脱原発は可能か(4)

Opinion コメントは受け付けていません。
11月 062017

原子力の平和利用キャンペーンと第五福龍丸事件

 

1954年31日,米国は南太平洋ビキニ環礁で,水爆ブラボーの爆発実験を行った。この実験で放出された死の灰が,近くで操業中のマグロ延縄漁船に降りそそぎ,乗組員23人が被爆する第五福龍丸事件が起き、激しい反米世論と放射能パニックを日本で引き起こすことになる。そこで、多くの日本人が,アメリカの原子力平和利用計画に疑いを強めるような状況を打開するために原子力の平和利用キャンペーンが読売新聞、日本テレビを舞台に強力に展開されていく。それは「原子力は諸刃の剣だ。原爆反対を潰すには,原子力の平和利用を大々的に歌い上げ,希望を与える他はない」という米国のアドバイスによって始まったものであった。このことは、NHKの現代史スクープドキュメント「原発導入のシナリオ-冷戦下の対日原子力戦略-」と言う番組のなかで明らかにされている。そして、読売新聞の正力松太郎氏によって「原子力平和利用展覧会」が195511月東京の日比谷公園で開催され、以後日本全国を巡回。展覧会では、実物大原子炉模型、電光式原子核反応解説装置、工業・医療・農業へのアイソトープ利用、マジックハンド、原子力飛行機・原子力船・原子力列車等が展示され、原子力の平和利用の夢を多くの国民に広報することに成功した。また、当時日本では慢性的な電力不足の解決のために大型ダムが次々に作られていたが、しだいに建設費が高騰し,水力発電の発電量は限界に近づいていた。当時は、火力発電所のコストが高く,将来の石炭不足も予想されていた。経済界は新たなエネルギー源を模索していたこともあり、水力や火力より原子力発電のほうが経済的であると米国の作り出したデータに飛びつくことになる。その安全性についても原子力から出る死の灰も,食物の殺菌や動力機関の燃料に活用できるという説明がまことしやかにされているぐらい、科学的知見は一般にはなかった。

 

日本での原発開始

 

 第五福龍丸事件から1年3ヶ月後の1955年6月21日,「日米原子力協定」がワシントンで仮調印。この協定により,日本に濃縮ウランが初めて供給された。半年後,読売新聞の正力松太郎氏は原子力担当大臣として,第3次鳩山内閣に入閣。正力は,アイゼンハワー大統領に向けて「原子力平和利用使節団の来日が,日本でも原子力に対する世論を変えるターニング・ポイントになり,政府をも動かす結果になりました。この事業こそは,現在の冷戦におけるわれわれの崇高な使命であると信じます」という手紙を書いている。茨城県東海村の原子炉完成式の日には、500 人が参列して原子力センターの出発を祝い、正力国務大臣が歴史的なスイッチを入れた。1957年8月8日,米国から輸入された東海村の原子炉が臨界に達し、日本の原子力開発がスタートした。しかし,日本で原子力による電力の供給が始まるのは,ほぼ10年後の昭和41年のことであった。アメ リカは1958年までに39カ国と原子力協定を結び,ソビエトに対抗。この協定により核物質の軍事転用は禁止された。それは各国が米ソの核兵器ブ ロックのなかに,組みこまれていくことも意味していた。

*東愛知新聞に投稿したものです。

脱原発は可能か(3)

Opinion コメントは受け付けていません。
11月 052017

原発建設の主要な動機は核兵器製造に必要なプルトニウムの確保

 

 国際ニュースを見ていれば、大量破壊兵器としての原子爆弾の設計・製造という事業と公共消費向けの発電のために核燃料を使用する事業との一体性は、北朝鮮、インド、パキスタン、イスラエルにおける核開発の国際論争がそれらの国々がまず、原子炉の導入に動くことによって始まることを思い浮かべれば、すぐにわかることである。事実、日本の外務省が1969年に作成した「我が国の外交政策大綱」http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku_hokoku/pdfs/kaku_hokoku02.pdf

