m.yamamoto

欧米が創り出したおとぎ話?

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6月 252014

もうだいぶ前のことだが、配偶者に勧められてパトリック・ジュースキントの「香水~ある人殺しの物語~」という小説を読んだことがある。舞台は18世紀のフランスのパリ。町は汚濁と猥雑にまみれ、至るところに悪臭が立ちこめている。あまりにも不衛生で、貧しいヨーロッパの大衆の生活が見事に描写されていた小説だった。その後、この小説が映画化されたので見たが、主人公の出生シーンはなかなか衝撃的だった。腐った魚やらゴミやらが回りに悪臭を放っている下町のとある魚屋の女性が主人公:ジャン=バティスト・グルヌイユのヘソの緒を自身で、包丁で切り落とし、そのまま、ゴミ溜めに捨ててしまう場面を映画は忠実に再現していたからだ。





ところで、16世紀の「大航海時代」以降、アフリカ、アジア、北アメリカ、南アメリカの人たちから大規模な略奪を重ねたヨーロッパ人が、近現代史、200年の勝利者であったために西洋に対して、私たち日本人はあまりにも美しい誤解を巧みに植え付けられたまま、現在に至っているようだ。そろそろ冷静にありのままの事実を直視すべき時であろう。



以前のレポートでも紹介させていただいたが、ヨーロッパが200年にわたる略奪、殺戮をほしいままにしていた1820年においても、まだ、アジアの方が豊かだったのである!

1820年において中国、インド、東南アジア、朝鮮、日本からなるアジアの所得は、世界の58%を占めていた。その後、19世紀におけるヨーロッパの産業革命、20世紀に入ってアメリカの工業化が進むことによって、1950年には、ヨーロッパとイギリスとイギリスの4つの旧植民地(アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド)が世界所得の56%を占める一方、アジアのシェアは、19%までに落ち込んだ。ところが、この頃からアジアは成長し始め、1992年の段階で、39%までに回復。2025年には、57%に達し、200年ぶりにかつての地位を取り戻すことが予想されている。(「アジア経済論」原洋之介編NTT出版、「近代中国の国際的契機」東京大学出版会)



そこで今回は、21世紀の新しい時代に備えて私たち日本人が目を覚ますための本を紹介したい。「ものぐさ精神分析」という本で一世を風靡した岸田 秀氏の「日本がアメリカを赦す日」(毎日新聞社)である。有名な政治学者である京極純一氏がこの本の書評を書いていたので、まず初めに紹介させていただく、以下。

<歴史における正義とは何か>



著者の岸田秀先生は精神分析の専門家で著書が多い。このたび、「日本とアメリカの歴史の、これまたそのごく一部にほんのちょっぴり触れただけ」と謙遜(けんそん)する新著『日本がアメリカを赦(ゆる)す日』が毎日新聞社から出版された。読み易く、分かり易いことは、これまでの著書と同様で、ご一読をおすすめしたい。



表題が示すように、この本は、日米関係150年の歴史を資料に、日本人とアメリカ人の生活心理と相互交流の実際を、精神分析の角度から、的確に解説した、面白い読みものである。

この書物の冒頭、1853年、ペリー艦隊来航の後、「近代日本はアメリカの子分として出発しました。」と著者は説明する。その後の「日本は屈辱感、敗北感、劣等感に呻(うめ)きつづけてきました。その屈辱感から逃れるためには、日露戦争は日本民族の優秀さのゆえに勝ったのだという、この神話を是が非でも信じる必要がありました。のちの日米戦争惨敗の原因は、この神話です。」



ところで、日本の相手役であるアメリカ側は、「自分が相手のプライドを傷つけたことに鈍感で無神経です。自分以外の人間の行動におけるプライドという動機が見えません。」



その上、「近代日本は、外国を崇拝し憧憬する卑屈な外的自己と、外国を嫌い憎む誇大妄想的な内的自己に分裂して」いた。そして、日米お互いに相手の神経を逆撫でするとき、「アメリカは意識的、意図的に日本をイライラさせ、日本はつい気づかずにアメリカをイライラさせた。」「真珠湾奇襲に対するアメリカのすさまじい怒りは、アメリカ人の主観としては、恩知らずの裏切り者に対する善意の恩人の怒りでした。」「さらに深い理由、第一の根本的理由は、僕(著者)によれば、アメリカの歴史、インディアン虐殺の歴史にあります。アメリカ人は無意識的に日本人をインディアンと同一視していると考えられます。人間は自分が犯し、かつごまかした悪事と似たような悪事を他人が自分に対して犯すと、激しく非難するものです。罪悪感を外在化するためです。」「アメリカにとっても、日米戦争はやる必要のなかった戦争でした。」「日本は敗戦後から今に至るまでずうっとアメリカの属国で、その占領下にあります。」



「現在の日本人の平和主義は、平和主義でなく、降伏主義、敗北主義です。」「一種のマゾヒズムでしょうね。」「現状では、日本の平和主義は偽善でしかない。」



生活と文化については「一般性とか普遍性の面でアメリカ文化のほうが日本文化より上だ。」日本文化の基盤は「和」と「世間の眼」に基づく「一種の性善説」の人間観である。しかも、「言語化されていないため、外国人との関係を築くのが難しい。」「が、捨てることもできない。どこでも日本人ムラができる。」

アメリカは「おのれを普遍的正義の立場、善悪の絶対的判定者の立場におき、それに従わざるを得ないような無条件降伏に敵を追い込んでおいて、敵を裁くのが好き」である。

アメリカは「インディアン虐殺を正当化」する「正義の国」とされ、「強迫神経症の患者で、反復強迫の症状を呈している。」「今日の日本の繁栄は、インディアン・コンプレックスに苦しむアメリカ人の精神安定のために必要だったのです。」日本の繁栄は「アメリカ文化の普遍性の夢がついに実現した物語でした。」



アメリカと日本の社会と文化の特性をよく心得た解説書、実際生活の中で参考になる事柄の多い有用な手引書としておすすめしたい。

「毎日新聞2001年4月8日」(引用終わり)

ところで、著者の「アメリカの子分としての近代日本」という分析は、多くの日本人のプライドを傷つけるかもしれない。しかしながら、現実を冷徹に認識できなければ、現実を変える対処法を見つけることは、できないことを肝に銘じるべきだろう。特に日本は敗戦後から今に至るまですっとアメリカの属国で、その占領下にあることを冷静に認識していないと、米国から要求のあった集団自衛権、TPP等の問題を安易に捉えることになり、これから大変なことになるだろう。米国覇権に陰りが見える時代に入った今、読み返してみる価値は十分にある。



もう、1冊は「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」というこれも同じく岸田氏の本である。この本は、大論争を欧米に巻き起こした英国人歴史学者マーティン・バナールの「黒いアテナ」の解説を主に岸田氏が独自の見解を述べるユニークなものになっている。山川出版の世界史の教科書とあまりに内容がかけ離れていることに吃驚される方も多いと思われるが、著者は、現在、一般に流布している世界史は、西洋人が自分たちを優位に立たせるために作ったプロパガンダ、コマーシャルだと言っているのだから、全く立場が違うわけだ。



以下、本書から引用。(208ページ)

<ヨーロッパ中心主義の悪魔的魅力>



アーリア主義を頂点とする、ヨーロッパ人しか文明をつくれないとか、ヨーロッパ文明は最高の普遍的文明であるとか、ヨーロッパ民族は世界を支配すべき優秀民族であるとかの近代ヨーロッパ中心主義の思想をヨーロッパ民族がつくった動機は、ほかの諸民族に対する嫉妬と劣等感である。隠蔽されているというか、あまり認識されていないようであるが、世界の各民族がそれぞれ主として自分たちの土地の産物で暮らしていた近代以前においては、土地が痩せていて気候条件にも恵まれなかった(もちろん、不利な条件はそれだけではなかったが)ヨーロッパ民族は世界の諸民族の中でいちばん貧しい民族であった。もうとっくに嘘がバレているが、いわゆる「未開人」が貧しく惨めな野蛮生活を送っていることを「発見」したのは、近代ヨーロッパ人の探検家たちであった。ところが、いわゆる「未開人」を貧しく惨めな生活に追い込んだのは近代ヨーロッパ人であって、そのような「発見」はこのことを隠すために必要だったのである。



近代ヨーロッパ人は、世界の情勢を知るにつれ、ますます他民族への嫉妬に駆られ、劣等感に苦しめられ、そして、貧しさに苛まれて、どこかほかにいいところがあるような気がして故郷のヨーロッパに安住できず、難民あるいは出稼ぎ人となって世界各地に押し出されてゆくようになった。そして追い詰められた者の強さで必死にがんばったのであった。ヨーロッパ中心主義の歴史観では、「大航海」時代のヨーロッパ人は、冒険心に富み、進取の精神に満ち溢れ、あらゆる危険をものともせず、未知の世界の果てまで余すところなく探求して飽きなかった勇敢な人たちだったことになっているらしいが、それは自己粉飾である。なかには、そういう者もごく一部いたかもしれないが、故郷のヨーロッパをあとにした者の大部分が飢餓や宗教的、人種的迫害から必死に逃れようとした難民であった。地球規模で言えば、近代はヨーロッパに大量の難民が発生した時代であった。故郷で何とか過不足なく暮らしてゆけている者がどうして故郷を捨てて見知らぬ土地へ逃げてゆきたいと思うであろうか。



その結果、必然的に、ヨーロッパ以外の世界の各地でヨーロッパ民族と他の諸民族とがぶつかることになった。ヨーロッパ民族と他の諸民族との争いは、貧しく惨めな家に生まれ、そのため、いじけて意地悪ですれっからしで疑い深く、せこい性格に育ち、争いの絶えない厳しい環境のなかで場数を踏んでいるために喧嘩が滅法強く、暴れん坊で、家にいたたまれず飛び出してきて帰るところのない餓鬼と、お金持ちの裕福な両親のもとに生まれ(自然に恵まれ)、可愛がられてのんびりした性格に育って、人の悪意というものをあまり知らず、のほほんとわが家で豊かに暮らしていたお坊ちゃん(中略)との争いであった。

勝負は初めから決まっていた。この争いの最も典型的な例は、十六世紀初め(1531~1533年)のスペイン王国のごろつきピサロとインカ帝国の皇帝アタウァルパとの争いであった。要するに、ヨーロッパ人と比べれば裕福に暮らしていた他の諸民族の多くは、無警戒だったということもあって、手もなくやられてしまったのであった。それ以来、貧富は逆転し、ヨーロッパ民族は世界の諸民族の中でいちばん豊かな民族となった。



そのときに、惨めで劣悪な過去を隠蔽し、立派な過去を捏造しようとするヨーロッパ人の大掛かりな企てが始まった。その結果できあがったのがヨーロッパ中心主義の思想であり、ヨーロッパ製世界史である。それは近代ヨーロッパ人の他の諸民族に対する嫉妬と劣等感に基づく何かに駆り立てられたような残忍さ(中略)、すでにヨーロッパ内の少数民族を相手に習得していた技術を応用した他の諸民族の支配と搾取を正当化し、それに伴う罪悪感をごまかすということを動機として形成された思想であった。

ローマ人から蛮族と呼ばれていた古代ヨーロッパを古代ギリシアにすり替え、あまり自慢にならない中世の「暗黒時代」をすっ飛ばし、近代ヨーロッパ文明を栄光ある古代ギリシア文明の直系の子孫とする歴史の捏造もこの思想の一環であった。それは、卑賤から身を起こして成り上がった一家が滅亡した昔の名家の系図を買い、過去を隠してその末裔と称するようなものであった。だから、「お家復興」というか、再生、すなわちルネサンスと称したのである。」              (引用終わり)



亡くなった小田実氏がマーティン・バナールの「黒いアテナ」の書評を書いているので、紹介する、以下。

『黒いアテナ』の鮮烈な主張



昔はよく現代のギリシア人が「黒い」のは、金髪、白い肌、長身、長脚のギリシア彫像の栄光の時代のあと、ギリシアの周囲の蛮族(英語のバーバリアンということばは、ギリシア語の「バルバロス」から来ている。すなわち、文明人のギリシア人の耳にはバルバルとしか聞こえないわけの判らないことばをしゃべる連中はそれだけで野蛮人だ。そういうことになった)と混交、混合し、さらには蛮族中の蛮族のトルコ人の支配を長期間にわたって受けたからだと言われたものだ。最近はそうでもなくなって、あれは昔からそうだったのだと言われるようになって来ていたが、それをまちがいなくそうだと強力に主張した一書が近年になって現れた。それが、この1987年に第1巻が世に出たマーティン・バナールの『黒いアテナ』だ。彼はそう証拠を集めて主張しただけではなかった。元来が本質的に「黒いアテナ」だったのを「白いアテナ」に変えたのは1785年に始まるドイツを中心とした「ヨーロッパ、西洋」の歴史の「偽造」だと、これもまた強力、鮮烈に主張した。



