m.yamamoto

地方・日本を元気にするヒント 

地方都市の衰退が言われてもう二十年近くの時が過ぎようとしている。そのことを象徴する言葉がシャッター街だ。

たしかに現在、昭和時代は栄えていた地方の中規模都市の駅前商店街は軒並み、バブル経済の崩壊と共にさびれてしまった。そしてそこで購入されていた商品は、日米構造協議による大店法改正による影響も大きく郊外型の大規模ショッピングセンターに移っていった。

そのために、地方の暮らしでは自動車が生活の必需品となり、トヨタを初めとする自動車会社は不況にもかかわらず、売り上げを何とか維持してきた。しかし、自動車や公共交通などの移動手段がない人びとは、食料品・日常品を満足に購入することも困難となる状況がでてきた。歳を取って十分な生鮮食品も購入しがたく、買い物難民とも呼ばれる人々が出てきたのである。(やっと大手スーパーでも買い物の宅配サービスが始まってはきた)

 今回はそんな現状を検証した本をまた、ともすれば、忘れられている日本人の力の源泉をわかりやすく、解説している松岡正剛氏の対談本をあわせて紹介させていただく。



















地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか?」(ちくま新書)

久繁哲之介著

まず、目次から

 1章 大型商業施設への依存が地方都市を衰退させる 

 宇都宮市に移住して日本一のバーテンダーに輝いた女性/宇都宮市で大型商業施設の撤退が止まらない/あの109も4年弱で撤退/市民の行動や会話が都市盛衰の行方を示す/宇都宮109で聞いた女性顧客の会話/顧客の本音は机上に届かない/アンケートの8割は、結論が事前に決まっている/宇都宮109撤退3つの理由/模倣品は本物に手が届かない状況でのみ価値がある/109が撤退してなおも大型商業施設を造りたい/地方から百貨店が消える/失敗には目を向けない、責も問わない/神を見下す高層ビルは空きだらけ/ないものをねだり、地域にある資源には無関心/長野市との違いは「地域にある資源を愛する心」/箱物の撤退・建設に、マスコミと専門家は冷静な対応を/ないものねだりは止めて、地域にある資源に光をあてよう

第2章 成功事例の安易な模倣が地方都市を衰退させる  

 商店街再生/なぜ歩行者ゼロでも成功事例なのか/成功事例集は提供者志向のプロパガンダ/モデル地区を褒めそやす提灯もち/顧客も売り手も少なすぎて困っている商店街は、そもそも必要か/自治体は商店街の「選択と集中」を/イベントは交流のきっかけを創り、次に繋げる/箱物だけレトロ化しても商店は利用されない/車優先空間が空き店舗をさらに増やす/金融支援だけの空き店舗対策にチャレンジしたい市民はいるのか/リスク高いチャンレンジショップは「曜日毎テナント、週末起業」から/商店街再生へ4つの提案/松江を「カフェの街」にしよう/ボエーム憧れの聖地は「花の都」に進化する/すでに地域にある資源に「気がつく」

第3章 間違いだらけの「前提」が地方都市を衰退させる 

スローフードを核とした交流・コミュニティ/「食のグルメ化・ブランド化」は競争の厳しいビジネス/ブランド化で豊かになれるのは一部の産業者だけ/関さば、小樽3点セット/消費者は飲食店も「ノーブランド(無印)」を好む/散策者はいても、飲食店利用者は少ない「ぱてぃお大門」/集客が売上に結びつかない/福島でおやじが「今時の若者は、なよなよしてる」と嘆く/福島で若者が「おやじの論理」を呆れる/若者は「自宅でまったり」が大好き/飲食店の顔で質がわかる/おやじ視線のない空間が大人気/フィットネスクラブは少し痩せてから行く場所/インサイト/画一的なおやじ色に染まる地域はさらに衰退

 第4章 間違いだらけの「地方自治と土建工学」が地方都市を衰退させる 

間違いだらけの「地方自治と土建工学」/自治体固有の風土・文化/地方盛衰は自治体次第/自治体改革の方法/首長の意欲が役所を変える/待っていれば降りてくる情報に依存する自治体/市民の足は切り捨て、駅前開発を進める岐阜市/公共交通は「赤字でも残す」高岡市、「赤字だから切る」岐阜市/鉄道廃線後の街は著しく衰退する/人より自動車が優先される都市は必ず衰退する/「連携」は他人には求めるが、でも実行は大の苦手/全館消灯された市役所の内と外/連携すれば一つの取り組みで複数の目的を実現できる/役所の郊外移転と、街中衰退の因果関係/成功事例は土建工学者自らが描いた理想郷/コンパクトシティとは何か/コンパクトシティ先進地の富山市も繁華街は著しく衰退/市民はコンパクトシティには反対か無関心/西欧とライフスタイルが違う日本でコンパクトシティ模倣は無謀/成功事例「ネーミングライツ」にも飛びつく/2400万円のネーミングライツで効果はあるのか/心の欠落こそ最大のリスク

 第5章 「地域再生の罠」を解き明かす 

「地域再生の罠」を解き明かす/上勝町の「葉っぱビジネス」は1980年代後半には注目されていた/人の心を捉えるソフト事業は持続可能な活性化を導く/稀にある本当の成功事例は模倣が困難/心の空洞化が引き起こす「街中の空洞化」/暴走する土建工学者/地域づくりの「仕組み」そのものを変えよう/ウォークマン開発秘話/市民志向な地域づくりへ

第6章 市民と地域が豊かになる「7つのビジョン」 

7つのビジョン/お金を届けるボランティア、心を届けるボランティア/需要創造の鍵は「市民の不満」にあり/ワーク・ライフ・バランスは公益に繋がる/市民の地域愛と交流を育む地域スポーツクラブ/アルビレックスが新潟の若者を変えた/市民に地域を「愛してもらう」には/「市民憩いの場」だった甘党たむら/市民が「余計なお金と気を使わない居場所」を創る/口コミで賑わった甘党たむら、口コミで撤退した宇都宮109/あなたが幸せだと、私も幸せ/私益ばかり考えると街も店も衰退する/地域再生の目的は「市民の幸せ」か「地域の成功」か/市民の心、ライフスタイルが先に尊重される地域づくり

7章 食のB級グルメ化・ブランド化をスローフードに進化させる──提言①

誤用される「食と低未利用地」/街の賑わいは飲食店数に比例/需要を吸収するだけの大資本店/需要創出型飲食店を創る/農産物「加工品」直売所を「憩いの場」に/地域独自の味をコンビニ任せでいいのか/B級グルメをスローフードに進化させる久留米市/市民が主役になれる「食の八十八カ所巡礼の旅」/産業者に「自立、顧客志向」を促す/「子供たち憩いの場」が地域愛を高める/スローフードは大資本チェーン店の進出を阻止できる

8章 街中の低未利用地に交流を促すスポーツクラブを創る──提言②

なぜ皇居周辺の銭湯利用客は増えたのか/低未利用地の活用を問いなおす/箱物需要創出と雇用創出も期待できる/交流空間は既存ストックを活用/市民の街中回遊を仕掛ける/人の普遍的ニーズを叶えると街は賑わう/郊外住宅地に高齢者クレーマー/地域全体の利益へ「戦略的な赤字施設」を創る/「フリー」の仕組みを創る

9章 公的支援は交流を促す公益空間に集中する──提言③

青森駅前にも市民の「電車待ちの居場所」/アウガは戦略的な赤字施設/公益空間は利益が出ない/公的支援の選択と集中/商店街「所有と経営の分離」の光と影/公益基準の税制で「シャッター商店」は減る/専門家が机上で作る地域から「市民が現場で創る地域」へ/商店街を市民の「物語消費の場」に/私益追求者が公益に目覚める





衰退していく地域をどう再生し、活性したらよいのか? 

