがある。この書は100万部近くの超ベストセラーになったが、1945年の敗戦後、GHQはこの本を一冊残らず探し出して没収、焼却した。ご存じだろうか。

このように歴史は勝者によって作られていくのである。

先日から、知人に勧められた、豊橋出身の西谷 修さんが監修した「自発的隷従論」を読んでいる。フランスの有名なモンテニューの夭折した友人であるエティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(彼は1530年に生まれ、1563年に亡くなった。)が18歳前後の書いたと言われる小論である。吃驚するのは、この本が書かれた16世半ばから400年以上の歳月を経ているにもかかわらず、現在の日本の不思議な無力感に包まれた社会状況をあまりにも適確に言い当てていることである。(以下、彼の興味深い言葉を引用)



「私は、これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただ一人の圧制者を耐え忍ぶなどということがありうるのはどうしてなのか、それを理解したいのである。その圧制者の力は人々が自分からその圧制者に与えている力に他ならないのであり、その圧制者が人々を害することが出来るのは、みながそれを好んで耐え忍んでいるからに他ならない。その圧制者に反抗するよりも苦しめられることを望まないかぎり、その圧制者は人々にいかなる悪をなすこともできないだろう。(P11)」



「これは一体どう言うことだろうか。これを何と呼ぶべきか。何たる不幸、何たる悪徳、いやむしろ、何たる不幸な悪徳か。無限の数の人々が、服従ではなく隷従するのを、統治されているのではなく圧制のもとに置かれているのを、目にするとは!(P13)」



「仮に、二人が、三人が、あるいは四人が、一人を相手にして勝てなかったとして、それはおかしなことだが、まだ有りうることだろう。その場合は、気概が足りなかったからだと言うことができる。だが、百人が、千人が、一人の圧制者のなすがまま、じっと我慢しているような時、それは、彼らがその者の圧制に反抗する勇気がないのではなく、圧制に反抗することを望んでいないからだと言えまいか。(P14)」



「そもそも、自然によって、いかなる悪徳にも超えることのできない何らかの限界が定められている。二人の者が一人を恐れることはあろうし、十人集ってもそういうことがあるうる。だが、百万の人間、千の町の住民が、一人の人間から身を守らないような場合、それは臆病とは言えない。そんな極端な臆病など決してありえない。(P15)」



「これは(支配者に人々が隷従していること)、どれほど異様な悪徳だろうか。臆病と呼ばれるにも値せず、それふさわしい卑しい名がみあたらない悪徳、自然がそんなものを作った覚えはないと言い、ことばが名づけるのを拒むような悪徳とは。(P15)」



圧制者には、立ち向かう必要なく、打ち負かす必要もない。国民が隷従に合意しない限り、その者は自ら破滅するのだ。何かを奪う必要など無い。ただ何も与えなければよい。国民が自分たちのために何かをなすという手間も不要だ。ただ、自分のためにならないことをしないだけでよいのである。民衆自身が、抑圧されるがままになっているどころか、敢えて自らを抑圧させているのである。彼らは隷従を止めるだけで解放されるはずだ。(P18)」



「それにしても、なんと言うことか、自由を得るためにはただそれを欲しさえすればよいのに、その意志があるだけでよいのに、世の中には、それでもなお高くつきすぎると考える国民が存在するとは。(P19)」



「そんなふうにあなた方を支配しているその敵には、目が二つ、腕は二本、体は一つしかない。数かぎりない町のなかで、もっとも弱々しい者が持つものと全く変わらない。その敵が持つ特権はと言えば、自分を滅ぼすことができるように、あなた方自身が彼に授けたものにほかならないのだ。あたがたを監視するに足る多くの目を、あなたが与えないかぎり、敵はどこから得ることができただろうか。あなた方を打ち据えるあまたの手を、あなた方から奪わねば、彼はどのようにして得たのか。あなた方が住む町を踏みにじる足が、あなた方のものでないとすれば、敵はどこから得たのだろうか。敵があなた方におよぼす権力は、あなた方による以外、いかにして手に入れられるというのか。あなた方が共謀せぬかぎり、いかにして敵は、あえてあなた方を打ちのめそうとするだろうか。あなた方が、自分からものを奪い去る盗人をかくまわなければ、自分を殺す者の共犯者とならなければ、自分自身を裏切る者とならなければ、敵はいったいなにができるというのか(P22)」



「この自然という良母は、我々みなに地上を住みかとして与え、言わば同じ家に住まわせたのだし、みなの姿を同じ形に基づいて作ることで、いわば、一人一人が互いの姿を映し出し、相手の中に自分を認めることが出来るようにしてくれた。みなに声と言葉という大きな贈り物を授けることで、互いにもっとふれあい、兄弟のように親しみ合う様にし、自分の考えを互いに言明し合うことを通じて、意志が通い合うようにしてくれた。どうにかして、我々の協力と交流の結び目を強く締め付けようとしてくれた。我々が個々別々の存在であるよりも、みなで一つの存在であって欲しいという希望を、何かにつけて示してくれた、これらのことから、我々が自然の状態に於いて自由であることは疑えない。我々はみな仲間なのだから。そしてまた、みなを仲間とした自然が、誰かを隷従の地位に定めたなどと言う考えが、誰の頭の中にも生じてはならないのである(P27)」