ギリシア語の語彙に見られる西セム系、エジプトのルーツ



この本のことをここで長々と説明するつもりはない。すべては『黒いアテナ』自体を読めば判ることだ。ただ、ここで私なりにまとめ上げた紹介を少し書いておけば、バナールは、今はアメリカ合州国のコーネル大学の教授だが(それともすでに引退しているかも知れない、それほどの年齢だ)、もともとはイギリスのケンブリッジ大学で中国学を勉強し、教えもしていたイギリス人の70歳に近い年の学者だ。若いときには、ベトナム反戦運動に参加し(そのころ、ひょっとしたら、私は彼に会っていたかも知れない)、同時に当時イギリスでは事実上何の研究もされていなかったベトナムを研究、日本史も勉強した。両者ともに、混合しながら、同時に独自に文明をつくり出していて、それはのちのギリシア研究のいい「モデル」になった(そう彼は『黒いアテナ』第1巻の「はしがき」で書いている)。

そのあと、同じ「はしがき」のなかでの彼自身のことばを引用して言えば、「世界の危険と興味の中心となる焦点はもはやアジアではなくて東地中海になった」と彼には見えて来て、そちらに研究対象を移し、ヘブライ語(彼には少しユダヤ人の血が入っている、そう彼は言う)、エジプト語を学び、さらにギリシア研究に至って、彼は重大な「発見」を二つする。ひとつは、ギリシア語の語彙の半分はインド・ヨーロッパ語系のものだが、あと25パーセントは西セム語系(ヘブライ語――古来のユダヤ人言語もそこに入る)、20―25パーセントはエジプト語だという「発見」だ。しかし、なぜかくも混交が起こったのか。それはかつて古代ギリシアがエジプトと西セム語系言語をもつ古来のユダヤ人の国フェニキアの植民地だったからだ――これがバナールの第二の「発見」だが、そうだとすれば、当然、古代ギリシアには、フェニキアのユダヤ人要素とともに、「黒い」アフリカの一部のエジプトもギリシアの構成要素のなかに入って、古代ギリシアは「白いアテナ」ではなくなり、「黒いアテナ」、そうとしか考えられないものになる。そうバナールは強力に主張する。



西欧による歴史の「偽造」



これだけでも大問題になって論争がまきおこって不思議はないが、もうひとつ、彼は重大な主張を、証拠を集めてやってのけた。それは、さっき述べた歴史の「偽造」である。それは大航海時代以来、侵略と植民地支配で世界の中心にのし上がって来た「ヨーロッパ、西洋」が、ことにそのなかで新興勢力のドイツが牽引力になって、近代になって自分たちの文明を古代ギリシアに始まるものとして、ここ200年のあいだに元来が「黒いアテナ」だったはずの古代ギリシアを、「白い」自分たちの先祖であるのにふさわしく「白い」アテナに「偽造」してのけたというのだ。この本の副題は「古典文明のアフロ・アジア的ルーツ」だが、その第1巻(これが1987年にまず出版された)にさらにもうひとつつけられた副題は「古代ギリシアの偽造 1785年―1985年」とまさに激しい。また、きびしい。



『黒いアテナ』をめぐる論争



これでこの本が「ヨーロッパ、西洋」で問題にならなかったら不思議である。案の定、大論争がまき起こり、それはまだ続いている。「聖書以来、東地中海についてのもっとも論議された本」と評した学者もいるし、「好むと好まざるとにかかわらず、バナールの事業は、ギリシア文明の起源と古代エジプトの役割についての次の世紀における認識を深いところで示している」と言った学者もいる。そして、この二つの発言を紹介しているのは『大学における異端』と題した、これまでの『黒いアテナ』にかかわっての論争を「肯定」「否定」あわせてまとめて紹介した本だが、こうした本が出版されていることだけでも、論争の規模の大きさと激しさが判るだろう。「賛否」両論半ばと言いたいが、マーティン・バナール自身が書いているように、「否」が「賛」より多いようだ。そして、「否」が古代ギリシア研究の専門家に多くて、「賛」は私自身をふくめて、この本をこれから読もうとしている読者のような専門家でない知識人――「知的大衆」に多いと、これもバナール自身が書いていた。



バナールによるパラダイム転換



こうした事態にあって、よく使われるのは、研究、本の質の理由だ。質が劣っているので、この研究、本はわが図書館には置かない――これがよく使われる理由だが、この質の問題でいつでも出て来るのは、専門家が見てどうかという問題だ。

私にはバナールの学識、あるいは、逆にバナールを「アマチュア」とこきおろすレフコビッツの「専門家」としての学識を判定する能力はないが、私にはバナールの学識、そして、研究それ自体は決して「アマチュア」程度のものとは思えない。しかし、たとえ、彼が「アマチュア」だとしても、バナール自身が主張するように、トロイの遺跡をみごとに発掘してみせたハインリッヒ・シュリーマンは言うに及ばず、クレタ線文字Bをギリシア語としてこれまたみごとに解読してみせたマイケル・ベントリスも偉大な「アマチュア」だった。シュリーマンの本業が企業家なら、ベントリスは建築家だ。

バナールは『黒いアテナ』第1巻の「序文」の冒頭に、科学における「パラダイム」転換の必要を説いたトーマス・クーンのことば、「新しいパラダイムの根本的な発案をなしとげる者は、たいてい常に、彼らがパラダイムを変えるその領域において非常に若いか、非常に新しいか、そのどちらかである」を引用したあと、中国研究を長年して来た自分が今『黒いアテナ』でしていることは、厳密な意味でのパラダイム転換ではないとしても、それと同じように根本的なことだと述べていた。私も彼のことばに同意する。

(引用終わり)



どう判断されるかは、別にしてあまりにも興味深い指摘である。

ここで、私たちが忘れてはならないのは、ジョージ・オーウェルの次のことばである。



「過去を支配する者は未来を支配する。そして現在を支配する者は過去を支配する」

(『一九八四年』)





*ところで、日本では宮司の三島敦雄氏が1927年に「天孫人種六千年史の研究」を刊行し、シュメル人と日本人を結び付ける歴史学説を唱えたことがある。この書は100万部近くの超ベストセラーになったが、1945年の敗戦後、GHQはこの本を一冊残らず探し出して没収、焼却した。ご存じだろうか。

このように歴史は勝者によって作られていくのである。

先日から、知人に勧められた、豊橋出身の西谷 修さんが監修した「自発的隷従論」を読んでいる。フランスの有名なモンテニューの夭折した友人であるエティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(彼は1530年に生まれ、1563年に亡くなった。)が18歳前後の書いたと言われる小論である。吃驚するのは、この本が書かれた16世半ばから400年以上の歳月を経ているにもかかわらず、現在の日本の不思議な無力感に包まれた社会状況をあまりにも適確に言い当てていることである。(以下、彼の興味深い言葉を引用)



「私は、これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただ一人の圧制者を耐え忍ぶなどということがありうるのはどうしてなのか、それを理解したいのである。その圧制者の力は人々が自分からその圧制者に与えている力に他ならないのであり、その圧制者が人々を害することが出来るのは、みながそれを好んで耐え忍んでいるからに他ならない。その圧制者に反抗するよりも苦しめられることを望まないかぎり、その圧制者は人々にいかなる悪をなすこともできないだろう。(P11)」



「これは一体どう言うことだろうか。これを何と呼ぶべきか。何たる不幸、何たる悪徳、いやむしろ、何たる不幸な悪徳か。無限の数の人々が、服従ではなく隷従するのを、統治されているのではなく圧制のもとに置かれているのを、目にするとは!(P13)」



「仮に、二人が、三人が、あるいは四人が、一人を相手にして勝てなかったとして、それはおかしなことだが、まだ有りうることだろう。その場合は、気概が足りなかったからだと言うことができる。だが、百人が、千人が、一人の圧制者のなすがまま、じっと我慢しているような時、それは、彼らがその者の圧制に反抗する勇気がないのではなく、圧制に反抗することを望んでいないからだと言えまいか。(P14)」



「そもそも、自然によって、いかなる悪徳にも超えることのできない何らかの限界が定められている。二人の者が一人を恐れることはあろうし、十人集ってもそういうことがあるうる。だが、百万の人間、千の町の住民が、一人の人間から身を守らないような場合、それは臆病とは言えない。そんな極端な臆病など決してありえない。(P15)」



「これは(支配者に人々が隷従していること)、どれほど異様な悪徳だろうか。臆病と呼ばれるにも値せず、それふさわしい卑しい名がみあたらない悪徳、自然がそんなものを作った覚えはないと言い、ことばが名づけるのを拒むような悪徳とは。(P15)」



圧制者には、立ち向かう必要なく、打ち負かす必要もない。国民が隷従に合意しない限り、その者は自ら破滅するのだ。何かを奪う必要など無い。ただ何も与えなければよい。国民が自分たちのために何かをなすという手間も不要だ。ただ、自分のためにならないことをしないだけでよいのである。民衆自身が、抑圧されるがままになっているどころか、敢えて自らを抑圧させているのである。彼らは隷従を止めるだけで解放されるはずだ。(P18)」



「それにしても、なんと言うことか、自由を得るためにはただそれを欲しさえすればよいのに、その意志があるだけでよいのに、世の中には、それでもなお高くつきすぎると考える国民が存在するとは。(P19)」



「そんなふうにあなた方を支配しているその敵には、目が二つ、腕は二本、体は一つしかない。数かぎりない町のなかで、もっとも弱々しい者が持つものと全く変わらない。その敵が持つ特権はと言えば、自分を滅ぼすことができるように、あなた方自身が彼に授けたものにほかならないのだ。あたがたを監視するに足る多くの目を、あなたが与えないかぎり、敵はどこから得ることができただろうか。あなた方を打ち据えるあまたの手を、あなた方から奪わねば、彼はどのようにして得たのか。あなた方が住む町を踏みにじる足が、あなた方のものでないとすれば、敵はどこから得たのだろうか。敵があなた方におよぼす権力は、あなた方による以外、いかにして手に入れられるというのか。あなた方が共謀せぬかぎり、いかにして敵は、あえてあなた方を打ちのめそうとするだろうか。あなた方が、自分からものを奪い去る盗人をかくまわなければ、自分を殺す者の共犯者とならなければ、自分自身を裏切る者とならなければ、敵はいったいなにができるというのか(P22)」



「この自然という良母は、我々みなに地上を住みかとして与え、言わば同じ家に住まわせたのだし、みなの姿を同じ形に基づいて作ることで、いわば、一人一人が互いの姿を映し出し、相手の中に自分を認めることが出来るようにしてくれた。みなに声と言葉という大きな贈り物を授けることで、互いにもっとふれあい、兄弟のように親しみ合う様にし、自分の考えを互いに言明し合うことを通じて、意志が通い合うようにしてくれた。どうにかして、我々の協力と交流の結び目を強く締め付けようとしてくれた。我々が個々別々の存在であるよりも、みなで一つの存在であって欲しいという希望を、何かにつけて示してくれた、これらのことから、我々が自然の状態に於いて自由であることは疑えない。我々はみな仲間なのだから。そしてまた、みなを仲間とした自然が、誰かを隷従の地位に定めたなどと言う考えが、誰の頭の中にも生じてはならないのである(P27)」



人々はしばしば、欺かれて自由を失うことがある。しかも、他人によりも、自分自身にだまされる場合が多いのだ。(P34)」



信じられないことに、民衆は、隷従するやいなや、自由を余りにも突然に、あまりにも甚だしく忘却してしまうので、もはや再び目覚めてそれを取り戻すことができなくなってしまう。なにしろ、あたかも自由であるかのように、あまりにも自発的に隷従するので、見たところ彼らは、自由を失ったのではなく、隷従状態を勝ち得たのだ、とさえ言いたくなるほどである。(P34)」



「確かに、人は先ず最初に、力によって強制されたり、打ち負かされたりして隷従する。だが、後に現れる人々は、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されてなしたことを、進んで行うようになる。そう言うわけで、軛(くびき)のもとに生まれ、隷従状態の元で発育し成長する者達は、もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、自分が見いだした物以外の善や権利を所有しようなどとは全く考えず、生まれた状態を自分にとって自然な物と考えるのである。(P35)」



「よって、次のように言おう。人間に於いては、教育と習慣によって身に付くあらゆる事柄が自然と化すのであって、生来のものと言えば、元のままの本性が命じる僅かなことしかないのだ、と。(P43)」



「したがって、自発的隷従の第一の原因は、習慣である。だからこそ、どれほど手に負えないじゃじゃ馬も。始めは轡(くつわ)を噛んでいても、そのうちその轡を楽しむようになる。少し前までは鞍を乗せられたら暴れていたのに、今や馬具で身をかざり、鎧をかぶって大層得意げで、偉そうにしているのだ。(P44)」



「先の人々(生まれながらにして首に軛を付けられている人々)は、自分たちはずっと隷従してきたし、父祖たちもまたその様に生きて来たという。彼らは、自分たちが悪を辛抱するように定められていると考えており、これまでの例によってその様に信じ込まされている。こうして彼らは、自らの手で、長い時間をかけて、自分たちに暴虐を働く者の支配を基礎づけているのである。(P44)



人間が自発的に隷従する理由の第一は、生まれつき隷従していて、しかも隷従するようにしつけられているからと言うことである。そして、この事からまた別の理由が導き出される。それは、圧制者の元で人々は臆病になりやすく、女々しくなりやすいと言うことだ」(P48))