長引くデフレ経済のなかで、多くの人が知恵を絞り、そしていくつかは成功したと語られている。本当だろうか。

本書は、まず地域再生の成功例と言われているものが、本当に成功例なのか検証している。

 もし、喧伝された成功例が本当に他の都市でも模倣可能な成功例であれば、それは地域再生への一つの指針となるはずだ。だが隠蔽された失敗例であるなら、失敗例を拡散していくことにつながる。あるいは成功例があっても特殊なケースであれば、模倣は多くの失敗への道となるだろう。どうなのだろうか。

 

本書は、地域再生の成功例として語られる六つの都市について、それぞれが内包する問題を主題化して、実際に現地を訪れて検証している。

人口30万人から50万人の県庁所在地でもある、宇都宮市、松江市、長野市、福島市、岐阜市、富山市が俎上に載せられる。他にも、地域再生の視点から日本の各都市が問われ、これらは上記の日本地図にもまとめられている。

そこで書かれている風景は、地域の人間ならわかる独自の正確さと丁寧さを持って描写されている。もちろん、地元の生活者ならあたりまえのことではないかと思えることだが、しかし、その当たり前のことが書かれていることが、独自の衝撃性に繋がっている。

 地域再生に多少なりとも関わった人間であれば、この問題の本質を本書がきちんと分析していることを理解することができるだろう。本書は、失敗例を「土建工学者などが提案する”机上の空論”」と断じる。

地域再生の表舞台に出てくる役者は三者だ。地域再生関係者というプレゼンテーション業者(コンサル)、美しい夢を科学の装いで語る土建工学者、お役所体質が抜けない地方自治体である。



 これらの問題の根幹の一つは、公共事業そのもののあり方にある。つまり、箱物であり、道路であり、農地の転売であり、交通安全整理の日当である。目先の利権のネットワークが地域の権力構造と一体化していて、地域再生という振り付けを変えることがなかなかできない現実がある。それを、化粧直しをするように、地域再生の美しいプレゼンテーションで包み直し、補助金を当てることでお茶を濁しているのが現実ではないのか。失敗するべくして失敗するとしか思えないとも言えるのだが、それなりにおカネが回れば、確かに地域は数年息をつくことができる。

本書の事例は、見方によっては成功と言える中規模都市の事例だから、そこまでひどいことはない。それでも地元生活者から感じられる問題点は、ほぼ書かれている。

若者を呼び込もうとした宇都宮市の活性化では現実の若者の感性は生かされていなかった。松江市の再生はイベント頼みで本当に地域に潜む宝を生かし切れない。

長野市は観光客指向のあまり地元民の生活との接点を失った。

福島市はオヤジ視点のあまり、地元の若者や女性の視点を持つことができなかった。岐阜市・富山市はお役所体質から「コンパクトシティ」を目指し、市民の居住空間の常識を壊した。



 それでは、どうしたらよいのか? 本書は後半三分の一で、筆者の経験則からではあるが、市民と地域が豊かになる「7つのビジョン」をまとめ、そこからさらに具体的な提言を3点導き出し、1章ずつ充てている。

(1)食のB級グルメ・ブランド化をスローフードに進化させる、

(2)街中の低未利用地に交流を促すスポーツクラブを創る、

(3)公的支援は交流を促す公益空間に集中する。

 

本当にこれで地域再生は可能になるだろうか。彼の提言を使うためには、まず、地域コミュニティーそのものが生き返ることが前提になる。元気な若者が街に戻ってくる必要がある。そしてその若者が、以前からいる高齢者と新たな再融合できるかが問われている。地域の若者の現実的なニーズと高齢者のニーズをどう調和させるか。そしてその二者の背景にある巨大な失業の構造はどうするのか。「グローバリズムの暴走」にどう対処するのか、地域再生には欠かせない日本の家族の絆をどう再生するのか、問題の根は限りなく深い。



そして、突き詰めていくと故意にこの二十年間近く日本のデフレ経済を放置している日本銀行を初めとするグローバリズム信奉者の顔の見えないエリート紳士の「郷土を愛する心のなさ」に行き着いてしまうのだ。

『日本力』 松岡正剛/エバレット・ブラウン (PARCO出版)



目次

一章 日本人が今、置かれた場所

二章 日本のファッション、デザイン

三章 日本の遊び

四章 日本の職人

五章 日本のセレンディピティ

六章 日本の異人

七章 日本の宗教

八章 日本を見つける

<興味深い対話、その他> 

ブラウン氏=

「僕が日本に来た時、今の日本人はみんな、昔のことや歴史から切断されていると感じたんです。心が過去のこととつながっていない。それを、どうにかしてつなげたほうがいいと思います。そうすれば日本はもっとおもしろくなるはずです。」

松岡氏=

「ものや言葉、価値観をゆっくり解きほぐしていけばまだ大丈夫でしょう。

ばくはそうしてきました。たとえば『心』という言葉とか、『体』とか『命』という言葉が、どういうふうにできているのかということを解きほぐしてく。      ~ 略 ~ 

そうやって価値観のもとになっているところをほぐしていくことが大事なんです。」

※「日本力」(PARCO出版)P182より抜粋



<西洋のいいところ>

 ・○×教育や偏差値教育ではなく、「考える力」を養う教育が小さいころから徹底されている点と、論理をトコトン追求する立場を重んじる伝統。



 <日本のいいところ(ただし今ではなく過去の)>

  ・“○と×”や“世間と自分”のあいだに「間(ま)」(=一種のグレイゾーン)を

   設けること。

  ・世界に類を見ない「職人」の世界。バーチャルでなく実体験や長年の繰り返しによって初めて見えてくること。そして自分が加工しようとする材料や道具に対するリスペクト。

  ・“ガングロ”とか“ゴスロリ”などを生み出す日本人に残る潜在力 ――かぶき者に代表される異人としての「変な人」の力。

  ・大切なのは“ナショナリズム”ではなく“パトリオティズム”



現在の国際社会で吹き荒れる民族主義やナショナリズム、すなわち“想像の共同体”の嵐に対抗するには、自分が属する社会の文化や地域、先祖の歴史に根ざすという事こそが、最も有効な手段である。



パトリオティズム…愛郷的精神とか郷土愛のこと。「日本国民」などという抽象的な概念ではなく、地元の「土」に根差した“ローカリティ”と言う意味。 



 その点からすると、安倍晋三氏が、かつて言った『美しい国、日本』というフレーズは、「美しい国」というローカリティと「日本」という国家/国体(=“想像の共同体”を守るための施政者による体制)を、無理やり結びつけるものであって言葉づかいが間違っている。

 この対談で二人が話していることをまとめると以下のようになる。

 

現在、日本人の知が衰退し始めている。

ひとつの原因は60年代安保以降、国民の考える力を削減する目的で導入された偏差値教育である。一部のエリートだけを残し、一般の国民からは自ら考えたり議論したりする能力を削いで、与えられた正解を受容して○×で答えるだけの技術者を作るという政策を意図的に行っている。それも20世紀工業社会では有効に機能したが、21世紀には新しいOSが要る。たしかにその通りで、東大を出ていても「考えると言う点」では、10人中8人は、どうしようもない人であるのも残念ながら、事実だ。 



日本人の身体意識も変わった。ハラを中心にした丹田の感覚が消えた。「腹が立つ」が「頭にくる」に登り、「キレる」という身体のどこだか判らない感覚になってしまっている。



