10月 052014

これからこの日本で生まれ、日本で、世界で何事かを成し遂げようという大志を秘かに抱いている日本人は、「この国が1945年以降、米国の特別行政自冶区でしかない」ということをしっかり肝に銘じてすべての行動を決め、戦略を練っていく必要があるだろう。もちろん、日本の学校もマスコミも本当の事など教えてくれるはずもない。壮大な嘘とその嘘が創り出す日本社会の空気から自由になり、独立自尊の道を一人でも多くの日本人が歩むことを求められている時代を迎えている。そう言った意味で、残念なことだが、米国の支配層の利益を最大にするために運営されている現在の日本の政治に期待を抱くだけ無駄だということだろう。はっきり言ってしまえば、特別行政自冶区の米国に許容された範囲内の利益配分巡る権力闘争が日本の政治である。国家主権を奪われ、大きな国益が毀損されたなかで、せせこましい利権獲得競争が行われているのである。国政がそのレベルにあるのだから、地方政治は「推して知るべし」ということだろう。

これからの日本人は、欧米のエリートが日本という国をどういうふうに動かそうとしているかを読み切り、逆にそれを利用して投資、仕事をし、地道に力を蓄えていく努力を積み重ねていくしかないのだろう。また、マスコミに流れない本物情報を得て、健康、体を守るのも一人一人の自助努力にかかっている時代だ。国やマスコミや医者が私たちを守ってくれると、いう創られた甘い幻想から少しでも早く目を覚ますことも肝要である。



今回は、私たち日本人が「侮蔑の構造」のなかで、生きていることがわかる記事を少し、紹介させていただく。以下を読んでいただければ、フクシマの原発事故が必然だったとも言えることがよくおわかりになるはずだ。



*月刊日本 2014年10月号より



「福島原発一号炉は米国GEの欠陥製品だった」



南丘喜八郎



三年前の三月十一日、東日本大震災が東北地方を襲った。マグニチュード九・〇の大地震と巨大津波は福島第一原発の大事故を惹起した。福島原発事故から三年半、事故原因は解明されず、被災者の救済も進まず、政治は無策を続ける。福島第一原発の事故は本当に想定外であり、不可抗力だったのか。事故の原因は一体何なのか。何故に真相究明が遅れているのか。我々国民には知る権利がある。



大震災が発生したのは十一日午後二時四十六分、約一時間後から数度にわたって襲った巨大津波が第一原発を水没させ、全電源喪失状態に陥った。翌十二日午後一時過ぎ、原子力保安院審議官は記者会見で、第一原発周辺でセシウムが検出されたことを踏まえ「炉心溶解が進んでいる可能性がある」と明らかにした。情報を知らなかった菅直人首相は激怒、審議官は即刻広報官を辞任した。以後の会見から「炉心溶解」は「炉心損傷」に言い換えられた。

だが福島一号機は地震発生から四時間後の十一日午後六時五〇分には炉心溶解、さらに核燃料が容器の底を突き抜ける溶融貫通を起こしていたのだ。



何故こうした事態が起きたのか! 何故対応策が後手、後手に回ったのか!



それは、福島第一原発一号炉は米国から無理矢理押し付けられた欠陥製品だったからだ。



一号機は米国の原発メーカーGE(ゼネラル・エレクトリック社)製の沸騰水型マークⅠで、設計・製造から試運転まで全てGEが行った。東京電力は試運転が終わり、「マニュアル通りに運転せよ」と、キーを渡されただけだった。

マークⅠの設計に携わったGEの技術者デール・ブライデンボーは当時「マークⅠは、地震や津波などの大きな災害で冷却機能を喪失すると、格納容器に想定されていた以上の負荷がかかり、破裂する可能性がある」とGE幹部に指摘した。だがGE幹部は「原発を止めれば、マークⅠが危険であることを認めたことになる」と耳を貸さず、ブライデンボーは抗議してGEを辞任する。マークⅠは欠陥原子炉だったのだ。



知らぬは日本政府と東京電力だけだった。米国はアイゼンハワー大統領が原子力潜水艦就航に向け、軍事産業各社に潜水艦に搭載する小型原子炉の開発を競わせていた。名乗りを上げたのはGEとWH(ウエスティングハウス社)だった。結局はWHが開発した加圧水型の原子炉が採用され、GEは敗退した。膨大な研究開発費を投じたGEは窮地に陥った。米国政府はGEの負債を回収するため、日本の原子力発電所にGEの原子炉を押し付けた。これが、福島第一原発一号炉なのだ。



敗戦国の我が国は同盟国米国の強い要望を拒絶することなどできなかった。敗戦直前に広島・長崎に原爆を投下された日本は、米国の圧力によって重大事故の可能性を秘めた欠陥原発を引き受けざるを得なかったのだ。

原子炉の構造は複雑を極め、無数のケーブルやパイプが錯綜しており、自ら設計製造しなければ構造細部まではわからない。設計者自身が告白している通り、マークⅠは欠陥製品であり、想定外の事故が起これば、万事休す! 今回の事故原因は米国が押し付けた欠陥原子炉にあることは明白だ。



政府は今回の原発事故による損害額や廃炉費用について「福島第一の事故による東電が被った損害、被るであろう損害は、五兆五〇四五億円」と試算している。何故に政府はGEに請求書を突き付け、損害賠償を要求しないのか。



ここで驚くべき事実に突き当たる。それは原子力損害の賠償に関する原賠法という昭和三十六年に制定された法律だ。この法律は、原子炉の運転等により原子力損害が生じた場合、その損害賠償の責任は原子力事業者だけが負うことを定めている。欠陥製品を製造販売したGE、米国政府に責任はないという、奇妙奇天烈な法律なのだ。



米国政府は自国の原発メーカーを守るため、日本に原賠法を制定させ、原子力事業者の電力会社だけが無過失責任、無限責任を負うと規定させたのである。平成六年、「製造物責任法」が施行される。これは欠陥製品により損害をひきおこした製造業者に損害賠償責任を課する法律だ。しかし、原子力損害は除外された。原賠法はこの時に改定され「原子力損害ついては…製造物責任法の規定は、適用しない」(第四条3項)とされた。



何故なのか! それは、日本が米国から原子力関連技術の供与を受け、原発事業を始める際、米国から強要された条件だったからである。米国政府は、トヨタの自動車が事故を起こした際、製造物責任を叫び、社長を米議会で謝罪させ、車の販売停止までさせて米国のGMを救済した。だが、米国はGE製原発の欠陥によって炉心溶融の重大事故を引き起こしたにも拘らず、「責任はない」と居直っている。



いま我が国が為すべきことは「対米自立」、そして「独立自尊」の日本国を樹立することなのだ。

(終わり)



*「ロシアの声」がアメリカにいいようにコントロールされている現在の日本を「それでも独立国なんですか」と、皮肉っている。

以下。



「日本政治は米国の独裁下にあり?」



日本政府は、この秋に予定されていたプーチン大統領の日本訪問を来年春に延期する心積もりだ。日本政府は、ウクライナ情勢に関連した欧米諸国の対ロシア制裁強化を考慮し、プーチン大統領の日本招聘を取り消すよう求める米国大統領の主張を受け入れた。



しかし安倍首相は、その際、ロシア指導部との建設的対話継続に期待をかけ、やはり今年秋の日ロ首脳会談実施の可能性を探っている。ただ場所は日本ではなく、中国だ。つい先日行われた、プーチン大統領との電話会談の中で、安倍首相は、11月に北京で開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)の枠内で会談してはどうかと提案した。



安倍氏は、首相に就任してからこれまで5回、すでにプーチン大統領と会談している。ロシア科学アカデミー東洋学研究所付属日本調査センターの責任者、ワレーリイ・キスタノフ氏は「両首脳がAPECという新たな対話の場を利用するチャンスを逃す事は、恐らくないだろう」と見ている―



「この会合は、ウクライナ危機に関連してロ日がショックを経験した後の両国関係の現状を反映したものだ。日本政府は、自国の国益と自分達の戦略的同盟国である米国の利益の間でバランスを取る事を余儀なくされてしまった。

米政府は、日本に対し、文字通り絶えず圧力を加えながら、日本政府に自分達のロシアに対する強硬な立場を押し付けている。米国は、グローバルな反ロシア連合作りを目指しているのだ。」



日本政府は、ロ日関係の中ですでに積み上げられてきたポジティヴなもの失いたくないと考えている。ロ日協力は、日本が己にとって大変重要なものと捉えている平和条約調印の時を近づけたからだ。

日本調査センターのキスタノフ所長は「東アジアの全体的状況を考えれば、日本はロシア政府との協力を必要としている」と指摘し、次のように続けた―



「日本と近隣諸国との関係は、最良というわけではない。今日、北東アジアにおいて、複雑な地政学的ゲームが進められている。10年前であれば、日本と、中国と韓国の反日連合が衝突するなど到底想像できなかったろう。なぜなら、日韓は共に米国の同盟国だからだ。日本政府とロシア政府の関係が確立されるならば、それは、中国と韓国に対するよきデモンストレーションとなるだろう。安倍首相は、中韓両国の首脳ともう長い間、個人的に会えないでいる。そうした状況にあっては、ロシアとの関係発展は、安倍首相の個人的外交成果と見なす事ができる。」



2011年3月に起きた東日本大震災と、それに続く津波により引き起こされた福島第一原発事故、そして全国の原発の稼働停止後、日本のエネルギー依存の中身が急激に変わった。今や国内で生産される電気のほぼ半分は、LNG(液化天然ガス)によるものだ。昨年日本では、エネルギー重要がピークに達したが、日本へのエネルギー供給国としてのロシアの役割は、重くなり続けている。



ここで又、キスタノフ所長の見解を、御紹介したい―



「ロシアは、安定的なエネルギー供給国として自分達を売り込んだが、この事は、エネルギー不足に悩み、供給先の多様化を目指す日本にとって重要だ。現在に至るまで、石油や天然ガスの大部分は、遥か遠い中東から複雑かつ困難なルートを通って、日本へと運ばれている。 それに比べ、ロシア産の石油やガスは、文字通りすぐ隣にある。また日本のビジネス界にとって、自動車産業を筆頭にした自国製品販売の市場として、ロシアは重要な存在である。」



なお最後に、日本のような強い国力を持つ独立国が、自分達の国益と他の国の利益の間でバランスを取らざるを得ないという事、そしてしばしば自分自身を害する選択をするというのは、ロシア人の多くにとってひどく奇妙に見える、という点を付け加えておきたい。(終わり)





以前、「日米地位協定入門」という本を紹介させていただいたが、その紹介文も改めて読んでいただきたい。現在も日本は米軍の軍事占領下にある事実をはっきり日本人は認識してすべてのことを考える必要がある。以下。



「本当は憲法よりも大切な~日米地位協定入門」


(前泊博盛編著 創元社)



はっきり言って日本人としては読みたくない本である。日米地位協定>日米安保条約>サンフランシスコ講和条約(日本国憲法)、この図式をいろいろな文献をあたって見事に証明し、1945年以降、私たちの住んでいる日本が米国に軍事占領され続けていることを見事に実証しているからだ。日本を愛する国民の一人としては、そんな事実を突きつけられれば、おもしろくない気分になるのは当然だろう。

ただ、不思議なのは、1960年安保、1970年安保の時にこういった本が出版されなかったことだ。(もっとも不勉強なので、見落としているのかもしれないが、)冷戦という僥倖に恵まれた時代、経済的成功を手にすることができれば、国としての安全保障上の主権の放棄も仕方がないと、時の為政者は考えて、かつての敵国であるアメリカが日本を軍事占領し続けることを容認する道を選んだのであろうか。また、官僚は官僚で、米国の後ろ盾で、政治家をコントロールできることを歓迎したのかもしれないが、しかし、そのツケを冷戦終了後、日本は、米国に払い続けている。

現在、話題になっているTPPは、その仕上げというべきものであり、実際には日本に経済主権の放棄を求めているとしか思えないものだ。考えてみれば、愛国者を自称する安倍氏が米国の圧力でその決断をしなければならないことは、あまりにも皮肉ことである。

しかし、不可思議なのは、大手新聞の世論調査で、TPP参加表明を評価するという国民が過半数を軽く超えていることだろう。「その国の国民が、その国の主権を放棄する政策に賛成しているとしたら、その国は、国民国家としての存在理由を失いつつあることになってしまう」のだが、

