*今回は本の紹介です。亡くなられた吉川元忠氏の『マネー敗戦』で捉えられている構造~資本輸入国が基軸通貨国となる矛盾を為替ディーラーの女性が現代にあわせて解説しています。投資信託・生命保険、米国との商取引等で意図せず米ドルに投資させられている日本人、法人が多いなか、日本経済の仕組みを考える上でも是非、読んでいただきたい一冊です。

                                    

<吉川元忠氏プロフィール>

1953年都立日比谷高校、1958年東京大学法学部卒業。日本興業銀行に入行。同行産業調査部副部長などを歴任。その後サセックス大学やコロンビア大学で客員教授に就任。聖学院大学政治経済学部教授を経て、1995年より神奈川大学経済学部教授。2005年3月退官。著書『マネー敗戦』でバブル崩壊後の日本経済の低迷を日米マネー戦争の敗北の結果であると論じ、大きな話題となる。

まず、最初に吉川元忠氏の『マネー敗戦』について

この本は、1980年代前半から1990年代後半までの日本経済史そのものである。

プラザ合意から円高、バブルとバブル崩壊、日米構造協議、アジア通貨危機からBIS規制へと「マネー敗戦」の経過が詳細に分析されている。

吉川氏が「マネー敗戦」で捉えられている構造とは

80年代前半、米国のマネー経済はレーガノミックスの下で急速な変貌を遂げ、経常収支が赤字となり、資本を輸入して赤字を埋めるようになる。世界一の債権国だった米国は一転して世界最大の債務国になり、その債務を穴埋めしたのは日本からの海外投資だった。本来、資本輸出国と資本輸入国との関係では、資本を輸出する側が自国の通貨建てで起債し、資本輸入国が発券した債券を輸出国の貯蓄超過分が吸収する。ドイツはそのようにして、ユーロ・マルクによる起債で資本輸入国の債券を発行させ、その債券をフランクフルト市場に上場させることを発券側に求めた。日本は、なぜか円建ての起債ができず、ドル建て債券である米国債の購入のみで資本輸出を続け、対外純資産をドルで貯めこみ、相次ぐ為替切り下げによって膨大な資産減価を余儀なくされた。日本が蓄積した経常黒字と対外純資産は為替変動で常に減価させられ、日本経済のデフレ圧力となり、デフレ圧力は輸出条件の円安ドル高を求め、円資金はドル債券に流れて米国経済に成長と繁栄をもたらした。米国は基軸通貨特権の行使によって、日本から米国へ富の移転を自由自在に実現し、その構造を維持して成長と均衡を達成している。

資本輸出国が為替リスクを負うという本末転倒した不平等・不合理な構造。ドルを支えるために資産減価の自己犠牲をなぜか、身を滅ぼすまで続ける日本のエリートと円。これこそ吉川氏が告発する捻じれた日米経済関係である。80年代前半に原型ができたこの構造を米国はずっと後生大事にし、日本の「マネー敗戦」後の21世紀まで持続、さらにその構造の中に中国をも組み込み、現在まで続いている。

その矛盾に岩本女史は、為替ディーラーの現場で仕事する中で気づき、今回紹介する本の中で告発している。

 

『為替占領』

岩本沙弓著(ヒカルランド)

 

直近の8月4日の日銀による為替介入では、一日で4.5兆円もの資金が投じられたと報道されている。「短期債券という日本国債発行によって作られたこれだけの資金」が、ドル資金に変わり、米国債として米国の財政を国会の承認もなく支えていく。もちろん、米国の天文学的な債務残高に比べれば、雀の涙程度にしか過ぎないが、地位にしがみ付きたい菅 直人総理としてはこれで米国のご機嫌を取っているつもりなのだろう。
 

ところで、為替介入は「円高是正」という名目で行われているが、現在のわが国は本当に円高なのだろうか? 