日本は火山国・地震国のためか、外国人から見ると熱がこもっていて暖かい。水蒸気も多く、中国のように月や星がくっきりと見えず霞んだりする。曖昧さがある。山や川で区切られ少し移動すると次々と風景が変わる。大陸のようにズーッと砂漠・・というような環境が無い。多種多様なものが詰まっている。三河と尾張で文化が違ってよい。その範囲が「クニ」であり、かつては藩や村が共同体意識の中心だった。明治になって初めて国家という概念を権力者が作り、戦争まで引っ張っていって敗戦以降はその国家観が解体した。

今もう一度共同体意識を呼び戻すために憲法に愛国心などを入れてもダメ。氏神を奉る範囲の、郷土愛を新たな形で復活させる事が有効だろう。 



下地となる文化・ホームポジションをしっかりと持っていて初めて、その上に異文化や新知識を取り入れて吸収できる。いま日本人には自らの文化伝統に根ざした「下地」を喪失したため、インターネットの普及によって情報の海に溺れる人が出てきている。  海外に出なくても国内を旅行したりして、自分達の足元=文化の深層を見直し自らのバックボーンを探すことが必要である。



本来、日本人は、ヨーロッパ人のようなスローライフが本当は得意なはずである。 



日本の神は遠いところから来て、また去る。遠方より訪れる「マレビト」を歓待する風習がある。古代の日本人は遠くにあるものを感ずる能力を大切にした。例えば、ネズミが災害を予知する能力を信じてネズミが移動する方向へ移住したり、船の進路を取ったらしい。



30年使える漆器や磁器は高価であるが、それを作る技術が途絶えれば蓄積してきた膨大な時間という価値を失ってしまう。 



子供に影響を与えるのは親や環境よりも社会で出会う「変な人」。今は異質なものを排除しすぎて異人に会う機会が少ない。



日本は無宗教というが、かつては神仏習合で煩いくらい神様も仏様も身近に居た。

明治になって国家をまとめるため廃仏毀釈し、天皇を現人神とする国家神道を作った挙句、敗戦で天皇が人間宣言したため「神も仏も天皇も、もういいや」となった。そういった人々が経済的繁栄に新たな夢を託し、美しい国土や伝統を破壊して顧みない世代となってしまった。

戦後半世紀以上が過ぎた現在、宮崎駿の映画や古神道の世界観を素直に受け取れる若い世代が復活している。



















ネットの中に「座」(コミュニティ)が発生している。次のステップはネットの中から出て生の現場に行くと良い。



コスプレは現代の祭り。非日常空間である祭りが現代社会から消えてしまっているため若者が自主的に作り出そうとしている。もっと大きな目で見て、禁止してはダメ。



日本には重厚な文化の堆積がある。しかし現代日本人はそれから切り離され外国人になっている。今の日本は根の無い大木のよう。しかし、発掘しようとする人々がたくさんいる。

文化財として遠ざけられた伝統を生活の中に取り戻し、前衛的で創造的で遊び心にあふれた文化を地域から再興すべきだ。 



西洋ではデカルト以来、個人や自我といったものが確かに存在すると思われているが、それは幻想で、世界の実相~小さな我(われ)を消して世界の中に開放されるという感覚~は、日本文明の方が本質を捉えている。



若い世代が国外に出て行こうとせず、内向きに籠もっているというグローバリズム信仰に基づく批判が最近聞かれるが、本書で指摘されているように、世界の変化期にあたっては自らの基盤となるホームポジションの確認がまず必須である。しかし、不幸な教育環境にあるため、我々はストレートにわが国の文化を継承できていない。日本には一朝一夕にはとうてい掘り起こせない分厚い文化遺産があり、若い世代がその発掘に注力し始めているのだとしたら、まさに正しい行動を起こしているのだと思われる。その可能性を信じ、後押しするのが大人の役目である。

日本人の素晴らしさがまた、サーカーの澤選手に続いて高校生の女性によって世界にアピールされた。快挙を喜びたい。




*東京新聞より 

ローザンヌ優勝 菅井さん会見 「こんなに幸せでいいのかな」

スイスのローザンヌ国際バレエコンクールで優勝し、六日に帰国した私立和光高校(東京都町田市)二年菅井円加(すがいまどか)さん(17)=神奈川県厚木市=が同日午後、厚木市内で記者会見し「支えてくれた人たちに感謝したい。こんなに幸せでいいのかなと思う。優勝はバレエ人生の第一歩です」と、世界を見据えて精進を重ねる決意を述べた。


 会見には報道陣約百人が詰めかけた。菅井さんは「成田空港でも(報道陣が多く)びっくりしたが、日本はアットホームな感じで安心した」と終始笑顔。快挙について「練習を積み重ねて自分なりに努力した。結果は後からついてきたと思う」と振り返った。


 菅井さんは二〇一〇年四月、本紙主催の「第六十七回全国舞踊コンクール」のバレエジュニア部で優勝した経歴も持つ。


 同県大和市内の教室で、連日深夜十一時ごろまで練習する日々だ。


 「壁に当たり、イメージ通りできずやめたいと思ったこともある」と明かしたが、「舞台で大きく、楽しく踊れた経験を糧にまた頑張れる。バレエは人生の一部であり、不可欠」と強調した。


 会見に同席した指導者の佐々木三夏さん(49)は「運動能力や筋力がアスリートみたいに高いので『菅井選手』というニックネーム」と笑いを誘い、「もう少し女性らしくして」と課題を挙げた。


 会見後、母の賀子(よしこ)さん(48)は「成長を頼もしく思った。野菜の煮物をつくってあげたい。早く寝かせてあげたい」と娘をいたわっていた。



             菅井円加 ( ローザンヌ国際バレエコンクール優勝者の演技

本の紹介です。

「通貨戦争」 

~陰の支配者たちは世界統一通貨をめざす~ 

宋 鴻兵 (著), 河本 佳世 (翻訳), 橋本 碩也(監訳)

 

<宋 鴻兵> プロフィール(ソン ホンビン)  

1968年中国四川省生まれ。遼寧省瀋陽市の東北大学卒。1994年米国留学、ワシントンのアメリカン大学で修士号取得。専門は情報工学と教育学。修了後、アメリカで就職、様々な経験を積む。2002‐07年、ファニーメイとフレディマックでコンサルタントを務める。2007年11月に中国に帰国。2008年環境財経研究院院長に就任

<目 次>

第一章 ドイツ 国際銀行家発祥の地

第二章 イギリス 金権の高地

第三章 フランス金権の割拠

第五章 不安定な欧州

第六章 ヒトラーの「ニューディール」 

第七章 銀行家と情報ネットワーク

第八章 エリート統制と寡頭ステルス

第九章 ポスト金融危機

第十章 バックトゥザフューチャー

 

 著者、 鴻兵は、サブプライムローン問題に端を発した2008年の世界金融危機を完璧に予測した中国の俊英エコノミストである。 

『ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ』の続編となる本書は、18世紀初頭から約300年にわたるドイツ、イギリス、フランス、アメリカのすべての重要な国際銀行家一族の人脈や、各国で起きた戦争・革命・政変・危機と彼らとの関係を膨大な資料を読み解くことによって、その裏にあった金融操作の手法と意志決定のメカニズムを解析している。そして現在も、国際金融資本家が世界経済をコントロールしようと遠大な世界統一通貨構想のシナリオを進めているのではないか、そのことを膨大な資料を基に検証している。

平均すると一日、5万文字の資料を1,000日かけて眼を通したと著者が前書きで語っているが、大変な労作である。結果、読む人は情報量の多さに圧倒されることになるはずだ。類書はあるが、この本が、直近のリーマンショックを含んでいること、アジア人、中国人の視点で書いていることに大きな意味がある。