人々はしばしば、欺かれて自由を失うことがある。しかも、他人によりも、自分自身にだまされる場合が多いのだ。(P34)」



信じられないことに、民衆は、隷従するやいなや、自由を余りにも突然に、あまりにも甚だしく忘却してしまうので、もはや再び目覚めてそれを取り戻すことができなくなってしまう。なにしろ、あたかも自由であるかのように、あまりにも自発的に隷従するので、見たところ彼らは、自由を失ったのではなく、隷従状態を勝ち得たのだ、とさえ言いたくなるほどである。(P34)」



「確かに、人は先ず最初に、力によって強制されたり、打ち負かされたりして隷従する。だが、後に現れる人々は、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されてなしたことを、進んで行うようになる。そう言うわけで、軛(くびき)のもとに生まれ、隷従状態の元で発育し成長する者達は、もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、自分が見いだした物以外の善や権利を所有しようなどとは全く考えず、生まれた状態を自分にとって自然な物と考えるのである。(P35)」



「よって、次のように言おう。人間に於いては、教育と習慣によって身に付くあらゆる事柄が自然と化すのであって、生来のものと言えば、元のままの本性が命じる僅かなことしかないのだ、と。(P43)」



「したがって、自発的隷従の第一の原因は、習慣である。だからこそ、どれほど手に負えないじゃじゃ馬も。始めは轡(くつわ)を噛んでいても、そのうちその轡を楽しむようになる。少し前までは鞍を乗せられたら暴れていたのに、今や馬具で身をかざり、鎧をかぶって大層得意げで、偉そうにしているのだ。(P44)」



「先の人々(生まれながらにして首に軛を付けられている人々)は、自分たちはずっと隷従してきたし、父祖たちもまたその様に生きて来たという。彼らは、自分たちが悪を辛抱するように定められていると考えており、これまでの例によってその様に信じ込まされている。こうして彼らは、自らの手で、長い時間をかけて、自分たちに暴虐を働く者の支配を基礎づけているのである。(P44)



人間が自発的に隷従する理由の第一は、生まれつき隷従していて、しかも隷従するようにしつけられているからと言うことである。そして、この事からまた別の理由が導き出される。それは、圧制者の元で人々は臆病になりやすく、女々しくなりやすいと言うことだ」(P48))



「自由が失われると、勇猛さも同時に失われるのはたしかなことだ。彼らは、まるで鎖につながれたように、全く無気力に、いやいや危険に向かうだけで、胸の内に自由への熱意が燃えたぎるのを感じることなど絶えてない。(P49)」



「そしてこの自由への熱意こそが、危険などものともせずに、仲間に看取られて立派に死ぬことで、名誉と栄光とを購いたいとの願いを生じさせるのである。自由な者達は、誰もがみなに共通の善のために、そしてまた自分のために、互いに切磋琢磨し、しのぎを削る。そうして、みなで敗北の不幸や勝利の幸福を分かち持とうと願うのだ。ところが、隷従する者達は、戦う勇気のみならず、他のあらゆる事柄においても活力を喪失し、心は卑屈で無気力になってしまっているので、偉業を成し遂げることなどさらさら出来ない。圧制者共は事のことをよく知っており、自分のしもべたちがこのような習性を身につけているのを目にするや、彼らをますます惰弱にするための助力を惜しまないのである。(P49)」



芝居、賭博、笑劇、見世物、剣闘士、珍獣、賞牌、絵画、その他のこうしたがらくたは、古代の民衆にとって、隷従の囮、自由の代償、圧政のための道具であった。古代の圧政者、こうした手段、こうした慣行、こうした誘惑を、臣民を軛の下で眠らせるためにもっていた。こうして民衆は阿呆になり、そうした暇つぶしをよきものと認め、目の前を通り過ぎる下らない悦びに興じたのであり、そんなふうにして隷従することに慣れていったのであった。(P53)」

如何だろうか。現在の高度に発達したグローバル金融資本主義社会では、メディア等を使って、あまりにも巧みに<自発的隷従状態>に誘導されてしまうのが、悲しい現実ではないだろうか。



一例を挙げるなら、現在、脱原発運動の旗手の一人になっている小出裕章氏の言動の不可思議さのなかにも「自発的隷従」の精神を垣間見ることができる。



小出氏の自発的隷従の典型が「「病気になることを納得して食べる。せめて子供を守るため、大人が率先して汚染度の高い食物を食べるべき」だという敗北主義的なあまりにも不思議な主張である。放射線管理区域にすべき所に、日本政府が、国民を住ませる決断をした以上、仕方がないというのも彼の主張だが、本当にそうだろうか。

言うまでもなく、日本国には、日本国憲法があり、国民主権、基本的人権の尊重が高らかに謳われている。年配者は、汚染地域の一次産業を守るために、放射性物質に汚染された食物を食べるべきだという主張は、どう考えても基本的人権の侵害である。また、政府が決めたから仕方がないという主張も、本来なら、国民主権が機能していない政治を問題にすべきであろう。一票の格差の問題、マスコミ報道のあり方等、議会制民主主義が機能阻害されている要因は、あまりにも多くあるように思われるが、

本当の事を書いてしまえば、原発問題を解決するお金の問題も、日本が官民合わせて米国に貸していると言われている1200兆円のお金を活用すれば、本当は何とかなるはずである。もちろん、多くの政治家は、米国が怖くて言えないだろうが、国家非常事態宣言を311の時にしていれば、すでにそれすら、できていた可能性があると思われる。