この原因は、本当の事を言わないマスコミと真実を語ることのできない政治家にあることは確かである。その意味でも是非、読んでいただきたい本である。



この本を読むと、戦後日本体制はサンフランシスコ講和条約とともに生まれ、講和条約(憲法を含む)―日米安保―日米地位協定という「三重構造」によって形作られていることがはっきりとわかる。そして、吉田茂首相の元部下の外務事務次官で吉田茂首相と対立して罷免された、寺崎太郎氏(寺崎英成氏の兄)は、この日米地位協定の前身の日米行政協定こそ、米国の「本能寺(=本当の目的)」であったと見抜いていた慧眼の持ち主だった。



一言で言うと日米地位協定とは

「はっきりした言い方で日米地位協定を定義すると、こうなります。

<アメリカが占領期と同じように日本に軍隊を配備し続けるためのとり決め>のである。」『日米地位協定入門』(17ページ)

多くの方は、日米地位協定というのは、「米軍兵士の日本国内に於ける地位を取り決めたもの」であり、だから、米兵が犯罪を日本国内で起こした時の裁判権をどっちが持つかという、日本で司法権が米兵に及ばないという問題のことだけの問題と勘違いしているかもしれない。



しかし、この地位協定は、米兵の地位を定めた17条(刑事裁判権)に関するもの以外に合わせて全部で28条もある。その中には、「基地の提供と返還」「基地内の合衆国の管理権」「航空・通信体型の協調」「軍隊構成員の出入国」「免許」「関税」「調達」(注:武器輸出3原則の抜け穴になっている)「経費の分担」やそれらの米軍駐留に関して日米が協議(注:命令を伝達される)する機関についての取り決めもある。

そして、このようなとりきめは他の国が結んでいる米軍駐留協定と合わせて考えても異様であるという実例が、本書では詳細に説明されている。日米安保体制が極めて特殊な同盟関係であることは、他の国の安保条約や地位協定を研究すれば簡単にわかる。

(終わり)





*ところで、311による放射能汚染によって首都圏から東北にかけて本来なら、人が住むべきでない40bq/m2 以上の地域が下記のように広がっている。日本政府は頬被りを決め込んでいるが、いずれ体の不調を訴える人の多さに吃驚する事態が訪れることになるのではないだろうか。また、特別行政自冶区の日本人は、広島、長崎の被爆者のように欧米のエリートにモルモットとして扱われている可能性も否定できない。



<EU研究機関が発表、移住相当の汚染地(IAEA基準40kBq-m2以上)>

その他にも、日本が米国の特別行政自冶区であることを示す日本のマスコミがほとんど報道しない事項は、少し調べれば、おそらくいくらでも出てくると思われる。



例えば、

○米国政府は、日本のアメリカ大使館の借地料未払いのままにしていたが、

アメリカ政府が東京都港区赤坂にある在日アメリカ大使館の敷地(国有地約1万3000平方メートル)の賃料を1998年以降払っていないことが、9月30日の社民党照屋衆院議員の質問主意書に対する政府答弁書で明らかになっている。

1997年までアメリカ政府が支払った賃料はわずか月額20万8千円で、年間では約250万円だった。98年以降は日米間で契約変更について合意できていないため払われていない。これに比べてイギリスの場合は東京都千代田区にあるイギリス大使館の敷地約3万5000平方メートルの賃料は月額で291万6000円、年間3500万でキッチリと支払われている。

○日本の携帯電話は、米軍から周波数帯の返還によって始めて可能になった。日米合同委員会によって米軍優先の電波の割り当てが決められている。

これは、下記のアドレスの日米合同委員会の取り決めを読めば一目瞭然である。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/sfa/kyoutei/pdfs/03_02.pdf

○現在も日本の空域は、米軍が完全にコントロールしている。



首都圏の空域は米軍の支配下にある

沖縄の空域は100%米軍の支配下にある

ところで、この秋、「日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか」矢部宏治著)という本が集英社から出版される。現在、ネットでダウンロードして半分、無料で読めるようになっている。時間のある方は、是非、ダウンロードして読んでみていただきたい。戦後、国家主権を放棄して漂流している日本という国の姿が浮かび上がってくるはずである。

以下、ダウンロードアドレス:http://www.shueisha-int.co.jp/pdfdata/0236/nihonhanaze.pdf

<知らぬが仏の世界>に住まわされている日本人

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9月 122014

先日、琉球朝日放送が製作した「標的の村」(監督 三上智恵)というドキュメンタリーを見る機会があった。新型輸送機「オスプレイ」着陸帯建設に反対し、座り込んだ東村(ひがしそん)・高江の住民の姿を中心に日本にあるアメリカ軍基地・専用施設の74%が密集する沖縄の厳しく、悲しい姿を市民目線で描写している。たしかに肉眼で見える状況では、本土と沖縄の違いが際立って見えるのではないだろうか。

しかしながら、小生には、そのようには見えない。おそらく、半ば同情心をもって、この映画を観ている本土の人々の方が、本当は目に見えない米国が仕掛けた大きな脅威にさらされている。ほとんどの日本人は全く認識していないが、本土に54カ所ある原子力発電所は、いざとなったら、日本本土を破壊するために米国が仕掛けた核地雷なのである。だから、逆説になるが、米軍が大規模展開する沖縄には、原子力発電所がないのである。わかりやすく言えば、沖縄の人たちが目に見える「米軍の脅威」にさらされているのとは、反対に本土の人は、目に見えない、もっと大きな「米国の脅威」にさらされているということなのである。「日米原子力協定」を読めばわかるが、日本は米国の承認なくして原子力発電所を建設することが現実にはできないようにされている。ということは、何処に原発をつくるかと言うことも、間接的に米国がコントロールしているということを意味している。また、これも多くの人が勘違いしているが、現在、日本の原発はすべて止まっているが、このことによって、地震、津波に対して安全が確保されているかと言えば、全くそんなことはない。多くの原発が使い済み核燃料を原子炉のすぐそばにプールしているが、地震や津波で核燃料プールが破壊すれば、凄まじい臨界がすぐに起こるのである。

*参考 映画「標的の村」公式サイト:http://www.hyoteki.com/





また、現在、沖縄に米軍基地がこれほどある本当の理由もほとんどの日本人には知らされていない。それは、「戦後の昭和天皇の二重外交」における次の言葉によってもたらされたものである。

下記の資料を読んでいただければ、一目瞭然である。

(*沖縄公文書館より)

米国国立公文書館から収集した“天皇メッセージ”(平成20325日)

同文書は、1947年9月、米国による沖縄の軍事占領に関して、宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をまとめたメモです。【資料コード:0000017550】



天皇メッセージ

内容は概ね以下の通りです。

(1)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。

(2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。

(3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。

メモによると、天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られるなどとしています。

1979年にこの文書が発見されると、象徴天皇制の下での昭和天皇と政治の関わりを示す文書として注目を集めました。天皇メッセージをめぐっては、日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする議論や、長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だったという議論などがあり、その意図や政治的・外交的影響についてはなお論争があります。http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/2008/03/post-21.html

それでは、技術コンサルタントの山本尚利氏がブログでわかりやすく、日本の原発が核地雷であることを解説しているので、読んでいただきたい。

以下。

「戦後日本の原発推進勢力は完全にだまされていた!原発は日本を全滅させる核地雷であるという認識が欠落していた」


2014117日)



1.原発推進か脱原発かが東京都知事選の争点に・・・

2014年2月9日に行われる東京都知事選を利用して、細川・小泉コンビが脱原発を国民に訴えることが決まりました。細川氏は、原発は日本を滅ぼす危険性を秘めていると本心から危惧していると思われます。東京都民がどのような判断を示すかで、東電の原発再稼働の行方が左右されるでしょう。今、再稼働問題で東電と泉田新潟県知事との間で齟齬が起きている柏崎刈羽原発も、そして破局事故を起こして廃炉が決定している福島事故原発も、東京を含む首都圏への電源ですから、原発問題に東京都民が無関心でいることは許されません。

戦後70年近く経た日本には、全国規模で50基以上もの原発がつくられました。日本はフランスと並び、原発大国となっています。ところが、2011年の3.11事件にて東電福島原発が破局事故を起こし、国民の原発への信頼感が大きく揺らいでいます。

筆者自身も、この原発事故を経験するまで、原発の技術的問題点に気付きませんでしたが、この事故を経験した今、原発は人間の手に負えないアンコントロラブル技術のかたまりだと理解しています。いかなる人工物も、何らかのトラブルを起こします。その場合、人間の手で修理すればその人工物を復旧させることができます。しかしながら、原発に限って、一定限度を超える事故を起こしたら、致死量の放射能が漏れ、人間が修理のために近づくことすらできません。

その意味で、われら人類は原発のようなアンコントロラブルな人工物をつくってはいけないと思います。

2.なぜ、米国は日本に原発技術を供与したのか

原発技術は核兵器技術と密接につながっています。したがって、原発技術のうち、原子炉のコア技術は依然、米国のWH(ウェスティングハウス)とGEが握っており、日本の東芝、日立、三菱重工はWHとGEからライセンスを受けて原子炉を製造しています。原子炉技術は米国にとって、簡単に他国に供与できない覇権技術のひとつなのです。

にもかかわらず、米国は日本に原発技術を供与したのは確かです。彼らはその代り、日本に対し非核三原則を強要してきました。なぜかというと、日本に核兵器をもたせないようにするためです。

日本が核兵器技術をもつリスクを承知のうえで米国(具体的には米国戦争屋)が、日本に原発技術を供与したのは、彼らが日本に原爆を落とした関係で、戦後、日本を属国支配するうえにおいて、日本国民の反米感情を緩和する狙いがありました。要するに、米戦争屋はやむを得ず、原発技術を日本に供与したのです。

3.日本の原発と北朝鮮のミサイルはセットになっていると知れ

戦後から今日まで70年近くも日本をステルス支配している米戦争屋は日本に日米同盟を強要していますが、彼らの本音は、日本が単独で許容以上の軍事力をもたないように、一定の足かせをはめるためです。

ソ連崩壊後、米戦争屋はソ連の対日脅威の代替として北朝鮮脅威を創出して、日本を絶えず、脅かしてきました。そして、日本が日米同盟を絶対に必要とするために、米戦争屋は闇で北朝鮮の核兵器開発やミサイル開発を密かに支援してきました。それもこれも、ひとえに日本が米戦争屋に依存せざるを得ないようにするための必要悪だったのです。

さらに今は中国も核兵器をもっていますので、なおさら、日本は米戦争屋に依存せざるを得なくなっています。

そのような極東情勢を米戦争屋サイドからみると、日本の原発は実に好都合なのです、なぜなら、日本が米戦争屋に逆らったら、北朝鮮あるいは中国からミサイル攻撃させて絶好の攻撃目標にできるからです。

米戦争屋は中国軍にも北朝鮮軍にも密かに米戦争屋のエージェントを置いていますから、中国軍からも北朝鮮軍からも日本の原発にミサイルを撃ち込ませることはいつでも可能なのです。

4.米国は日本への警戒を一時も怠っていない

米戦争屋は戦争のプロの集団ですから、いかなる国に対しても警戒を怠っていません。とりわけ、かつて米戦争屋に戦いを挑んだ日本に対しては最大級の警戒を常時、実行しているとみなすべきです。

彼らは、もし日本が米戦争屋に逆らったら、ただちに、ミサイルもしくは空爆にて、日本中の原発を攻撃して、全滅させることが可能なのです。

これは冗談ではなく、戦争のプロの本能なのです。

5.原発核地雷説を抜きにする脱原発論は意味がない

戦争のプロである米戦争屋は原発を核地雷と認識していますが、日本の知識人は原発を議論するとき、地震・津波などの自然災害の観点からの原発安全性の議論しかしませんが、これでは、米戦争屋の思う壷に嵌ってしまいます。

細川氏も小泉氏も脱原発論者ですが、地震・津波に対する安全性、放射性廃棄物の最終処理困難性の観点からのみ、脱原発論を唱えていますが、これでは、米戦争屋を喜ばすだけです。