  とにかく、勉強になる本だが、小生が注目したのは、以下、三点である。

 

1.ヴィクター・ロスチャイルドについてかなり詳細に書いていることである。

・彼は、第二次世界大戦の企画、実行の黒幕だったこと。

・彼が.第二次世界大戦後の世界の構造(冷戦構造)を創ったこと。

・彼がマンハッタン計画を主導し、ヒロシマ、ナガサキに、種類の違う原爆を2発投下させた張本人であること。

・自らが構築した冷戦構造に合わせ、東西両サイド(世界)に、それぞれ、核兵器、原潜、原子力空母、原発、ウランの独占的に拡大販売を行い、莫大な上がりをあげ、それをもって世界を支配したこと。

おそらく、一般にはあまり、知られていないが、ヴィクター・ロスチャイルドは、二十世紀が生んだ天才の中の天才である。一言で言えば、悪魔のように頭の切れる男である。

彼の支配の方法はいたってシンプルである。

○有り余る金(相手が金に困っていたり、借金を抱えている場合は話が早い)を有効に用い隷属させる。

○ある種の脅し、脅しが効かない場合は暴力を用い、力で隷属させる。

彼は、生物学(これは、人間の生物学的な本性、本能、隷属させる方法等)を徹底的に研究し、学び、勲章までもらっている。(これは、博物学、博物館等を造った伯父ウォルターの影響である)核物理学も、一流の知識と理解を持ち、当時の核物理学者と対等または 対等以上に渡り合う。そして、驚くべきことに原爆、水爆等の核兵器に対する具体的なアイデアやイメージまで持っていたようである。

経済学では、いつも、アポなしで、ケインズを訪問し、20歳も年上のケインズと対等以上に論じ合ったという。 ただ、抽象的で実践的でない空論的な思考には取り合わず、

ひたすら、現実の世界で何が役に立つのか? その一点に絞られた探究しかしなかった。

その辺は、ディズレーリの小説に出てくる「シドニア」なる人物、そのシドニアのモデルであるライオネル・ロスチャイルドにあこがれ尊敬していたということだ。

また、大学生の頃は、学内最高のテニスプレイヤーであり、また、音楽の才能もありジャズピアノの名手であった。

また、この本の中には、ケンブリッジ・サークルのなかにソビエトのスパイ網がつくられていたことも書かれている。ここまで、ヴィクター・ロスチャイルドのことを書いた本を不勉強な小生は初めて読んだ。

以下、本書より抜粋

KGBの「ケンブリッジ5人組」

国際情報機関に関係している人間でキム・フィルビー Harold Adrian Russell “Kim” Philby(1912-1988)を知らない者は殆んどいないと思う。

フィルビーはソ連KGB〔※ソ連国家保安委員会 Komitet gosudarstvennoy bezopasnosti の略称〕の諜報員としてイギリス情報機関に20年余り潜伏し、シニア連絡官 Senior Liaison Officer としてイギリスからアメリカCIA〔※アメリカ中央情報局 Central Intelligence Agency の略称〕に派遣されたこともあり、英米両国間における反ソ連諜報活動の調整を受け持っていた。彼の役職、潜伏期間の長さ、そして、英米両国の諜報網に対する打撃の大きさから行って、冷戦中の最大事件であったと言える。

英米の反ソ防諜活動の最高責任者がソ連の諜報員とは、前代未聞の珍事である。フィルビーは1963年にベイルート Lebanon, Beirut 経由でソ連に亡命し、1965年にソ連赤旗勲章 Order of the Red Banner を授与され、1968年に回顧録『My Silent War:The Soviet Master Agent Tells His Own Story』(Grove Press 1968年刊行)を出版し、たちまち世界のベストセラー Best Seller となった。フィルビー事件は英米情報機構にとって恐らく史上最悪のスキャンダル Scandalであろう。

フィルビーは1人で英米の情報機関に潜伏したわけではなく、彼の周りにはかの世界に名立たる“ケンブリッジ5人組 Cambridge Five”がいた。5人組とは、ケンブリッジ大学 University of Cambridge で共に過ごした5人のソ連KGBの仲間達のことである。

5人組の内、一番早く明るみに出たのはドナルド・マクリーン Donald Duart Maclean(1913-1983)とガイ・バージェス Guy Francis De Moncy Burgess(1911-1963)であった。

マクリーンはイギリス情報局MI5〔※軍情報部第5課 Military Intelligence section 5 の略称〕とMI6〔※軍情報部第6課 Military Intelligence section 6 の略称〕で重要なポストに就き、後にワシントン Washington, D.C. のイギリス大使館 British Embassy in the United States に赴任して情報関連を担当し、原子力の研究開発情報やチャーチル Winston Leonard Spencer-Churchill(1874-1965)とルーズヴェルト Franklin Delano Roosevelt, FDR(1882-1945)、トルーマン大統領 Harry S. Truman(1884-1972)間の政策制定の進捗(しんちょく)〔※物事が捗ること〕状況など重要な情報をソ連に送っていた。

マクリーンは最初にマーシャル・プランの本当の意図をソ連に流した張本人であった。

「マーシャル・プラン Marshall Plan」は実に一石二鳥の妙案であった。その確信はドイツが戦争賠償金を支払う代わりに、アメリカ金融勢力が欧州の再建を実現し、併せてソ連の経済発展を阻止することであった。

「ヤルタ秘密協定 Yalta Agreement」や「ポツダム宣言 Potsdam Declaration」では、ドイツがドイツ産の機械設備、産業、自動車、船舶、原材料などによってソ連に戦争賠償金を支払うことが出来ると定めていた。そして、当時のソ連は甚大な戦争被害を受け、製品の輸出による外貨獲得能力をほぼ喪失しており、ドイツの戦争賠償金はソ連の経済再建にとって最も重要な外部資源となるはずであった。

しかし、マーシャル・プランは、ドイツがソ連へ賠償することを排除し、アメリカが欧州に金融支援を行うという内容であった。表向きにソ連と東欧にもこの支援プランは適応出来るが、マーシャル・プランが提起した経済の自由化などの条件はソ連の計画経済体制と全く相容れないものであった為、「仕方なく」ソ連は援助対象外となった。

マーシャル・プランのもう1つの「妙味」は、アメリカ納税者達の税金を国際金融家達が戦争中に被った被害の賠償に充てることであった。マーシャル・プランは第1次世界大戦後のドーズ案 Dawes Plan やヤング案 Young Plan の複製品とも言えた。130億ドルに上る巨額資金が欧州の銀行家に「貸付けられ」たが、ドイツを除いては、誰からも返済されることはなかった。

国際金融家達にとっては誰が戦争に勝とうが負けようが大した問題ではなく、誰が金を払うかだけのことであった。不思議なことに戦勝国アメリカの納税者が2回の世界大戦 World War の最大の支払人となった。

マクリーンが正確な情報をソ連に送っていたお蔭で、ソ連は最初からマーシャル・プランの本質を見抜き、参加を拒んだ。同時に東欧の他の国の参加をも阻止し、ドイツから各種重工業装置を撤収した。

 

1951年5月25日、奇しくもマクリーン38歳の誕生日にイギリス情報局に疑われ、ケンブリッジ5人組 Cambridge Five の1人バージェスと共にソ連に逃走した。後にKGBの大佐となった。