ところで、国立保健科学医療院の山口という研究員が、原発を世界中につくるために「福島の原発事故を早く抑え込んでしまって、除染をして住民が汚染を受け入れること

を発信しないといけない」と、言っていたようだが、一時、話題になった<福島エートス>とは、被曝者である福島の人々が、自ら進んで放射能の環境の中で生活することを

選んだと、いう既成事実を作って、それを世界に発信するための奇妙な活動である。

この自発的隷従の活動を世界の原子力マフィアが後押ししているわけだが、上記の小出氏の主張は、残念ながら、見事にこれに沿うものになっていることに日本人は早く、気が付くべきであろう。

おそらく、小出氏が大手のマスコミに頻繁に出演できる理由は、この辺にあるのでは、ないかと思われる。ただ、彼は、意識的にやっているのではなく、日本社会に流れている「自発的隷従の空気」に流されているだけだろう。

*参考:「食べて応援死亡と奇形続出生体実験」http://blog.livedoor.jp/home_make-toaru/archives/7712867.html



ところで、日本人をこのような自発的隷従論の世界に閉じ込めているのは、欧米のグローバルエリートと彼らに協力してお金儲けを最優先しているコンプラドールと化した日本人だが、現在、日本をコントロールしている欧米のエリートが「デフレ、縮小化する世界」のなかで、怖れているとともに、期待?もしていると言われているのが、以前、レポートでも紹介した「日本人の独自性」というものであることをご存じだろうか。

(以下、レポート「日本人の独自性」より部分抜粋)

参照:http://www.yamamotomasaki.com/archives/619



私は、日本人のユニークさは狩猟・採集を基本とした「縄文文化」が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けていることが一番大きな要因だと考える。

それを哲学者・梅原 猛氏は「森の文化」だと言っている。日本人は、「ギルガメシュ神話」のように「森の神」を殺さなかったのだ。そして、ユーラシアの穀物・牧畜文化に対して、日本は穀物・魚貝型とで言うべき大陸とは全く違うユニークな文化を形成していったのである。

世界でも稀な縄文時代という土器文化を異常に長く続けた歴史こそ、おそらく日本人のユニークさの源泉なのであろう。このような歴史を歩めた幸運が日本人の独自性を創り上げたと考えるべきだと思われる。



また、日本語を母国語とすることによる脳の使い方の違いももっと、考えるべきであろう。角田忠信博士が書いた「日本人の脳」という本はそのことを解明した画期的な本であった。

東京医科歯科大学の教授であった角田博士によると、日本人と西洋人とでは、脳の使い方に違いがあるという。すなわち、日本人の場合は、虫やある種の楽器(篠 笛などの和楽器)などの非言語音は言語脳たる左半球で処理される。もしそれが事実とするならば、欧米人が虫や楽器の音を 単なる音として捕らえるのに対して、日本人はその一部を言葉的に捕らえる、つまり意味を感じていると考えることができる。この事は日本人の認識形態、文化に取って非常に重要だ。一般的に意味、つまり、言葉を発する主体は意識体として認識される。しかしながら、日本人にとって楽器などの奏でる非言語音がその一部とは言え、言語脳を刺激して語り掛けているならば、それが人間から発せられるものでない以上、別の意識体、つまり、霊魂、神々、魔物 などの霊的意識体として感じ取られる感受性の高さに結び付くのではないか。また、その事が日本人の精神の基層を為していると考えることもできるからだ。



このことから日本語を使う日本人の脳は本来的にアニミズム的であり、多神教的であると言えよう。そして、おそらくは日本特有の言霊の概念もこの様な認識の上に成り立つ。

ところで、角田氏に拠ると幼年期を欧米で過ごし、英語やフランス語などで育った日本人は欧米型の脳に成り、日本語で育った欧米人は日本型の脳に成る。つまり、幼年期に使う言葉によって、脳の機能が決定されることになる。母国語は、脳にとってパソコンのOS(オペレーションシステム)のようなものであるらしい。

もし、日本語がその様な脳を作り出す特性を持っているとしたら、どのような異文化が流入しても、日本の根底に在る文化、精神は変化しないのか。また、この様な日本語の特質は果たしていつ頃からできたのか。博士の研究に拠ると、この日本人特有と思われたパターンが他の民族からも見付かっている。いわゆる黄色人種の中には日本型の脳はなかった。日本人に最も近いとされる韓国人にしても欧米型であった。しかし、太平洋に点在する島々の住人、つまり、その現地語を話すミクロネシアなどの人々は日本型と判断された。ポリネシアの言語もその形態の近い事から同様の脳を作ると考えられる。



実を言えば、現在、縄文人の直系の子孫と思われるアイヌの人々は遺伝的にポリネシアンに近い事が分かっている。また、哲学者梅原 猛氏が言うようにアイヌ語は縄文の言語の形態を色濃く残していると考えられている。最近の研究ではミクロネシアン、ポリネシアン、縄文人、アイヌなどは氷河期以前のモンゴロイドと言う意味で旧モンゴロイドと名付けられ分類をされている。ミクロネシア系の言語が日本型脳を作るのなら、そして縄文語から発展した日本語が日本型の脳を作るのなら、アイヌ語も日本型の脳を作ると推測できる。つまり、旧モンゴロイド系の言語は本来的にアニミズム的な多神教的な脳を産み出すと考えられる。むろん、文明を持つ以前の人類は、アルタミラの洞窟壁画を見ればわかるように旧モンゴロイドに限らず、アニミズム的な世界観を抱いていた。もちろん、自然との対話から直感を得、自然との関わり方を学ぶ能力は旧モンゴロイドの専売特許ではなかったことは言うまでもない。しかしながら、人類の多くはその様な能力を伝える言語を失った?が為に、文明の進展と共にその様な能力を失っていった。使われぬ能力が退化をするのは自然の摂理だ。