安倍政権は現状の既設の原発を再稼働させたいようですが、さすがに新設は考えていないようです。そのときの国民に対する説得は、自然災害に対する安全性の確保の観点しかありません、ミサイル攻撃、テロ攻撃、空爆による原発の被害に関する議論は皆無に等しいわけです。

われら国民は、原発は日本を全滅させる核地雷であるという認識から、脱原発論の是非を議論すべきです。

いずれにしても、戦後日本にて原発を推進してきた勢力は、戦後日本を密かに仮想敵国視している米戦争屋に大きくだまされてきたということです。われら国民は、このことに今、気付くべきです。 (終わり)

<山本尚利氏プロフィール>

1970年 東京大学工学部船舶工学科卒業。石川島播磨重工業㈱にて造船設計,新造船開発,プラント設計,新技術開発などを担当する。1980年 SRIインターナショナル(スタンフォード研究所)東アジア本部に入り,以降コンサルタントとして企業戦略,事業戦略,技術戦略などのコンサルティングを行なう。2000年 SRIから独立し(有)ISP企画代表取締役となる。

SRIアトミックタンジェリンの技術経営コンサルタントを経て現職兼務。

ところで、以前豊橋市にも講演に来られた元外交官村田光平氏が本当に誠実な人柄を思わせる真摯なフクシマ原発事故に関する論文を発表したので、概要を紹介する。以下。

村田光平氏 論文「福島が世界の究極の破局に発展するのを防ぐために(要旨)」


福島が世界の究極の破局に発展するのを防ぐために(要旨)


平成26年8月23日


村田光平


元駐スイス大使


地球システム・倫理学会常任理事

序 言

福島は世界の安全保障問題である。事故現場は制御されておらず危険な情勢の悪化が見られる。日本政府と東電は内外で信用を失っている。事故後3年半以上を経ても日本は如何に対応すべきか途方に暮れており、この国家の危機がなんと東電の経営危機として扱われている。現在の事故処理の体制には重大な欠陥があり、強力な国際協力によりこれを抜本的に改革することが緊急課題となっている。もはや時間は残されていない。

世界の安全保障問題

福島は原発の存在そのものが安全保障問題であることを示した。何故ならば、使用済み燃料を収めたプールの冷却システムが3日以上故障すればメルトダウンが起こりうるからである。このことは世界に存在する440基以上の原発について言えることである。福島が世界の安全保障問題であることは疑う余地がない。現に、世界の究極の破局に通じ得る4号機の崩落をもたらす巨大地震が発生しないよう祈ることしかできないのである。政府と東電が主導する現体制の致命的欠陥を認識すれば、日本の将来が如何に危殆にさらされているかに驚くであろう。

原子力基本法は国民の安全を確保する責任の所在を明確に規定していない。

事故後原子力規制委員会が関係省庁からの独立させるために設置されたが、その事務局職員の「ノー・リターンルール」は最近無視されている。同委員会の委員はこれまで電力会社とつながりのない者から選定することも守られなくなっている。同委員会は公然と住民の安全委責任を持たないとの立場を明らかにしている。

再び過酷事故が起こらないという保証はあり得ない。次に起こる事故は遥かに破壊的なものとなりうる。福島事故の際、風向きのお蔭で8割の放射性物質は海に放出されたが、風向きが逆であったなら東京は避難を余儀なくされたであろうことを忘れてはならない。

汚染水問題

汚染水問題は全く解決の目途が立っていない。事態は悪化している。トリチウム以外の放射能核種を除去しうる水処理施設は何度も作業の中断を余儀なくされ、問題を抱えている。汚染されていない地下水を直接海に流すためのバイパスが最近完成したが、流出水量の減少に貢献していないことが判明した。山側からの地下水の海への流入量は余りにも膨大であり、このようにして地下水は大量に汚染されている。

トレンチの水を凍らせる試みも成功していない。凍土壁の見通しは暗い。

信頼できる専門家は毎日海に流出される汚染水は1000トン、内600トンは地下水とみている。これに加え、頻繁に派生する豪雨が現場に多量蓄積した放射性物質を海に洗い流している。最近の日本の気候の変化を反映した土砂崩れを齎す局地豪雨の頻発がこれに拍車を加えている。

1年前、東電が3号機のがれきを撤去した際、放射性物質が風により4方8方に飛散した。東電はその放射線量を4億ベクレルと発表したが、実際はその10倍あったとみる向きもある。

事故処理が重要な局面を迎える中で東電は職員の低いモラルに悩まされている。

事故後3000名が退職している。深刻な作業員及び資金確保の問題は東京オリンピックにより深刻な影響を受けることとなろう。

太平洋を越える福島の影響

2014年1月、カリフォルニアの住民から発信された記事が注目された。

同記事は「ロシア国防省報告」なるものに言及しているが、次の抜粋が注目される。

[福島から放出された放射線量は全世界の核実験が放出した10倍に及ぶと専門家は見ており、テキサス、コロラド及びミズーリ各州の雪から危険なレヴェルの放射線量が検出されたとの最近の報道は、米国がこの歴史的な制御困難に見える核惨事の最も厳しい影響に直面するであろうことを警告している。]



ここに述べられていることは真剣な検証を必要としている。これに関連し、米国西岸地域に及びつつある福島の影響につき米国の専門家による調査が行われており、今秋中にも「NATURE誌」がその結果を掲載するといわれている。大きなインパクトを与えるものと思われる。

日本は人類が経験したことのない事故がもたらした事態への対応に苦しんでいるが、国際的な支援を深刻に必要としていることは明白である。

新しい国際システム

福島は原発の過酷事故により国家の危機に直面せしめられた政府の限界を浮き彫りにした。また、一国では事故処理をなしえないことも示された。

一般に、政府の存続の寿命は数年であるが、原発事故は半永久的な対応を必要とするものである。メディアの協力を得て事故への対応に全力投球する責務から目をそらして、これを先送りするようなことはあってはならない。

原発の過酷事故については一定の責務を果たすことを義務とする新しい国際システムを設立することを国際社会に提案したい。少なくとも次の2点が求められる。

1.事故対応に最優先で当たり、最大限の努力をする。

2.人類の英知を最大限動員するための国際協力を具体化する。

結 語

福島が世界の究極の破局に発展するのを防ぐことは国際社会の責務である。

現在の事故処理の体制には重大な欠陥があり、これを抜本的に改革することが緊急課題である。日本は国際連帯と強力な国際協力を必要としている。

(終わり)

<村田光平(むらた・みつへい)プロフィール>

1938年、東京生まれ。61年、東大法学部卒業、外務省入省。駐セネガル大使、駐スイス大使などを歴任し、99年、退官。99年~2011年、東海学園大学教授。現在、同大学名誉教授、アルベール・シュバイツァー国際大学名誉教授。外務官僚時代、チェルノブイリ原発事故をきっかけに「脱原発」をめざす活動を開始。私人としての活動だったにもかかわらず、駐スイス大使時代の99年、当時の閣僚から「日本の大使が原発反対の文書を持ち歩いている」と批判され、その後日本に帰国となり、辞職。さまざまな圧力に屈せず、脱原発の主張を貫いて「反骨の外交官」と呼ばれた。以後、現在まで、主に原子力問題やエネルギー問題などをテーマに言論活動を続けている。著書に『原子力と日本病』、『新しい文明の提唱 未来の世代に捧げる』など。

如何だろうか。海外のマスコミがフクシマ原発事故の現実を真剣に報道し始めたら、2020年の東京オリンピックなど、あっと言う間に吹っ飛ぶ、それが多くの日本人に知らされていない現実である。すべては、世界のニュースを配信するロイターを旗艦に世界のマスコミをコントロールしている国際金融資本の思惑次第なのである。

また、福島県産農産物等を「食べて応援」などという愚行を日本国内では、相変わらず官民一体でやっているが、米国は、日本の農産物の輸入禁止措置を着々と強化している。私には「米国のエリートの日本人に対する侮蔑の高笑い」が聞こえてくるのだが、

*参考:「米国の放射性物質に係る輸入規制の変更の概要について」

http://www.maff.go.jp/j/export/e_shoumei/pdf/usa_gaiyo_130927.pdf



そろそろ私たち日本人は<本当の事を知る勇気>を持つ必要があるのではないだろうか。

米国のジャパン・ハンドラー(リチャード・アミテージやジェセフ・ナイ、マイケル・グリーン)の要求通り、集団自衛権の行使を<解釈改憲という法治国家にあるまじき政治行動>で日本政府は決めたようである。おそらく、日本の若者の命を犠牲にしてまでも日本の官僚は、米国利権を手放したくないというのが本音なのだろう。

たしかに戦後日本は、米国に対して「弱いふり」を続け、それによって米国に守ってもらわねばならないという対米従属の状態を続けてきた。天皇制を維持し、天皇の官吏を守るために好都合だと敗戦処理のために、昭和天皇が高度な政治判断したところからすべてが始まったことも下記に参考資料として紹介する豊下楢彦氏が「安保条約の成立」等で発見した事実である。

その後、米国は1970年代に在日米軍を撤退も検討したようだが、日本の政治を実際に動かしている官僚が「自衛隊はまだ弱い」「憲法で戦争できないことになっている」と思いやり予算等を使って米軍を引き留め続けた。考えてみれば、日本の最高権威である昭和天皇の秘めたる意志なのだから、そう主張するのは、あまりに簡単だったはずである。

この対米従属構造は、米国が日本の「お上」であり、日本の官僚機構がその下僕として(お上の意志の解釈権を保持して)国民とお上の間に挟まって行政権力を確固たるものにしてきた。そして、国権の最高機関である国会を無力化し、実質上の官僚独裁を続けるためのシステムして半世紀以上にわたって機能している。もちろん、現在、軍事費の削減が、覇権国アメリカのテーゼになっている状況では、安倍内閣の集団的自衛権容認は、米国、米軍にとっては、願ってもないことだが、昭和天皇が創ったとも言える<安保国体体制>というべきものから考えると、一線を踏み越える重大な政治判断であることも頭に入れておく必要がある。

つまり、今回、日本の官僚は、日本政治における主導権を離したくないために安倍内閣を動かし、<自衛隊という国家の軍隊>をバーゲンセールに出してしまったということなのである。米国産のミサイルや攻撃機やイージス艦を大量に買うという次元を超え、お金だけでなく、命も提供する約束を、米国のジャパン・ハンドラーと日本の官僚によって安倍政権は選択させられたのである。このことを理解しないと今回の政治判断の本筋が見えてこない。

ところで、NATO諸国は、英仏独すべてが、独自の判断で軍事行動を行う原則に変わってきている。英国はシリア介入を拒否したし、ウクライナ介入でも、独仏は米国に積極的協力をするつもりは全くない。いまや、米軍の頼りは、日本とオーストラリだけである。

このことを逆に考えれば、世界最大の債権国である日本が独立自尊の道を選択し、その道を歩み始めれば、現在のアメリカの世界覇権が終了に向かうことを意味していることにそろそろ日本人は、気が付くべきであろう。

ところで、日本の唯一の同盟国で、唯一の集団的自衛権の行使相手である米国はこの半世紀以上、自作自演性や情報歪曲のない明示的な軍事攻撃を受けて戦争をしたことがない。1990年の湾岸戦争はサダムフセインを見事に騙してクウェートに侵攻させたし、日本による真珠湾攻撃も米英による誘導であったことが今日では、いろいろな公開文書で明らかになっている。大体、少子高齢化社会の日本の若者の命を、かつての敵国であるこんな国のために犠牲にするのは、あまりに馬鹿げているのではないだろうか。

また、近現代における戦争とは、18世紀以降、稀に見る温暖な気候に恵まれた時代にあってインフレ拡大を基調とする経済が発展する中、どうしても繰り返し生じる「バブル」とその後に明らかとなる「供給と需要のギャップ」に伴うバブル崩壊を最終的に解消するために行われてきたものである。大量の兵器・装備品を瞬時にして消費してしまう戦争ほど、効率の良い需要創出手段はない。これが、近代、欧米が行ってきた「戦争経済」というものである。

これに対して近代国家は、需給調整に過ぎないはずの戦争を正当化し、国民をそれに駆り立てることを目的としたものとして従来機能してきた。時の権力者はそれを通じて手にする国家権力に魅了され、自ら(とその一族郎党)は決して戦場には出向かないということを大前提としながら、国民を扇動し、造られた「対外的脅威」に対する憎しみを増長させ、武器をその手にとらせてきたのも近現代史の悲しく厳しい現実である。