バージェスは、第2次世界大戦中はイギリスの外務期間に勤務し、これもケンブリッジ5人組の1人であったアントニー・ブラント卿と共に連合軍の戦略計画や外交政策をKGBに流していた。後にバージェスもワシントンのイギリス大使館に派遣され、フィルビーと一緒に暮すようになった。ソ連に逃走後の彼は、酒に溺れ、これが原因で死亡した。

 

5人組の中で4番目に露見したのはアントニー・ブラント卿 Anthony Frederick Blunt(1907-1983)であった。彼はMI5に勤め、解読したドイツの軍事情報をソ連に送っていた。戦争が終息する前に、彼はイギリス王室からドイツ行きを命じられ、ウィンザー公爵 Edward Ⅷ(Duke of Windsor)とヒトラー Adolf Hitler(1889-1945)の秘密書簡や、ヴィルヘルム2世 Wilhelm Ⅱ(1859-1941)〔※ドイツを第1次世界大戦へと導いたドイツ帝国皇帝〕の母方の祖母に当たるヴィクトリア女王 Queen Victoria(1819-1901)とドイツにいる親戚間で交わした書簡の回収活動を行った。

そして、1956年に、イギリス王室 British Royal Family からナイト称号 Knight of the Garter を授与され、後にケンブリッジ大学の芸術史教授にもなっている。彼がソ連の諜報員であることが露見し、エリザベス2世 Elizabeth Ⅱ(1926-)によってナイトの称号を剥奪され、更にサッチャー首相 Margaret Hilda Thatcher(1925-)がこの事実を公開したことで、イギリス国内は一時騒然となった。アントニー・ブラントは1983年ロンドンの自宅で亡くなった。

ケンブリッジ5人組の5人目は未だに分からず、世界の諜報史の重大ミステリーとなった。人々との間で様々な憶測が飛び交い、長きに渡り話題を提供し続けている。有名な国際情報学者ローランド・ペリー Roland Perry1946-)は、多くの事実から、神秘の5人目はヴィクター・ロスチャイルド Victor Rothschild, 3rd Baron Rothschild19101990)だとはっきりと指摘した。

 2.米国のルーズベルトのニューディール政策は、実際には失敗だったが、ドイツのヒットラーのニューディールは大成功した。その要因は中央銀行を完全にコントロール下に置いたことにある。中央銀行の国有化である。

以下、本書より抜粋。

 「第2次世界大戦 World WarⅡにおけるナチス・ドイツ Nazi Germany の強力な軍事力は世界の人々の知るところであり、ヒトラー Adolf Hitler(1889-1945)は憎むべき悪魔となった。しかし、ナチス・ドイツの通貨制度と経済システムの運用状況は学者以外には殆んど知られていない。

1930年代に発生した世界恐慌の中で、ドイツは最も深刻な被害を被り、経済が衰退し、空前の失業率に達した。ナチスが民主的選挙を経て合法的に政権を執ったのも、当時のドイツの経済危機と密接な関係がある。ナチスはよくこの機運を掴み、経済危機を救済する「ニューディール New Deal」というカードを切り、選挙に勝利した。ナチスにスローガン Slogan と宣伝だけで経済危機を乗り越える能力がなければ、ヴァイマール共和政 Weimarer Republik と同様、直ぐに民心を失い、崩壊したはずだ。

1933年、政権を握ったヒトラーの前には極度に混乱したドイツの経済が横たわっていた。1929年から1932年の間、ドイツの工業生産は40%落ち込み、対外貿易高は60%減り、物価は30%下落し、失業率は30%に達した。経済危機によって社会のいたるところで衝突が起き、3年間に1000回余りのストライキ Strike が発生した。

ナチス政権は直ちに経済救済に取り組み、いわゆるヒトラーの「ニューディール New Deal」を実施し始めた。一連の有効措置によって、ドイツ経済は急速に回復し、急成長の軌道を描き始め、失業率は急激に下がり出した。1938年の失業率は僅か1.3%にまで改善していた。1933年から1939年で、重工業と軍事産業の生産高は2.1倍となり、消費財は43%増え、GDPの成長率は100%を超えた。更に全国に高速道路網を敷設(ふせつ)し、重工業の基盤システムを構築し、近代的軍隊も備えるようになった。

 

1919年9月の或る日、ヒトラーが労働者党の集会に参加した時、或る講演者の講演内容にヒトラーは強く惹き付けられ、深い感銘を受けた。その講演者とはゴットフリート・フェーダー Gottfried Feder(1883-1941)であった。

1924年に出版されたヒトラーの『我が闘争 Mein Kampf』において、フェーダーに触れ、「初めてフェーダーの講演を聞き、或る概念が脳裏に浮かび上がった。こうして、我が(ナチス)党の重要原則を見つけた」と述べている。フェーダーに声を掛けられ、ヒトラーはドイツ労働者党 Deutsche Arbeiterpartei(DAP)〔※1919年に設立され、翌1920年、国家社会主義ドイツ労働者党 Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei(NSDAP、ナチス党)に引き継がれた〕に入党した。

では、ヒトラーにナチス党の原則を見つけさせたこのフェーダーは、一体何者で、どのような講演をしたのだろうか。

フェーダー―ヒトラーの金融の師

ヒトラーは労働者党に加入してからフェーダー Gottfried Feder(1883-1941)を経済と金融の師として仰ぎ、彼の影響を受けて、通貨、金融、雇用、経済危機などに深い関心を持つようになった。

フェーダーは経済金融の専門家ではない。彼は1917年から金銭、経済、不況、雇用、戦争と国家の関連を考え始め、伝統的アカデミック Academic〔※学術的〕な考えとは一線を画した、そして人々を驚かせた、一連の理論を提起した。フェーダーは、通貨供給の支配権は国が有するものである、中央銀行は国有化を進めるべきであり、民間が中央銀行を支配してはならないと提唱し、個人が中央銀行を支配する場合の最大の問題は、創出された金利収益やその他の利益が国や国民に幸福を齎さずに、個人の懐に入ることである、と指摘した。

軍人出身のヒトラーは経済金融に全く無知であり、ドイツの敗戦とその後に発生したハイパーインフレ Hyper Inflation は純粋な政治問題だと考えていたが、フェーダーの教えを聞いた後では、金融が万事の中心であることに気付き、「クリエイティブな産業資本」と「貪欲と略奪的な金融資本」の根本的な違いを明確に認識した。

金融と金融を支配する集団がドイツの運命の主宰者であることを悟ったヒトラーは、鋭い洞察力と斬新な視点から、彼が困惑していた過去の問題を整理し、未来のドイツ国家運営とナチス党の「重要原則」の枠組みを明確に描けるようになった。

1920年、ヒトラーはフェーダーらと議論と模索を重ねた上で、ナチス運動の哲学的原理体系を提起した。哲学的な綱領(こうりょう)であることから、ヒトラーはこの綱領が「永遠不変」だと考えていた。その思想体系は「25カ条綱領 25-Punkte-Programm」として纏められ、1932年に開催されたニュルンベルク・ナチス党大会 Reichsparteitag(英:Nuremberg Rally)では再び政党綱領としての地位を与えられた。

 

「25カ条綱領」はナチス党の全ての基本概念と政策を網羅し、フェーダーの経済思想は、綱領の中で経済に関する要求と主張に反映された。ポイントを以下に挙げてみた。

 第11条:不労所得を撤廃させ、寄生地主を打倒する。

これはフェーダーが主張していた「利息の束縛からの破棄」、「クリエイティブな産業資本」と「利息略奪性金融資本」の区分に合致する。フェーダーは、資本は実体経済の循環に入ってから初めて価値を創出するが、金融システムの中で「流動し金利を獲得する」「略奪性」の金融資本は他の労働者の成果を略奪する、と認識していた。