しかしながら、我々日本人の言語はその様な能力を脳に与える潜在的力を秘めている。この能力は非常に貴重であり、文明の進んだ今日こそ、改めて見直されるべきであることは言うまでもない。

日本語はおそらく、縄文語が渡来人の言語を取り入れる事で進化をした言語である。そういった変化の中でも、縄文時代からの基本的な部分、つまり、日本型の脳を基礎付ける要素:母音中心の言語であることは変わらなかった。そのために我々日本人は、縄文の心性を無意識の内に持ち続けることになったと考えてもいいのではないか。(引用終わり)



ところで、時々レポートで紹介する元外交官原田武夫氏が、小生と全く同じ発想を新刊(「世界史を動かす日本」)で述べているので、彼の注目すべき近未来シナリオとともに紹介させていただく。マスコミ報道や学校の勉強を熱心にし過ぎ、思考のフレームをガチガチに固められてしまった方には、受け入れ難い話かもしれないが、大変興味深い指摘なので、是非、ご一読いただきたい。それでは、ある意味、楽観的な彼の未来ストリーを要約してお伝えしたい。



日本・世界のここ数年間の動き(原田シナリオ)



◎ 「太陽活動の異変」→ 気候変動(特に北半球で寒冷化)→ 経済のデフレ縮小化 世界全体の景気が大きく、かつ長く落ち込み始める。それは欧州から始まり、アメリカも巻き込まれる。



*温暖化ではなく、寒冷化、 *資産運用のためのヴォラティリティ(乱高下)の創出


◎ 「デフレ縮小化」によってマーケットが動かなくなるのを恐れた米欧は、いろいろなリスクを炸裂させ始める。至るところで「戦争」「テロ」など驚くべきことが起こる。しかし、その結果、世界経済全体は、もっと低迷し始める。

Ex.中東戦争→フランス、イタリアのデフォルト→原油高、円高→第二次安倍内閣の終焉 →日本株は一旦暴落



◎ そのような中、日本だけが日銀による異次元金融緩和(インフレ誘導)をするので、元気に見える。行き場を失ったマネーが世界中から「他に投資先がなくなった」として日本に集まり、わが国は凄まじいインフレに見舞われる。 世界は「ネオ・ジャパネスク」一色となる。

異次元金融緩和はやめることができないので、さらに進める。→ 日本株上昇、円高



◎ しかし、結局はそこで生じるチャンスを日本人は使うことができず、必要なイノベーション(技術革新)は、進まない。政治も混迷し続け、結局は、資産バブルだけが進み、ハイパーインフレの懸念すら出て来る。これを危惧した日本人が銀行の窓口に駆け込む結果、金融恐慌が発生しかけ、政府が「事実上のデフォルト処理(国家債務不履行)を開始する。



Cf.東京直型地震、南海トラフ地震、富士山噴火→ 東京遷都→ 東京オリンピック返上



◎ その結果、事態は「世界もダメ、日本もダメ」という状況に一瞬なりかける。だが、事ここに及んで追い詰められた私たち日本人は、本来の姿を取り戻し始め、「日本語脳」によって新しい秩序を創り出していく。これに改めて世界が乗りかかることで「ネオ・ジャパネスクの時代」が加速し、世界は「日本の平和(パックス・ジャポニカ)という時代に突入する。

*日本からイノベーターが出てくるかがポイント→仲介者の役割を果たすインキュベーターが重要:これから最も重要なビジネスになる可能性有り

Ex.常温核融合、元素転換、超伝導、水素エネルギーの実用化、ハイテクアニミズム国家、ネイチャーテクノロジー(インセクトテクノロジー)etc



上記のような図式の大胆なシナリオを原田氏は提示している。大変な時代であるが、<平時には孤独に耐えられず、人の顔色ばかりを見ていて、容易に決断できない日本人>が明治維新より大きな危機に目を覚ますことができれば、「ジャパネスクの時代」が来る可能性があると彼は言っているわけである。

そして、日本の時代が来るか、どうかのポイントが「日本語脳」にあると指摘している。ここが以前、小生がレポートで書いたことと全く同じ意見なのである。(以下。)



「角田忠信さんの研究成果を読めば、読むほど、私は実証された「言霊」の存在を信じて疑わなくなりました。なぜなら、器としての私たち日本人の脳や肉体ではなく、「日本語」という言葉こそが私たちの精神を他のそれと区別する決定的なものを培う役割を担っていることがわかったからです。」(「世界史を動かす日本」188ページ)



「そして、もう一つ。それ自体新しい検証を経た「角田理論」よれば、「日本語」のよって育った私たち日本人の脳は、あまりにも、「左脳偏重」です。右脳を使うということがまずなかったようなのです。しかし、このことがかえって大きな意味を持ってきます。「日本人の右脳は、一体どんな役割を持っているのだろうか。」という非常に興味深い問いが浮かび上がってくるのです。」(「世界史を動かす日本」206ページ)



日本人が「自発的隷従論の世界」から抜け出し、その独自性を発揮するとき、初めて世界の新しい時代が本当に始まるのかもしれない。そしてそれは、外国勢力に魂を売ってしまったコンプラドールである日本人を表舞台から退場させる時でもある。





<参考文献>

「自発的隷従論」エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ著、西谷修監修、山上浩嗣訳(ちくま学芸文庫)

「世界史を動かす日本~これからの5年を迎えるために本当に知るべきこと~」

原田武夫著(徳間書店)



「日本人の脳~脳の働きと東西文化~」角田忠信著(大修館書店)