しかしながら、以前のレポートでも何回か紹介したように現在、言われている地球温暖化は「高貴なる嘘」で、北半球を中心にこれから地球は寒冷化に向かっているのが現実だ。つまり、世界経済は長い目で見れば、気候変動によって、デフレ縮小化の方向に向かっている。その意味ではもう、欧米が主導してきた「戦争経済の時代」が終わろうとしている。現在の日本のエリートは、その時代認識からしてずれているのではないか。

正論を述べれば、覇権国である米国に陰りが見える現在、本来、日本がやるべきことは、まずしっかりと国としての「独立宣言」をすることである。その際、国連憲章から日本の敵国条項の削除を求めることも必要である。そして清算すべき過去があれば、しっかりと清算し、その上で初めて責任を持った独立国家として国連常任理事国入りを目指すべきであろう。そのキーワードは「対米自立」である。もちろん、戦後政治における国民に隠してきた不都合な真実をある程度、公開、説明しなければ、対米自立も憲法改正も有り得ない話だろう。

それでは、今回の閣議決定を豊下楢彦氏がわかりやすく説明しているので、紹介する。読んでいいただければ、わかるが、おそらく、安倍氏は、外務官僚のレクをそのまま喋っているだけで集団自衛権行使容認の意味を半分しか理解していない可能性もあると思われる。恐ろしいことである。

以下。

*ダイヤモンド・オンラインより

「行使容認の閣議決定をどう見る 戦争の「備え」なき戦争へ」


――豊下楢彦・前関西学院大学教授に聞く



集団的自衛権の行使容認が、ついに閣議決定された。「我が国に対する武力攻撃が発生したこと、または我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」など3要件で、自民・公明両党の妥協が成立したからだ。だが、政府がいかに厳しい限定がついていると説明しようとも、次元の違う世界に踏み出したことは間違いない。国際政治・外交史が専門の豊下楢彦・前関西学院大学教授に、問題の背景を論じてもらった。(聞き手/ダイヤモンド・オンライン編集長 原 英次郎)



日本国憲法は戦争することを前提にしていない



――最初に、閣議決定を前提にして、集団的自衛権が行使される場合を具体的に考えてみると、どういう問題が出てくるでしょうか。



とよした・ならひこ


1945年兵庫県生まれ、1969年京都大学法学部卒業。京都大学法学部助教授、立命館大学法学部教授を経て、関西学院大学法学部教授、2013年に退官。『安保条約の成立』(岩波新書)、『集団的自衛権とは何か』(岩波新書)、『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫)、『「尖閣問題」とは何か』(岩波現代文庫)など多数。近刊に『集団的自衛権と安全保障』(共著、岩波新書)。

例えば、中国が南シナ海の島嶼の領有権をめぐる争いからベトナムに侵攻し、ベトナムが日本に軍事支援を要請してきた場合を考えてみましょう。閣議決定では、「これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」に集団的自衛権を行使すると規定していますから、南シナ海の紛争は必ずしもこの規定にあたらないと判断して、ベトナムの要請を拒否することも考えられます。しかし、日本が拒否すると、中国は「大歓迎」をして、安倍政権は強気な発言を繰り返してきたが結局のところは何もできないのだと、日本の「弱腰」を嘲笑するでしょう。そして、この瞬間に、集団的自衛権の抑止力は失われます。これが、国際政治の力学です。

全く逆に、「今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る」という文言に依拠して、ベトナムを助けるために日本が集団的自衛権を行使する場合はどうなるでしょうか。そもそも、安保法制懇の報告書が出された5月15日の記者会見でも安倍首相は、南シナ海の問題は「他人ごとではない」と明言した以上、ベトナムは「密接な関係にある他国」のはずですし、抑止力を高め中国包囲網をつくりあげるために集団的自衛権に踏み込んだのですから、ベトナムの要請を拒否する理由はありません。

こうして集団的自衛権を行使し、ベトナムを支援するために軍事物資を送っただけでも、日本は中国の「敵国」になるわけですから、日中両国は戦争状態に入ることになります。ところが、そうした時に、実は日本には開戦規定も交戦規定もないのです。さらに、戦争する場合に不可欠の軍法会議も持っていないのです。そもそも、国際法的に見れば集団的自衛権の行使は戦争です。ところが、今の日本国憲法は戦争することを前提にしていない。だから憲法七六条で軍法会議のような特別裁判所を禁止しているのです。軍の規律を守るための軍法会議のない軍隊なんて考えられません。



だからこそ、自民党の憲法改正草案でも、自衛隊に代えて正式の国防軍を組織すると定め、さらに「審判所」と書かれていますが、事実上の軍法会議の設置を規定しているのです。つまり、本来であれば憲法を改正し、自衛隊を本格的な軍隊として位置づけ直し、軍法会議を設け、その上で、戦争としての集団的自衛権の行使を行わなければならないのです。安倍政権は「憲法改正は難しく時間がかかる」と言いますが、昨年、憲法九六条の改正論が出されましたね。あの中に一つの答えがあると思います。九六条を改正して憲法改正の発議に必要な国会議員の数を、現在の三分の二以上から二分の一以上にしようというわけです。しかし考えてみれば、そもそも九六条を改正するためには、あくまで九六条の規定に従わないといけないのです。

九六条を改正しろと唱えた勢力は、三分の二を取る自信があるからこそ、あの運動を始めたわけでしょう。つまりは「やる気」の問題であって、九六条改正論が出されたこと自体に示されているように、「説得力」があれば三分の二以上を獲得できるはずなのです。だから正面切って憲法改正を提起すればいいと思います。そうでないと、そもそも「戦争」としての集団的自衛権の行使はできないのです。



土台のないところに急ごしらえの

家を建てようとしているようなもの



――だからでしょうか、安倍政権や安保法制懇の集団的自衛権をめぐる議論には、具体性を欠いているところが、見受けられるのですが。



それは当然です。すでに述べましたように、そもそも土台のないところに急いで家を建てようとしている訳ですから、議論が支離滅裂になるのは当たり前です。例えば、5月15日の記者会見で、安倍首相は、まず最初に朝鮮半島有事を想定し、アメリカの艦船で邦人が救出されるケースをパネルに描いて説明しました。つまりこういう場合、米艦船が攻撃されても、集団的自衛権を行使できないなら自衛隊は何もできず、日本は邦人を救うことができない、という訳です。

しかし、米軍は朝鮮半島有事の際の民間人救出のマニュアルを持っていて、まずは在韓米国市民、次いでグリーンカードの持ち主、次いでアングロサクソン系の人たち、最後に「その他」があって、そこに日本人が含まれるかどうか、ということです。さらに、救出作戦は基本的に航空機で行われます。要するに、安倍首相が挙げたようなケースは絶対に起こり得ないのです。だから、なぜこうしたあり得ないシナリオを持ち出したのか疑問ですし、仮に安倍政権がこうした米軍のマニュアルさえ知らないとすれば、日本の情報収集能力は無きに等しいと言わざるを得ません。

それから、ミサイルの脅威の問題ですが、石破さん(自民党幹事長)がダイヤモンド・オンラインのインタビューで、グアム島に北朝鮮のミサイルが落ちて何万人もの人が亡くなったら日米同盟は破棄されるとおっしゃっています。だから、日本は集団的自衛権を行使して、そのミサイルを迎撃しなければならないと。しかし、こうしたシナリオをつきつめて考えると、何万人ものグアムの人たちが殺されるほどに、アメリカのミサイル防衛システムは“お粗末なもの”なのか、ということになります。そんな機能しないアメリカのミサイル防衛システムを、1兆円もかけて日本に導入した時の責任者は、他ならぬ、当時の防衛庁長官であった石破さんなのです。何とも皮肉な話です。

さらに、北朝鮮のミサイル攻撃で何万人も死ぬ事態を想定するのであれば、日本の原発はどうするのでしょうか。北朝鮮が米国を攻撃するということは、米国の総反撃によってピョンヤンが壊滅し体制が崩壊することを意味します。こういう「理性を欠いた」北朝鮮であれば、まずは日本を狙うでしょう。実は安倍首相は515日の記者会見で、東京も大阪も、日本の大部分が北朝鮮のミサイルの射程内にあると、その脅威を訴えました。ということは、当然、50基近い原発もターゲットになっている、ということです。ところが安倍政権は、原発の再稼働を急いでいる。特に日本海側に、再稼働を準備する原発が多くあります。稼働中にミサイル攻撃を受けたら、その被害は想像を越えます。これほどにミサイル攻撃は深刻な脅威なのに、なぜ攻撃される危険性の高い原発を再稼働させるのか、根本的に矛盾しています。

安全保障環境悪化の具体的分析が何もない



――集団的自衛権の問題は、日本を巡る安全保障環境をどう認識するかという問題と深く関わります。安倍政権や安保法制懇の報告書は、中国や北朝鮮の脅威ばかりを強調しますが、国際情勢についてはどうお考えですか?

官邸の関係文書や安保法制懇の報告書にみられるように、「安全保障環境の悪化」というのが、もうキャッチコピーみたいになっています。ところが、その中身はほとんど分析されていません。北朝鮮のミサイルが強化されている、中国の軍事大国化が進んでいる。それだけがあって具体的な分析は何もない。

例えば今の米中関係、それから韓国と中国の関係はどうなのでしょうか?それについては何の具体的な分析もない。そこで、まず米中関係ですが、確かに現在の米中両国には、いろいろな対立軸があり、米国は中国の軍事的脅威に「全次元」で対抗する軍事戦略を構築しようとしていますが、他方でオバマ大統領はずっと、「米中関係は世界で最も重要な二国間関係だ」と言っています。

なぜ重要かと言えば、実は4月の安倍さんとオバマさんの首脳会談を経て出された日米共同声明のなかで、イランの問題、アフガンの問題、北朝鮮の問題、ウクライナの問題など、いろんな問題を挙げて、こういう重要な国際問題について中国は非常に重要な役割を果たしうる、だから中国との間には生産的、建設的な関係を結ばねばならないと明記され、もちろん安倍首相もそれに同意したのです。

つまりアメリカは、国際社会のいろいろと重要な課題について、中国は一緒になってそれを解決していく対象国だと認識している。だから、もちろんアメリカは中国を警戒しているけれど、なんとか国際社会に取り込んでやっていこうというのが、今の米中関係ですね。だから、いま演習中のリムパックに中国海軍が初めて招待され、米軍に次ぐ規模の1000人以上の中国軍人が参加していますし、79日からは北京で米中経済戦略対話が開かれ、米中「共同閣僚会議」とも言われるように、あらゆる課題について包括的な協議がなされ、危機管理体制の構築が目指されています。

次に韓国と中国の関係です。なぜ朴大統領があれほど「反日主義」なのかについては、親日大統領だった父親との関係や彼女の“独善体質”なども挙げられていますが、少なくとも事実関係としては、朴さんが大統領に就任した当初は、早く日韓首脳会談をやりたい、そこで、まず外相を派遣してお膳立てするという日程を考えていたのです。ところが、それを潰したのが麻生副大臣の靖国参拝で、それですぐに外相の派遣が取りやめになって、全部ご破算になった。当時は、安倍さんも村山談話や河野談話を見直すなどと、どんどん発言する。だから結局、朴さんをある意味で中国に追いやる形になってしまった。

その後もいろいろな経緯ありますが、今の朴政権の外交は「親米和中」といって、米韓同盟を軸にしながら中国と和するというものです。中国の習近平主席が、恒例となっている北朝鮮首脳との会談に先んじて、初めて韓国を7月3日から訪問し朴大統領と会談したことは、象徴的です。両首脳の会談は、これで5回目の会談であり、今回は中韓FTAの年内妥結を目指すことでも合意がみられたとのことです。

以上のように見てきますと、米国にとっても韓国にとっても、中国は「敵」ではない、ということが明らかになってきます。そもそも、集団的自衛権というのは、「共通敵」の存在を前提にします。安倍さんは事実上、中国を対象に集団的自衛権を考えている訳ですが、今や肝心のこの構図が成り立たない。つまり中国は、日米韓の「共通敵」と単純に位置づけることなど全くできない情勢なのです。安倍さんの構図を前提にするなら、皮肉な言い方をすれば、こうした情勢こそ「安全保障環境の悪化」と言うべきでしょうね。