 第12条:全ての戦時利得の取締と没収を要求する。

ヒトラーは、ドイツ軍が第1次世界大戦で軍事的に敗戦したわけではなく、前線の軍人達は「国家利益を売った」資産階級やユダヤ金融家に背後から刺された。彼らが引き続き戦争で金儲けすることは道義上到底許されることではない、と考えた。

第13条:我々は、(今迄に)既に存在する全ての企業(トラスト Trust)の国有化を要求する。

フェーダーは、国有企業という巨大な空母を建造し、国が社会の主要資源を管理し、過度な利益追求による競争と貧富の格差を回避することを提案し、国有化されたトラストによって資本家の合理的な利益と労働者の安定雇用のバランスをとることを考えた。

第14条:我々は、大企業の利益の分配を要求する。

フェーダーは、大企業が社会に利益を還元し、社会各階級が共に経済の繁栄を享受することを主張した。

第16条:我々は、健全な中産階級の育成とその維持、大規模な百貨店の即時公有化を要求する。

フェーダーの考え方は小ブルジョワ Petite Bourgeoisie と平民階級の利益訴求を反映しているものの、いわゆる哲学原則ではなく、具体的な政策に属する。

第17条:我々は、国民の要求に合致する土地改革、及び公益目的の為の土地の無償収用を定める法律を制定し、地代徴収の撤廃、全ての土地投機の制限を要求する。

フェーダーが一番容認出来なかったのは「労せずして得ること」と「投機取引」であり、彼は全ての社会資源を実際の生産活動に投じたいと考えていた。彼は抽象的な理想社会に生きており、人間の天性を軽んじていた。フェーダーの問題点は矛と盾を分離して自分に都合のよいことだけを選んでいることである。

第18条:売国奴、高利貸と投機筋を死刑にする。

 

上記以外にも、フェーダーは「国家の権威」を以て、「経済銀行」を創設し、国家証券を発行し、社会の公共事業の資金を調達することを主張し、国際金融家達が既に金 Gold を独占していることから、金本位制 Gold Standard から脱却し、国家において流通する通貨総額を決め、国家の実体経済の生産能力で通貨を下支えし、商品を以て海外と交換を行い、海外資本によるドイツ通貨と外国為替の支配から脱却することを提案した。

ヒトラーの「ニューディール」

1933年に政権を握ったヒトラーは極度の経済混乱に直面していた。

1929年から1932年の間、ドイツの工業設備稼働率は36%に下がり、工業生産は40%落ち込み、対外貿易高は60%減少し、物価は30%下落し、鉄鋼生産量は70%減少し、造船業生産高は80%減少し、工業危機に起因して金融危機も発生した。

1931年7月、ダルムシュタット銀行 Darmstädter und Nationalbank の倒産によって取り付け騒ぎが発生し、金備蓄量が23億9000マルクから13億6000マルクまで激減し、ベルリンの9つの銀行の内4行が倒産に追い込まれた。また、失業率が急増し、1932年には30%、半失業者を加えると総労働者数の半分に達した。経済危機のよって社会では色々な衝突が増え、3年間で1000回余りのストライキ Strike〔※同盟罷業〕が発生した。

ドイツが見舞われた経済危機の打撃は欧米諸国より遥かに大きかった。ナチス政権が誕生すると、直ちに経済救済に取り組み、いわゆるヒトラー版「ニューディール New Deal」を開始した。

一連の有効措置によって、ドイツ経済は急速に回復、成長し、失業率も急激に改善され、1938年には僅か1.3%となった。1932年から1938年の間に、ドイツの銑鉄生産量は390万トンから1860万トンに、鋼生産量は560万トンから2320万トンに増え、アルミニウム AluminiumAl)とマグネシウム MagnesiumMg)及び工作機械の生産量がアメリカを上回った。

1933年から1939年で、重工業と軍事産業の生産高は2.1倍となり、消費財は43%増え、GDP〔※Gross Domestic Productの略称。国民総生産〕成長率は100%を超えた。更に全国に高速道路網を敷設(ふせつ)し、重工業の基盤システムを構築し、近代的軍隊も備えるようになった。

3.FRBの前理事長、グリーンスパンの哲学上の師が、なぜか米国で高名な女流作家:アイン・ランドだった。本書では彼女の「肩をすくめるアトラス」という本が紹介されている。

 

彼女の考えは、普通の日本人の感性からは全く考えられないものかもしれない。

何しろ「合理的な利己主義こそが真の道徳の基準であり、利他主義・博愛主義は極めて非道徳的」だということなのだから。

たしかに、この本が出版された1950年代は社会主義・共産主義への反感が強い時代だった。共産主義の脅威にパラノイアを抱くアメリカ人には、非利他主義の彼女の本を受け入れやすい土壌があったのも事実だ。

米国人のエリートの共感があったから、8,000万部も売れたのだろう。その意味で、米国のエリートが、日本人と全く違う思考様式で生きていることを知るのには絶好の本だと言える。

 



アイン・ランドプロフィール(Ayn Rand, 1905年2月2日 – 1982年3月6日)

アメリカ合衆国の小説家、劇作家、脚本家、哲学者。本名アリーサ・ジノヴィエヴナ・ローゼンバウム。代表作に『水源』、『肩をすくめるアトラス』など。

文学的評価はこれまで高いとはいえず、二十世紀のアカデミアでは無視されてきた。発表当時から1970年代までは若者が熱狂し、通り過ぎる文学という位置づけだったが、1980年代、レーガン政権では最も影響力の大きい思想家とされたこともあり、1990年代のアメリカ経済の象徴でもあったアラン・グリーンスパンはランドを思想的母と仰いでいた。

1991年のアメリカ議会図書館の調査で、「20世紀アメリカで聖書の次に影響力を持った小説」と紹介されている。また、1998年のランダムハウス/モダンライブラリーの「アメリカの一般読者が選んだ20世紀の小説ベスト100」で『肩をすくめるアトラス』が第一位、『水源』が第二位を獲得し、また10位内に4つの作品がランクインした。

2008年のリーマンショック以降、あらためてランドを見直す機運が高まり、2009年の『肩をすくめるアトラス』の売上は米国国内のみで50万部を突破した。2010年の中間選挙の茶会系共和党の躍進においても思想的根拠として保守系のラジオショーのホストらに参照されることが多く、現在も熱狂的なファンが多い。

以上、三点が、私が注目したところである。特にヒットラーの経済政策には現在、注目すべきではないか。彼だけが世界恐慌から戦争前に国家の経済回復に成功した唯一の政治家であった。この成功は、私たちに通貨を支配する中央銀行のあり方そのものを、原点に戻って考える必要がある事を教えてくれている。現在の金融危機も、民間に所有されているFRBをはじめ、各国の中央銀行のあり方に原因があることは間違いない。

それにしても日本のマスコミに登場する有識者は、なぜ、ポジショントークしかしないのだろうか。彼らの出身母体、たとえば、財務省、マッキンゼーの顧客企業、国際金融資本、その他、経歴を調べれば彼が、どうしてそう言う話しをするのか、およそ推測が付く人ばかりである。

ところで、浅学菲才の小生には、この本で著者が指摘している国際銀行家たちの数百年の悲願である世界中央銀行の設立と世界統一通貨の発行が達成されるとはとても思えないのだが、