「自由が失われると、勇猛さも同時に失われるのはたしかなことだ。彼らは、まるで鎖につながれたように、全く無気力に、いやいや危険に向かうだけで、胸の内に自由への熱意が燃えたぎるのを感じることなど絶えてない。(P49)」



「そしてこの自由への熱意こそが、危険などものともせずに、仲間に看取られて立派に死ぬことで、名誉と栄光とを購いたいとの願いを生じさせるのである。自由な者達は、誰もがみなに共通の善のために、そしてまた自分のために、互いに切磋琢磨し、しのぎを削る。そうして、みなで敗北の不幸や勝利の幸福を分かち持とうと願うのだ。ところが、隷従する者達は、戦う勇気のみならず、他のあらゆる事柄においても活力を喪失し、心は卑屈で無気力になってしまっているので、偉業を成し遂げることなどさらさら出来ない。圧制者共は事のことをよく知っており、自分のしもべたちがこのような習性を身につけているのを目にするや、彼らをますます惰弱にするための助力を惜しまないのである。(P49)」



芝居、賭博、笑劇、見世物、剣闘士、珍獣、賞牌、絵画、その他のこうしたがらくたは、古代の民衆にとって、隷従の囮、自由の代償、圧政のための道具であった。古代の圧政者、こうした手段、こうした慣行、こうした誘惑を、臣民を軛の下で眠らせるためにもっていた。こうして民衆は阿呆になり、そうした暇つぶしをよきものと認め、目の前を通り過ぎる下らない悦びに興じたのであり、そんなふうにして隷従することに慣れていったのであった。(P53)」

如何だろうか。現在の高度に発達したグローバル金融資本主義社会では、メディア等を使って、あまりにも巧みに<自発的隷従状態>に誘導されてしまうのが、悲しい現実ではないだろうか。



一例を挙げるなら、現在、脱原発運動の旗手の一人になっている小出裕章氏の言動の不可思議さのなかにも「自発的隷従」の精神を垣間見ることができる。



小出氏の自発的隷従の典型が「「病気になることを納得して食べる。せめて子供を守るため、大人が率先して汚染度の高い食物を食べるべき」だという敗北主義的なあまりにも不思議な主張である。放射線管理区域にすべき所に、日本政府が、国民を住ませる決断をした以上、仕方がないというのも彼の主張だが、本当にそうだろうか。

言うまでもなく、日本国には、日本国憲法があり、国民主権、基本的人権の尊重が高らかに謳われている。年配者は、汚染地域の一次産業を守るために、放射性物質に汚染された食物を食べるべきだという主張は、どう考えても基本的人権の侵害である。また、政府が決めたから仕方がないという主張も、本来なら、国民主権が機能していない政治を問題にすべきであろう。一票の格差の問題、マスコミ報道のあり方等、議会制民主主義が機能阻害されている要因は、あまりにも多くあるように思われるが、

本当の事を書いてしまえば、原発問題を解決するお金の問題も、日本が官民合わせて米国に貸していると言われている1200兆円のお金を活用すれば、本当は何とかなるはずである。もちろん、多くの政治家は、米国が怖くて言えないだろうが、国家非常事態宣言を311の時にしていれば、すでにそれすら、できていた可能性があると思われる。

ところで、国立保健科学医療院の山口という研究員が、原発を世界中につくるために「福島の原発事故を早く抑え込んでしまって、除染をして住民が汚染を受け入れること

を発信しないといけない」と、言っていたようだが、一時、話題になった<福島エートス>とは、被曝者である福島の人々が、自ら進んで放射能の環境の中で生活することを

選んだと、いう既成事実を作って、それを世界に発信するための奇妙な活動である。

この自発的隷従の活動を世界の原子力マフィアが後押ししているわけだが、上記の小出氏の主張は、残念ながら、見事にこれに沿うものになっていることに日本人は早く、気が付くべきであろう。

おそらく、小出氏が大手のマスコミに頻繁に出演できる理由は、この辺にあるのでは、ないかと思われる。ただ、彼は、意識的にやっているのではなく、日本社会に流れている「自発的隷従の空気」に流されているだけだろう。

*参考:「食べて応援死亡と奇形続出生体実験」http://blog.livedoor.jp/home_make-toaru/archives/7712867.html



ところで、日本人をこのような自発的隷従論の世界に閉じ込めているのは、欧米のグローバルエリートと彼らに協力してお金儲けを最優先しているコンプラドールと化した日本人だが、現在、日本をコントロールしている欧米のエリートが「デフレ、縮小化する世界」のなかで、怖れているとともに、期待?もしていると言われているのが、以前、レポートでも紹介した「日本人の独自性」というものであることをご存じだろうか。

(以下、レポート「日本人の独自性」より部分抜粋)

参照:http://www.yamamotomasaki.com/archives/619



私は、日本人のユニークさは狩猟・採集を基本とした「縄文文化」が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けていることが一番大きな要因だと考える。

それを哲学者・梅原 猛氏は「森の文化」だと言っている。日本人は、「ギルガメシュ神話」のように「森の神」を殺さなかったのだ。そして、ユーラシアの穀物・牧畜文化に対して、日本は穀物・魚貝型とで言うべき大陸とは全く違うユニークな文化を形成していったのである。

世界でも稀な縄文時代という土器文化を異常に長く続けた歴史こそ、おそらく日本人のユニークさの源泉なのであろう。このような歴史を歩めた幸運が日本人の独自性を創り上げたと考えるべきだと思われる。



また、日本語を母国語とすることによる脳の使い方の違いももっと、考えるべきであろう。角田忠信博士が書いた「日本人の脳」という本はそのことを解明した画期的な本であった。

東京医科歯科大学の教授であった角田博士によると、日本人と西洋人とでは、脳の使い方に違いがあるという。すなわち、日本人の場合は、虫やある種の楽器(篠 笛などの和楽器)などの非言語音は言語脳たる左半球で処理される。もしそれが事実とするならば、欧米人が虫や楽器の音を 単なる音として捕らえるのに対して、日本人はその一部を言葉的に捕らえる、つまり意味を感じていると考えることができる。この事は日本人の認識形態、文化に取って非常に重要だ。一般的に意味、つまり、言葉を発する主体は意識体として認識される。しかしながら、日本人にとって楽器などの奏でる非言語音がその一部とは言え、言語脳を刺激して語り掛けているならば、それが人間から発せられるものでない以上、別の意識体、つまり、霊魂、神々、魔物 などの霊的意識体として感じ取られる感受性の高さに結び付くのではないか。また、その事が日本人の精神の基層を為していると考えることもできるからだ。



このことから日本語を使う日本人の脳は本来的にアニミズム的であり、多神教的であると言えよう。そして、おそらくは日本特有の言霊の概念もこの様な認識の上に成り立つ。

ところで、角田氏に拠ると幼年期を欧米で過ごし、英語やフランス語などで育った日本人は欧米型の脳に成り、日本語で育った欧米人は日本型の脳に成る。つまり、幼年期に使う言葉によって、脳の機能が決定されることになる。母国語は、脳にとってパソコンのOS(オペレーションシステム)のようなものであるらしい。

もし、日本語がその様な脳を作り出す特性を持っているとしたら、どのような異文化が流入しても、日本の根底に在る文化、精神は変化しないのか。また、この様な日本語の特質は果たしていつ頃からできたのか。博士の研究に拠ると、この日本人特有と思われたパターンが他の民族からも見付かっている。いわゆる黄色人種の中には日本型の脳はなかった。日本人に最も近いとされる韓国人にしても欧米型であった。しかし、太平洋に点在する島々の住人、つまり、その現地語を話すミクロネシアなどの人々は日本型と判断された。ポリネシアの言語もその形態の近い事から同様の脳を作ると考えられる。



実を言えば、現在、縄文人の直系の子孫と思われるアイヌの人々は遺伝的にポリネシアンに近い事が分かっている。また、哲学者梅原 猛氏が言うようにアイヌ語は縄文の言語の形態を色濃く残していると考えられている。最近の研究ではミクロネシアン、ポリネシアン、縄文人、アイヌなどは氷河期以前のモンゴロイドと言う意味で旧モンゴロイドと名付けられ分類をされている。ミクロネシア系の言語が日本型脳を作るのなら、そして縄文語から発展した日本語が日本型の脳を作るのなら、アイヌ語も日本型の脳を作ると推測できる。つまり、旧モンゴロイド系の言語は本来的にアニミズム的な多神教的な脳を産み出すと考えられる。むろん、文明を持つ以前の人類は、アルタミラの洞窟壁画を見ればわかるように旧モンゴロイドに限らず、アニミズム的な世界観を抱いていた。もちろん、自然との対話から直感を得、自然との関わり方を学ぶ能力は旧モンゴロイドの専売特許ではなかったことは言うまでもない。しかしながら、人類の多くはその様な能力を伝える言語を失った?が為に、文明の進展と共にその様な能力を失っていった。使われぬ能力が退化をするのは自然の摂理だ。



しかしながら、我々日本人の言語はその様な能力を脳に与える潜在的力を秘めている。この能力は非常に貴重であり、文明の進んだ今日こそ、改めて見直されるべきであることは言うまでもない。

日本語はおそらく、縄文語が渡来人の言語を取り入れる事で進化をした言語である。そういった変化の中でも、縄文時代からの基本的な部分、つまり、日本型の脳を基礎付ける要素:母音中心の言語であることは変わらなかった。そのために我々日本人は、縄文の心性を無意識の内に持ち続けることになったと考えてもいいのではないか。(引用終わり)



ところで、時々レポートで紹介する元外交官原田武夫氏が、小生と全く同じ発想を新刊(「世界史を動かす日本」)で述べているので、彼の注目すべき近未来シナリオとともに紹介させていただく。マスコミ報道や学校の勉強を熱心にし過ぎ、思考のフレームをガチガチに固められてしまった方には、受け入れ難い話かもしれないが、大変興味深い指摘なので、是非、ご一読いただきたい。それでは、ある意味、楽観的な彼の未来ストリーを要約してお伝えしたい。



日本・世界のここ数年間の動き(原田シナリオ)



◎ 「太陽活動の異変」→ 気候変動(特に北半球で寒冷化)→ 経済のデフレ縮小化 世界全体の景気が大きく、かつ長く落ち込み始める。それは欧州から始まり、アメリカも巻き込まれる。



*温暖化ではなく、寒冷化、 *資産運用のためのヴォラティリティ(乱高下)の創出


◎ 「デフレ縮小化」によってマーケットが動かなくなるのを恐れた米欧は、いろいろなリスクを炸裂させ始める。至るところで「戦争」「テロ」など驚くべきことが起こる。しかし、その結果、世界経済全体は、もっと低迷し始める。

Ex.中東戦争→フランス、イタリアのデフォルト→原油高、円高→第二次安倍内閣の終焉 →日本株は一旦暴落



◎ そのような中、日本だけが日銀による異次元金融緩和(インフレ誘導)をするので、元気に見える。行き場を失ったマネーが世界中から「他に投資先がなくなった」として日本に集まり、わが国は凄まじいインフレに見舞われる。 世界は「ネオ・ジャパネスク」一色となる。

異次元金融緩和はやめることができないので、さらに進める。→ 日本株上昇、円高



◎ しかし、結局はそこで生じるチャンスを日本人は使うことができず、必要なイノベーション(技術革新)は、進まない。政治も混迷し続け、結局は、資産バブルだけが進み、ハイパーインフレの懸念すら出て来る。これを危惧した日本人が銀行の窓口に駆け込む結果、金融恐慌が発生しかけ、政府が「事実上のデフォルト処理(国家債務不履行)を開始する。



Cf.東京直型地震、南海トラフ地震、富士山噴火→ 東京遷都→ 東京オリンピック返上



◎ その結果、事態は「世界もダメ、日本もダメ」という状況に一瞬なりかける。だが、事ここに及んで追い詰められた私たち日本人は、本来の姿を取り戻し始め、「日本語脳」によって新しい秩序を創り出していく。これに改めて世界が乗りかかることで「ネオ・ジャパネスクの時代」が加速し、世界は「日本の平和(パックス・ジャポニカ)という時代に突入する。

*日本からイノベーターが出てくるかがポイント→仲介者の役割を果たすインキュベーターが重要:これから最も重要なビジネスになる可能性有り

Ex.常温核融合、元素転換、超伝導、水素エネルギーの実用化、ハイテクアニミズム国家、ネイチャーテクノロジー(インセクトテクノロジー)etc



上記のような図式の大胆なシナリオを原田氏は提示している。大変な時代であるが、<平時には孤独に耐えられず、人の顔色ばかりを見ていて、容易に決断できない日本人>が明治維新より大きな危機に目を覚ますことができれば、「ジャパネスクの時代」が来る可能性があると彼は言っているわけである。

そして、日本の時代が来るか、どうかのポイントが「日本語脳」にあると指摘している。ここが以前、小生がレポートで書いたことと全く同じ意見なのである。(以下。)