安倍政権に対する米国の立ち位置は複雑



――安倍政権が集団的自衛権の行使に向けた閣議決定を行ったことについて、米国の軍部も国務省も「歓迎」を表明しています。他方で、これまで最も強く日本に集団的自衛権を求めてきたジャパン・ハンドラーのなかには、ジョセフ・ナイ氏のように、安倍政権のナショナリズムに警告を発したりする動きもありますね。

たしかに、安倍政権に対する米国の立ち位置は複雑です。ジョセフ・ナイやリチャード・アーミテージもそうですが、最も危惧しているのが、安倍首相の靖国参拝に象徴されるナショナリズムの問題です。そもそも、なぜ靖国参拝が国際問題化するかと言えば、ご承知のように1978年に松平永吉宮司は、「東京裁判を否定しなかったら、戦後の日本は生まれ変われない」という信念をもってA級戦犯の合祀に踏み切りました。つまり、A級戦犯の合祀は明らかに、日本の戦争責任を問うた東京裁判を否定する行為として行われたのです。だから当然、首相や政治指導者たちの靖国参拝が国際問題化するわけです。

そもそも、東京裁判を否定するということは、戦後アメリカが作ってきたサンフランシスコ体制を軸とした戦後秩序というものを否定することを意味します。私は、論理的に、あるいは心情的に戦後秩序を否定する政権が、かなりの支持基盤をもって誕生し、それが運営されているということは、戦後初めてのことだと考えています。だからこそ、韓国や中国ばかりではなく、米国も警戒を怠らないのです。

例えば、4月の日米首脳会談でオバマさんは安倍さんの進める集団的自衛権の行使を「歓迎し支持する」と言っていますが、実はここには、「日米同盟の枠内」と「近隣諸国との対話」という二つの条件が付けられています。つまりこれは、仮に日本が集団的自衛権を行使するにしても、米軍の指揮下で行えということ、さらにはその前提として、「近隣諸国」、つまりは韓国や中国ときちっと話し合え、ということなのです。厳重にタガをはめているのです。だから、日本をめぐる「安全保障環境の悪化」という場合、安倍さんが靖国を参拝したことが、どのような影響を及ぼしているかということを、しっかりと分析する必要があります。

未曽有の「全次元」戦争に われわれは直面する

――安倍首相は「積極的平和主義」を掲げていますが、本当に「平和主義」なのか、あちこちから疑問が提出されていますが。

まず、安倍首相の路線が推し進められていった先に、どういう事態が待ち受けているのかを考えてみましょう。安倍さんは「積極的平和主義」を唱えているけれども、具体的に展開されていることは、自衛隊の軍事的役割を増大させることばかりで、本質的には「積極的軍事主義」と言うべきだと思いますね。

その軍事主義を象徴的に示すのが武器輸出です。4月には、これまでの「武器輸出三原則」を撤廃して「防衛装備移転三原則」を打ち出しましたが、紛争国の定義を曖昧にしている。なぜかといえば、F35ステルス戦闘機をイスラエルにも輸出できるようにしたいからです。イスラエルのような紛争のただ中にある国にも輸出できるとしたら、どこの国にでも輸出できる。だから事実上、日本が「死の商人」になっていく、ということです。つまり、「兵器を輸出して平和になろう」という路線なのです。

こうした軍事と軍事の対決路線を前提に、国際政治における「最悪シナリオ」を想定すると、それは米中戦争です。この戦争は、宇宙、空、海、陸、サイバー空間、無人機なども含む、未曽有の「全次元」の戦争となるでしょう。例えば中国からすれば、アメリカの軍事戦略は、宇宙に張り巡らした圧倒的な衛星網があるからこそ展開できる訳で、当然こうした軍事衛星に攻撃を加えるでしょうし、米軍は宇宙空間から迎え撃つでしょう。

さらにサイバー戦争ですが、これの怖いところは、米軍とイスラエルがイランの核施設にサイバー攻撃を仕掛けたように、原発が破壊される可能性が現実のものとなることです。さらに無人機戦争は当然のことですが、ロボット兵士やロボット軍団も登場してくるでしょう。この点で、アメリカをはじめとした国際的な軍事産業にとって、日本のロボット工学を軍事に取り込むことが重要な狙いとなっています。

こうした、かつて人類が経験したことのないような新たな次元の戦争に、日本も軍事的に積極的に加担していくのかどうか、これが今問われていることなのです。

紛争の危機が増大している今こそ

憲法の平和諸原則が重要な意味を持つ

――それでは、集団的自衛権も行使でき戦争もできる「普通の国」ではなく、憲法の「平和主義」を生かした形で、東アジアやグローバルな平和の構築に、貢献する方策はないのでしょうか。

この問題を考えるためにはまず、いわゆる「パワーシフト」と言われる問題の構図を捉え直しておくことが必要でしょう。戦後の世界はある意味で、アメリカの「例外主義」を認めてきました。つまり、アメリカは「国際紛争を武力で解決する」という前提でやってきたわけで、国際法から外れたような「軍事介入」や紛争を引き起こしても、その「例外主義」で世界の秩序が一定に保たれてきたと見なされ、事実上国際社会で認められてきた訳です。しかし、アメリカがアフガン、イラクで泥沼の戦争にはまり込んでいる間に、中国が急速に台頭してきたために、アメリカの力が相対的に衰退したのではないか、「パワーシフト」が進んでいるのではないか、として論じられているのです。

ここでの問題は、中国があまりにも急に大国化したため、国際社会でどう振る舞ったら良いのか分からない、という事態に直面していることです。私はこれを中国の“学習過程”と捉えていますが、例えば防空識別圏も、あたかも自国の領空だと思い込んでいたとか、自衛艦にレーダー照射して、それがいかに危険きわまりない行為であるか分かっていない、あるいは領土、領海をめぐる国際法の認識の欠落などです。

こうした中国に対して、オバマ大統領は「国際社会のルールを守りなさい」という形で、国際社会に取り込もうとして臨んでいる。私は、これは基本的に正しい主張と考えます。ただ厄介なことは、上に述べたように、アメリカはずっと「例外主義」でやってきた。その典型が、国連海洋法条約の問題です。この条約は海の憲法、海のルールと言われているわけで、オバマさんは盛んに中国に対して「この海のルールを守りなさい」と言っている。ところが、先進諸国のなかで、唯一国、アメリカだけがこの条約を批准してないのです。

問題は、上院が批准に反対していることなのですが、なぜ上院が反対するかというと、アメリカ海軍の「行動の自由」が縛られる、アメリカの「単独行動」ができなくなる、という理屈なのです。しかし、この論理を出せば出すほど、喜ぶのは中国です。この論理に固執している限り、中国の勝手な行動を抑えられない。だから、「拡張主義」に走る中国を抑えるためには、アメリカも「例外主義」を捨てて、普遍的なルールに従う必要がある、ということなのです。そして、こうした米国の「例外主義」と中国の「拡張主義」の狭間にある日本こそが、普遍的なルール、国際社会のルール化に向けて、重要な役割を果たすべきなのです。

以上のように考えてくると、実は、憲法九条を背景として作りあげられてきた、武器輸出三原則とか、非核三原則とか、宇宙の平和利用原則とか、原発の平和利用原則とか、専守防衛の原則などの、憲法の平和諸原則が、単に日本のためばかりでなく、安全保障のジレンマに落ち込み、紛争の危機が増大している今日の国際社会においてこそ、非常に重要な意味を持ってきていると考えるのです。

実は、去る5月にロボット兵器の規制に向けての専門家会合がジュネーブで初めて非公式に開かれたのですが、日本は軍事化の方向に走るのではなく、宇宙空間の軍事利用やサイバー問題をはじめ、野放し状態であったこうした軍事分野において国際的なルール化が構築されていくように、そうした方向においてこそ、最大限の力を傾注すべきなのです。(引用終わり)

欧米が創り出したおとぎ話?

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6月 252014

もうだいぶ前のことだが、配偶者に勧められてパトリック・ジュースキントの「香水~ある人殺しの物語~」という小説を読んだことがある。舞台は18世紀のフランスのパリ。町は汚濁と猥雑にまみれ、至るところに悪臭が立ちこめている。あまりにも不衛生で、貧しいヨーロッパの大衆の生活が見事に描写されていた小説だった。その後、この小説が映画化されたので見たが、主人公の出生シーンはなかなか衝撃的だった。腐った魚やらゴミやらが回りに悪臭を放っている下町のとある魚屋の女性が主人公:ジャン=バティスト・グルヌイユのヘソの緒を自身で、包丁で切り落とし、そのまま、ゴミ溜めに捨ててしまう場面を映画は忠実に再現していたからだ。





ところで、16世紀の「大航海時代」以降、アフリカ、アジア、北アメリカ、南アメリカの人たちから大規模な略奪を重ねたヨーロッパ人が、近現代史、200年の勝利者であったために西洋に対して、私たち日本人はあまりにも美しい誤解を巧みに植え付けられたまま、現在に至っているようだ。そろそろ冷静にありのままの事実を直視すべき時であろう。



以前のレポートでも紹介させていただいたが、ヨーロッパが200年にわたる略奪、殺戮をほしいままにしていた1820年においても、まだ、アジアの方が豊かだったのである!

1820年において中国、インド、東南アジア、朝鮮、日本からなるアジアの所得は、世界の58%を占めていた。その後、19世紀におけるヨーロッパの産業革命、20世紀に入ってアメリカの工業化が進むことによって、1950年には、ヨーロッパとイギリスとイギリスの4つの旧植民地(アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド)が世界所得の56%を占める一方、アジアのシェアは、19%までに落ち込んだ。ところが、この頃からアジアは成長し始め、1992年の段階で、39%までに回復。2025年には、57%に達し、200年ぶりにかつての地位を取り戻すことが予想されている。(「アジア経済論」原洋之介編NTT出版、「近代中国の国際的契機」東京大学出版会)



そこで今回は、21世紀の新しい時代に備えて私たち日本人が目を覚ますための本を紹介したい。「ものぐさ精神分析」という本で一世を風靡した岸田 秀氏の「日本がアメリカを赦す日」(毎日新聞社)である。有名な政治学者である京極純一氏がこの本の書評を書いていたので、まず初めに紹介させていただく、以下。

<歴史における正義とは何か>



著者の岸田秀先生は精神分析の専門家で著書が多い。このたび、「日本とアメリカの歴史の、これまたそのごく一部にほんのちょっぴり触れただけ」と謙遜(けんそん)する新著『日本がアメリカを赦(ゆる)す日』が毎日新聞社から出版された。読み易く、分かり易いことは、これまでの著書と同様で、ご一読をおすすめしたい。



表題が示すように、この本は、日米関係150年の歴史を資料に、日本人とアメリカ人の生活心理と相互交流の実際を、精神分析の角度から、的確に解説した、面白い読みものである。

この書物の冒頭、1853年、ペリー艦隊来航の後、「近代日本はアメリカの子分として出発しました。」と著者は説明する。その後の「日本は屈辱感、敗北感、劣等感に呻(うめ)きつづけてきました。その屈辱感から逃れるためには、日露戦争は日本民族の優秀さのゆえに勝ったのだという、この神話を是が非でも信じる必要がありました。のちの日米戦争惨敗の原因は、この神話です。」



ところで、日本の相手役であるアメリカ側は、「自分が相手のプライドを傷つけたことに鈍感で無神経です。自分以外の人間の行動におけるプライドという動機が見えません。」



その上、「近代日本は、外国を崇拝し憧憬する卑屈な外的自己と、外国を嫌い憎む誇大妄想的な内的自己に分裂して」いた。そして、日米お互いに相手の神経を逆撫でするとき、「アメリカは意識的、意図的に日本をイライラさせ、日本はつい気づかずにアメリカをイライラさせた。」「真珠湾奇襲に対するアメリカのすさまじい怒りは、アメリカ人の主観としては、恩知らずの裏切り者に対する善意の恩人の怒りでした。」「さらに深い理由、第一の根本的理由は、僕(著者)によれば、アメリカの歴史、インディアン虐殺の歴史にあります。アメリカ人は無意識的に日本人をインディアンと同一視していると考えられます。人間は自分が犯し、かつごまかした悪事と似たような悪事を他人が自分に対して犯すと、激しく非難するものです。罪悪感を外在化するためです。」「アメリカにとっても、日米戦争はやる必要のなかった戦争でした。」「日本は敗戦後から今に至るまでずうっとアメリカの属国で、その占領下にあります。」