もちろん、人類がごく少数の自由人と大多数の奴隷に分別しようという彼らの意図は阻止されるべきものである。

ヴィクター・ロスチャイルドについては、以下参照。

Victor Rothschild, 3rd Baron Rothschild From Wikipedia, the free encyclopedia 

http://en.wikipedia.org/wiki/Victor_Rothschild,_3rd_Baron_Rothschild

「本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること」

-沖縄・米軍基地観光ガイド-

前泊博盛(沖縄国際大学教授・前琉球新報論説委員長)・監修 

須田慎太郎・写真 矢部宏治・文

*本の紹介です。画期的な本です。ガイドブックの体裁をとって日米関係を見事に浮き彫りしている本です。わかりやすい、ご一読を勧めます。

 沖縄・米軍基地観光ガイド ‘というサブタイトルが付いているが、とても、そんなに軽いものではない。わかりやすく戦後の日米関係の歪みをほぼすべて書き解いたとも言える画期的な本である。また、日米関係を勉強するには格好の入門書にもなっている。

ともすれば、日本国憲法・日米安保~日米地位協定・昭和天皇・CIA・日テレ・司馬遼太郎・普天間・沖縄少女暴行事件・法務官僚の暴走・東大教授&評論家「舞台装置論」・・・といった別々に論じられがちなこの国の問題を、通底的・包括的・横串的に簡明かつしっかりと整理し、解説しているところが素晴らしい。

この本の文章を書いている矢部宏治氏は、鳩山民主党の「迷走劇」を目にし、「なんでこんな問題でやめてしまうんだ」と単純な疑問を抱いた。それまで沖縄の基地問題についての関心などなかったと正直に告白する彼は、沖縄取材で聞き取った市井の人々の声にこそ、その疑問の解があることを発見し、目からウロコが落ちるのだ。さらにそのウラを取るために様々な文献(この文献の選択が良い)にあたり、一つの核心をつかむ。

日米安保条約についての真実という核心を。

占領軍から名前が在日米軍と変わっただけで実質的に米軍の占領が現在まで継続されていること、絶対平和主義にもとづく日本国憲法と、国内に米軍の駐留を認めた日米安保条約は表裏一体の関係にあることに彼は、気がつくのである。

基地問題を中心とした「沖縄問題」は決して沖縄の問題などではない。戦後日本を規定し呪縛し続け、日本永久占領を可能にしている日米安保条約が核心としてある。このことは、日本人全体として共有し、第一に解決すべき問題である。日本を独立国にするかどうかの問題である。そのことを『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること』であることが致命的に大問題であることを矢部氏は奇跡的に知りえた。

そもそも「普天間移設問題」などと短い見出しで報じるマスコミの姿勢、何も知らないのに分かった様な気になっている大多数の「日本人」こそ、この世で一番無知な状態に置かれている人々であることを彼は知ってしまったのである。

極東最大の嘉手納基地、移設問題が取りざたされる普天間基地、普天間基地の移設候補地キャンプシュワブなど沖縄本島と周辺離島の28米軍基地・施設を歴史的背景も含めて解説している。

もちろん、取り上げた基地・施設のページには地図と見学のポイント、周辺の関連施設を掲載し、ドライブやフィールドワーク用としても使うこと

ができる。若い人に是非、読んでいただきたい本である。



*烏賀陽 弘道氏のいいレポートです。是非、ご一読下さい。

原発避難者の「許されざる結婚」

福島への偏見や差別は本当にあるのか(その1

烏賀陽 弘道

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34401

<烏賀陽 弘道:プロフィール>

  1963年、京都市生まれ。1986年京都大学経済学部卒業。同年、朝日新聞社に入社。三重県津支局、愛知県岡崎支局、名古屋本社社会部を経て91年から2001年まで『アエラ』編集部記者。92年にコロンビア大学修士課程に自費留学。国際安全保障論(核戦略)で修士課程を修了。2003年に退社しフリーランスに。主な著書に『「朝日」ともあろうものが。』『カラオケ秘史』『Jポップとは何か』『Jポップの心象風景』などがある。

福島第一原発事故から避難した人たちが差別や偏見にさらされたという話をよく聞く。「放射能がうつると学校でいじめられた」「福島ナンバーの車を避難先(他県)で駐車していたら『帰れ』と車体に落書きされた」など。新聞やテレビでは「けしからん」「あってはならないこと」と非難の大合唱である。

 が、私は当事者に会って話を確かめた記事を見たことがない。

 私は自分の目で確かめないうちは信じないでおこうと決めた。「いかにもありそうな話」だからだ。

 現実は人間の想像を超える。「なるほど、それはありそうだ」と思う話など、デマかつくり話、よくて脚色であることが大半である。誰にも悪意がなくても、伝わるうちに尾ひれがつくことはよくある。

 そんな原発災害被災者への差別や偏見は、本当にあるのだろうか。もしそうなら、ヒロシマやナガサキの被害者に起きたのと同じ「人災」が繰り返されたことになる。

 そこで、避難民の人に取材で会うたびに「そういう話を直接知っていますか」と聞いて回った。やはり大半の答えは「そういう話を聞いたことがある」だった。

 が、ごく稀に「そういう人間を知っている」という答えに出会う。その時は紹介してもらって会いに行く。そんな作業を重ねた。

避難者と聞いて顔色を変えた恋人の両親

そのうちにこんな話が出てきた。

  「福島から避難した男性が、山形の避難先でボランティアの女性と恋に落ちた。結婚しようと真剣につきあっているのに、相手の親が『福島の男はダメだ』と許してくれない。放射能被曝を差別しているらしい」。

 福島市から高速道路を2時間弱走って、山形県に行った。雪がほとんど積もらない福島とちがって、宮城県を通り、蔵王を越えるあたりから豪雪になった。山形県側では、家々の屋根に布団のような雪がのしかかり、バットぐらいの太さのつららが伸びていた。

 和田良一さん(仮名)が山形県寒河江市のアパートで待っていた。こたつで向かい合った。窓から雪をかぶった山脈が見える。畳1枚分くらいあるでかい薄型テレビが街角グルメ番組をやっている。

 32歳。茶髪。アメリカンカジュアルの黒ロンT。若く見える。去年の3月15日に福島県南相馬市をクルマで脱出して以来、ずっと避難生活を続けている。

 最初の避難生活を送っていた体育館で、ボランティアに来ていた9歳下の女性と知り合った。恋に落ちた。

が、向こうの両親がなかなか交際を許してくれない。彼女が和田さんのことを話そうとすると、それだけで顔色が変わるというのだ。

  「体育館の人でしょう?」

  「被災してきた人でしょう?」

  「体育館の人」とは、避難所になっている市営体育館で暮らしている福島からの避難者のことだ。そんな呼ばれ方をしているのが話の端々で分かってきた。

 避難中の身で、仕事や住所が不安定であることがいけないのだろうか。いや、きちんと青果の配達の仕事に就いた。普通でも15万円、繁忙期は残業を重ねて25万円は稼ぐ。家賃7万5000円の一戸建てを借りて、一緒に避難してきた両親と共に暮らしている。

 どうやら「放射能」が絡んでいるらしい。彼女ははっきりとは言わないが、話の端々から分かってきた。

福島ナンバーを見て遠くに駐車した車

和田さんにはいやな思い出があった。

 4月下旬、体育館暮らしを出て温泉街の古い宿に移り住んだ後のことだ。夜、出かけようと駐車場に向かうと、暗がりの中、自分の車の周りに人垣ができているのが見えた。「あれ?」と思うや、向こうもこちらに気づいたらしい。ばっと人が散った。若者らしき人影が、10人くらい走り去った。いたずらか?と近寄る。何もない。

 ふと気づいた。駐車場に、福島ナンバーは自分の車しかないのだ。福島からの避難者の車だというので、何が積んであるのかのぞき込んでいたのかもしれない。それにしては人数が多すぎる。いろいろな考えがぐるぐる頭の中を回る。

