*山口二郎教授のプログより



「自民党政治の終わり」

2007.09.03 Monday



参院選の大敗北から一か月の敗戦処理の仕方を見て、自民党の危機はいよいよ深まったことを痛感している。去年の今頃は、ポスト小泉の自民党総裁選で、安倍晋三の優位が固まり、党内の圧倒的多数が安倍政権実現の功労を競っていたものだ。日本の政治を少しでも観察した者なら、というか普通の人間観を持っている者なら、安倍が総理の器ではないことくらい一目瞭然である。にもかかわらず、安倍首相の下に圧倒的な巨大主流派が形成されたことこそ、自民党の危機である。

昔の自民党なら、これだけ選挙で大敗すれば、総裁の責任を追及する動きが起こり、権力闘争に発展していたであろう。党内で権力の移行が起これば、それが擬似的な政権交代の役割を果たし、政策転換のきっかけにもなった。そのような復元力のゆえに、自民党は半世紀も権力を維持してきたのである。しかし、今や派閥は戦闘集団の体をなしておらず、反主流に身を置いて出番を待つというような度量の大きい政治家もいない。体を張って正論を唱え、党を立て直そうという剛直の士もいない。



今回の選挙を自民党に対するお灸と捉える議論もある。そうした議論は、自民党が政権を持続することを自明の前提として、選挙における自民党敗北を、心を入れ替えてまじめにやれと国民が注意を喚起するメッセージとして意味づけるものである。

しかし、今の自民党はお灸をすえられて目覚めるだけの正気も失っているように思える。政権担当能力を持つのは自民党しかないというのは、もはや遠い昔の神話となった。やはり、疑似政権交代ではなく、本当の政権交代を起こすしか、日本政治を立て直す道はない。



自民党と似たり寄ったりの民主党が次の総選挙で勝って政権を取ったからといって、何も期待できないという手詰まり感を持つ読者も多いであろう。実際、民主党の参院選向けのマニフェストは政権構想と言うにはまだ詰めが甘い。新自由主義的構造改革を批判するベクトルは正しいものの、自民党から政策面で反撃を受けた時に、持ちこたえられるのかどうか、不安である。



ここは、国民参加で次のマニフェストを作る作業をしてはどうだろう。民主党は政権交代への道半ばまで進み、正攻法で政権を勝ち取るという展望を描いている。安倍が執着している憲法改正に手を貸したり、一部で言われている大連立に荷担したりすれば、今までの歩みが水泡に帰する。小沢一郎代表はそんな愚かなまねはしないはずである。だとすれば、日常の政策について国民の期待を喚起するような構想を作ることが民主党の課題である。そして、そのような政策を作る作業に、政治の現状を憂える市民の参加を呼びかけることこそ、政治の可能性を開くための突破口になりうる。具体的な内容は政党の責任で決めるにしても、国民生活に喫緊の課題は何か、国民自身に語らせる必要がある。

たとえば非正規雇用に対する差別の撤廃、障害者自立支援法の改正など、人間の尊厳を大事にする政策を唱える政党が次の総選挙で政権を取れるという期待感を市民が持てれば、政治の変化はさらに加速するであろう。国会内だけではなく、市民社会に対する民主党の感度が問われている。



*前外交官 佐藤 優氏のプログより

「日本国家の弱体化に歯止めを」

(北海道大学のシンポジウム)



8月21日、札幌の北海道大学で行われたシンポジウム「岐路にたつ戦後日本」にパネリストとして参加した。強い知的刺激を受けた。筆者に声をかけてくだっさたのは山口二郎北海道大学公共大学院教授だ。山口教授は、イギリス労働党の研究やスコットランド地方自治の研究では文字通り、日本の第一人者である。しかし、それにとどまらず、日本の政治状況についても積極的に提言を行っている。

山口教授は自他共に認める社会民主主義のイデオローグであるが、全体主義に対する抵抗感はとても強く、筆者に「1968年の“プラハの春”(『人間の顔をした社会主義』を求めるチェコスロバキアの民主化運動)に対するソ連軍の介入に対する忌避観が子供心ながらに強く残った。だからマルクス主義にはひかれなかった」と述べていた。山口教授は筆者より2歳年上だから、70年代後半に東京大学法学部に在学しているが、当時の東大では、マルクス主義が知的吸引力を強く持っていた。しかし、山口氏はイギリス労働党流の漸進的社会改良主義にひきつけられた。