「角田忠信さんの研究成果を読めば、読むほど、私は実証された「言霊」の存在を信じて疑わなくなりました。なぜなら、器としての私たち日本人の脳や肉体ではなく、「日本語」という言葉こそが私たちの精神を他のそれと区別する決定的なものを培う役割を担っていることがわかったからです。」(「世界史を動かす日本」188ページ)



「そして、もう一つ。それ自体新しい検証を経た「角田理論」よれば、「日本語」のよって育った私たち日本人の脳は、あまりにも、「左脳偏重」です。右脳を使うということがまずなかったようなのです。しかし、このことがかえって大きな意味を持ってきます。「日本人の右脳は、一体どんな役割を持っているのだろうか。」という非常に興味深い問いが浮かび上がってくるのです。」(「世界史を動かす日本」206ページ)



日本人が「自発的隷従論の世界」から抜け出し、その独自性を発揮するとき、初めて世界の新しい時代が本当に始まるのかもしれない。そしてそれは、外国勢力に魂を売ってしまったコンプラドールである日本人を表舞台から退場させる時でもある。





<参考文献>

「自発的隷従論」エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ著、西谷修監修、山上浩嗣訳(ちくま学芸文庫)

「世界史を動かす日本~これからの5年を迎えるために本当に知るべきこと~」

原田武夫著(徳間書店)



「日本人の脳~脳の働きと東西文化~」角田忠信著(大修館書店)

「右脳と左脳~脳センサーでさぐる意識下の世界~」角田忠信著(小学館ライブラリー)

「奇跡の脳~脳科学者の脳が壊れたとき~」ジル・ボルト・テイラー著、竹内薫訳(新潮文庫)



「森の思想が人類を救う」梅原 猛著(小学館ライブラリー)

「森と文明の物語~環境考古学は語る~」安田喜憲著(ちくま新書)

「一神教の闇~アニミズムの復権~」安田喜憲著(ちくま新書)

以前、2013年の初レポートでも解説したように、米国が日本に「集団安全保障」を認めるように強い圧力をかけてきたために、現在、日本国内では「集団安全保障」を認めるか、どうかの議論が起きている。冷戦時代が終わり、日本を独立自尊の国にするためには、そろそろ集団自衛権を考えるべきだろうというような日本人自身から出てきた議論でなく、財政赤字に苦しむ米国が、自国の軍事戦略を日本に少しでも肩代わりさせようという米国という軍事大国の都合から、出てきた議論であることに、私たち日本人は、もっと注意を払うべきだろう。



ところで、今まで内閣法制局は、「日本国憲法のもとでは集団的自衛権は行使できない」という解釈をとってきたはずであるが、現在自民党の中では、この集団自衛権を解釈変更しようという動きが出ている。この動きは、あまりに姑息で、法治主義に反する行為だろう。きっちりと国民的議論を喚起し、憲法改正の是非を国民に問うべき課題のはずである。

*(前内閣法制局長官に聞く~集団的自衛権の行使はなぜ許されないのか~阪田雅裕)http://www.chukai.ne.jp/~tottori9jo/etc/syudan.pdf



本日は、5月3日、憲法記念日である。現在、浅学非才な小生でも、日本国憲法は、本当に戦後、機能してきたのだろうかという疑問を持つようになってしまったところである。先日も、後で紹介する「絶望の裁判所」(瀬木比呂志著)という、日本の司法の現状を告発した元裁判官の本を読んでいたら、以下のように書かれていた。



~米軍基地に関する騒音差し止め請求について~

「憲法秩序が条約に対して優位にあることは憲法学の通説であり、憲法上の基本的人権、人格権の侵害に関わる事柄については、国は前記のような行為を行うべき義務がある。アメリカのやることだから国は一切あずかり知らないというのであれば、何のために憲法があるのか?それでは、植民地と何ら変わりがないのではないだろうか?」

(128ページ)



日本国憲法には、三権分立が高々と規定されているが、本当に日本は、三権分立の国であろうか。

ご存じのように実際には、霞ヶ関の官僚たちが、国会議員の代わりにすべての法律を作り、内閣の代わりに政策を立案しているのが、私たちが住んでいる日本という国である。ちょっと考えてみればわかるようにこの行為は、「日本国憲法」第41条に規定された、国会は「国の唯一の立法機関である」に違反していることにすぐに気が付くはずだ。立法府を行政府から独立させるシステムをつくれば、簡単にできることを官僚が、議員を形だけのものにするために、故意にやっていないのが日本という国なのである。

そういった視点で、「日本国憲法」は、正しく運用されているのだろうか。一度、素直に考えて見る価値はあるのではないか。



ところで、「統治行為論」というものを有名にした砂川事件というものがある。「砂川事件」において最高裁は「統治行為論」で押し切る以外に、合憲という判決をくだすことが、できなかったのである。これでは「日本国憲法」は、少なくとも実態において「憲法」=最高法規としての効力を持っているとは言い難い。「砂川事件」の経緯を見ても分かるように、必要とあれば米国からの圧力がかかり、それにより、日本の裁判の結果が動くというのでは「憲法」の存在価値そのものが問われるのが当然だろう。



参考:「日米地位協定入門」http://www.yamamotomasaki.com/archives/1637



また、升永秀俊弁護士の啓蒙活動で知る人も増えてきているが、「一票の格差問題」が憲法第14条違反ということ名目で、全国各地で裁判が、起こされているのが現実である。この状況を逆説的に考えてみると、第96条自体も守られていない事になる。なぜなら「憲法解釈」により事実上の改憲がすでになされていることになるからだ。そういうことなら、改正条項自体に意味がないことになってしまうだろう。

たしかに憲法前文に「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、」とあるが、その前提そのものが、担保されていなければ、どうしようもないではないか。

そして、国の最高法規がこのように粗末に扱われているようでは、残念ながら、国民主権、議会政治が本当に日本という国で機能しているのか、どうか、疑問を持つのが自然であろう。



私たちは、日本国憲法の護憲やの改正を言う前に、戦後半世紀にわたってこの憲法が本当に機能してきたのか、もう一度、虚心坦懐に考えてみる必要があるのではないだろうか。



○第十四条 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

○第九十六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

砂川事件:米軍立川飛行場の拡張計画に反対して場内に立ち入った運動員が旧安保条約に基づく法律に触れるとして起訴された事件であり、アメリカ軍の駐留と旧安保条約が憲法9条に適合しているかどうかが実質的に争われた裁判。



*統治行為論:直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為とし、 統治行為に対しては、法的判断が可能であっても、司法審査は及ばないとする理論



<参考資料>

*現代ビジネスより

一人の学者裁判官が目撃した司法荒廃、崩壊の黙示録!『絶望の裁判所』著者・瀬木比呂志氏インタビュー

最高裁中枢を知る元エリート裁判官による衝撃の告発





著者の瀬木比呂志氏は、明治大学法科大学院専任教授で元裁判官。民事訴訟法のスペシャリストとして知られ、専門書のみならず、小説や芸術論の著作も多い。最高裁中枢を知るエリートでもあった瀬木氏はなぜ法服を脱ぎ、日本の司法に警鐘を鳴らす問題作を執筆したのか?

背景には、「司法制度改革」導入と相前後して進行しつつある、司法の腐敗と堕落に対する危機感があった。出世や権力ゲームにうつつを抜かす裁判官たちの精神の荒廃と堕落はもはやとどまることがない。一人の学者裁判官が目撃した司法荒廃の黙示録とは?



--過去に裁判所の中枢にいたことのある元裁判官が、このように苛烈な司法批判、裁判所・裁判官批判をされたのは、なぜなのでしょうか? なぜこのような本を書かれたのでしょうか?



瀬木: 本は、一言でいえば、意識よりも無意識、直感や一種の本能、論理や感受性についてもより根源的な部分で、書くものと思っています。僕の本は、専門書も一般書もすべてそうですね。

33年間裁判官を続けて、ことに最後の10年余り、「これではもうこの制度はだめだ、根本的改革しかない」と思うようになっていきました。『絶望の裁判所』の前の本である『民事訴訟の本質と諸相』(日本評論社)の中の制度批判の部分は、そういう思いを抱きつつ自然発生的に補筆を重ねる中で、形を成していったのです。

ですから、その本がきっかけとなって本書の企画が生まれたとき、既に、頭の中では、内容はできあがっていました。あとは、どのように書くかという方法の問題が残っていただけです。苛烈な司法批判になったのも、自分で意図したというよりは、自然にそのようなものとなっていったのです。むしろ、自分としては、もっと穏やかなものにしたいという気持ちもあったのですが、書くときは、自分の中の深い部分の声に従って書くほかないですから。



--このような根源的、包括的、徹底的な司法批判、裁判所・裁判官批判の本を出すことに対する恐れの気持ちはありませんでしたか? 裁判所当局は、本書に対してどのようなリアクションをとると考えられますか?



瀬木: 恐れというより、やはり、自分の属していた組織を批判するわけですから、痛みはありました。一気呵成に書いたのは、長く抱えていることがつらい書物であったということもあります。もっとも、大部の専門書が書けるだけの内容を興味深くコンパクトに凝縮するわけですから、推敲は十二分に行いました。

裁判所当局は、普通に考えれば、黙殺し、頬被りを決め込むでしょうね。もしも反論を行えば、当然僕の再反論も認めなければならず、そうするとさらに都合の悪いことになっていくことは目にみえていますから(笑)。

あと、裁判官を始めとする法律家の中には、ことに匿名で、人格攻撃や中傷を行う者は出てくるかもしれません。そういう人間の存在は、本書第5章の記述からも、容易に想像されることと思います。



--社会的地位が高く、年収2000万円という高収入の仕事を捨てて、学者になられたのはなぜでしょうか?



瀬木: 本にも書いたとおり、三つの評価の高い大学から声をかけてもらったわけですが、二つ目の有力国立大学については、本当をいえば、既にその時点で移りたかった。しかし、収入低下に加え、半単身赴任とそれに伴う年間数百万円の出費があっては無理でした。

明治大学は、私立の中で最も意識していた大学の1つです。大手の中でも、学風が自由で、研究環境や給与水準を含め、総合的な諸条件も比較的いいのです。それでも収入は下がりましたが、別に半単身赴任などが伴うわけではないですから、あまり大きな問題ではないですね。

考えてもみていただきたいのですが、旧ソ連や昔の中国から自由主義社会に亡命してきた知識人が、「こっちのピロシキはまずい」とか、「中華が偽物だ」などといった不平を漏らすでしょうか?(笑) 裁判所における僕の最後の7、8年間の生活は、精神的にみれば、全体主義的共産主義国家にあって亡命の機会を待っている知識人のそれに近いものだったのです。



--最高裁事務総局による徹底的な裁判官支配、統制の実態には驚きを禁じえないのですが、なぜ誰も異を唱えないのでしょうか?



瀬木: 第一に、多数派の裁判官は、感覚が麻痺していて、いかに異常な状況に置かれているかということを直視できなくなっているからでしょう。

第二に、現在の裁判所組織の中にいて異を唱えるのは、それこそ、全体主義国家や全体主義的共産主義国家の中でそれを批判するに等しい部分があるからです。

こうした支配、統制のメカニズムについては、第3章に詳しく記したとおりです。



--憲法で身分保障されている裁判官が、かくも出世に敏感とは驚きました。なぜなのでしょうか?



瀬木: まず、身分保障といいますが、新任裁判官の数は1つの期で昔は60名くらい、今は100名くらい、裁判官全体で現在3000名弱。それで、10年に1度の再任で毎年5名程度拒否される者が出て、事実上の強要に近い肩叩きも、少なくとも同じくらいはあるわけですから、この身分保障は、かなり危ういものになっています。つまり、1年間で10人くらいは裁判所を追われているわけですからね。大学、一般公務員はもちろん、大企業よりもはるかに危うい。ただ、やめても弁護士ができるというだけのことです。

出世に敏感なのは、第3章にも書いたとおり、そのように条件付けられ、それが習い性になって、自分を客観的に見詰める目を失ってしまっているからで、これも、行政官僚や一部の企業と何ら変わりません。というより、先輩の元裁判官たちにも、「霞ヶ関や大企業よりもさらに陰湿なのではないか?」と言っている人はかなりいますね。



--現在は刑事系裁判官が枢要ポストの相当部分を占めているようですが、これに対して民事系裁判官の反発はないのですか?



瀬木: 潜在的な反発は、ないではないのでしょう。しかし、本に書いたとおり、かつて裁判官支配、統制の形を完成させたといわれる矢口洪一長官時代に比べても、面従腹背の人すら少なく、上に対して見境なく尻尾を振る人が多いという嘆かわしい状況ではありますね。

また、これも本に書いていますが、刑事支配の一時期が重要ということではない。腐敗がはなはだしいからそのことを強調しましたが、やがてそれが終わっても、後に続くのは同様のメンタリティーの人たちなのであって、刑事支配の時代が終わったら何かが変わるという幻想を抱くべきではありません。現在の裁判所上層部は、矢口時代に比べても問題が大きく、それは刑事系に限ったことではないのです。



--第2章の最高裁判事の性格類型別分析が秀逸でした。詳しい説明はそれを読んでいただくとして、そのエッセンスを教えて下さいませんか?