「現在の日本人の平和主義は、平和主義でなく、降伏主義、敗北主義です。」「一種のマゾヒズムでしょうね。」「現状では、日本の平和主義は偽善でしかない。」



生活と文化については「一般性とか普遍性の面でアメリカ文化のほうが日本文化より上だ。」日本文化の基盤は「和」と「世間の眼」に基づく「一種の性善説」の人間観である。しかも、「言語化されていないため、外国人との関係を築くのが難しい。」「が、捨てることもできない。どこでも日本人ムラができる。」

アメリカは「おのれを普遍的正義の立場、善悪の絶対的判定者の立場におき、それに従わざるを得ないような無条件降伏に敵を追い込んでおいて、敵を裁くのが好き」である。

アメリカは「インディアン虐殺を正当化」する「正義の国」とされ、「強迫神経症の患者で、反復強迫の症状を呈している。」「今日の日本の繁栄は、インディアン・コンプレックスに苦しむアメリカ人の精神安定のために必要だったのです。」日本の繁栄は「アメリカ文化の普遍性の夢がついに実現した物語でした。」



アメリカと日本の社会と文化の特性をよく心得た解説書、実際生活の中で参考になる事柄の多い有用な手引書としておすすめしたい。

「毎日新聞2001年4月8日」(引用終わり)

ところで、著者の「アメリカの子分としての近代日本」という分析は、多くの日本人のプライドを傷つけるかもしれない。しかしながら、現実を冷徹に認識できなければ、現実を変える対処法を見つけることは、できないことを肝に銘じるべきだろう。特に日本は敗戦後から今に至るまですっとアメリカの属国で、その占領下にあることを冷静に認識していないと、米国から要求のあった集団自衛権、TPP等の問題を安易に捉えることになり、これから大変なことになるだろう。米国覇権に陰りが見える時代に入った今、読み返してみる価値は十分にある。



もう、1冊は「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」というこれも同じく岸田氏の本である。この本は、大論争を欧米に巻き起こした英国人歴史学者マーティン・バナールの「黒いアテナ」の解説を主に岸田氏が独自の見解を述べるユニークなものになっている。山川出版の世界史の教科書とあまりに内容がかけ離れていることに吃驚される方も多いと思われるが、著者は、現在、一般に流布している世界史は、西洋人が自分たちを優位に立たせるために作ったプロパガンダ、コマーシャルだと言っているのだから、全く立場が違うわけだ。



以下、本書から引用。(208ページ)

<ヨーロッパ中心主義の悪魔的魅力>



アーリア主義を頂点とする、ヨーロッパ人しか文明をつくれないとか、ヨーロッパ文明は最高の普遍的文明であるとか、ヨーロッパ民族は世界を支配すべき優秀民族であるとかの近代ヨーロッパ中心主義の思想をヨーロッパ民族がつくった動機は、ほかの諸民族に対する嫉妬と劣等感である。隠蔽されているというか、あまり認識されていないようであるが、世界の各民族がそれぞれ主として自分たちの土地の産物で暮らしていた近代以前においては、土地が痩せていて気候条件にも恵まれなかった(もちろん、不利な条件はそれだけではなかったが)ヨーロッパ民族は世界の諸民族の中でいちばん貧しい民族であった。もうとっくに嘘がバレているが、いわゆる「未開人」が貧しく惨めな野蛮生活を送っていることを「発見」したのは、近代ヨーロッパ人の探検家たちであった。ところが、いわゆる「未開人」を貧しく惨めな生活に追い込んだのは近代ヨーロッパ人であって、そのような「発見」はこのことを隠すために必要だったのである。



近代ヨーロッパ人は、世界の情勢を知るにつれ、ますます他民族への嫉妬に駆られ、劣等感に苦しめられ、そして、貧しさに苛まれて、どこかほかにいいところがあるような気がして故郷のヨーロッパに安住できず、難民あるいは出稼ぎ人となって世界各地に押し出されてゆくようになった。そして追い詰められた者の強さで必死にがんばったのであった。ヨーロッパ中心主義の歴史観では、「大航海」時代のヨーロッパ人は、冒険心に富み、進取の精神に満ち溢れ、あらゆる危険をものともせず、未知の世界の果てまで余すところなく探求して飽きなかった勇敢な人たちだったことになっているらしいが、それは自己粉飾である。なかには、そういう者もごく一部いたかもしれないが、故郷のヨーロッパをあとにした者の大部分が飢餓や宗教的、人種的迫害から必死に逃れようとした難民であった。地球規模で言えば、近代はヨーロッパに大量の難民が発生した時代であった。故郷で何とか過不足なく暮らしてゆけている者がどうして故郷を捨てて見知らぬ土地へ逃げてゆきたいと思うであろうか。



その結果、必然的に、ヨーロッパ以外の世界の各地でヨーロッパ民族と他の諸民族とがぶつかることになった。ヨーロッパ民族と他の諸民族との争いは、貧しく惨めな家に生まれ、そのため、いじけて意地悪ですれっからしで疑い深く、せこい性格に育ち、争いの絶えない厳しい環境のなかで場数を踏んでいるために喧嘩が滅法強く、暴れん坊で、家にいたたまれず飛び出してきて帰るところのない餓鬼と、お金持ちの裕福な両親のもとに生まれ(自然に恵まれ)、可愛がられてのんびりした性格に育って、人の悪意というものをあまり知らず、のほほんとわが家で豊かに暮らしていたお坊ちゃん(中略)との争いであった。

勝負は初めから決まっていた。この争いの最も典型的な例は、十六世紀初め(1531~1533年)のスペイン王国のごろつきピサロとインカ帝国の皇帝アタウァルパとの争いであった。要するに、ヨーロッパ人と比べれば裕福に暮らしていた他の諸民族の多くは、無警戒だったということもあって、手もなくやられてしまったのであった。それ以来、貧富は逆転し、ヨーロッパ民族は世界の諸民族の中でいちばん豊かな民族となった。



そのときに、惨めで劣悪な過去を隠蔽し、立派な過去を捏造しようとするヨーロッパ人の大掛かりな企てが始まった。その結果できあがったのがヨーロッパ中心主義の思想であり、ヨーロッパ製世界史である。それは近代ヨーロッパ人の他の諸民族に対する嫉妬と劣等感に基づく何かに駆り立てられたような残忍さ(中略)、すでにヨーロッパ内の少数民族を相手に習得していた技術を応用した他の諸民族の支配と搾取を正当化し、それに伴う罪悪感をごまかすということを動機として形成された思想であった。

ローマ人から蛮族と呼ばれていた古代ヨーロッパを古代ギリシアにすり替え、あまり自慢にならない中世の「暗黒時代」をすっ飛ばし、近代ヨーロッパ文明を栄光ある古代ギリシア文明の直系の子孫とする歴史の捏造もこの思想の一環であった。それは、卑賤から身を起こして成り上がった一家が滅亡した昔の名家の系図を買い、過去を隠してその末裔と称するようなものであった。だから、「お家復興」というか、再生、すなわちルネサンスと称したのである。」              (引用終わり)



亡くなった小田実氏がマーティン・バナールの「黒いアテナ」の書評を書いているので、紹介する、以下。

『黒いアテナ』の鮮烈な主張



昔はよく現代のギリシア人が「黒い」のは、金髪、白い肌、長身、長脚のギリシア彫像の栄光の時代のあと、ギリシアの周囲の蛮族(英語のバーバリアンということばは、ギリシア語の「バルバロス」から来ている。すなわち、文明人のギリシア人の耳にはバルバルとしか聞こえないわけの判らないことばをしゃべる連中はそれだけで野蛮人だ。そういうことになった)と混交、混合し、さらには蛮族中の蛮族のトルコ人の支配を長期間にわたって受けたからだと言われたものだ。最近はそうでもなくなって、あれは昔からそうだったのだと言われるようになって来ていたが、それをまちがいなくそうだと強力に主張した一書が近年になって現れた。それが、この1987年に第1巻が世に出たマーティン・バナールの『黒いアテナ』だ。彼はそう証拠を集めて主張しただけではなかった。元来が本質的に「黒いアテナ」だったのを「白いアテナ」に変えたのは1785年に始まるドイツを中心とした「ヨーロッパ、西洋」の歴史の「偽造」だと、これもまた強力、鮮烈に主張した。



ギリシア語の語彙に見られる西セム系、エジプトのルーツ



この本のことをここで長々と説明するつもりはない。すべては『黒いアテナ』自体を読めば判ることだ。ただ、ここで私なりにまとめ上げた紹介を少し書いておけば、バナールは、今はアメリカ合州国のコーネル大学の教授だが(それともすでに引退しているかも知れない、それほどの年齢だ)、もともとはイギリスのケンブリッジ大学で中国学を勉強し、教えもしていたイギリス人の70歳に近い年の学者だ。若いときには、ベトナム反戦運動に参加し(そのころ、ひょっとしたら、私は彼に会っていたかも知れない)、同時に当時イギリスでは事実上何の研究もされていなかったベトナムを研究、日本史も勉強した。両者ともに、混合しながら、同時に独自に文明をつくり出していて、それはのちのギリシア研究のいい「モデル」になった(そう彼は『黒いアテナ』第1巻の「はしがき」で書いている)。

そのあと、同じ「はしがき」のなかでの彼自身のことばを引用して言えば、「世界の危険と興味の中心となる焦点はもはやアジアではなくて東地中海になった」と彼には見えて来て、そちらに研究対象を移し、ヘブライ語(彼には少しユダヤ人の血が入っている、そう彼は言う)、エジプト語を学び、さらにギリシア研究に至って、彼は重大な「発見」を二つする。ひとつは、ギリシア語の語彙の半分はインド・ヨーロッパ語系のものだが、あと25パーセントは西セム語系(ヘブライ語――古来のユダヤ人言語もそこに入る)、20―25パーセントはエジプト語だという「発見」だ。しかし、なぜかくも混交が起こったのか。それはかつて古代ギリシアがエジプトと西セム語系言語をもつ古来のユダヤ人の国フェニキアの植民地だったからだ――これがバナールの第二の「発見」だが、そうだとすれば、当然、古代ギリシアには、フェニキアのユダヤ人要素とともに、「黒い」アフリカの一部のエジプトもギリシアの構成要素のなかに入って、古代ギリシアは「白いアテナ」ではなくなり、「黒いアテナ」、そうとしか考えられないものになる。そうバナールは強力に主張する。



西欧による歴史の「偽造」



これだけでも大問題になって論争がまきおこって不思議はないが、もうひとつ、彼は重大な主張を、証拠を集めてやってのけた。それは、さっき述べた歴史の「偽造」である。それは大航海時代以来、侵略と植民地支配で世界の中心にのし上がって来た「ヨーロッパ、西洋」が、ことにそのなかで新興勢力のドイツが牽引力になって、近代になって自分たちの文明を古代ギリシアに始まるものとして、ここ200年のあいだに元来が「黒いアテナ」だったはずの古代ギリシアを、「白い」自分たちの先祖であるのにふさわしく「白い」アテナに「偽造」してのけたというのだ。この本の副題は「古典文明のアフロ・アジア的ルーツ」だが、その第1巻(これが1987年にまず出版された)にさらにもうひとつつけられた副題は「古代ギリシアの偽造 1785年―1985年」とまさに激しい。また、きびしい。



『黒いアテナ』をめぐる論争



これでこの本が「ヨーロッパ、西洋」で問題にならなかったら不思議である。案の定、大論争がまき起こり、それはまだ続いている。「聖書以来、東地中海についてのもっとも論議された本」と評した学者もいるし、「好むと好まざるとにかかわらず、バナールの事業は、ギリシア文明の起源と古代エジプトの役割についての次の世紀における認識を深いところで示している」と言った学者もいる。そして、この二つの発言を紹介しているのは『大学における異端』と題した、これまでの『黒いアテナ』にかかわっての論争を「肯定」「否定」あわせてまとめて紹介した本だが、こうした本が出版されていることだけでも、論争の規模の大きさと激しさが判るだろう。「賛否」両論半ばと言いたいが、マーティン・バナール自身が書いているように、「否」が「賛」より多いようだ。そして、「否」が古代ギリシア研究の専門家に多くて、「賛」は私自身をふくめて、この本をこれから読もうとしている読者のような専門家でない知識人――「知的大衆」に多いと、これもバナール自身が書いていた。