論理的に考えるとこの説明がウソであることは専門家ならば皆知っている。

では、そのことを説明しよう。
 周知の如く、円とドルを比較して、円の価値が高くなってドルが安くなることを「円高ドル安」と我々は通常呼んでいる。1ドル100円が80円になれば、円高と解釈される。海外旅行をしたときに、100円で買っていたものが80円で買えるわけだから、円で買い物すれば割安になる。外国人が日本へ旅行すれば、逆の現象となる。この辺までは、誰でも少し考えれば理解できるはずだ。ドルを中心に考えているために、1ドル当りの円が少なくなっていくと「円高」になるわけだ。
 以上の見方は我々の社会常識だが、実は間違った考え方なのである。単純に円だけを考えてみてもわかるが、通貨の価値は一定ではない。経済状況や時代によって、価値が変遷していく。明治時代の1円は、今の1円よりも遥かに大きな価値があった。かつて百円札があったが、その時代はお札にするほど100円にも価値があったのだ。この点は、どこの国の通貨でも同じで、米ドルも同様だ。同じ1ドルと言っても、価値は常に変化している。
 当然のことだが、国民生活にとって重要なのは、手持ちの通貨によって生活が成り立つかどうかだ。たとえ1兆円持っていたとしても、第一次世界大戦後のドイツのようにハイパーインフレに見舞われ、パンを買うのにマルクをリヤカーに積んで行かなくてはならない状況でどうしようもないだろう。つまり、通貨の価値とは相対的なものなのである。
 もちろん、このことはほとんどの方が理解しているはずだが、どういうわけか為替の話になると勘違いしてしまう人が多い。表面的な80円とか76円とかの数値に騙されてしまうのである。為替変動に関しても、当然相対的な価値で考えなければならない。

つまり、自国や相手国がインフレなのかデフレなのか考慮する必要がある。仮に日本がデフレで米国がインフレといった違いがあるのならば、物価変動分を是正して比較しないと意味がない。(もちろんこの外に、貿易の比率も考慮に入れる必要がある)
 当然、このことは日本銀行も理解しているから、我々が普段目にする為替レートを「名目為替レート」、各国のインフレ率や貿易の比重を加味したものを「実質実効為替レート」と呼んでいる。重要なのは、後者の「実質実効為替レート」の方であることは言うまでもない。
 ご存知のように現在、わが国がデフレである。デフレでは通貨の価値が相対的に上がるから、他国がそれ以上のデフレでない限り、その国の通貨に対して円は値上がりすることになる。したがって、現在の米ドルとの関係では、円が上がって当然だと言うことになる。
 「名目為替レート」と「実質実効為替レート」については、日本銀行のHPに公表されている。以下のものがそれで、赤線が「名目為替レート」(左目盛り)、青線が「実質実効為替レート」(右目盛り)となっている。(http://www.stat-search.boj.or.jp/ssi/cgi-bin/famecgi2?cgi=$graphwnd)



 これを見ると、いろいろなことがわかるが、直近の「実質実効為替レート」は103ぐらいになっている。(「実質実効為替レート」は指数で、2005年を100としている) 103なら、2005年当時(小泉政権)と比較して円高とは言えないはずだ。
 大企業には優秀な社員が揃っているから、名目レートと実質実効レートとの違いを知らないはずはない。にもかかわらず、名目レートでの採算割れを強調しているのは、為替介入よる差益を期待しているからに他ならない。本当は円高ではないのに損失が出ているのであれば、それは企業経営に問題があることを意味しているだけなのである。
 為替介入した結果、米国債という形でドルは米国内へ流れ、その資金が米国の景気を刺激する。そのことがわが国の輸出企業の利益にもなっている。ともあれ、円高是正を目的とした為替介入は、輸出企業にとってどうにもうま味のある話であることは間違いない。彼らも利益を追求するビジネスマンであることを忘れてはならないだろう。利益になるのであれば、当然、手段は厭わないはずだ。
 よくよく考えてみればわかることだが、為替介入で割を食うのは、回りまわって税金で最後に負担させられる一般国民の方である。あまりに大きな仕掛けなので、騙されてしまうのであるが、最後に誰かがそのツケを払うわけで、それがサイレントマジョリティーである一般国民なのである。この構図を改めるには、少しでも本当のことを知る日本人が増えるしかない。

ところで、米国の格付け会社スタンダード・アンドブアーズ(S&P)が、米国債の格付けをトリプルAから一段階下げたが、ヨーロッパ諸国の財政も危機的状態なので、わが国の財政も同様の事態あるいはそれ以上として、警鐘を鳴らす不可思議な人たちが後を絶たない。

しかし、本当のことを言えば、これは悪質な便乗商法であって、決してまともな日本国民は真に受けてはならない。経済の専門家と称する人たちの大半は、原発ムラの住人同様、御用学者で、権力者の太鼓持ちを務めている。
 財務省や財務省に踊らされる日本のマスコミが囃し立てるように日本の財政は確かにピンチで、政府債務は天文学的な数字になっている。しかしながら、G7の国々の中で日本政府が持つ政府資産は突出して巨額である。不思議なことにこのことを指摘する人は、ほとんどいない。(日本政府の純債務は、300兆円ほどである。)また、日本の国債は殆どが国内で購入・運用されているので、外国に対する債務が返済不能となるデフォルト(債務不履行)に陥ること不可能なのだ。