絶対的真理を独占する唯一の前衛党(共産党)の指導によって革命を実現するのではなく、国会、地方議会、マスメディアでの討論を重視して、国民の合意を得ながら平等な社会の実現に向けた変革に社会民主主義の神髄があるという信念を山口教授は持っているようだ。



今回のシンポジウムの案内文で山口教授は次のように強調する。



〈「戦後レジームからの脱却」という安倍首相のもくろみは、7月末の参議院選挙では不発に終わりました。しかし、年金制度の危機や、集団的自衛権をめぐる政府の動きに現れているように、社会保障や雇用などの暮らしに関しても、政治や外交に関しても、戦後日本が築き、守ってきた大きな枠組みが揺らいでいることには間違いありません。参議院選挙の結果とそれに続く政治の変動も、新しい時代の予兆のように思えます。まさに、私たちが、これからどのような国や社会を造り出したいのかが問われています〉

筆者も山口教授と問題意識を共有する。もっとも集団的自衛権について、筆者は状況に応じて法制局解釈を変更して、行使すべきであると考える。また、石原慎太郎東京都知事に対する評価では、筆者は今回選挙で石原氏に投票した。それは、所与の条件ではおそらくそれが最良の選択であると判断したからだ。これらの問題について筆者と山口教授が誠実に議論しても、恐らく意見の一致には至らないであろう。しかし、重要なのはそのことではない。

新自由主義政策の嵐の中で、戦後日本が築いてきた安定した社会が崩れ、その結果、日本国家が弱体化し始めている。この傾向に歯止めをかけることだ。もはや格差ではなく貧困があちこちに姿を現し始めている。年収100万円のフリーターの夢は「年収300万円になり結婚することだ」という現実がある。いったん、年収100万円という状況に陥ってしまうと、そこから自力で年収300万円の世界に上昇することはほぼ不可能だ。

筆者自身は、右翼、保守主義陣営に属していると考えるが、出身家庭の経済状態や出身地域にかかわりなく、すべての日本国民に「機会の平等」を保障するのが日本国家の責務であると考える。建武の中興において民衆が飢饉(ききん)に陥ったときに後醍醐天皇の指示で政府が備蓄米を放出したように、社会的弱者に配慮することが日本の伝統にも合致していると考える。「戦後レジームからの脱却」についても、脱却すべきことと、保全し、発展させることをきちんと仕分けして行わなくてはならない。  新自由主義政策とは、安定した状況をあえて揺さぶり、自由な空間を作り、そこで競争を行い、勝った者だけが生き残っていくという19世紀後半に流行になった社会進化論の弱肉強食路線の復活に過ぎない。それがもたらすのは本格的な貧困社会の到来で、その結果、社会的活力がそがれ、日本国家も弱体化する。

シンポジウムには200人を超える市民が参加し、議論に加わった。夕張市の財政破(は)綻(たん)に見られるように新自由主義政策の「負の結果」が北海道に集中的に現れているので、このようなテーマを扱うシンポジウムへの市民の関心も高いのだと思う。山口教授をはじめとするまじめな左翼、市民主義陣営の声に、保守の側が真剣に対応することが日本の社会と国家を強化するために必要と思う。



(私のコメント)

新古典派の経済学の教祖ミルトン・フリードマンの考え方は社会的強者の都合だけを考えたものである。一部の大企業の利益追求の裁量の範囲を増やすことはある限度を超えれば公共の利益(国・地方)に反することになる。ある企業が自社の利益追求のために正社員を減らせば、また、労働賃金の大幅に安い国に生産拠点を移せばその企業の利益は間違いなく増える。しかし、その企業を生み、育ててきた国、地域の利益は大幅に損なわれるだろう。世界に冠たるトヨタ自動車が現在のように巨大企業に成長できたのは日本国によって暖かく、異常なまでに保護されてきた(数々の特典や免税、補助金を与えられた)からではないか。自分たちがその恩恵をに服して成長してきたことを考えればそれを社会に還元するのが務めであろう。

グローバリズム、市場原理主義はそんな当たり前のコモンセンス(常識)を人々から奪うイデオロギィーである。すべての資本主義国家の離陸は保護主義によって可能になった。そんなことは少し歴史を調べればわかることである。市場原理主義、グローバリズム、ネオコンの考え方は言うまでもなく保守思想ではない。世界は常に多元的であり、多様な価値観、個性を持つ人間によって形作られるものである。

今、我々はそんな常識を取り戻す必要があるのではないか。その意味で真の保守政党の誕生が必要である。

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