には、「核兵器は当面保有しないが、核兵器を作るだけの技術力と経済力は保持する」との方針が明記されている。おそらく、それは不動の方針としてずっと現在まで続いている。考えてみれば、原子力発電所の立地する自治体には、さまざまな名目で補助金や交付金が出ていて、その分を含めれば、原子力発電のコストはかなり高いものになるが、潜在的核保有国であるためのコスト:防衛コストと考えれば、仕方がないということになる。問題は原発をエネルギー問題としてしか、政府が国民に語らないので民主主義国家日本で、多くの国民がそのことを知らないことである。しかしながら、311以降、大手メディアでもこの本質の部分が出てきた。201197日の読売新聞は「日本はプルトニウムを利用することが許されていて、日本の原子力発電は潜在的な核抑止力となっている。だから、脱原発してはいけない」と書くまでに到っている。

 

原子力エネルギー産業の日本への輸入

 

今日では、日本への原子力の導入が、米国公文書館の公開された外交機密文書を綿密に研究した有馬哲夫早稲田大学教授の「日本テレビとCIA 発掘された正力ファイル」「原発・正力・CIA 機密文書で読む昭和裏面史」等の一連の著作によってテレビと反共主義を伴う冷戦下における心理戦そのものだったことまで明らかになってきた。ご存じのように米ソ冷戦が始まることによって、米国は日本の占領政策を非軍事化、民主化政策から、日本を共産主義の防波堤にする、いわゆる逆コース政策に転換。その結果、廃止した特別高等警察に代わり公安警察を設置(秘密警察復活)、日本の限定的再軍備を容認するロイヤル答申(再軍備準備)等の政策が次々と採られていった。このことは同時に戦前の日本の財閥を基盤とする生産と権力の基盤を復活させることも意味していた。上記の有馬哲夫氏は、「日本テレビは、娯楽やコマーシャルの道具として計画されたわけではなかった。プロパガンダと軍用通信手段として計画されたのだ。日本テレビの設立は反共産主義の軍事プロパガンダ・ネットワークを作るCIAの作戦の隠れ蓑だった。計画を立てたのは正力ではなく、アメリカだった。アメリカは正力がネットワークを作るのを助けたのではない。アメリカはそれを作るために正力を利用したのだ」と明記している。その結果、1960年代末までCIAUSIA(アメリカ合衆国情報庁)が提供したTV番組に日本のゴールデンタイムは占拠されることになった。

*東愛知新聞に投稿したものです。

脱原発は可能か(2)

Opinion コメントは受け付けていません。
11月 042017

原子力潜水艦ノーチラスから原子力発電所へ

 

第二次世界大戦後、マンハッタン計画に費やした20億ドル以上の開発費回収のため、米軍とパートナー企業は、広島と長崎を破壊した原爆の技術エネルギーの方向転換をはかっていく。ここから潜水艦の推進電力を従来の電池から原子力発電装置に変える目標が生まれ、原子力潜水艦開発が急務の課題となっていった。フクシマ第一で事故を起こしたマーク1のプロトタイプの設計は、核分裂から生じる熱で動く沸騰水型原子炉用のウエスティングハウス社の提案を受け入れた時点で具体化し、1954年、海軍将校ハイマン・Gリッコーヴァーが率いる技術者集団が開発に成功。このウエスティングハウス社が持つ特許は、福島第一原発の三機の崩壊している原子炉の製造業者であるゼネラルエレクトリックによって購入された。このGEの設計図を用いて東芝と日立は、他の原子炉を組み立てることになる。ところで現在、数百稼動している原子炉のうち、32基がいまだに、リッコーヴァー海軍大将によって開発されたマーク1のプロトタイプである。米国でも現在稼動中の103基の原子力発電所のうち、23基のマーク1原子炉がまだ、残っている。このマーク1は1970年代から冷却システムの外部電力の故障に対する脆弱さ、格納容器の能力不足を含む様々な構造的問題を原子力産業内部の技術者から指摘されていた。また、第二次世界大戦後、推進された原子力エネルギーの性急な開発については、相対性理論のアインシュタイン、原爆の開発責任者だったオッペンハイマー、アメリカ原子力委員会の初代事務局長になったキャロル・L・ウィルソンが反対していたことも忘れてはならないところである。特にマンハッタン計画の中心的人物であったオッペンハイマーは、戦後、大きな良心の葛藤を抱え、日本の賢人、山本空外にその苦悩を打ち明けていることも多くの日本人が知らない原爆開発史の裏面である。このことについて、アインシュタインは「原子の分裂によって、我々の思考方法以外のすべてが変化した」という名言を残している。