バナールによるパラダイム転換



こうした事態にあって、よく使われるのは、研究、本の質の理由だ。質が劣っているので、この研究、本はわが図書館には置かない――これがよく使われる理由だが、この質の問題でいつでも出て来るのは、専門家が見てどうかという問題だ。

私にはバナールの学識、あるいは、逆にバナールを「アマチュア」とこきおろすレフコビッツの「専門家」としての学識を判定する能力はないが、私にはバナールの学識、そして、研究それ自体は決して「アマチュア」程度のものとは思えない。しかし、たとえ、彼が「アマチュア」だとしても、バナール自身が主張するように、トロイの遺跡をみごとに発掘してみせたハインリッヒ・シュリーマンは言うに及ばず、クレタ線文字Bをギリシア語としてこれまたみごとに解読してみせたマイケル・ベントリスも偉大な「アマチュア」だった。シュリーマンの本業が企業家なら、ベントリスは建築家だ。

バナールは『黒いアテナ』第1巻の「序文」の冒頭に、科学における「パラダイム」転換の必要を説いたトーマス・クーンのことば、「新しいパラダイムの根本的な発案をなしとげる者は、たいてい常に、彼らがパラダイムを変えるその領域において非常に若いか、非常に新しいか、そのどちらかである」を引用したあと、中国研究を長年して来た自分が今『黒いアテナ』でしていることは、厳密な意味でのパラダイム転換ではないとしても、それと同じように根本的なことだと述べていた。私も彼のことばに同意する。

(引用終わり)



どう判断されるかは、別にしてあまりにも興味深い指摘である。

ここで、私たちが忘れてはならないのは、ジョージ・オーウェルの次のことばである。



「過去を支配する者は未来を支配する。そして現在を支配する者は過去を支配する」

(『一九八四年』)





*ところで、日本では宮司の三島敦雄氏が1927年に「天孫人種六千年史の研究」を刊行し、シュメル人と日本人を結び付ける歴史学説を唱えたことがある。この書は100万部近くの超ベストセラーになったが、1945年の敗戦後、GHQはこの本を一冊残らず探し出して没収、焼却した。ご存じだろうか。

このように歴史は勝者によって作られていくのである。

先日から、知人に勧められた、豊橋出身の西谷 修さんが監修した「自発的隷従論」を読んでいる。フランスの有名なモンテニューの夭折した友人であるエティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(彼は1530年に生まれ、1563年に亡くなった。)が18歳前後の書いたと言われる小論である。吃驚するのは、この本が書かれた16世半ばから400年以上の歳月を経ているにもかかわらず、現在の日本の不思議な無力感に包まれた社会状況をあまりにも適確に言い当てていることである。(以下、彼の興味深い言葉を引用)



「私は、これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただ一人の圧制者を耐え忍ぶなどということがありうるのはどうしてなのか、それを理解したいのである。その圧制者の力は人々が自分からその圧制者に与えている力に他ならないのであり、その圧制者が人々を害することが出来るのは、みながそれを好んで耐え忍んでいるからに他ならない。その圧制者に反抗するよりも苦しめられることを望まないかぎり、その圧制者は人々にいかなる悪をなすこともできないだろう。(P11)」



「これは一体どう言うことだろうか。これを何と呼ぶべきか。何たる不幸、何たる悪徳、いやむしろ、何たる不幸な悪徳か。無限の数の人々が、服従ではなく隷従するのを、統治されているのではなく圧制のもとに置かれているのを、目にするとは!(P13)」



「仮に、二人が、三人が、あるいは四人が、一人を相手にして勝てなかったとして、それはおかしなことだが、まだ有りうることだろう。その場合は、気概が足りなかったからだと言うことができる。だが、百人が、千人が、一人の圧制者のなすがまま、じっと我慢しているような時、それは、彼らがその者の圧制に反抗する勇気がないのではなく、圧制に反抗することを望んでいないからだと言えまいか。(P14)」



「そもそも、自然によって、いかなる悪徳にも超えることのできない何らかの限界が定められている。二人の者が一人を恐れることはあろうし、十人集ってもそういうことがあるうる。だが、百万の人間、千の町の住民が、一人の人間から身を守らないような場合、それは臆病とは言えない。そんな極端な臆病など決してありえない。(P15)」



「これは(支配者に人々が隷従していること)、どれほど異様な悪徳だろうか。臆病と呼ばれるにも値せず、それふさわしい卑しい名がみあたらない悪徳、自然がそんなものを作った覚えはないと言い、ことばが名づけるのを拒むような悪徳とは。(P15)」



圧制者には、立ち向かう必要なく、打ち負かす必要もない。国民が隷従に合意しない限り、その者は自ら破滅するのだ。何かを奪う必要など無い。ただ何も与えなければよい。国民が自分たちのために何かをなすという手間も不要だ。ただ、自分のためにならないことをしないだけでよいのである。民衆自身が、抑圧されるがままになっているどころか、敢えて自らを抑圧させているのである。彼らは隷従を止めるだけで解放されるはずだ。(P18)」



「それにしても、なんと言うことか、自由を得るためにはただそれを欲しさえすればよいのに、その意志があるだけでよいのに、世の中には、それでもなお高くつきすぎると考える国民が存在するとは。(P19)」



「そんなふうにあなた方を支配しているその敵には、目が二つ、腕は二本、体は一つしかない。数かぎりない町のなかで、もっとも弱々しい者が持つものと全く変わらない。その敵が持つ特権はと言えば、自分を滅ぼすことができるように、あなた方自身が彼に授けたものにほかならないのだ。あたがたを監視するに足る多くの目を、あなたが与えないかぎり、敵はどこから得ることができただろうか。あなた方を打ち据えるあまたの手を、あなた方から奪わねば、彼はどのようにして得たのか。あなた方が住む町を踏みにじる足が、あなた方のものでないとすれば、敵はどこから得たのだろうか。敵があなた方におよぼす権力は、あなた方による以外、いかにして手に入れられるというのか。あなた方が共謀せぬかぎり、いかにして敵は、あえてあなた方を打ちのめそうとするだろうか。あなた方が、自分からものを奪い去る盗人をかくまわなければ、自分を殺す者の共犯者とならなければ、自分自身を裏切る者とならなければ、敵はいったいなにができるというのか(P22)」



「この自然という良母は、我々みなに地上を住みかとして与え、言わば同じ家に住まわせたのだし、みなの姿を同じ形に基づいて作ることで、いわば、一人一人が互いの姿を映し出し、相手の中に自分を認めることが出来るようにしてくれた。みなに声と言葉という大きな贈り物を授けることで、互いにもっとふれあい、兄弟のように親しみ合う様にし、自分の考えを互いに言明し合うことを通じて、意志が通い合うようにしてくれた。どうにかして、我々の協力と交流の結び目を強く締め付けようとしてくれた。我々が個々別々の存在であるよりも、みなで一つの存在であって欲しいという希望を、何かにつけて示してくれた、これらのことから、我々が自然の状態に於いて自由であることは疑えない。我々はみな仲間なのだから。そしてまた、みなを仲間とした自然が、誰かを隷従の地位に定めたなどと言う考えが、誰の頭の中にも生じてはならないのである(P27)」



人々はしばしば、欺かれて自由を失うことがある。しかも、他人によりも、自分自身にだまされる場合が多いのだ。(P34)」



信じられないことに、民衆は、隷従するやいなや、自由を余りにも突然に、あまりにも甚だしく忘却してしまうので、もはや再び目覚めてそれを取り戻すことができなくなってしまう。なにしろ、あたかも自由であるかのように、あまりにも自発的に隷従するので、見たところ彼らは、自由を失ったのではなく、隷従状態を勝ち得たのだ、とさえ言いたくなるほどである。(P34)」



「確かに、人は先ず最初に、力によって強制されたり、打ち負かされたりして隷従する。だが、後に現れる人々は、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されてなしたことを、進んで行うようになる。そう言うわけで、軛(くびき)のもとに生まれ、隷従状態の元で発育し成長する者達は、もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、自分が見いだした物以外の善や権利を所有しようなどとは全く考えず、生まれた状態を自分にとって自然な物と考えるのである。(P35)」



「よって、次のように言おう。人間に於いては、教育と習慣によって身に付くあらゆる事柄が自然と化すのであって、生来のものと言えば、元のままの本性が命じる僅かなことしかないのだ、と。(P43)」



「したがって、自発的隷従の第一の原因は、習慣である。だからこそ、どれほど手に負えないじゃじゃ馬も。始めは轡(くつわ)を噛んでいても、そのうちその轡を楽しむようになる。少し前までは鞍を乗せられたら暴れていたのに、今や馬具で身をかざり、鎧をかぶって大層得意げで、偉そうにしているのだ。(P44)」



「先の人々(生まれながらにして首に軛を付けられている人々)は、自分たちはずっと隷従してきたし、父祖たちもまたその様に生きて来たという。彼らは、自分たちが悪を辛抱するように定められていると考えており、これまでの例によってその様に信じ込まされている。こうして彼らは、自らの手で、長い時間をかけて、自分たちに暴虐を働く者の支配を基礎づけているのである。(P44)



人間が自発的に隷従する理由の第一は、生まれつき隷従していて、しかも隷従するようにしつけられているからと言うことである。そして、この事からまた別の理由が導き出される。それは、圧制者の元で人々は臆病になりやすく、女々しくなりやすいと言うことだ」(P48))



「自由が失われると、勇猛さも同時に失われるのはたしかなことだ。彼らは、まるで鎖につながれたように、全く無気力に、いやいや危険に向かうだけで、胸の内に自由への熱意が燃えたぎるのを感じることなど絶えてない。(P49)」



「そしてこの自由への熱意こそが、危険などものともせずに、仲間に看取られて立派に死ぬことで、名誉と栄光とを購いたいとの願いを生じさせるのである。自由な者達は、誰もがみなに共通の善のために、そしてまた自分のために、互いに切磋琢磨し、しのぎを削る。そうして、みなで敗北の不幸や勝利の幸福を分かち持とうと願うのだ。ところが、隷従する者達は、戦う勇気のみならず、他のあらゆる事柄においても活力を喪失し、心は卑屈で無気力になってしまっているので、偉業を成し遂げることなどさらさら出来ない。圧制者共は事のことをよく知っており、自分のしもべたちがこのような習性を身につけているのを目にするや、彼らをますます惰弱にするための助力を惜しまないのである。(P49)」



芝居、賭博、笑劇、見世物、剣闘士、珍獣、賞牌、絵画、その他のこうしたがらくたは、古代の民衆にとって、隷従の囮、自由の代償、圧政のための道具であった。古代の圧政者、こうした手段、こうした慣行、こうした誘惑を、臣民を軛の下で眠らせるためにもっていた。こうして民衆は阿呆になり、そうした暇つぶしをよきものと認め、目の前を通り過ぎる下らない悦びに興じたのであり、そんなふうにして隷従することに慣れていったのであった。(P53)」

如何だろうか。現在の高度に発達したグローバル金融資本主義社会では、メディア等を使って、あまりにも巧みに<自発的隷従状態>に誘導されてしまうのが、悲しい現実ではないだろうか。



一例を挙げるなら、現在、脱原発運動の旗手の一人になっている小出裕章氏の言動の不可思議さのなかにも「自発的隷従」の精神を垣間見ることができる。



小出氏の自発的隷従の典型が「「病気になることを納得して食べる。せめて子供を守るため、大人が率先して汚染度の高い食物を食べるべき」だという敗北主義的なあまりにも不思議な主張である。放射線管理区域にすべき所に、日本政府が、国民を住ませる決断をした以上、仕方がないというのも彼の主張だが、本当にそうだろうか。

言うまでもなく、日本国には、日本国憲法があり、国民主権、基本的人権の尊重が高らかに謳われている。年配者は、汚染地域の一次産業を守るために、放射性物質に汚染された食物を食べるべきだという主張は、どう考えても基本的人権の侵害である。また、政府が決めたから仕方がないという主張も、本来なら、国民主権が機能していない政治を問題にすべきであろう。一票の格差の問題、マスコミ報道のあり方等、議会制民主主義が機能阻害されている要因は、あまりにも多くあるように思われるが、