「右脳と左脳~脳センサーでさぐる意識下の世界~」角田忠信著(小学館ライブラリー)

「奇跡の脳~脳科学者の脳が壊れたとき~」ジル・ボルト・テイラー著、竹内薫訳(新潮文庫)



「森の思想が人類を救う」梅原 猛著(小学館ライブラリー)

「森と文明の物語~環境考古学は語る~」安田喜憲著(ちくま新書)

「一神教の闇~アニミズムの復権~」安田喜憲著(ちくま新書)

以前、2013年の初レポートでも解説したように、米国が日本に「集団安全保障」を認めるように強い圧力をかけてきたために、現在、日本国内では「集団安全保障」を認めるか、どうかの議論が起きている。冷戦時代が終わり、日本を独立自尊の国にするためには、そろそろ集団自衛権を考えるべきだろうというような日本人自身から出てきた議論でなく、財政赤字に苦しむ米国が、自国の軍事戦略を日本に少しでも肩代わりさせようという米国という軍事大国の都合から、出てきた議論であることに、私たち日本人は、もっと注意を払うべきだろう。



ところで、今まで内閣法制局は、「日本国憲法のもとでは集団的自衛権は行使できない」という解釈をとってきたはずであるが、現在自民党の中では、この集団自衛権を解釈変更しようという動きが出ている。この動きは、あまりに姑息で、法治主義に反する行為だろう。きっちりと国民的議論を喚起し、憲法改正の是非を国民に問うべき課題のはずである。

*(前内閣法制局長官に聞く~集団的自衛権の行使はなぜ許されないのか~阪田雅裕)http://www.chukai.ne.jp/~tottori9jo/etc/syudan.pdf



本日は、5月3日、憲法記念日である。現在、浅学非才な小生でも、日本国憲法は、本当に戦後、機能してきたのだろうかという疑問を持つようになってしまったところである。先日も、後で紹介する「絶望の裁判所」(瀬木比呂志著)という、日本の司法の現状を告発した元裁判官の本を読んでいたら、以下のように書かれていた。



~米軍基地に関する騒音差し止め請求について~

「憲法秩序が条約に対して優位にあることは憲法学の通説であり、憲法上の基本的人権、人格権の侵害に関わる事柄については、国は前記のような行為を行うべき義務がある。アメリカのやることだから国は一切あずかり知らないというのであれば、何のために憲法があるのか?それでは、植民地と何ら変わりがないのではないだろうか?」

(128ページ)



日本国憲法には、三権分立が高々と規定されているが、本当に日本は、三権分立の国であろうか。

ご存じのように実際には、霞ヶ関の官僚たちが、国会議員の代わりにすべての法律を作り、内閣の代わりに政策を立案しているのが、私たちが住んでいる日本という国である。ちょっと考えてみればわかるようにこの行為は、「日本国憲法」第41条に規定された、国会は「国の唯一の立法機関である」に違反していることにすぐに気が付くはずだ。立法府を行政府から独立させるシステムをつくれば、簡単にできることを官僚が、議員を形だけのものにするために、故意にやっていないのが日本という国なのである。

そういった視点で、「日本国憲法」は、正しく運用されているのだろうか。一度、素直に考えて見る価値はあるのではないか。



ところで、「統治行為論」というものを有名にした砂川事件というものがある。「砂川事件」において最高裁は「統治行為論」で押し切る以外に、合憲という判決をくだすことが、できなかったのである。これでは「日本国憲法」は、少なくとも実態において「憲法」=最高法規としての効力を持っているとは言い難い。「砂川事件」の経緯を見ても分かるように、必要とあれば米国からの圧力がかかり、それにより、日本の裁判の結果が動くというのでは「憲法」の存在価値そのものが問われるのが当然だろう。



参考:「日米地位協定入門」http://www.yamamotomasaki.com/archives/1637



また、升永秀俊弁護士の啓蒙活動で知る人も増えてきているが、「一票の格差問題」が憲法第14条違反ということ名目で、全国各地で裁判が、起こされているのが現実である。この状況を逆説的に考えてみると、第96条自体も守られていない事になる。なぜなら「憲法解釈」により事実上の改憲がすでになされていることになるからだ。そういうことなら、改正条項自体に意味がないことになってしまうだろう。

たしかに憲法前文に「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、」とあるが、その前提そのものが、担保されていなければ、どうしようもないではないか。

そして、国の最高法規がこのように粗末に扱われているようでは、残念ながら、国民主権、議会政治が本当に日本という国で機能しているのか、どうか、疑問を持つのが自然であろう。



私たちは、日本国憲法の護憲やの改正を言う前に、戦後半世紀にわたってこの憲法が本当に機能してきたのか、もう一度、虚心坦懐に考えてみる必要があるのではないだろうか。



○第十四条 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

○第九十六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

砂川事件:米軍立川飛行場の拡張計画に反対して場内に立ち入った運動員が旧安保条約に基づく法律に触れるとして起訴された事件であり、アメリカ軍の駐留と旧安保条約が憲法9条に適合しているかどうかが実質的に争われた裁判。



*統治行為論:直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為とし、 統治行為に対しては、法的判断が可能であっても、司法審査は及ばないとする理論



<参考資料>

*現代ビジネスより

一人の学者裁判官が目撃した司法荒廃、崩壊の黙示録!『絶望の裁判所』著者・瀬木比呂志氏インタビュー

最高裁中枢を知る元エリート裁判官による衝撃の告発





著者の瀬木比呂志氏は、明治大学法科大学院専任教授で元裁判官。民事訴訟法のスペシャリストとして知られ、専門書のみならず、小説や芸術論の著作も多い。最高裁中枢を知るエリートでもあった瀬木氏はなぜ法服を脱ぎ、日本の司法に警鐘を鳴らす問題作を執筆したのか?