 そして、1949年にはソ連が原爆の開発に成功し、1953年には水爆の開発に成功。核戦争が人類の差し迫った恐怖となった。この年の1953128日、米国のアイゼンハワー大統領が国連で「原子力を平和に」という有名な演説で「アメリカの願いは、人間の素晴らしい発明の才が、人間の死のために捧げられるのではなく、人間の生のために捧げられるようなやり方を見出すことだ」と宣言。そのことにより民生用原子炉の開発がペンシルバニア州シッピングボートで急速に進み、1957年地上用民生原子炉(マーク1)が完成し、このリッコーヴァー海軍大将によって進められた地上用プロジェクトによって、シッピングボートは、1960年代半ばまで何百人もの技術者の原子炉技術の学校として機能し、その時以来、その原子炉の設計は、米国で製造された民生原子炉の四分の三以上と多くの外国のモデルとなった。米国の外交政策の主要なテーマとなったこのビッグプロジェクトは、アメリカの同盟国、潜在的同盟国を米国に本拠地を置く大企業の工業的サイクルや米国を本拠地とする金融体制よって運営される金融サイクルに組み込む絶好の機会を提供。つまり、米国の大企業に特殊権益を与え、広範囲な国際ネットワークを築かせることになった。このようにしては冷戦下の米国の覇権の安定が築かれていくことになる。

*東愛知新聞に投稿したものです。

脱原発は可能か(1)

Opinion コメントは受け付けていません。
11月 032017

2013年8月、小泉純一郎元総理は、原発の使用済み核燃料を10万年、地中深く保管して毒性を抜くという施設であるフィンランドの核廃棄物最終処分場「オンカロ」を視察した。人類史上、それほどの歳月に耐えた構造物は存在しない。10万年どころか、100年後の地球と人類のありようさえ、想像を超えているのに、現在の知識と技術で超危険物を埋めることが許されるのか。その思いから小泉元総理は、脱原発の決意を固めたとも言われている。小泉氏も指摘しているが、原発は「トイレなきマンション」である。どの国も核廃棄物最終処分場(=トイレ)を造りたいが、危険施設だから引き受け手がない。「オンカロ」は世界で唯一、着工された最終処分場で、2020年から一部で利用が始まる。その特殊なトイレを小泉氏は見学してきたわけだ。

 今回は、原子力爆弾、核兵器の開発から始まる20世紀の原子力産業の歴史を簡単に振り返り、小泉氏が唱える脱原発について考えてみたい。 

すべてはマンハッタン計画から始まった 

英国の哲学者バートランド・ラッセルは、人類の歴史を近代へと進化させるのに貢献した偉業として、ダーウィンによる進化論、アインシュタインによる相対性理論と並んで、フロイトによる潜在意識の証明を挙げている。このアインシュタインの相対性理論が人類に原子力という魔法の力をもたらした。193812月、ドイツの小さな実験室で化学者オットー ハーンは、ウランの原子核に中性子を衝突させ、割れるはずのない原子核を分裂させることに成功した。これが「核分裂」だと最初に気づいたのは女流物理学者リーゼ・マイトナーだった。著名な物理学者フェルミはこの核分裂を連続的におこせば、莫大なエネルギーが取り出せるかもしれないと考えた。核分裂のさいに、23個の中性子が放出され、それが隣のウラン原子核に衝突し、次々と核分裂を起こす。核分裂の回数が多いほど放出するエネルギーも大きいので、「核分裂の連鎖莫大なエネルギーが放出」と考えたのである。1942122日、フェルミらは、シカゴ大学の粗末な原子炉で、核分裂を連鎖的におこすことに成功。歴史上初めて、人間の手によって原子の灯がともったのである。このささやかな実験が、広島と長崎に投下された原子爆弾の起源となった。一方、ハンガリー人の学者レオ シラードも、オットー ハーンの実験から、核分裂が原子爆弾につながることを予見。もし、ドイツが原子爆弾の製造に成功すれば、世界は破滅するかもしれない。そこで、有名なアインシュタイン博士の名を借りて、米国大統領ルーズベルトに、原子爆弾の開発を進言。ここから現在の貨幣価値で2兆円、当時の日本の一般会計の約35倍の約20億ドルを費やしたマンハッタン計画が19426月に始まり、この計画で製造された原子爆弾が広島と長崎に投下された。なんと1発1兆円の爆弾だったのである。さらに広島と長崎が受けた損害、失われた35万名の人命を考えれば、人類が被った被害は計り知れない。実際、このプロジェクトを統括したオッペンハイマーは「われは死神なり、世界の破壊者なり」というバガヴァッド・ギーターの言葉を残している。ここから、第二次世界大戦後の原子力の平和利用キャンペーンとともに原子力発電所の歴史が始まっていくことになる。