残念ながら、日本政府は、現状では、デフォルトしたくともできないのである。

 それでは、日本人は外国の権威筋の発言を盲信する傾向があるので、我国の財政についてIMF(国際通貨基金)が何と言っているか、昨年10月に発表された「国際金融安定報告書(GFSR)」の中から引用してみよう。(「為替占領」から引用)

 短期的に見て、日本の国債市場に問題が起きる可能性は考えにくい。安定的な国内貯蓄と大幅な対外経常収支の黒字のおかげで、国債消化のために国外資金はこれまで必要とされてこなかった。しかし、長期的に見れば、人口が老齢化し労働力人口が縮小するに従って、債券市場を支えてきた民間貯蓄の高さ、投資の国内バイアス、円資産に代わる代替資産の乏しさといった要素は弱まるであろう。

 このように短期的には何の問題もないわけだ。IMFが指摘しているように、デフレ経済が長引いて民間貯蓄が減少すると国債の消化は難しくなるが、逆に言えば、貯蓄が増え続けている限り、国内消化は可能なわけである。(デフレ脱却する経済政策ができれば、中期、長期的にも何の問題もない。このことを「日本封じ込め政策」によって1985年以降、ブロックされてきたのだ。)

 また、わが国の国債は極めて低金利だが、これは国債の価値が高く、買い手に不自由していないことを示している。国債を買っているのは、金融機関を中心とする機関投資家と郵便局の資金だ。要は、国民一人一人の預貯金が国債の購入に当てられているのである。現在は超低金利だから、国債の金利と預金利息の差が銀行の収益となっている。銀行が預金を集めるのに熱心なのは、このためだ。
 したがって、勤勉な日本人が生活を切り詰めて預金してくれる限り、国債を発行しても買い手がいなくなることはあり得ないし、ましてや暴落することもない。預金などの増加ペースに合わせて国債を発行してゆけば、問題が生じることはないはずだ。

政府(財務省)は、この辺の因果関係を熟知しているから、国債が売れ残るという事態には至らない。

 機関投資家は、所有する国債を貸借対照表に掲載しなければならないが、ここで問題が一つ生じる。不良債権は評価減する必要があり、不良債権が多いと経営を圧迫する。国債も債権の一つだが、国債に関しては対象外となっている。これには「時価会計」が絡んでいるが、著者はこう説明している。

 現在の日本でなぜ市中にお金が出回らず、国債の発行額が増え続ける中で、国債の暴落が発生しないのか。そこには国債の時価会計が免除されているという点が大いに関係している。時価会計が免除となれば、購入した債券は毎年安定した運用益を生み出すだけである。利回りが低下して運用益が少なくなれば、その分購入額を増やせばよい。たとえ、債券市場が急落したとしても、評価損は表に出す必要がないのだから、運用益だけが順調に溜まっていく。

 少しテクニカルな話だが、概要はご理解いただけるのではないか。時価会計は、(見かけの)景気がよかった米国で導入された制度で、期末に資産を時価で評価し直す手法です。実態のないカラ景気に湧いていた米国企業にとって、都合のよい制度でした。日本やヨーロッパでも導入が検討されましたが、リーマンショックで自分たちの尻に火がつき始めると、これまでの方針を180度転回して時価会計を反故にしてしまいました。損失がなるべく少なく見えるように、制度を変更したのです。

 米国は真に身勝手な国で、自分たちの都合のよいように制度変更します。それが覇権国の特権だというわけでしょうが、リーマンショックの時にはお仲間の企業に資本注入して、世界中を唖然とさせました。普段は市場原理主義を謳っていたのに、この時は露骨な社会主義政策を推進しました。倒産させると社会的な影響が大きすぎるというのが救済の理由でしたが、当の米国は平気で他国を転覆したり、経済崩壊に導いたりしていますから、勝手なものです。 この制度変更により、我国でも国債の時価評価をしなくてもよいことになり、機関投資家による保有が拡大しました。これまで日本から収奪しまくってきた米国ですが、日本より先に米国が沈没しつつあります。先日、米国の株式市場は暴落しましたが、今後もこうした状況が続き、以前の姿に戻ることはないでしょう。他国を陥れた因果は、巡り巡って自分のところへ戻ってくるのです。我国は、これ以上巻き添えを食わないようにしなければなりません。

 

これまで縷々述べてきたように、日本が財政破綻してデフォルトに陥ることはありません。将来的には判りませんが、少なくとも現状では破綻は有り得ません。にもかかわらず、財政破綻を声高に唱える人が後を絶ちません。彼らは何を考えているのでしょうか?