背景には、「司法制度改革」導入と相前後して進行しつつある、司法の腐敗と堕落に対する危機感があった。出世や権力ゲームにうつつを抜かす裁判官たちの精神の荒廃と堕落はもはやとどまることがない。一人の学者裁判官が目撃した司法荒廃の黙示録とは?



--過去に裁判所の中枢にいたことのある元裁判官が、このように苛烈な司法批判、裁判所・裁判官批判をされたのは、なぜなのでしょうか? なぜこのような本を書かれたのでしょうか?



瀬木: 本は、一言でいえば、意識よりも無意識、直感や一種の本能、論理や感受性についてもより根源的な部分で、書くものと思っています。僕の本は、専門書も一般書もすべてそうですね。

33年間裁判官を続けて、ことに最後の10年余り、「これではもうこの制度はだめだ、根本的改革しかない」と思うようになっていきました。『絶望の裁判所』の前の本である『民事訴訟の本質と諸相』(日本評論社)の中の制度批判の部分は、そういう思いを抱きつつ自然発生的に補筆を重ねる中で、形を成していったのです。

ですから、その本がきっかけとなって本書の企画が生まれたとき、既に、頭の中では、内容はできあがっていました。あとは、どのように書くかという方法の問題が残っていただけです。苛烈な司法批判になったのも、自分で意図したというよりは、自然にそのようなものとなっていったのです。むしろ、自分としては、もっと穏やかなものにしたいという気持ちもあったのですが、書くときは、自分の中の深い部分の声に従って書くほかないですから。



--このような根源的、包括的、徹底的な司法批判、裁判所・裁判官批判の本を出すことに対する恐れの気持ちはありませんでしたか? 裁判所当局は、本書に対してどのようなリアクションをとると考えられますか?



瀬木: 恐れというより、やはり、自分の属していた組織を批判するわけですから、痛みはありました。一気呵成に書いたのは、長く抱えていることがつらい書物であったということもあります。もっとも、大部の専門書が書けるだけの内容を興味深くコンパクトに凝縮するわけですから、推敲は十二分に行いました。

裁判所当局は、普通に考えれば、黙殺し、頬被りを決め込むでしょうね。もしも反論を行えば、当然僕の再反論も認めなければならず、そうするとさらに都合の悪いことになっていくことは目にみえていますから(笑)。

あと、裁判官を始めとする法律家の中には、ことに匿名で、人格攻撃や中傷を行う者は出てくるかもしれません。そういう人間の存在は、本書第5章の記述からも、容易に想像されることと思います。



--社会的地位が高く、年収2000万円という高収入の仕事を捨てて、学者になられたのはなぜでしょうか?



瀬木: 本にも書いたとおり、三つの評価の高い大学から声をかけてもらったわけですが、二つ目の有力国立大学については、本当をいえば、既にその時点で移りたかった。しかし、収入低下に加え、半単身赴任とそれに伴う年間数百万円の出費があっては無理でした。

明治大学は、私立の中で最も意識していた大学の1つです。大手の中でも、学風が自由で、研究環境や給与水準を含め、総合的な諸条件も比較的いいのです。それでも収入は下がりましたが、別に半単身赴任などが伴うわけではないですから、あまり大きな問題ではないですね。

考えてもみていただきたいのですが、旧ソ連や昔の中国から自由主義社会に亡命してきた知識人が、「こっちのピロシキはまずい」とか、「中華が偽物だ」などといった不平を漏らすでしょうか?(笑) 裁判所における僕の最後の7、8年間の生活は、精神的にみれば、全体主義的共産主義国家にあって亡命の機会を待っている知識人のそれに近いものだったのです。



--最高裁事務総局による徹底的な裁判官支配、統制の実態には驚きを禁じえないのですが、なぜ誰も異を唱えないのでしょうか?



瀬木: 第一に、多数派の裁判官は、感覚が麻痺していて、いかに異常な状況に置かれているかということを直視できなくなっているからでしょう。

第二に、現在の裁判所組織の中にいて異を唱えるのは、それこそ、全体主義国家や全体主義的共産主義国家の中でそれを批判するに等しい部分があるからです。

こうした支配、統制のメカニズムについては、第3章に詳しく記したとおりです。



--憲法で身分保障されている裁判官が、かくも出世に敏感とは驚きました。なぜなのでしょうか?



瀬木: まず、身分保障といいますが、新任裁判官の数は1つの期で昔は60名くらい、今は100名くらい、裁判官全体で現在3000名弱。それで、10年に1度の再任で毎年5名程度拒否される者が出て、事実上の強要に近い肩叩きも、少なくとも同じくらいはあるわけですから、この身分保障は、かなり危ういものになっています。つまり、1年間で10人くらいは裁判所を追われているわけですからね。大学、一般公務員はもちろん、大企業よりもはるかに危うい。ただ、やめても弁護士ができるというだけのことです。

出世に敏感なのは、第3章にも書いたとおり、そのように条件付けられ、それが習い性になって、自分を客観的に見詰める目を失ってしまっているからで、これも、行政官僚や一部の企業と何ら変わりません。というより、先輩の元裁判官たちにも、「霞ヶ関や大企業よりもさらに陰湿なのではないか?」と言っている人はかなりいますね。



--現在は刑事系裁判官が枢要ポストの相当部分を占めているようですが、これに対して民事系裁判官の反発はないのですか?