*東愛知新聞に投稿したものです。

政党政治の終焉

Opinion コメントは受け付けていません。
10月 262017

日本国憲法下で行われた25回目の衆議院議員選挙である今回の総選挙ほど不思議な選挙は今まで、なかったのではないだろうか。

 

そもそも今回の選挙の争点とされた「北朝鮮対応」と「消費税の使途見直し」は本来、超党派の政策領域で与野党全員が問題を共有すべきテーマであり、今、為政者が緊急に有権者に問うべき争点ではないはずである。もし、本当に北朝鮮情勢が危機だと認識していたら、解散・選挙で政治空白をつくることはできないから、実際にはそのような情勢把握をしていないことも明らかであろう。また、選挙結果を見ても公示前に与党(自公)で318議席あった議席を313議席にしたことに何の意味があったのだろうか。憲法改正の発議をするためだったら、解散する必要は毛頭なかったはずである。大手メディアも指摘していたが、野党の臨時国会召集要求にも3ヶ月応じず、質疑なしで臨時国会を解散する大義が今回の解散・総選挙にあったとはとても思えない。また、「森友・加計問題隠し」という指摘も一部にはあるが、これも、新しくできた立憲民主党から今後、国会で追及されることは必至だから本質的な意味があるとは言えない。強いて言えば、消費税をアップする承認を有権者から得たと言えるぐらいである。通常、衆議院議員選挙には600億円以上、かかることを考えると、とても今回の選挙にその価値があったとは、考えられない。さらに今回の解散総選挙では、信じられないことが起きている。数年前まで政権政党だった野党第一党が、小池百合子東京都知事という稀代の劇場型政治家の手によって一日で崩壊するというおよそ、政党政治が健全に機能している民主主義国家では考えられないことが起きたことである。小池氏は、花粉症をゼロにするとか、原発ゼロなのに、再稼動はO.Kとかいう意味不明な公約を掲げ、挙句の果てに選挙前に自民党との連立を言及、名目は政権選択選挙である衆議院議員選挙を大混乱させた。  

 本来、政党政治は政策に応じて政党党派がつくられてこそ、意味がある。だが日本の政党は政策によって分かれていない。中選挙区時代は、自民党一党支配が続いたが、自民党は幅の広い政策を持った派閥の連合体であったので、それぞれの派閥が交互に総裁を出すことによって擬似政権交代のような役割を果たすことができていた。その派閥の弊害が言われ、推進された政治制度改革の末、行き着いた小選挙区比例代表制だが、現在、起きているのは野党の分裂であり、与党である自民党の政策の幅の硬直化である。目指した政権交代ができる政治基盤の確立には、ほど遠いことは間違いない。たしかにこの制度下で一度、20097月民主党政権による政権交代が起きたが、対等な日米関係を標榜し、日米関係の見直しを目指した鳩山政権は戦後、確立された戦後レジームに踏み込むことは許されなかった。その結果、政権与党であった自民党と同様な政策を民主党が採用したことは、周知の通りである。要するに日本では、与党がどの政党であっても同じ政策を求め、野党がどの政党であってもそれに反対するということである。例を上げれば、民主党は消費税増税に反対して選挙に勝ち、政権をとったら増税。自民党はTPPに反対して政権をとったらTPPに積極参加。このように現在、戦後民主主義をまがりなりにも支えてきた政党政治は機能不全の危機的状況に陥っている。

*東愛知新聞に投稿したものです。

1
© 2011 山本正樹 オフィシャルブログ Suffusion theme by Sayontan Sinha