 こうした日本破綻論者の特徴は、金融資産のリスク管理を奨めていることにある。

具体的には、株式購入や海外預金を勧めるケースが多いようだ。要するに外資のために、投資の勧誘をしているわけで、人の好い日本人の恐怖心を煽って判断能力を失わせようとしているのだから、詐欺に近いと言うべきかもしれない。
 例えば、ポピュラーなのは米ドル預金だが、普通に考えたらドル安傾向に歯止めが掛らない現状では、ドル預金をすると確実に損をするしかない。しかし、「日本が財政破綻して沈没しても、ドルは基軸通貨だから安全」というよくある破綻本のストーリーに乗せられてしまったら、心配になって海外へ資金移動する人が出てくるかも知れない。

 この点に関して、岩本女史は次のように述べている。自らの体験を述べているから、非常に説得力がある。
 仮に日本破綻推進派の言う通り日本が破綻し、日本の経済状況がとんでもないことになっても、外貨預金をしているから円安に振れても大丈夫、などとどうして言い切れるのだろうか。個人でも法人でもよいのだが米ドル預金していたとして、たとえ邦銀にドル口座を持っていたとしても邦銀は日本国内に米ドル勘定を持っているわけではなく、米国のFRBの当座預金で最終的には全て米ドルのコントロールがされる仕組みとなっている。すると、どのようなことが発生するか。日本経済が崩壊しているときにドル預金の引き出しを頼んでも、対日本への送金には決済リスクがあるなどと理由をつけて、つまりこんなに経済が混乱していては資金を動かすことこそが更なる混乱を招くと言ってあっさり停止されるのがおちだ。大々的に宣言しなくても、実質的な対日預金封鎖ということだ。
 まさかと思われるかもしれないが、911同時多発テロの際には動かさないでくれと米銀から言われた日本の米ドル資金が実際に大量にある。送金しても決済がきちんと確認できるのか非常事態ではわからないので、資金は動かしかねるというのだ。銀行側の人間として本店の意向に従い日本の顧客に頼んだ本人が言うのだから間違いない。決済リスクはいかにも正論に聞こえるが、混乱に乗ずると何でもありになってしまうということを個人投資家も肝に銘じておくべきだろう。

 外貨預金するということは、自分の手が届かないところへ資金が移動することを意味する。それが米国のような大国であった場合は特に、実質的に預金封鎖されるリスクが高い。こんなことは、日本の金融マンは、決して教えてくれないが、落ち着いて考えれば容易に想像がつくことである。
 

ドル預金等の外貨預金を奨める人も、ここまで理解しているとは思えないが、結果として外資の手先として働いていることになる。
 

それでは、日本国破綻を強調する人々の動機は様々考えられるが、彼らの裏にいる国際金融資本家たちは何を考えているのだろうか?  つまるところ日本破綻論を展開し、あるときは為替介入によって日本政府を通じて、あるときは内外の金利差や、海外投資商品の高金利をうたって日本国民の資金を海外へと導き出したあとに円以外の通貨価値の減価により、日本国が貸している資金を棒引きにするためのシナリオが動いているのではないかと考えるのが自然である。

 国際金融資本家にとって、ドルの価値を上下させるのは容易だが、円の方はさすがに自由に操れないようだ。そこで円を外貨預金という形で海外流出させ、減価してしまえばよいわけだ。そうすれば、米国の借金を棒引きすることができる。この場合、日本破綻論者は、しっかりと彼らのお先棒を担いでいることになる。

 当り前のことだが、世界一の債権国であるわが国の金融資産は外国から狙われている。こんな状況下で、国際政治・経済のことを知らない人が海外へ投資するのは、カモがネギを背負って行くようなものである。

為替取引の現場からの貴重な指摘を是非、多くの方に知っていただきたい。



また、この本を読んでいただければ、以前レポートで指摘させていただいた日米経済戦争のカラクリがよくわかっていただけるのではないだろうか。

 歴史上、戦争に負けた国=日本が世界一の債権国(金持ち国)になり、戦争に勝った国=米国が債務国になった歴史は、不勉強なので確認はしていないが、おそらく世界史上、初めてのケースではないか。その不可思議な関係が、1980年代以降の日本経済の通常では考えられない軌跡を作り出してきた。

もし、日本が戦争に負けていない普通の国だったら、日本国民は世界一の債権大国の国民として、世界で一番豊かになれたはずである。そして世界中の美術品、文化財が日本に集まってきたはずである。当然、日本の「円」がドルに代わって国際基軸通貨になっているはずである。ところが現実にはそうはならない。日本が戦争に負けた国で、米国の保護国だからそうならないのである。この仕組みをそろそろ、日本国民も理解する必要があるはずだ。