瀬木: 潜在的な反発は、ないではないのでしょう。しかし、本に書いたとおり、かつて裁判官支配、統制の形を完成させたといわれる矢口洪一長官時代に比べても、面従腹背の人すら少なく、上に対して見境なく尻尾を振る人が多いという嘆かわしい状況ではありますね。

また、これも本に書いていますが、刑事支配の一時期が重要ということではない。腐敗がはなはだしいからそのことを強調しましたが、やがてそれが終わっても、後に続くのは同様のメンタリティーの人たちなのであって、刑事支配の時代が終わったら何かが変わるという幻想を抱くべきではありません。現在の裁判所上層部は、矢口時代に比べても問題が大きく、それは刑事系に限ったことではないのです。



--第2章の最高裁判事の性格類型別分析が秀逸でした。詳しい説明はそれを読んでいただくとして、そのエッセンスを教えて下さいませんか?



瀬木: エッセンスと言われても難しいのですが(笑)・・・・・・。要するに、人間味のある人と怪物的な人が若干、ただし後者のほうが多い。残りの半分が純粋出世主義の俗物、半分が比較的知的だが本質的には型通りの官僚ということです。この二者の違いは、後者には少なくとも良心の片鱗はあるだろうということです。



--第1章、ブルーパージ、大規模な左派裁判官排除工作に、ある時点の裁判官出身最高裁判事の少なくとも半分が関与していたというのはショッキングでした。「法の番人」たる裁判官の、しかもそのトップのやることとは思えない。なぜ、このような人間がトップに昇り詰めるのでしょうか?



瀬木: この本でさまざまな側面から論証していますが、日本の裁判官は、実は、裁判官というより、法服を着た「役人」、裁判を行うというより事件を処理している制度のしもべ、囚人です。裁判官という職業名や洋画などからくる既成のイメージは捨てて下さい。

事実、本書第5章でも論じたとおり、トルストイは、短編『イヴァン・イリイチの死』において、帝政ロシアにおける官僚裁判官の本質を、非個性的で基盤の脆弱な浮動的インテリ、ないしは疑似インテリとして、きわめて的確にとらえています。まあ、天才だから大昔にそういうことができたのだとは思いますが、いずれにせよ、そういう曇りのない眼で本質をみて下さい。ブルーパージに貢献し、そのことを公言して恥じないような人物だからこそ、最高裁判事になれたのです。



--「司法制度改革」はうまくいったのでしょうか?



瀬木: 日本の改革の常ですが、問題の本質を見極めてそれに応じた改革を行うのではなく、「改革のための改革」になってしまった面があります。

成功したのは、たとえば法テラスのような公的な法的扶助、情報のネットワーク、これはいいです。

裁判所・裁判官制度については、本書のいくつかの章で詳しく分析したとおり、裁判所当局によって悪用された側面が大きく、そのために、たとえば裁判員制度についても、制度の趣旨がゆがめられています。被告人による選択制の制度とし、裁判員辞退事由をよりゆるやかに認め、守秘義務の対象も限定すべきです。また、早急に、選択制の陪審員制度に移行すべきです。これも、詳しくは書物第4章のとおりです。

法科大学院については、『民事訴訟の本質と諸相』に書きましたが、政治的な駆け引きなどもあって、絶対やってはいけない乱立を許し、司法試験合格者数よりも1学年の学生数がはるかに多いという状況でスタートさせてしまった。そんなことをすれば合格率が低くなるのは、小学生でもわかることです。はっきりいえば、官僚と政治家の責任が大きいと思います。司法試験合格者が一気に増える場合に従来の法学部教育ではたして十分かという問題はあり、その点では法科大学院制度に正当性はあるでしょう。ただし、資力のない家庭の学生が排除されないよう、優秀な学生については、奨学金や学費貸与、一部免除を、公的制度としても充実させていくべきだと思います。



--本書を読むと、裁判官には、決して友人にはしたくないタイプの人間が多いように感じます。典型的な裁判官像を教えていただけませんか?



瀬木: うーん、僕は、一貫して、少数派にはなったが良識派の裁判官も存在すると書いていますが、読んでみると、第2章、第5章などの印象が強いのでしょうね。

今年も、かなりの数の裁判官、ことに後輩から年賀状をもらっていて、書物が先のような印象を与えるとしたら、彼らにはすまないと思っています。ただ、ここ十数年の間に、裁判所の荒廃に伴い、問題の大きい裁判官が徐々に増えてきたという印象は否定できません。

典型的な裁判官像については、最高裁判事の類型からも推測できると思いますが、まあ、ごく普通の裁判官は、トップほど生臭くはないでしょう。しかし、血の重みがないというか、血が薄いというか、個人としての存在感に乏しい、感受性にもやや欠ける、鈍重な職人的役人が多数派になってきていることは、残念ながら間違いないと思います。



--裁判所のセクハラ、パワハラ等について、本書に記述されていることをも含めていかがでしょうか?



瀬木: これは、第5章の記述の中に含めざるをえないので書きましたが、あまり書きたくない部分ではありました。個人の問題もありますが、それ以上に裁判所という「精神的収容所」、「見えない檻」の中にいてストレスを被っている人間に不可避的に生じる問題という部分もあります。不祥事が2000年代以降に多発していることをみて下さい。裁判所の荒廃、退廃の影響は明らかだと思います。

また、大学に移って驚いたのは、各種ハラスメントについての対処がすごく進んでいることですね。比べると、裁判所はひどいです。表と裏の使い分け、二重基準(ダブル・スタンダード)の弊害もありますね。



--裁判所の自浄作用は働く可能性があるのでしょうか?