瀬木: エッセンスと言われても難しいのですが(笑)・・・・・・。要するに、人間味のある人と怪物的な人が若干、ただし後者のほうが多い。残りの半分が純粋出世主義の俗物、半分が比較的知的だが本質的には型通りの官僚ということです。この二者の違いは、後者には少なくとも良心の片鱗はあるだろうということです。



--第1章、ブルーパージ、大規模な左派裁判官排除工作に、ある時点の裁判官出身最高裁判事の少なくとも半分が関与していたというのはショッキングでした。「法の番人」たる裁判官の、しかもそのトップのやることとは思えない。なぜ、このような人間がトップに昇り詰めるのでしょうか?



瀬木: この本でさまざまな側面から論証していますが、日本の裁判官は、実は、裁判官というより、法服を着た「役人」、裁判を行うというより事件を処理している制度のしもべ、囚人です。裁判官という職業名や洋画などからくる既成のイメージは捨てて下さい。

事実、本書第5章でも論じたとおり、トルストイは、短編『イヴァン・イリイチの死』において、帝政ロシアにおける官僚裁判官の本質を、非個性的で基盤の脆弱な浮動的インテリ、ないしは疑似インテリとして、きわめて的確にとらえています。まあ、天才だから大昔にそういうことができたのだとは思いますが、いずれにせよ、そういう曇りのない眼で本質をみて下さい。ブルーパージに貢献し、そのことを公言して恥じないような人物だからこそ、最高裁判事になれたのです。



--「司法制度改革」はうまくいったのでしょうか?



瀬木: 日本の改革の常ですが、問題の本質を見極めてそれに応じた改革を行うのではなく、「改革のための改革」になってしまった面があります。

成功したのは、たとえば法テラスのような公的な法的扶助、情報のネットワーク、これはいいです。

裁判所・裁判官制度については、本書のいくつかの章で詳しく分析したとおり、裁判所当局によって悪用された側面が大きく、そのために、たとえば裁判員制度についても、制度の趣旨がゆがめられています。被告人による選択制の制度とし、裁判員辞退事由をよりゆるやかに認め、守秘義務の対象も限定すべきです。また、早急に、選択制の陪審員制度に移行すべきです。これも、詳しくは書物第4章のとおりです。

法科大学院については、『民事訴訟の本質と諸相』に書きましたが、政治的な駆け引きなどもあって、絶対やってはいけない乱立を許し、司法試験合格者数よりも1学年の学生数がはるかに多いという状況でスタートさせてしまった。そんなことをすれば合格率が低くなるのは、小学生でもわかることです。はっきりいえば、官僚と政治家の責任が大きいと思います。司法試験合格者が一気に増える場合に従来の法学部教育ではたして十分かという問題はあり、その点では法科大学院制度に正当性はあるでしょう。ただし、資力のない家庭の学生が排除されないよう、優秀な学生については、奨学金や学費貸与、一部免除を、公的制度としても充実させていくべきだと思います。



--本書を読むと、裁判官には、決して友人にはしたくないタイプの人間が多いように感じます。典型的な裁判官像を教えていただけませんか?



瀬木: うーん、僕は、一貫して、少数派にはなったが良識派の裁判官も存在すると書いていますが、読んでみると、第2章、第5章などの印象が強いのでしょうね。

今年も、かなりの数の裁判官、ことに後輩から年賀状をもらっていて、書物が先のような印象を与えるとしたら、彼らにはすまないと思っています。ただ、ここ十数年の間に、裁判所の荒廃に伴い、問題の大きい裁判官が徐々に増えてきたという印象は否定できません。

典型的な裁判官像については、最高裁判事の類型からも推測できると思いますが、まあ、ごく普通の裁判官は、トップほど生臭くはないでしょう。しかし、血の重みがないというか、血が薄いというか、個人としての存在感に乏しい、感受性にもやや欠ける、鈍重な職人的役人が多数派になってきていることは、残念ながら間違いないと思います。



--裁判所のセクハラ、パワハラ等について、本書に記述されていることをも含めていかがでしょうか?



瀬木: これは、第5章の記述の中に含めざるをえないので書きましたが、あまり書きたくない部分ではありました。個人の問題もありますが、それ以上に裁判所という「精神的収容所」、「見えない檻」の中にいてストレスを被っている人間に不可避的に生じる問題という部分もあります。不祥事が2000年代以降に多発していることをみて下さい。裁判所の荒廃、退廃の影響は明らかだと思います。

また、大学に移って驚いたのは、各種ハラスメントについての対処がすごく進んでいることですね。比べると、裁判所はひどいです。表と裏の使い分け、二重基準(ダブル・スタンダード)の弊害もありますね。



--裁判所の自浄作用は働く可能性があるのでしょうか?



瀬木: もはやそれは難しいのではないかという認識が、この書物を書かせたということです。

「刑事の時代が終わればまたよくなるよ」などといった幻想は、学者にも根強いですからね。「おそらくそうではないですよ」ということは、かなり綿密に論証したつもりです。



--国政選挙における1票の格差問題などでは最高裁はかなり思い切った判断を出しているようにみえるのですが?



瀬木: そうした部分でも幻想が根強いですね。第4章を特に詳しくかつ綿密に書き込んだのは、そうした幻想を払拭するためです。

1票の格差判例における最高裁の論理は、国会に大きな裁量権がある、また、時間の面でも猶予を与えてあげるといった、政治家たちにものすごく配慮した内容なのですよ。アメリカの上院のように州の連合という国の成り立ちが根拠になっている場合には、各州平等に2人ということで、格差が出ても仕方がありません。しかし、日本で都道府県を単位にして選挙区を決めることに何の合理性、必然性があるのでしょうか?

英米における「1人1票の原則」は、せいぜい1対1.1とか1.2くらいまでを格差として許容するものだと思います。事実、アメリカ上院のような制度的な例外を除けば、そのような原則が貫徹していると思います。選挙権は、まさに人権の基盤ですから、それが当然ではないでしょうか?

メディアのみならず、憲法学者の中にさえ、衆議院1対2、参議院1対5などといった最高裁がガイドラインとしてきた数値を既定のものとして論じる傾向はありますが、英米法的常識からいけば、理解に苦しむものではないかと思います。



--最後に、裁判官になってよかったこと、悪かったことを、それぞれ教えていただけませんか?

瀬木: 僕は、最初から、社会科学・人文科学あるいは法学の学者になっていた可能性も高い人間なので、それとの比較になりますね。

社会・人文科学にいっていたらもしかしたらもっと独創的なことができたかもという気持ちはありますが、まあ、それはわかりませんからね(笑)。

法学者のほうは、可能性としてはかなりありましたね。法学部に進みましたから。



裁判官になってよかったと思うのは、やはり、人間、制度というものを長い間リアルに見詰められたということです。元々学者の眼をもっていましたから、平均的な裁判官とはかなり異なった眼で、裁判も、実務も、人間も見つめられた。鶴見俊輔氏にお会いして、プラグマティズムからも多くを学びましたし。書いてきた書物についても、やはり、このような体験に基づくところが大きいですね。

最初から学者になっていたら、理論をも制度をも、今ほど醒めた眼で客観的に分析することはできなかったでしょう。もちろん学者の言葉(ターム)にはより通じたに違いないですが、その利害得失は微妙で、学者の中にも、「最初から学者になっていたらもっとよかったのでは?」と言って下さる人と、「それだとかえって小さくまとまってしまったのでは?」と言って下さる人と、両方いますね(笑)。

それは、僕が決めることではなく、僕の学者生活、執筆生活が終わったあとで、人が決めることでしょう。僕としては、『民事訴訟の本質と諸相』のはしがきに書いたとおり、運命に従うだけです。基本的に唯物論者なのに運命論者なのですね。

いや、唯物論者というのも本当はどうなのか? 唯物論者が、『映画館の妖精』(騒人社)のようなファンタジーを書くかは疑問かもしれない。いずれにせよ、人生いろいろありましたから、運命論者になりました(笑)。

悪かったことは、本に書いたとおりです。が、それは、基本的に、もう過ぎ去ったことだと思いたいですね。もちろん、すべてが過ぎ去ることはありえませんが。



--それでは、これは質問ではなく、元裁判官の学者、そして、子どものころからの自由主義者、個人主義者(はしがき、あとがき)として、平均的な日本国民に対するアドバイスをいただけませんか?



瀬木: そうですね。これは司法に限りませんが、あとがきに書いたとおり、制度を、虚心に、客観的に、また、主体的に見詰める眼を養っていただきたいと思います。イデオロギーや教条によってではなく。何事もイデオロギーによってしか判断できない(奴らか俺たちか、ゼム・オア・アスの論理)、そして、自分を正当化するために、気に入らない者を批判、非難する、そうした正義派のやり方や言葉は、もはや行き詰まっており、その方向では、本当の変化は起こらないと思うからです。

僕は、クリスチャンではないのですが、新約聖書は若いころに何回も読んでいて、知恵に満ちた、深い書物だと思います。その言葉を借りれば、「蛇のごとくさとく、鳩のごとく素直に」自分の眼で見据えていただきたいと思いますね。







瀬木 比呂志(せぎ・ひろし)プロフィール

1954年名古屋市生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験に合格。一九七九年以降裁判官として東京地裁、最高裁等に勤務、アメリカ留学。並行して研究、執筆や学会報告を行う。二〇一二年明治大学法科大学院専任教授に転身。民事訴訟法等の講義と関連の演習を担当。著書に、『民事訴訟の本質と諸相』、『民事保全法〔新訂版〕』(ともに日本評論社、後者は春ごろ刊)等多数の専門書の外、関根牧彦の筆名による『内的転向論』(思想の科学社)、『心を求めて』『映画館の妖精』(ともに騒人社)、『対話としての読書』(判例タイムズ社)があり、文学、音楽(ロック、クラシック、ジャズ等)、映画、漫画については、専門分野に準じて詳しい。



*日本国憲法http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html

STAP細胞騒ぎの背景を考える

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4月 172014

マスコミに叩かれ、理研にトカゲの尻尾切りのような扱いを受けた小保方晴子氏が4月9日に記者会見に出てきたことには、本当に吃驚した。記者会見を日テレニュースで完全中継していたので、最初から最後まで思わず視聴してしまった。マスコミによるまるで勾留尋問のような2時間半に及ぶ会見を見て感じたのは、おそらく、彼女がSTAP細胞を創り出したのは、間違いないだろうということである。質問する記者の顔を正面から見据えて話す姿をとても誠実に受け止めた人も多かったのではないだろうか。

しかし、それにしても、不思議な事件?である。組織ぐるみでSTAP細胞や、小保方氏を売り込む演出も凄まじかった(わざとらしいピンクの研究室の壁の色や割烹着、ムーミンのシール等)が、ネイチャー誌に提出した論文や、彼女が博士号を取った学位論文に対する攻撃の素早さ、適確さ、どの点を考えても、マスコミの記者のレベルで、できることではなかった(おそらく、前もって調べていて記者会見に合わせて動いたのだろう)。ということは、これもすべて専門家が付いた組織的なネガティブキャンペーンであることは、どう考えても間違いないところだ。


おそらく、今回の会見で質問していたマスコミの記者の中でネイチャーの英語論文をまともに読んでいた人は、ほとんどいないはずだ。理研は、この論文と時期を同じくしてSTAP細胞の特許取得に動いているが、ここには、小保方氏は、ただの一メンバーとして名前が書かれているだけである。不思議な事にそのことは、ほとんど報道されていない。(国際特許:特許出願日は、2012424日全文pdf


http://kanda-ip.jp/wp-content/uploads/2014/01/id00000022883817.pdf


ところで、今回の騒動で小生が思い出したのは、90年前にやはり、日本で起きた「錬金術騒ぎ」事件のことである。そして、この騒動にも理研が絡んでいるのである。世界を騒がしたこの発明騒動は、日本の物理学の権威で記念切手にもなっている長岡半太郎東京帝国大学教授が1924年3月に引き起こしたものである。彼の研究チームは「水銀から金(ゴールド)創り出す可能性を見出すことに成功した」と発表して、世界中を驚愕させたのである。


興味深いのは、当時、理研の所長だった大河内正敏氏が、次のような言葉で長岡博士を応援していることである。


「水銀を変じて金となす長岡博士の大発見は、既に11月はじめの3日間に亘りて詳細に発表されて居る博士の此の発見に初めて接した時は何人の驚異の眼を見張るであろうが、博士はすでに二十幾年かの永い間絶えず水銀スペクトル線の研究によりて、この事が可能であることを余程以前から考えて居られた。実に博士は、水銀スペクトル線の研究について押しも押されもせぬ世界の最大権威者である。


特に一昨年あたりからの研究で水銀原子の一部を破壊して金の原子に変えることが理論上に確かめられたから本年3月の英国専門誌にその事を発表されている。 (中略)


その後、9月の15日になって長岡博士は、全く自己の工夫によって水銀を変じて金となすことに成功されたのであって、決してそれは偶然の発見でも発明でもない。はじめから見当をつけた理詰めの発見である。此処に今度の発見の権威がある。従来多くの大発明大発見は幸運である様に思われることが多いが併し博士の発見は肇から終始理詰めであって、運不運を超越している。 (中略)