簡単に言えば、1960年代、1970年代の日米貿易摩擦は、日本が債権大国になった時点、冷戦終了間際から、アメリカの一方的な都合で日米経済戦争になったのである。

事実、当時の国防次官補ジョセフ・ナイ氏も「ソ連は崩壊した。今後はアジアでの日本に対しての経済戦争だ!」と明言している。

 

 ご存知のように戦後、日本は経済復興に集中し、アメリカに追いつけ追い越せで一生懸命頑張ってきた。それが1970年代で追いつき、1980年代にはついに逆転した。そのため米国は、冷戦後は「日本経済封じ込め」を世界戦略の第一番として実行してきた。 

ここに日本の思惑とは全く関係なく米国による一方的な日米経済戦争が開始されたのである。 

 米国は冷戦後、ご存知のように日本へ厳しい対応を始める。

日米経済戦の開始は、1985年のプラザ合意である。

 そして一つの時代の終わりを告げた1989年のベルリンの崩壊、日本経済のバブル崩壊、1991年のソビエト連邦崩壊と続いて行く。そして1993年クリントン大統領誕生での「ジャパンパッシング政策」=米国は、冷戦終了間際から、「ジャパンアズナンバーワン」と言われる程の経済大国になった日本を「プラザ合意」、その前後には、中国の「元」の大幅切り下げを認め、「ジャパンパッシング」と称する日本経済封じ込め戦略を着々と実行し、結果、現在の中国経済の成長を演出することとなった。目先の利くユニクロの経営者のような人々はおそらく、米国のその戦略を事前に知っていたはずだ。

 1996年橋本内閣の誕生で金融ビッグバンを始める。もちろん、米国に騙されて押しつけられた政策だ。グローバル化、金融自由化政策とは米国の利益のためのルール変更であり、これで「日本株式会社」の経済成長の道は険しいものとなっていく。

 1998年小渕内閣が誕生し大規模な財政出動による景気浮揚策を始めるが、小渕総理は本当に不可思議な死に方した。これも一説にはCIAによる暗殺だという説がある位だ。たしかに小渕氏が生きていたら、日本はこの時点でデフレから脱却していたかもしれない。

 そして2000年に密室談合で決まった森内閣、2001年小泉内閣の誕生で日本および日本社会はいわゆるワシントンコンセンサス:グローバリズム=米国の国益のための構造改革路線を突き進むことになる。

これらを年表にしてみると

<貿易摩擦から経済戦争へ>

1985年 日米が経済開戦   

    ・日航機123便撃墜事件発生 8月12日 

    ・プラザ合意 9月22日   



1995年 ・阪神淡路大震災 1月17日

     ・地下鉄サリン事件 3月20日

1996年 橋本政権誕生 ・金融ビッグバン

1998年 小渕首相誕生

    ・大規模財政投資で景気浮揚策

    ・突然死で2000年森政権発足   

2001年 小泉竹中政権の誕生

    ・郵政民営化

    ・製造業派遣労働解禁等の政策

2009年 鳩山小沢政権誕生

    ・2010年 管政権に転換:従米路線に変更

2011年 3.11東日本大震災



日本と米国との経済問題は、1985年以前の冷戦時には貿易摩擦で留まっていた。

そして1985年、日本政府は円高容認のプラザ合意に屈し、為替は合意時1ドル240円から1989年には120円まで上昇、日本保有米国債の価値は1/2に、日本は膨大な為替差損を被ることになった。



2000年4月には小渕首相が突然死で森内閣になり、2001年に小泉・竹中政権が発足し、郵政民営化を始めとする数々の日本の改造政策を米国の意向通りに進めていくことになる。



米国の要望による小泉・竹中政権の米国のための政策を列挙すると

・郵政民営化

・製造業派遣労働解禁(1999年から実施)

・残業代ゼロ合法化

・ゼロ金利政策の継続

三角買収の許可(会社法の改正)

・為替介入名目で米国債大量買付

・長銀等の解体による日本金融機関の叩き売り



郵政民営化は、もちろん郵便貯金と簡易保険の資金350兆円を米国が手に入れるための政策だが、まだ成功はしていない。最も普通の国民に影響を与えたのは製造業派遣労働解禁や残業代ゼロ合法化の改革かもしれない。





それでは米国によって一方的に仕掛けられた日米経済戦争の結果はどうなったのか。

1980年~2010年の日米中GDP推移を下図に示す。



 