瀬木: もはやそれは難しいのではないかという認識が、この書物を書かせたということです。

「刑事の時代が終わればまたよくなるよ」などといった幻想は、学者にも根強いですからね。「おそらくそうではないですよ」ということは、かなり綿密に論証したつもりです。



--国政選挙における1票の格差問題などでは最高裁はかなり思い切った判断を出しているようにみえるのですが?



瀬木: そうした部分でも幻想が根強いですね。第4章を特に詳しくかつ綿密に書き込んだのは、そうした幻想を払拭するためです。

1票の格差判例における最高裁の論理は、国会に大きな裁量権がある、また、時間の面でも猶予を与えてあげるといった、政治家たちにものすごく配慮した内容なのですよ。アメリカの上院のように州の連合という国の成り立ちが根拠になっている場合には、各州平等に2人ということで、格差が出ても仕方がありません。しかし、日本で都道府県を単位にして選挙区を決めることに何の合理性、必然性があるのでしょうか?

英米における「1人1票の原則」は、せいぜい1対1.1とか1.2くらいまでを格差として許容するものだと思います。事実、アメリカ上院のような制度的な例外を除けば、そのような原則が貫徹していると思います。選挙権は、まさに人権の基盤ですから、それが当然ではないでしょうか?

メディアのみならず、憲法学者の中にさえ、衆議院1対2、参議院1対5などといった最高裁がガイドラインとしてきた数値を既定のものとして論じる傾向はありますが、英米法的常識からいけば、理解に苦しむものではないかと思います。



--最後に、裁判官になってよかったこと、悪かったことを、それぞれ教えていただけませんか?

瀬木: 僕は、最初から、社会科学・人文科学あるいは法学の学者になっていた可能性も高い人間なので、それとの比較になりますね。

社会・人文科学にいっていたらもしかしたらもっと独創的なことができたかもという気持ちはありますが、まあ、それはわかりませんからね(笑)。

法学者のほうは、可能性としてはかなりありましたね。法学部に進みましたから。



裁判官になってよかったと思うのは、やはり、人間、制度というものを長い間リアルに見詰められたということです。元々学者の眼をもっていましたから、平均的な裁判官とはかなり異なった眼で、裁判も、実務も、人間も見つめられた。鶴見俊輔氏にお会いして、プラグマティズムからも多くを学びましたし。書いてきた書物についても、やはり、このような体験に基づくところが大きいですね。

最初から学者になっていたら、理論をも制度をも、今ほど醒めた眼で客観的に分析することはできなかったでしょう。もちろん学者の言葉(ターム)にはより通じたに違いないですが、その利害得失は微妙で、学者の中にも、「最初から学者になっていたらもっとよかったのでは?」と言って下さる人と、「それだとかえって小さくまとまってしまったのでは?」と言って下さる人と、両方いますね(笑)。

それは、僕が決めることではなく、僕の学者生活、執筆生活が終わったあとで、人が決めることでしょう。僕としては、『民事訴訟の本質と諸相』のはしがきに書いたとおり、運命に従うだけです。基本的に唯物論者なのに運命論者なのですね。

いや、唯物論者というのも本当はどうなのか? 唯物論者が、『映画館の妖精』(騒人社)のようなファンタジーを書くかは疑問かもしれない。いずれにせよ、人生いろいろありましたから、運命論者になりました(笑)。

悪かったことは、本に書いたとおりです。が、それは、基本的に、もう過ぎ去ったことだと思いたいですね。もちろん、すべてが過ぎ去ることはありえませんが。



--それでは、これは質問ではなく、元裁判官の学者、そして、子どものころからの自由主義者、個人主義者(はしがき、あとがき)として、平均的な日本国民に対するアドバイスをいただけませんか?



瀬木: そうですね。これは司法に限りませんが、あとがきに書いたとおり、制度を、虚心に、客観的に、また、主体的に見詰める眼を養っていただきたいと思います。イデオロギーや教条によってではなく。何事もイデオロギーによってしか判断できない(奴らか俺たちか、ゼム・オア・アスの論理)、そして、自分を正当化するために、気に入らない者を批判、非難する、そうした正義派のやり方や言葉は、もはや行き詰まっており、その方向では、本当の変化は起こらないと思うからです。

僕は、クリスチャンではないのですが、新約聖書は若いころに何回も読んでいて、知恵に満ちた、深い書物だと思います。その言葉を借りれば、「蛇のごとくさとく、鳩のごとく素直に」自分の眼で見据えていただきたいと思いますね。







瀬木 比呂志(せぎ・ひろし)プロフィール

1954年名古屋市生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験に合格。一九七九年以降裁判官として東京地裁、最高裁等に勤務、アメリカ留学。並行して研究、執筆や学会報告を行う。二〇一二年明治大学法科大学院専任教授に転身。民事訴訟法等の講義と関連の演習を担当。著書に、『民事訴訟の本質と諸相』、『民事保全法〔新訂版〕』(ともに日本評論社、後者は春ごろ刊)等多数の専門書の外、関根牧彦の筆名による『内的転向論』(思想の科学社)、『心を求めて』『映画館の妖精』(ともに騒人社)、『対話としての読書』(判例タイムズ社)があり、文学、音楽(ロック、クラシック、ジャズ等)、映画、漫画については、専門分野に準じて詳しい。



*日本国憲法http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html

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