なおついでに誤解のない様にしたのは、水銀を変じて金となす事がその事が、長岡博士の目的の全部ではない。それは博士の理論のほんの一部分に過ぎないのであって、亜鉛を銅に、カドミュムを銀にという風に、一つの原子を他の原子にかえること、或いは放射原子の壊散する速度を促進すること等にして特に原子核を打ち壊すことが博士の実験の一つの目的であってその重なる点は従来議論粉々たる原子の構造、原子核の構造の研究が主である。水銀を変じて金となすことは博士の研究の一小部分に過ぎないことを忘れてはならない。


一匁の金を作るに、どれだけ水銀が入り用であるかは度々受ける質問であるが、博士の方法に従うと水銀の消費量は問題にならない。と言うのも水銀の一部が金に変わる時に、残りの水銀はそのままなんの変化もなく水銀として残るのであるから、水銀の消費された量に等しい金が出来るのである。この際、勿論水銀の一部が蒸発して水銀蒸気となり飛散するから、此の方の消費はあるが、設備の改善等によりこの消費は節約の余地が十分にある、仮にほう消費が節約されないとしても、その額は大きなものではない、生産費の大部分というよりは全部と言ってもよい位のものは電力費である。


この所要電力は、ミーテ博士の場合は非常に高額に昇って、今日の所では到底工業として成立できないのであるが、長岡博士の方法に従うとミーテ博士のそれより余程電力が少ない。特にその後の研究によって、今日は益々所要電力が少なくなりつつある。従って今後尚この方面の研究が進むと、将来は必ず工業的に成り立ち得るものと考えられる。即ち、一匁の金を得るための所要電力が五百キロワット時になるか二百キロになるかは、一に懸かって今後の発明改良にある。」

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/DetailView.jsp?LANG=JA&”METAID” =00075045

日本が産んだ理論物理学の大天才の発見であったにも関わらず、国際的な圧力は凄まじく、この発見、研究は現在まで存在しなかったことになっている。


冷静に考えてみれば、当たり前の話である。当時、金(ゴールド)の価格決定権を手にしたのは、国際金融の雄、ロスチャイルド家であり、人工的に金ができることなど、絶対にあってはならないことだったのである。そして今回の騒動にも日本、世界のいろいろな勢力の思惑が裏で渦巻いている。



おそらく、STAP細胞騒動は、おそらく当初、日本国内勢力の思惑によって、植草一秀氏の指摘するような大きな経済利権によって大きく宣伝され、動かされたが、STAP細胞の出現を快く思わない米国を中心とする勢力によって、現在、徹底的に叩かれているというのが実情だと思われる。そのような状況をつくることによって、STAP細胞の研究成果をハーバード大学等が独占することも可能であろう。もしかすると、日本のお金で小保方氏に実証研究させ、その成果だけをしっかりいただくという戦略が最初から組まれていたのかもしれない。そして、理研を始め、STAP細胞に関わった関係者には、大きな圧力がかかり、小保方晴子という未熟な研究者にすべての責任を押し付けて、逃げ切りをはかっているようにも小生には見える。


勝手な想像を述べさせていただけば、陰りが見える米国の覇権の行方によって日本のSTAP細胞の運命は決まるような気がしないでもない。現在の世界情勢を見ると、STAP細胞の再現に成功するのは、米国の覇権外にあるロシアや中国の研究機関かもしれない。おそらく、米国による軍事占領下にある日本から、STAP細胞の再現成功の話が表に、出て来ることは、極めて難しくなったと想像されるのだが、どのような結末が待っているのだろうか。


もう一つ、情報を付け加えておくなら、2012年すでに、熊本大大学院生命科学研究部の太田訓正[くにまさ]准教授(48)=神経発生学=の研究グループが、ヒトの体細胞に乳酸菌を取り込ませ、さまざまな種類の細胞に分化できる能力を持つ多能性細胞を作りだすことに成功している。この事から考えても、小保方氏が説明している方法でSTAP細胞ができても少しも不思議でないことも紹介しておきたい。



(以下引用)


「乳酸菌使い多能性細胞 筋肉や骨に分化 iPS研究に影響も」


熊本大大学院生命科学研究部の太田訓正[くにまさ]准教授(48)=神経発生学=の研究グループが、ヒトの体細胞に乳酸菌を取り込ませ、さまざまな種類の細胞に分化できる能力を持つ多能性細胞を作りだすことに成功したことが28日、分かった。

多能性細胞には、京都大の山中伸弥教授が開発した四つの遺伝子を細胞に加えて作る人工多能性幹細胞(iPS細胞)があるが、乳酸菌などバクテリアを使った多能性細胞の開発は初めてという。

関係者はiPS細胞の開発で医療への応用に期待が集まる多能性細胞の可能性を広げる研究成果としている。
乳酸菌は代謝により乳酸を生成するバクテリアで、一部はヒトの体内にいる。熊本大グループは、ヒトの皮膚細胞周辺のタンパク質を除去し、細胞に乳酸菌を取り込ませて培養したところ、細胞が増殖。この細胞が多能性を持つことを試薬で確認した。これまでに5種類の細胞(神経、筋肉、脂肪、骨、軟骨)への分化にも成功したという。
iPS細胞が一定条件下で増え続けるのに対し、この細胞は直径0・3ミリ程度まで成長すると増殖が止まるのが特徴。マウス実験ではがん化も確認されていない。
iPS細胞が多能性を持つようになるメカニズムは未解明で、がん化する可能性も否定されていない。太田准教授は「開発した細胞に、iPS細胞を増殖させる遺伝子を取り込むなどの試みを続けることで、がん化せずに増殖する多能性細胞ができるかもしれない」と話す。

研究論文は26日、米科学誌プロスワン電子版に掲載された。山中教授が委員長を務める文部科学省iPS細胞等研究ネットワーク運営委員会委員の須田年生[としお]慶応大医学部教授(幹細胞生物学)は「論文を驚きを持って受け止めた。多能性細胞ができるメカニズム解明に乳酸菌という全く別の視点が加わり、iPS細胞研究の進展や医療への応用につながる可能性がある」と話している。(東寛明)


(熊本日日新聞 2012年12月29日朝刊掲載)

<参考資料>


STAP細胞論文共著者と株式市場を結ぶ点と線」(3月13日)


植草一秀

STAP細胞騒動が巨大な経済犯罪的事案に発展する可能性が生じている。

「STAP細胞作製情報混乱の裏側にある諸事情」に、さわりだけを記述したが、この問題には、二つの重要問題が絡んでいる。


ひとつは、安倍政権が「成長戦略」の柱に、科学技術振興=再生医療技術助成を組み込んでおり、STAP細胞の「演出」が、この文脈上で実行されたと考えられること。


いまひとつは、これと密接に関わる問題であるが、政府の再生医療産業振興を検討する委員会の中心人物が関わる企業と小保方晴子氏が関わりを有しており、STAP細胞作製の報道と連動して、この企業の株価が急変動して大きな資金移動が生じていることだ。


小保方氏が執筆した論文の不正問題が取り沙汰されているが、各論文には指導教員、共著者、論文審査員などが存在する。


これらの人々が今回の論文の共著者などに名前を連ねている。


理化学研究所【発生・再生科学総合研究センター】

小保方 晴子 ユニットリーダー
若山 照彦 山梨大教授(元理研チームリーダー)

笹井 芳樹 副センター長


丹波 仁人 プロジェクトリーダー


米国・ハーバード大学

小島 宏司准教授
チャールズ・バカンティ教授

東京女子医科大学

大和 雅之 教授

アベノミクスはすでに風前の灯であるが、米国を中心とする強欲資本主義の総本山は、「ワシントン・コンセンサス」に従って、日本市場の米国化=弱肉強食化=市場原理化を推進する活動を積極推進している。「ワシントン・コンセンサス」とは、1989年に経済学者ジョン・ウィリアムソンが論文のなかで定式化した、経済用語である。


IMF、世銀、米財務省の本部はすべてワシントンに所在する。これらの機関が共同して、米国の経済版世界戦略を企図し、実行していると見るものである。


ネオコンの政治版世界戦略と対を為すものと考えることもできる。その中核は、市場原理、規制撤廃、小さな政府、民営化である。


米国は日本に対して、長期にわたる「改造計画」を遂行してきているが、その延長上でいま掲げているのが「TPP」である。


米国は対米追従の安倍政権が誕生したいま、日本の米国化を実現する絶好期であると捉えている。そのために、安倍政権が掲げる「成長戦略」を何としても実現させようとしている。


この成長戦略の核を為しているのが、農業・医療・解雇の自由化であり、これを実現するための経済特区の創設、法人税減税なのである。


安倍政権は6月にも「新・成長戦略」を打ち出すスケジュールを設定しているが、そのなかに、技術立国を打ち出し科学技術振興を提示する予定である。


そのひとつの目玉として、世界最高水準の研究を目指す「特定国立研究開発法人」を設置することを盛り込むことを目論んできた。これは、新しい政治利権、官僚利権である。票とカネに結び付きにくい社会保障支出を切り、票とカネに直結する利権支出に財政資金を集中投下する。この方針がより明確化している。


その標的とされているのが「科学技術振興分野」と「スポーツ分野」なのである。


いまや、利権政治家は競い合うように、「科学技術利権」と「スポーツ利権」に食い込もうと必死である。



安倍政権は目玉となる「特定国立研究開発法人」に、独立行政法人産業技術総合研究所と独立行政法人理化学研究所を指定する方向で動いてきた。安倍晋三氏は1月11日に理化学研究所・発生・再生科学総合研究センター(CDB)を訪問している。


中日新聞報道によれば、理研CDBでは、STAP細胞作製発表会見に合わせて、研究室の改装、かっぽう着の着用などの「演出」を実行したとのことである。すべてが「やらせ」「偽装」演出だったことになる。


もうひとつの重大問題は、2011年に小保方氏が執筆した「Nature Protocol 論文」


と呼ばれる論文の共著者に、今回のSTAP細胞論文の共著者である大和雅之氏と同じく東京女子医大の岡野光夫教授が名を連ねていることである。


論文タイトルは


“Reproducible subcutaneous transplantation of cell sheets into recipient mice”


この論文が記述する”cell sheets”は上場企業である株式会社セルシード社の製品であり、著者の岡野光夫氏はこの企業の取締役であり大株主である。しかし、論文には「利益相反事項の記載」がなされていなかった。セルシード社は大幅な営業赤字計上を続ける無配企業である。


この企業の株価がSTAP細胞作製報道のあった直後の1月30-31日にかけて急騰し、1月31日に第11回新株予約権(行使価額修正条項付)が大量行使・行使完了された。http://goo.gl/6BsBjG


1月31日に2400円をつけた株価は、3月14日には1183円に下落している。1ヵ月半で半値以下に暴落したことになる。


(引用終わり)


理研・小保方事件が暗示する対日潜在脅威:われら日本人は21世紀型日米戦争モデルに基づき、戦後もステルス攻撃を受け続けていると自覚すべきである


山本尚利

1.小保方問題に関する理研上層部の見苦しい反応と対応

今、理研・小保方問題がマスコミの話題となっています。マスコミの取り上げ方は、STAP細胞に関する論文に虚偽不正があったのか、なかったのかに集中していますが、小保方氏を雇用する理研サイドの反応は、STAP細胞は小保方氏の捏造であって、理研は彼女にすっかりだまされたというスタンスであるように感じます。第三者から観ると、理研上層部の反応は極めて幼児的であり、非常に見苦しいわけです。象牙の塔にこもる孤高の研究者は世間の常識とはかけ離れた存在と言えば、聞こえはよいですが、悪く言えば“とっちゃんボーヤ”にすぎません。


このような小保方騒動に関係する、日本人の理研関係者、政府関係者、そしてマスコミ関係者には、決定的に欠落するものがあると強く感じます、それは、先端技術開発に対する俯瞰的認識の欠如とみなせます。 とりわけ、先端技術開発戦略に関する米国技術覇権主義者の監視の目に対する防御力は皆無に等しいと思います。


さて、科学技術分野の世界に関して、米国戦争屋の一部エリートは、米国技術覇権主義者でもあります。


2.米国技術覇権主義者の巧妙な対日戦略にあまりに無知な日本の科学技術関係者


米国技術覇権主義者の代表はラムズフェルド元米国防長官やチェイニー元米副大統領(彼らはネオコンシンパでもある)とみなせますが、日本の科学技術関係者のほとんどは、米国技術覇権主義者の戦略思想も、対日観もまったく見えていないし、気付いてすらいないというのが筆者の実感です。


上記、小保方問題におけるSTAP細胞技術の関係者も、京大山中教授のiPS細胞技術の関係者も、米国技術覇権主義者の対日観がまったくわかっていないような気がします。


3.先端技術開発競争は、21世紀の戦争モデルの一種であるという認識をもたない日本人


2003年、光文社より『日米技術覇権戦争』という本を出版していますが、それは、米国シンクタンク・SRIインターナショナルでの16年半に渡る技術戦略経験に基づいて書かれています。簡単に言うと、戦後の日本は、現在に至るまで、先端技術開発の世界で日米戦争を戦っているということです。米国技術覇権主義者には、その認識があるのに、日本の産官学の先端技術開発関係者には、その認識があるようには到底、見えません。ここに日本サイドの大きな問題が潜みます。