日本のGDPのピークは1995年でありその後は全く経済成長できない状態に封じ込められている。一方米国は、順調に右肩上がりの上昇を描き、日米経済戦争において米国が勝利したことがよくわかる。軍需産業と農業以外目立った産業がない米国が軍需力を背景に世界からカネを収奪する帝国循環を作り出した結果であり、その筆頭は日本、サウジ及び最近は中国からであると言われる。つまり、日本を中心に合法的にお金を収奪することによって米国は金融立国に成功したのである。



日本を踏みつけにして順調に拡大していた米国経済であったが、最近は当然のごとく大変な状況に落ち入っている。サブプイムローンによる住宅バブルの崩壊で金融恐慌から本格的恐慌へと病は進行中である。世界へ金融工学詐欺技術によって不良債権を売ったことで信用も低下し、米ドルの下落が止まる気配がない。返済不可能な負債(実際には日本円にして6,000兆円以上)を抱えた米国は、「帝国以後」のエマニュエル・トッド氏が言うように覇権国家転落目前である。

そういった事態を少しでも先延ばしするためには現在米国は、手段を選ばない状況まで追い込まれていることを日本人は認識すべきであろう。



上記のGDPのグラフを見ればわかるように、米国がもし1980年代に日本に対して何の手も打たなければ、文字通りジャパンアズナンバーワンになっていたのである。

おそらく、プラザ合意以降、日本から米国にファイナンスされた金額は軽く1,200兆円を超えるのではないかと思われる。そして現在の米国経済の状態からみて残念ながら、その元本が返ってくることはほとんど有り得ないことを日本人は覚悟する必要がある。

かつて英国人の経済アナリストのピーター・タスカ氏がニューズウイークでこんな指摘をしていた。

(引用始め)

(『ニューズウィーク日本版』2004.2.11号「ON JAPAN」)

「日本政府は為替市場でまったく惜しげなく金を使っている。正確にいえば、日本は『使っている』のではなく『貸している』。為替介入は米国債を買う形で行われているからだ。金を使っているのは米政府だ。戦争をしながら減税を行い、政府機能も拡大する『ブッシノミクス』が可能なのは、日本が気前よく金を貸してくれるおかげだ」。 

「日本政府は国内で歳出を抑えているのに、海外では何十兆円もの金を平気で投じている」。

「国の財政が本当に破綻寸前なら、何十兆円もの金がどこから出るのか。日銀が刷っているのだ。その一方で日銀は、市中から金を吸い上げることで、影響を相殺している」。

「ここで浮かんできた疑問に、誰か答えてくれないだろうか。日銀はアメリカの減税を間接的に支えているのに、なぜ日本の減税を直接支えないのか。日本政府はイラクの経済復興を支援しているのに、なぜ破綻寸前の日本の地域経済を立て直そうとしないのか」。

「日本のエリートは……なぜ庶民の生活の質を高めるために力を尽くさないのか」。

(引用終わり)



おわかりだろう。残念なことだが、米国の保護国である日本のエリートは米国の顔色を見て仕事をしているのである。我々国民の方を向いていないのである。そしてそのことをマスコミが資本の論理に従って米国の支配を受け、隠し続けてきたのである。

ところが、3・11が今までの日本の政治経済構造の一部を表に出しつつある。現在は文字通り、1985年に始まった日米経済戦争が覇権国である米国の衰退によって最終局面に入りつつあると考えるべきであろう。

おそらく、ほとんどの日本人は、マスコミが本当のことを報道しないので、日本が米国と経済戦争をしているとは考えていないはずである。現在、米国が一方的に経済戦争を日本に仕掛けてきてすでに四分の一世紀が過ぎようとしている。

今こそ、本当のことを恐れずに語る政治家・ジャーナリストの登場が必要だ。





(引用始め)

『月刊日本』20101月号 羅針盤より

自殺者は日米経済戦争の戦死者だー

 

 朝日新聞の十二月六日朝刊、オピニオン欄の「世界衆論」のところに、「日米安保50周年 日本外交を問う」と題する、丸々一ページを使った座談会が載っている。出席者は、岡田克也・外務大臣、五百旗頭真・防衛大学校長、久保文明という東大教授の政治学者、藤田直央という朝日の記者、以上の四人である。

 