本当の事を書いてしまえば、原発問題を解決するお金の問題も、日本が官民合わせて米国に貸していると言われている1200兆円のお金を活用すれば、本当は何とかなるはずである。もちろん、多くの政治家は、米国が怖くて言えないだろうが、国家非常事態宣言を311の時にしていれば、すでにそれすら、できていた可能性があると思われる。

ところで、国立保健科学医療院の山口という研究員が、原発を世界中につくるために「福島の原発事故を早く抑え込んでしまって、除染をして住民が汚染を受け入れること

を発信しないといけない」と、言っていたようだが、一時、話題になった<福島エートス>とは、被曝者である福島の人々が、自ら進んで放射能の環境の中で生活することを

選んだと、いう既成事実を作って、それを世界に発信するための奇妙な活動である。

この自発的隷従の活動を世界の原子力マフィアが後押ししているわけだが、上記の小出氏の主張は、残念ながら、見事にこれに沿うものになっていることに日本人は早く、気が付くべきであろう。

おそらく、小出氏が大手のマスコミに頻繁に出演できる理由は、この辺にあるのでは、ないかと思われる。ただ、彼は、意識的にやっているのではなく、日本社会に流れている「自発的隷従の空気」に流されているだけだろう。

*参考:「食べて応援死亡と奇形続出生体実験」http://blog.livedoor.jp/home_make-toaru/archives/7712867.html



ところで、日本人をこのような自発的隷従論の世界に閉じ込めているのは、欧米のグローバルエリートと彼らに協力してお金儲けを最優先しているコンプラドールと化した日本人だが、現在、日本をコントロールしている欧米のエリートが「デフレ、縮小化する世界」のなかで、怖れているとともに、期待?もしていると言われているのが、以前、レポートでも紹介した「日本人の独自性」というものであることをご存じだろうか。

(以下、レポート「日本人の独自性」より部分抜粋)

参照:http://www.yamamotomasaki.com/archives/619



私は、日本人のユニークさは狩猟・採集を基本とした「縄文文化」が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けていることが一番大きな要因だと考える。

それを哲学者・梅原 猛氏は「森の文化」だと言っている。日本人は、「ギルガメシュ神話」のように「森の神」を殺さなかったのだ。そして、ユーラシアの穀物・牧畜文化に対して、日本は穀物・魚貝型とで言うべき大陸とは全く違うユニークな文化を形成していったのである。

世界でも稀な縄文時代という土器文化を異常に長く続けた歴史こそ、おそらく日本人のユニークさの源泉なのであろう。このような歴史を歩めた幸運が日本人の独自性を創り上げたと考えるべきだと思われる。



また、日本語を母国語とすることによる脳の使い方の違いももっと、考えるべきであろう。角田忠信博士が書いた「日本人の脳」という本はそのことを解明した画期的な本であった。

東京医科歯科大学の教授であった角田博士によると、日本人と西洋人とでは、脳の使い方に違いがあるという。すなわち、日本人の場合は、虫やある種の楽器(篠 笛などの和楽器)などの非言語音は言語脳たる左半球で処理される。もしそれが事実とするならば、欧米人が虫や楽器の音を 単なる音として捕らえるのに対して、日本人はその一部を言葉的に捕らえる、つまり意味を感じていると考えることができる。この事は日本人の認識形態、文化に取って非常に重要だ。一般的に意味、つまり、言葉を発する主体は意識体として認識される。しかしながら、日本人にとって楽器などの奏でる非言語音がその一部とは言え、言語脳を刺激して語り掛けているならば、それが人間から発せられるものでない以上、別の意識体、つまり、霊魂、神々、魔物 などの霊的意識体として感じ取られる感受性の高さに結び付くのではないか。また、その事が日本人の精神の基層を為していると考えることもできるからだ。



このことから日本語を使う日本人の脳は本来的にアニミズム的であり、多神教的であると言えよう。そして、おそらくは日本特有の言霊の概念もこの様な認識の上に成り立つ。

ところで、角田氏に拠ると幼年期を欧米で過ごし、英語やフランス語などで育った日本人は欧米型の脳に成り、日本語で育った欧米人は日本型の脳に成る。つまり、幼年期に使う言葉によって、脳の機能が決定されることになる。母国語は、脳にとってパソコンのOS(オペレーションシステム)のようなものであるらしい。

もし、日本語がその様な脳を作り出す特性を持っているとしたら、どのような異文化が流入しても、日本の根底に在る文化、精神は変化しないのか。また、この様な日本語の特質は果たしていつ頃からできたのか。博士の研究に拠ると、この日本人特有と思われたパターンが他の民族からも見付かっている。いわゆる黄色人種の中には日本型の脳はなかった。日本人に最も近いとされる韓国人にしても欧米型であった。しかし、太平洋に点在する島々の住人、つまり、その現地語を話すミクロネシアなどの人々は日本型と判断された。ポリネシアの言語もその形態の近い事から同様の脳を作ると考えられる。



実を言えば、現在、縄文人の直系の子孫と思われるアイヌの人々は遺伝的にポリネシアンに近い事が分かっている。また、哲学者梅原 猛氏が言うようにアイヌ語は縄文の言語の形態を色濃く残していると考えられている。最近の研究ではミクロネシアン、ポリネシアン、縄文人、アイヌなどは氷河期以前のモンゴロイドと言う意味で旧モンゴロイドと名付けられ分類をされている。ミクロネシア系の言語が日本型脳を作るのなら、そして縄文語から発展した日本語が日本型の脳を作るのなら、アイヌ語も日本型の脳を作ると推測できる。つまり、旧モンゴロイド系の言語は本来的にアニミズム的な多神教的な脳を産み出すと考えられる。むろん、文明を持つ以前の人類は、アルタミラの洞窟壁画を見ればわかるように旧モンゴロイドに限らず、アニミズム的な世界観を抱いていた。もちろん、自然との対話から直感を得、自然との関わり方を学ぶ能力は旧モンゴロイドの専売特許ではなかったことは言うまでもない。しかしながら、人類の多くはその様な能力を伝える言語を失った?が為に、文明の進展と共にその様な能力を失っていった。使われぬ能力が退化をするのは自然の摂理だ。



しかしながら、我々日本人の言語はその様な能力を脳に与える潜在的力を秘めている。この能力は非常に貴重であり、文明の進んだ今日こそ、改めて見直されるべきであることは言うまでもない。

日本語はおそらく、縄文語が渡来人の言語を取り入れる事で進化をした言語である。そういった変化の中でも、縄文時代からの基本的な部分、つまり、日本型の脳を基礎付ける要素:母音中心の言語であることは変わらなかった。そのために我々日本人は、縄文の心性を無意識の内に持ち続けることになったと考えてもいいのではないか。(引用終わり)



ところで、時々レポートで紹介する元外交官原田武夫氏が、小生と全く同じ発想を新刊(「世界史を動かす日本」)で述べているので、彼の注目すべき近未来シナリオとともに紹介させていただく。マスコミ報道や学校の勉強を熱心にし過ぎ、思考のフレームをガチガチに固められてしまった方には、受け入れ難い話かもしれないが、大変興味深い指摘なので、是非、ご一読いただきたい。それでは、ある意味、楽観的な彼の未来ストリーを要約してお伝えしたい。



日本・世界のここ数年間の動き(原田シナリオ)



◎ 「太陽活動の異変」→ 気候変動(特に北半球で寒冷化)→ 経済のデフレ縮小化 世界全体の景気が大きく、かつ長く落ち込み始める。それは欧州から始まり、アメリカも巻き込まれる。



*温暖化ではなく、寒冷化、 *資産運用のためのヴォラティリティ(乱高下)の創出


◎ 「デフレ縮小化」によってマーケットが動かなくなるのを恐れた米欧は、いろいろなリスクを炸裂させ始める。至るところで「戦争」「テロ」など驚くべきことが起こる。しかし、その結果、世界経済全体は、もっと低迷し始める。

Ex.中東戦争→フランス、イタリアのデフォルト→原油高、円高→第二次安倍内閣の終焉 →日本株は一旦暴落



◎ そのような中、日本だけが日銀による異次元金融緩和(インフレ誘導)をするので、元気に見える。行き場を失ったマネーが世界中から「他に投資先がなくなった」として日本に集まり、わが国は凄まじいインフレに見舞われる。 世界は「ネオ・ジャパネスク」一色となる。

異次元金融緩和はやめることができないので、さらに進める。→ 日本株上昇、円高



◎ しかし、結局はそこで生じるチャンスを日本人は使うことができず、必要なイノベーション(技術革新)は、進まない。政治も混迷し続け、結局は、資産バブルだけが進み、ハイパーインフレの懸念すら出て来る。これを危惧した日本人が銀行の窓口に駆け込む結果、金融恐慌が発生しかけ、政府が「事実上のデフォルト処理(国家債務不履行)を開始する。



Cf.東京直型地震、南海トラフ地震、富士山噴火→ 東京遷都→ 東京オリンピック返上



◎ その結果、事態は「世界もダメ、日本もダメ」という状況に一瞬なりかける。だが、事ここに及んで追い詰められた私たち日本人は、本来の姿を取り戻し始め、「日本語脳」によって新しい秩序を創り出していく。これに改めて世界が乗りかかることで「ネオ・ジャパネスクの時代」が加速し、世界は「日本の平和(パックス・ジャポニカ)という時代に突入する。

*日本からイノベーターが出てくるかがポイント→仲介者の役割を果たすインキュベーターが重要:これから最も重要なビジネスになる可能性有り

Ex.常温核融合、元素転換、超伝導、水素エネルギーの実用化、ハイテクアニミズム国家、ネイチャーテクノロジー(インセクトテクノロジー)etc



上記のような図式の大胆なシナリオを原田氏は提示している。大変な時代であるが、<平時には孤独に耐えられず、人の顔色ばかりを見ていて、容易に決断できない日本人>が明治維新より大きな危機に目を覚ますことができれば、「ジャパネスクの時代」が来る可能性があると彼は言っているわけである。

そして、日本の時代が来るか、どうかのポイントが「日本語脳」にあると指摘している。ここが以前、小生がレポートで書いたことと全く同じ意見なのである。(以下。)



「角田忠信さんの研究成果を読めば、読むほど、私は実証された「言霊」の存在を信じて疑わなくなりました。なぜなら、器としての私たち日本人の脳や肉体ではなく、「日本語」という言葉こそが私たちの精神を他のそれと区別する決定的なものを培う役割を担っていることがわかったからです。」(「世界史を動かす日本」188ページ)



「そして、もう一つ。それ自体新しい検証を経た「角田理論」よれば、「日本語」のよって育った私たち日本人の脳は、あまりにも、「左脳偏重」です。右脳を使うということがまずなかったようなのです。しかし、このことがかえって大きな意味を持ってきます。「日本人の右脳は、一体どんな役割を持っているのだろうか。」という非常に興味深い問いが浮かび上がってくるのです。」(「世界史を動かす日本」206ページ)



日本人が「自発的隷従論の世界」から抜け出し、その独自性を発揮するとき、初めて世界の新しい時代が本当に始まるのかもしれない。そしてそれは、外国勢力に魂を売ってしまったコンプラドールである日本人を表舞台から退場させる時でもある。





<参考文献>

「自発的隷従論」エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ著、西谷修監修、山上浩嗣訳(ちくま学芸文庫)

「世界史を動かす日本~これからの5年を迎えるために本当に知るべきこと~」

原田武夫著(徳間書店)



「日本人の脳~脳の働きと東西文化~」角田忠信著(大修館書店)

「右脳と左脳~脳センサーでさぐる意識下の世界~」角田忠信著(小学館ライブラリー)

「奇跡の脳~脳科学者の脳が壊れたとき~」ジル・ボルト・テイラー著、竹内薫訳(新潮文庫)



「森の思想が人類を救う」梅原 猛著(小学館ライブラリー)

「森と文明の物語~環境考古学は語る~」安田喜憲著(ちくま新書)

「一神教の闇~アニミズムの復権~」安田喜憲著(ちくま新書)

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