米国技術覇権主義者の構想する21世紀型戦争モデルとは、一言、すべてステルス攻撃(敵に気付かれないよう攻略する戦法)となります。具体的には、9.11事件、3.11事件、そして、直近のマレーシア航空機事件もすべて、21世紀型ステルス攻撃です。これらに共通するのはステルス攻撃された被災者には真の攻撃者が特定できない点であり、被災者に見える敵から従来型火器で攻撃されるパターンとは根本的に異なる巧妙な攻撃法です。


さらに言えば、米国技術覇権主義者にとって、核技術や通信技術はもちろんのこと、地球物理学系先端技術研究、そして、生物兵器技術に直接、間接に関係する、再生医科学、ウィルス研究、ワクチン・医薬研究を含む先端バイオ研究開発はすべて、21世紀型ステルス攻撃用兵器として位置付けられます。要するに、兵器の概念が根本から変革しているわけです。


その意味で、北朝鮮を使って、日韓を挑発させている従来型ミサイル兵器や核爆弾中心の旧式戦争モデルは、日韓両国民に、米国技術覇権主義者の21世紀型戦争モデルの戦略構想を気付かせないようするための“目くらまし作戦”ではないかとみなせるほどです。


4.安倍総理という時代錯誤の軍国主義ゾンビの再登場を許容する米国技術覇権主義者の狡猾さ


米国の国家研究開発戦略を俯瞰して容易にわかること、それは、米国の国家研究開発を主導するのは、米国技術覇権主義者であり、彼らは先端技術開発の目的を米国の軍事力を世界最強にすることとみなしています。彼らのこのような認識を日本人のほとんどは真に理解していません。


その観点から、日本人のほとんどは、上記のような米国技術覇権主義者の21世紀型戦争モデルをまったくわかっていないと言えます。


一方、米国覇権主義者は、オモテムキ日米同盟を結んでいながら、内心では技術大国・日本を軍事的脅威としてとらえています。そして、日本人が米国技術覇権主義者の構想する21世紀型戦争モデルに気付かないよう巧妙に手を打っているとみなせます。その証拠に、安倍総理のアタマを20世紀型の陳腐な戦争モデルしか想起できない硬直型頭脳に据え置くというマインドコントロールが行われています。しかもそれは、安倍総理のみならずその取り巻きの日米安保マフィア連中にも適用されています。


さらに、彼らは狡猾にも米国戦争屋の傀儡国家・北朝鮮を操って、対日・対韓挑発を頻繁に行わせ、日韓の指導層のアタマが20世紀型の旧式戦争モデルに据え置かれるよう、巧妙なマインドコントロールが行われています。


5.小保方事件は、米国技術覇権主義者の脅威である理研を弱体化するステルス攻撃と位置づけられる


小保方事件を、米国技術覇権主義者の21世紀型日米戦争モデルに基づく、高度なステルス攻撃の一種としてとらえています。このことを理解するためには、世界最先端を走っている米国技術覇権主義者の実行している21世紀型日米戦争モデルとは何かを認識する必要があります。


そのためには、今の日本は、米国技術覇権主義者による21世紀型日米戦争モデルによって、常にステルス攻撃が行われているということを認識する必要があります。しかしながら、その高度のステルス性によって、日本人のほとんどは、常に攻撃されていることに気付いていないのです。


ミサイルや大砲でドンパチするのが戦争だと思い込んでいる日本人は、21世紀型の高度のステルス性をもつ対日攻撃が潜在するかもしれないと疑うべきです。


このステルス攻撃には、地球物理学的ステルス攻撃、地震・津波誘発型ステルス攻撃、気象操作型ステルス攻撃、ウィルス使用のパンデミック型ステルス攻撃、ケムトレイル型慢性病誘発ステルス攻撃、発がん性食品を長期摂取させる短命促進型ステルス攻撃などが考えられます。現在の日本人は、3.11事件によって、すでに放射能汚染被害を受けていますが、これもステルス攻撃の一種と疑うべきです。       (引用終わり)


*長岡半太郎1865年8月19日(慶応元年6月28日 – 1950年(昭和25年)12月11日)は、日本の物理学者。土星型原子モデル提唱などの学問的業績を残した。また、東京帝国大学教授として多くの弟子を指導し、初代大阪帝国大学総長や帝国学士院院長などの要職も歴任した。1937年(昭和12年)、初代文化勲章受章。正三位勲一等旭日大綬章追贈。


*大河内正敏1878年(明治11年)12月6日 – 1952年(昭和27年)8月29日)は、物理学者であり実業家である。東京府出身。子爵。理化学研究所(理研)の3代目所長、貴族院議員。身長は180センチと長身だった。子は大河内信定、大河内信敬。孫は女優の河内桃子。無名時代の田中角栄を引き立てたことでも知られる。

ウクライナ情勢の裏を読む

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3月 132014

~プーチンのロシアが一時的な覇権国になる可能性が出てきているのかもしれない~







今回のソチオリンピック終了後の非常に早いロシアのウクライナに対する動きを見ていると、周到に準備されていた軍事作戦であることがよくわかる。「ロシア軍艦がキューバに、入港の事実伏せる異例の事態」という報道(CNN)もあった。用意周到である。おそらく、オリンピック開催中に秘かに作戦が進行していたのだろう。下記の元外交官原田武夫氏の指摘を読んでいただけば、わかるように、もともと今回のウクライナ政変を仕掛けたのは、欧米(4年前に計画されていた)だが、先刻そのことを承知していたプーチンが逆襲に出たというのが現状だろう。

ただ、あまりにもプーチンのロシアの対応が迅速だったことに西側諸国は、吃驚しているのかもしれない。



ところで、現在、ロシアは世界一の石油・天然ガスの産出国となったようである。また、プーチンの情報能力の高さにも国際的に定評がある。米国のNSA(国家安全保障局)のスノーデンを手中に収め、情報戦は万全であろう。ロシアの軍事力は、米国についで現在、世界2位である。「財政の崖」にあるアメリカが現実には、大規模に軍隊を動かせない状況を考えると、現在、プーチンが圧倒的優位に立っていると考えても間違いではないだろう。豊富な天然資源を背景に、世界戦略を進めるロシアを止めるためには、経済力の源である天然資源の価格を暴落させることぐらいしか、現時点では、欧米のエリートには対抗手段がないと思われる。

そう言った意味では、今年に入って、商品市況は順調に推移しているが、これから、中国絡みで商品市況の暴落、急落がより大きなものになるように仕掛けられる可能性もあるので、細心の注意が必要だろう。また、ウクライナの政情不安は、ウクライナに融資しているヨーロッパの金融機関の不安定要因なので、ユーロの暴落場面も見られるかもしれない。どちらにしろ、注視が必要である。



ところで、例によって日本のマスコミは報道しないが、昨年、あの米国覇権を強力に推し進めてきたブレンジスキー氏がホプキンス大学の講演で「アメリカはかつての影響力の大部分を失っており、アメリカ政府が少なくとも、今この演説を聴いている人々が生きている間に、世界の覇権大国として、権力を取り戻すことがないだろう」と、語っていることも忘れてはならないだろう。



そう言った意味では、日本という国が、対米自立を求められる時代に入ったことだけは、間違いないが、現在の日本の政治・経済を見ていると、従米路線の利権を手放したくない官僚と大企業、戦後半世紀以上にわたって支配された恨みを感情的に晴らそうとするような、子供じみたタカ派的な言動を、巧みに米国ネオコン派に誘導されている姿しか見ることができないような状況である。どうも、この国は、まだ、独立自尊には、ほど遠いようである。世界最大の債権国であり、莫大な簿外資産があるとも言われている国が目を覚まして、世界レベルのインテリジェンス能力を持てば、別に軍事力なんてそれほど持たなくても、圧倒的優位に立てる時代を迎えているのに、あまりに残念なことである。



整理すると、これから注意すべき点は、2点である。中国バブルの崩壊がより一層、はっきりしたものになるに従い、商品市況が急落、暴落する危険がかなり高まる。ロシアの経済力を削ぐためにも故意にその落ち込みを欧米のグローバルエリートが大きなものにする可能性がある。

もう一点は、危うい均衡にあるユーロが暴落し、崩壊の危機が再び訪れる可能性が極めて高いということだ。為替投機、ヨーロッパ向け輸出の株式に投資している方は注意が必要だということである。



米国のコントロール下にある日本のマスコミは、ほとんど事実をおそらく、報道しないと思われるので、今回の騒動を簡単にまとめておけば、こうなる。



米国とドイツとイギリスが、ロシアの覇権拡大を阻止するために引き起こした今回の政権転覆は、ウクライナを国家分裂の危機に陥れた。クーデターによって樹立された親米の新政権は、極右ネオナチが治安維持や軍事を握っており、彼らはロシア系国民を排除してウクライナ人だけの国にする民族浄化を目標に、政権樹立直後にロシア語を公用語から外した。ロシア系住民が、極右の政権奪取を見て、ロシアに助けを求めたのは当然の成行だということである。ところで、ウクライナという国の人口構成は、ロシア系が6割、イスラム系が3割、ウクライナ系が1割である。この国の人種構成を見ても暴動によって成立した政権が民主主義的な手続きでは、絶対に誕生しないことは、一目瞭然である。だから、プーチン氏は、この3月4日の記者会見でも、現在のクーデター政権は、選挙をした正統性のある政権ではないと強調していたのである。

ある意味、欧米の暴挙をプーチン氏が、見事な軍略で情勢逆転したということである。

その結果は、言うまでもなく、プーチンのロシアの覇権拡大に繋がることになる。

気をつけなければならないことは、米国のネオコン派がウクライナと同様の心理戦を日本国民に対しても仕掛けていることである。現在の一見威勢のいい右翼的言辞も仕掛けられたものであることを見抜く眼力を現在の日本人は、求められていると言えよう。



それでは、参考資料として、まず、ブレンジスキー氏の講演のニュースから紹介する。以下。

*イランラジオニュースより

ブレジンスキー氏、「アメリカの世界覇権の時代は終った」

アメリカのカーター政権時代に国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めたブレジンスキー氏が、「アメリカが世界を支配する時代は終わった」と語りました。

ファールス通信が伝えたところによりますと、ブレジンスキー氏は、世界覇権という概念は色あせていると強調し、「覇権は、もはや手に入れることができないものだ」と述べました。

ジョンズ・ホプキンス大学で演説を行ったブレジンスキー氏は、「冷戦終了後の13年にわたるアメリカの世界覇権は終結した」としました。

また、「アメリカはかつての影響力の大部分を失っており、アメリカ政府が少なくとも、今この演説を聴いている人々が生きている間に、世界の覇権大国として、権力を取り戻すことがないだろう」としました。

さらに、「アメリカは、いつにもまして、複雑化している現代世界に歩み寄り、アメリカが例外的な存在であるという考え方を改める必要がある」と強調しました。

(引用終わり)

ロシアが世界の石油、天然ガス生産のトップに立ったようである。以下。

*ロシアの声より

2014年 2月23日


「新記録を打ち立てるロシア産石油とガス」



先週は、ロシアの石油セクターに関するニュースが豊富だった。ロシアは石油の埋蔵量で世界一になる可能性があるほか、ロシアのエネルギー大手ガスプロムは、欧州向けのガス輸出量で新記録を打ちたて、石油パイプライン会社トランスネフチには、2020年までに2兆ルーブル(約50億7000万円)の開発資金が拠出されるという。



ロシアは世界一の石油産油国だが、さらに石油の埋蔵量でも世界一になる可能性がある。ロシアは現在、石油の埋蔵量で世界の上位3カ国に入っている。ロシアでは来年にも、非在来型資源の埋蔵量に関する調査が始まる。そのために予算から毎年数十億ルーブルが割り当てられ、来年は150億ルーブル(約40億3000万円)が拠出される見込み。



埋蔵地の調査は主に、東シベリアおよび西シベリアのすでに開発されている産地の近くで実施される。中心となるのは、バジェノフ層と呼ばれるシェール層の開発だ。これは西シベリアの深さ2キロ以上の地点で発見された貯留層。バジェノフ層シェールオイルの埋蔵量は、ロシアの現埋蔵量の約半分に相当する300億トンから400億トンとみられている。エネルギー・ファイナンス研究所のアレクセイ・グロモフ氏は、次のようにコメントしている。



「すでに開発されている産地に新たな採鉱層がある。それは、深い地層から石油を採取するための商業的に実現可能な技術がなかったため、確認埋蔵量には含まれていなかったバジェノフ層だ。だがロシアには今、バジェノフ層と呼ばれる採取が難しい産地を開発し、石油の生産を高め、資源基盤を強化するための可能性がある。」