この中で五百旗頭氏が言っていることが、なかなか興味深い。日本の戦後は、「米国の力を日本の安全に活用した日米同盟があったので、軽軍備でやっていけた。米国はGDP(国内総生産)の4%以上を軍事費に投入し、今や平和な欧州も3%の軍事費を費やしている。日本は0・9パーセントで済んでいる。」「もし日米間に信頼が失われ、日米同盟が揺らげば、例えば核とミサイルで北朝鮮から脅かされる際に、日本の中では危機感が過熱し、『核武装が必要だ』とか『自前の完結した軍事能力がいる』となる。そうなれば欧州のように軍事費は3%水準になる。」
 同じようなことは、元外交官も言っている。十月二十一日の産経新聞によれば、松山市で前日行われた、愛媛正論懇話会の講演で、前駐米大使でプロ野球コミッショナーの加藤良三氏が、「日米安保廃棄で日本がGDP(国内総生産)比で防衛費を諸外国並みとすれば、さらに数兆円規模の予算が必要になる」と言ったという。両氏が語っているのは、従来から常々言われてきた、安保条約のおかげで日本の軍事費が少なくて済み、経済的に助かっていると言う話である。それは戦後の経済復興の時期だけでなく、現在においてもそうだから、安保条約を維持すべきと言う論であり、これ自体は極めて陳腐な議論である。
 日本の軍備について殆ど知識のない私が、両氏の話で特に感銘を受けたのは、軍事大国のアメリカはいざ知らず、諸外国並み、欧州並みの軍事費を投入すれば、「自前の完結した軍事能力」も持てるし、核武装もできるという指摘である。すなわちそうなれば、安保条約は廃棄することができるのである。五百旗頭氏は、その言動についていろいろ批判されている人物であるが、防衛大学の校長なのだから、日本の防衛についてデタラメなことを言っているわけはないだろう。高級外務官僚だった加藤氏も同じだろう。この指摘は私にとって、新鮮な驚きであった。
 ただし私は以前から、安保条約のおかげで日本の経済が助かってきた、という説明には本当なのかと疑念を抱いてきた。経済成長期に、安保のおかげで経済に集中できたとされるが、例えば中共では、急速な経済成長と軍備の大拡張とは、立派に両立してきた。更に言えば、通説とは全く逆に、安保条約のために、日本の経済が甚大な被害を受けた側面があるのではないか。それは日本の経済が成長するにつれて、アメリカが警戒するようになったことである。一般にソ連の崩壊によって、アメリカの警戒対象が、ソ連の軍備から日本の経済に移ったとされるが、それ以前から日米経済摩擦は存在した。経済における対日攻撃は、プラザ合意、構造協議、年次改革要望書などと続き、小泉改革にまで至る。
 問題はその攻撃に対して、日本の政治家も官僚も、たいした抵抗もできずに屈服してしまったことである。この戦後の経済的敗戦を、「第二の敗戦」と言っているが、第一の敗戦と大きく違うのは、戦わずして負けたということである。ではなぜだらしなく屈服してしまったかと言えば、それは国防をアメリカに完全に依存した、アメリカの保護国であるからに他ならない。つまり日米安保があったために、日本は甚大な被害を蒙って、経済的に敗北したと言うことになる。それが「失われた十年」どころか二十年であり、この間GDP は殆ど伸びず、一人当たりGDPで見れば、世界三位から一挙に二十位近くに急落した。
  

ところで現在の経済の苦境の原因を、小泉改革のみに求める人がいるが、それは明らかに正しくない。最も簡単に分かるのは、自殺者の数である。自殺者数が、それまでコンスタントに維持していた二万人台から、一挙に八千五百人増えて三万人台になったのが、一九九八年(平成十年)である。それに対し、小泉首相の登場は三年後の二〇〇一年の四月である。以後、自殺者数は現在まで、一貫して三万人台を保ち続けている。自殺の原因はいろいろあるとしても、その根本原因は経済の不況であることは、全く疑いようもない。
 つまり不況の自殺者とは、端的に言って日米経済戦争における戦死者なのである。大雑把に計算すれば、毎年約一万人として、すでに十二万人になっている。これは日露戦争の戦死者、数万人の二倍の数字である。日本の政治家も官僚も、日本の国家権力を握っている人間どもは、日本国民の財産どころか生命すら守っていない。すなわち日本の安全を守るため、日本人の生命を守るための日米安保条約が、実際には日本人の大量の生命を奪っているのである。これほど愚かしい話は、世界の歴史上にも滅多にないであろう。
 

日本は日米安保条約を終了して、軍事的にも自分自身の足で立つべきである。先述したように、その費用は大してかからない。「今や平和な欧州」ですら出している程度の額なのである。民主党政権は、子供手当てに大金を投入しようとしているのであり、日本の真の独立のためなら、なんでもない金額ではないか。
 真の独立ができない内に、アメリカが衰退し、中共が興隆すれば、ハンチントンが言ったように、日本はアメリカの保護国から、中共の保護国に転身するだけである。現に民主党政権は、それを構想しているようだ。鳩山首相の東アジア共同体にしても、小沢幹事長の大型訪中団にしても、その具体的な表れだろう。ただし中共の保護国になることは、アメリカの保護国と違って、その先があることを知っておかなければならない。私が以前から指摘していることだが、そこには日本国家の亡国と、更には日本民族そのものの滅亡とが待ちうけているのである。(引用終わり)