 また、ファミレスやスーパーの駐車場で、隣に停めようとした車が、こちらの車を見たとたん、またエンジンをかけて走り去った。ふと見ると、はるかに離れたところに停め直していた。一体どうしたのだ。そうか、福島ナンバーを見たのだ。放射能で車が汚染されている、うつると思ったのか。

 ショックだった。

 福島からの避難者への差別や偏見があるという話を新聞やテレビで見聞きしていた。「誰彼さんがこんな目にあったそうだ」という話も聞く。放射能被曝への差別なのかどうか、本当のことは、分からない。聞いても誰も「そうだ」とは言わない。確認のしようがない。

しかし、少なくとも自分が好奇の目で見られていることは分かる。自分が「平常な暮らしでは、そこにいるはずのない人間であること」も承知している。

そして、誰もそれを表立って言うことがない。本音と建前は違う。立場を変えてみれば容易に想像できることだ。

これだけの条件がそろうと、何もかも敏感にならずにはいられない。銀行の窓口でも役所の補助金の窓口でも、相手が通帳や免許証を持つ手つきがおかしく思える。なんだか、汚れものでもつまむような持ち方だ。

ショッピングモールでクレジットカードの勧誘員が声をかけてくる。「いや、こっちの人間じゃないんで」と振り払ってもしつこく言い寄る勧誘員が「実は福島の南相馬から避難で来てます」と言うと「ああー」と言ったきり、口を開けたまま絶句してしまう。

 そこには想像が膨らむ余地がたくさんある。

福島県民であることの「罪悪感」

「言っておきますけど、山形の人はとても優しくて親切なんです」

 和田さんは言葉に力を込めた。

 23歳の恋人は、建設会社の事務をしている。体育館に福島からの避難者が多数いると聞いて、家にあるタオルや毛布を抱えて駆けつけてきた。全国から届く支援物資を整理してくれた。子供たちとゲームをしたり、ぬいぐるみで遊ぶ。そんな地道な作業をボランティアで引き受けてくれた。優しい女性だった。結婚しようと思っている。

 「雪の降らない土地から来たんだから」と近所の人は玄関の雪かきをしてくれる。「雪道の運転の仕方」から「雪道で転ばない歩き方」の講習まであった。足を垂直に上げて歩くお手本を実演して見せてくれた。彼女は「そんな歩き方をする人なんて見たことがない」と笑い転げた。

 和田さんの話を聞いているうちに気づいたことがある。福島第一原発事故を「福島県民全体のせい」でもあるかのように感じているのだ。

 「自分でもおかしいと思うんですが」と和田さんは苦笑いをしながら言う。

 仕事で得意先と打ち解ける。雑談をする。向こうは山形県出身だと思って「地元、どこ?」と聞いてくる。「福島です」という言葉が喉まで出かかった瞬間、ふとためらう。放射能のことを言われるんじゃないか。急に冷たくされるんじゃないか。先回りして、そう怖がっている自分に気づくのだ。

あるいは、テレビでニュースを見ている人たちが「農産物の風評被害が心配だなあ」と話し合っているのを聞く時。申し訳ないと感じる。自分だって被害者のはずなのに。

自分の故郷に連れて行けない

秋になってようやく向こうの両親に会ってもらえた。「結婚を前提につきあってます」という挨拶のつもりだった。幸い、お父さんは「頑強に反対」というふうでもなかった。

 そうなると、彼女に自分の故郷を見せたくなってきた。南相馬市に連れて行って、自分が生まれ育った土地を見てほしい。自分が通った学校や、地元のお祭りを見てほしい。それは自分の一部なのだ。何より、震災が起きた場所、津波が来た場所を見てほしい。それが自分を山形に運んだのだから。

 しかし、できない。もしバレて「危険な場所に娘を連れていった」と両親の怒りを買ったらどうするのか。せっかく打ち解けてきたのに。

 「結婚して子供ができて『ヘンなのができました』となったら、絶対に『あの時連れていったからだ』と突っ込まれますよね。(南相馬に行こうとは)口にできないです」

 「ヘンなのができたら『ほれ、やっぱり』となるでしょう? マイナスは1つでも少なくしておきたいんです」

 「ヘンなのができたら」という言葉に、私はぎくりとした。それはもちろん、妊娠した子供に異常が起きることを指す。避難所で知り合った夫婦が死産だった、流産した、といった話を聞くたびに、和田さんだけでなく、誰もが「放射能のせいなのか」と答えの出ない問いを自問自答する。

 高濃度の放射能の雲の下をくぐり抜けて避難してきた和田さんたちは、神経質にならずにいられないのだ。

子供が砂をつかむことを考えると・・・

福島県にいた頃、和田さんは原発で働いていた。福島第一原発で3月4日まで働いていた。たまたま工事が前倒しになり、震災当日は福島第二原発で足場を組み立てる作業をしていた。揺れが襲ってきた時、タワークレーンがまるで蛇のように波打つのが見えた。事務棟のガラス窓が一斉に割れ、破片が雪のように降ってきた。作業員の乗るバスが10センチくらい跳ね上がるのが見えた。

 恋人には原発で働いていたことも隠さずに伝えてある。

 福島第一原発事故がなくても、被曝に偏見のありそうな仕事に思える。大丈夫だったのだろうか。

和田さんは照れたように笑った。

 「『福島に原発なんてあったんだね』『なんで東北電力の管内なのに東京電力に電気をあげるの?』なんて不思議そうに笑って言うんですよ」

南相馬には原発で働く人が多い。なんだ、そうか。山形の人は全然違うんだ。肩の力がすっと抜けるような気がした。

原発内部で防護服を着て作業をしていた和田さんは「放射線管理区域」に出入りする時の放射線被曝の厳しいチェックを毎日経験している。今の南相馬市は管理区域の中と同じ線量の空間だ。

「南相馬で世帯を構えて子供を育てるとなると・・・今でも子供の屋外活動が1日2時間だか3時間に制限されているんですよ・・・そこで子供が砂をつかんだりするかもと考えると・・・うーん、やっぱり難しいだろうなあ」

 父は68歳、母は65歳。2人とも脳梗塞を経験している。親は故郷に戻りたい。自分はそばにいてやりたいと思う。前回登場した石谷さんのように自分1人は南相馬で働き、妻や子供を山形県に住まわせる。週末ごとに往復する。それしか選択肢がないように思える。

 「こっち(山形県)に戻ると、ほっとするようになったんです」

 和田さんは苦笑いをした。

 友だちはいない。慣れないことも多い。しかし、南相馬市に帰ると、どうしても放射線被曝のことを考えずにはいられない。「何も心配することがないくつろぎ」は失われてしまった。墨汁が1滴落ちた水がどんなに澄んで見えても、それはもう真水ではありえないように、もうそれはかつてのふるさとではないのだ。

「差別されているのでは」という疑心暗鬼

 結局、和田さんが交際を反対されるのは放射能被曝への偏見かどうかは、分からない。両親を訪ねて真意を尋ねても「ハイそうです。被曝した人は娘の相手にはダメです」と言うことはないだろう。まったく別の事情があるのかもしれない。

それは問題ではない。和田さんのように「原発事故のあった福島からの避難者だから差別されているのではないか」と気を回して悩まなくてはいけない、という状況が間違っているのだ。差別や偏見は「ある」「ない」は問題ではない。被害者が「そう思われているのではないか」と悩まなくてはいけないだけで、すでにストレスなのだ。

 福島第一原発事故がなければ、そんな苦しみはなかったのだから。

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