ロシアは、石油の埋蔵量で世界1位になる可能性があるが、ガスの輸出量ではすでに世界一だ。ガスプロムは、新たな記録を打ち立てた。ガスプロムのトルコを含む欧州向けの輸出量が、1615億立方メートルとなったのだ。これは同市場のおよそ3分の一にあたる。2011年、同市場でガスプロムが占める割合は27パーセントだった。そして、2012年には輸出量が減少した。だが昨年半ば、当時欧州の主要なガス輸出国だったカタールの液化燃料がほぼ全て日本へ「流れた」。これにより、ガスプロムの状況は有利な方向へ変わった。



また先週伝えられたところによると、ガスプロムは、アフリカの有望な鉱区の探査および開発のための国際入札に参加する。これにより、欧州向けのガス輸出量が増加する可能性もある。入札には、欧州や米国の大手石油・ガス会社も多数参加するが、一連のアナリストたちは、権益を取得する可能性が最も高いのはガスプロムだとの見方を示している。

ロシアは西側だけでなく、アジアへの石油およびガスの輸出量も増加する意向だ。東シベリア・太平洋石油パイプラインの輸送能力は、2020年までに年間8000万トンになる計画。これはトランスネフチの投資プログラムに含まれている。このプログラムを実現するため、予算からトランスネフチに2兆ルーブル(約5兆7000億円)が拠出される予定。

(引用終わり)

次に紹介するのは、元外交官原田武夫氏の興味深い分析だ。彼は、ここで、今回のウクライナ政変は4年前に計画されていたものだと明言している。少々長いがいい分析なので我慢して読んでいただきたい。以下。



「ウクライナ危機の真相「核利権」の闇とユーロ暴落というシナリオ」


原田武夫



再び激化し始めたウクライナ情勢を読み解く「3つの本当のカギ」



今、ウクライナ情勢が再び急激に悪化している。23日(キエフ時間)、ウクライナの国会である「最高会議」はヤヌコヴィッチ大統領の罷免を決議した。同大統領はロシアへと出国しようとしたが、当局によって阻まれたという情報もある。

そもそもウクライナではここに来て反体制デモに対し、治安当局が発砲し、事実上の「内戦」が勃発。既に60名以上の死者が発生している。いわゆる「途上国」において政変が発生し、「内戦」になるというのであればまだしも、ウクライナは旧ソ連の構成国であり、かつ欧州にも隣接した大国である。それが「内戦」「体制崩壊」にまで陥ってしまったというのであるから尋常ではないのだ。

もっとも我が国に暮らす私たちにとって、「ウクライナ」がやや遠い存在であることも率直に言うと事実である。隣国であるロシアならまだしも、「ウクライナ」と聞くと首都キエフの名前や名物の「キエフ・カツ」を思い起こすのがせいぜいという方も多いのではないのだろうか。そのため、一体なぜ今、よりによって「ウクライナ」で”激しい内戦”なのか、全くもって理解出来ないと感じている方も大勢いるのではないかと思う。
混迷を続けるウクライナ情勢。その真相を知るカギは全部で3つある。



ウクライナが核利権の本拠地であったということ」「耐えざる軍需の創出が米欧における至上命題であること」そして「ウクライナにおける”発火”が欧州においてユーロ危機を招くこと」の3つだ。



「ウクライナ核利権」という巨大な闇


旧ソ連時代、ウクライナは核開発の本拠地であった。その中心となっていたのが現在

も存続している「キエフ原子力研究所(KievInstituteforNuclearResearch)」だ。http://www.kinr.kiev.ua/index_en.html

ウクライナと原子力・核というと、一般に「旧ソ連時代に核兵器を大量に配備された国の一つ」ということばかりが語られることが多い。(参考資料:「ウクライナの核廃絶」

http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/68/68-1.pdf)1991年12月1日に「独立宣言」を行ったウクライナはその後、1994年1月14日に米ロの両大国と共に「三カ国宣言」を発表し、核兵器の廃棄を行っていく意向を明らかにした。米国からは資金援助すら行われて進められたこうした「核廃棄」により、ウクライナの核問題はあたかも終わってしまったかのように考えられがちである。
だが、これは大きな誤りなのである。米欧のインテリジェンス機関における「常識」

をまとめて書くならばこうなる:



●「ウクライナの核問題」における本当の焦点は廃絶されている「核兵器」そのものではなく、旧ソ連時代から延々と続けけられてきたその研究を担う研究者たちという”人財”の存在である。これを米ロで奪い合っているというのが隠された実態なのである


●外側から見るとそうした実態が見えないのは、ウクライナには2つのグループから成るいわゆる「マフィア」が存在しており、このマフィア同士の抗争と米ロ間の「核研究人財の奪い合い」が連動しているからである


●更に事態を不透明にしているのは、この地域において米国のインテリジェンス機関 の委託を受けて動いているのがドイツの「CIA」に相当する「連邦諜報庁(BND)」であるという事実である。秘密の作戦行動である非公然活動(covert action)を行っているのは基本的にドイツなのであって、米国そのものではないことに留意する必要がある



確かに表向きは「ロシアのプーチン政権から支持され、強権政治を続けるヤヌコヴィッチ政権」と「これに対して市民の自由を掲げ、抵抗するウクライナ国民たち」という構図がマスメディアによって描かれてはいる。だが、真相は「核利権の奪い合い」なのであって、これが決着しない限り、ウクライナは今後とも繰り返し「内戦」に陥る構造を抱え続けるというわけなのだ。



実は2010年に「ウクライナ内戦」で合意していた米英独


ウクライナ情勢の緊迫が続く中、俄かに注目を集め始めた米国の研究機関の手によるシナリオがある。2010年にニューヨーク大学グローバル・アフェアーズ・センターが行った「2020年のウクライナ(Ukraine2020)」

https://www.scps.nyu.edu/export/sites/scps/pdf/global-affairs/ukraine-2020-scenarios.pdffである。なぜこのシナリオが注目されているのかというと、今回の「内戦」が始まる4年前に執筆されたものでありながら、そこには概要次のような三つの展開可能性がウクライナについて書いてあったからだ



《シナリオ1》

●ヤヌコヴィッチ政権は権威主義的な統治を試みるがこれに失敗。経済立て直しを求める反体制派による動きが強まる中、ついに同政権は崩壊し、地方の政治リーダーたちもヤヌコヴィッチ大統領から距離を置く


《シナリオ2

経済危機の中、ヤヌコヴィッチ政権に対する反体制派が糾合し、これに大企業家たちが加わることで、改革志向の新しい政権が樹立されるに至る



《シナリオ3

●ヤヌコヴィッチ大統領は反体制派が未だ弱体であることを理由に戦略的な権威主義体制の構築に成功。エリートたちの指示を得る中、10年近くにわたって政権を維持することに成功する



そしてこの「未来のウクライナに関するシナリオ作成プロジェクト」には、中心となったニューヨーク大学、すなわち「米国」のみならず、英国の王立国際問題研究所(チャタム・ハウス)や、ドイツの政権与党であるキリスト教民主党(CDU)の政治財団である「コンラート・アデナウアー研究所」が、ウクライナ人研究者と並んで出席していたのである。つまり米国だけではなく、英国、そしてドイツは実に4年前の段階で「ウクライナのヤヌコヴィッチ政権を崩壊させるというシナリオ」について合意していたというわけなのだ。
「そこまで言うのは大袈裟なのではないか。単にウクライナ研究者たちが寄り集い、”あり得べき可能性”を議論し、ペーパーにまとめたに過ぎないはずだ」


もし仮にそう思われたとすれば、「米欧のインテリジェンス機関における常識」を学び直した方が良い。なぜならばこれらシンクタンクはいずれも各国の政府、さらにはその諜報機関(インテリジェンス機関)と連動した動きをしているのであって、正にここで「米英独合意」が実質的に持たれた上でその後、一連のストーリーが実行に移されたと見るべきだからだ。

一方、このシナリオ作成プロジェクトにロシアは参画していない。だがこのシナリオが公表された段階でロシア側も米英独のそうした”意向”を感じ取っていたことは間違いない。そのため、現在進行形である「ウクライナ内戦」については自らに対する米英独からの密やかな圧力であることを前提に、ロシア側も防戦に入ると共に、それ以外の局面で反撃に出ていると見るべきなのである。

2008年夏のロシア・グルジア戦争における「ユーロ暴落」を思い起こす


もっとも、「ウクライナ崩壊シナリオ」の実現は単に米欧とロシアとのパワー・バランスの再調整のためであると考えてしまうのは早計だ。なぜならば「内戦」の長期化とヤヌコヴィッチ政権の崩壊は、他ならぬ米欧、特に欧州各国にとっては経済的に大打撃となる危険性を孕んでいるからである。
2008年秋に発生したリーマン・ショックにより大いに動揺したのが中東欧に位置するエマージング・マーケット各国であった。これに対処するため、欧州各国の銀行は欧州復興開発銀行(EBRD)や国際通貨基金(IMF)と共に「ウィーン・イニシアティヴ」http://vienna-initiative.com/と呼ばれる支援プログラムを開始。その後、明らかに足りなかった第一弾を補うものとして第二弾が開始され、これに2012年7月9日からウクライナもあらためて参加する旨、その中央銀行が発表した経緯http://www.bank.gov.ua/control/en/publish/article?art_id=117542があるのである。



(円ユーロ・レートの推移(過去10年間))

確かに目先では米欧にとって第1のターゲットであるロシアの通貨「ルーブル」の対ユーロ・レートが今回のウクライナ危機を踏まえて崩落し始めており、http://www.telegraph.co.uk/finance/financialcrisis/10652767/Financial-crisis-threatens-Russia-as-Ukraine-spins-out-of-control.html

「対ロシア作戦」という色彩が強い感は否めない。だが、仮にウィーン・イニシアティヴによって大量の資金供与をとりわけ欧州側から行われたウクライナがその返済もままならないという状況になるのだとすれば、その影響はウィーン・イニシアティヴに参加するそれ以外の中東欧各国にも及び、「経済不安をバックにした体制変動の危険性」が叫ばれる中、ただでさえ信用不安への警告が出されたばかりのその情勢が一気に悪化する危険性があるのだ。



その結果、ユーロの為替レートは「ウクライナ内戦の激化」を直接的な理由として大暴落に陥ることになる。2008年秋に発生したリーマン・ショックの直前に開戦となったロシア・グルジア戦争の際、戦闘行為に直接は巻き込まれなかった欧州の共通通貨「ユーロ」がなぜか大暴落したことを考えれば、これから起き得ることは自ずから、明らかであるというべきなのだ。

いよいよ行き詰まる金融資本主義と米欧ロの真意


もっともこの様に劇的な展開を見せる中、ロシアが「防戦」一方であると考えるべきではない。確かに表向きは上述のとおり、そうした装いが続くはずだが、米欧のみならず、ロシアにとっても「ウクライナ内戦の激化」は軍需を高め、軍事関連産業を潤わせることは間違いないのである。つまり、金融メルトダウンがいよいよ究極の段階を迎えつつある中、”餌食”にされたウクライナを尻目に米欧、そしてそれと密やかに連携しているロシアはシリアに続き、この「内戦」を用いた景気復興策を何とか行おうと躍起になっているというべきなのである。
「異次元緩和」を柱とするアベノミクスによって強烈なインフレ誘導を行うわが国とは異なり、日に日に「デフレ縮小化」へと進む中、何とかそこから脱却しようともがき始めた米欧、そしてロシア。その「最後のあがき」が果たしていかなる影響を私たち日本人に及ぼすことになるのかを、引き続き注目していく必要がある。

(引用終わり)

オリンピックが終わった直後のプーチンも動きは迅速だった。以下。



NHK  3月3日 23時44分


「ロシア軍 クリミア半島を事実上掌握」

ウクライナ情勢を巡って、南部のクリミア半島を現地に駐留するロシア軍がロシア寄りの地元政府と共に事実上、掌握する事態となり、欧米側はロシアに対する非難を強め、ロシアとの対立が深まっています。

ウクライナ情勢を巡って、ロシア系住民が多い南部のクリミア自治共和国ではロシア軍の部隊が駐留地の外での活動を活発化させ、ウクライナ軍の施設を包囲しているほか、ロシア寄りの地元政府と共に行政府や空港などの主要施設を管理下に置き、現地を事実上、掌握する事態となっています。

2日にはウクライナ海軍の司令官がロシア海軍の黒海艦隊が基地を置く、セバストポリでロシア側につくと発表したほか、ロシア寄りの地元政府はロシア側に忠誠を誓ったウクライナ軍の軍人が5000人に達したとして、ウクライナ軍に離反の動きが相次いでいるとしています。

また、暫定政権の警備当局者は3日、クリミア半島東部のケルチ海峡を挟んだロシア側で、ロシア軍の装甲車がフェリー港の近くに集まっていることを明らかにし、情勢はさらに緊迫しています。

こうしたなか、欧米や日本などG7=先進7か国の首脳らは2日声明を発表し、「ロシアはウクライナの主権や領土の保全を明確に侵害している」と非難し、ロシアのソチで予定されているG8サミットの準備会合への参加を中止すると発表しました。

一方、プーチン大統領は2日、ドイツのメルケル首相との電話会談で「ロシアがとっている対応はまったく適切なものだ」と述べて正当性を主張し、欧米側とロシアの対立が深まっています。

(引用終わり)

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