「2011年 オキュパイドジャパン Occupied Japan」

1945年8月15日、日本という国が敗戦の屈辱を味わってから66年の歳月が経ち、二十一世紀もその十分の一時を刻んだ。にもかかわらず、3月11日の東日本大震災と福島原発の事故後の政府、マスコミの動きを眺めていると残念ながら、日本の戦後が永遠といまだに続いていることがよくわかる。

 

ところで、十年以上前にノリタケのMADE  IN  OCCUPIED  JAPAN というりっぱな洋皿を教養豊かな年配の知人から借用したことがある。戦後直後に製造されたとは思えないりっぱなものであった。ある日、その皿をずっと眺めていて私が思ったことは、結局、現在も日本は「オキュパイドジャパン」のまま全く変わりがないのではないかということだった。

 



 たしかに私たちは、サンフランシスコ講和条約が1951年(昭和26年)9月8日に調印され、1952年(昭和27年)4月28日に発効し、日本が再び独立国になったと社会科の教科書で教えられてきたし、そう信じてきた。

しかしながら、戦後60年以上を経て改めて冷静に考えてみると明らかに日本は独立国ではない。今までいろいろな方がその状況をそれぞれの言い方をしてきた。半独立国、属国、保護国、植民地等いろいろな言い方があるようだ。

そう言えば、子供の頃、歳の離れた父から訳もわからずに聞かされてきた言葉が思い出される。軍医だった父は戦争中、何年も南方の戦地で働いていた。

「情けない。日本は戦争に負けてアメリカの植民地になった!」と彼は何もわからない子供たちにそんなことを時々喋っていたものだ。

そして、今回の3月11日の大震災、原発事故で改めて私たちが認識できたことは、日本はこのような非常事態に対応できるちゃんとした独立国家、主権国家ではなかったということである。

あまりにも残念なことだが、日本には「国民を守るために正しい情報を提供し、国民とともに行動する政府というものがなかったのである。そして私たちは、政府やマスコミによってあまりに無知な状態に戦後半世紀にわたって隔離されてきたことがはっきりしてきた。

いわゆる「閉ざされた言語空間」にずっと閉じこめられてきたのである。

 

そう言えば、スキャンダルで失脚した防衛省の事務次官だった守屋武昌氏は「普天間交渉秘録」で次のように書いている。

「現在でも東京の港区、渋谷区、新宿区、西部地域の上空七千メートルまでは、米軍の上空になっている。朝鮮戦争の際ハワイ、グアムの米軍基地から最短距離で朝鮮半島に至る航空路がそこにあり、東京、神奈川、山梨、長野、そして新潟のそれぞれ一部は、現在でもコリドー(回廊)として米軍が使用しているからだ。西日本や北陸から羽田空港に向かう民間航空機が伊豆大島から高度を下げ、銚子から回り込むように羽田に着陸するのは、この空域を避けて飛ばなければならないからである。日本は占領期のままではないか。」



今回は、最近のレポートで断片的に指摘させていただいたことをまとめて解説させていただきたい。そしてそのことが、現在の日本の政治経済情況を物語ることにつながるはずである。

 

 レイムダックに陥っていた菅 直人総理を救ったのは、衆目の一致するところである。彼を救ったのは、皮肉にも日本を国難に陥れた東日本大震災だったことは間違いない。

そして、菅 直人総理は、原発事故対応、震災復興について、オプチュニストとしての素質を如何なく発揮し続けている。市民運動家として何の背景もなく総理まで登り詰めた男の真骨頂である。確かに彼には何の信念も政策もないが、戦後日本の永田町の権力構造が身に染みてわかっているのである。「与党内の基盤が弱くても、野党から嫌われても米国の言うことを120%聞き入れ、その後ろ盾を得たなら政権維持はできる!」そのように菅 直人氏は開き直っているのである。



*週刊ポスト2011年5月20日号より(引用) 

GHQ彷彿させる官邸へ派遣の米国人 菅総理に代わり決裁権」



  焼け野原からの戦後復興に大震災の復興計画を重ね合わせる菅直人・首相は、屈辱の歴史までも真似ようとするのか。GHQ(連合国軍総司令部)に主権を奪われ、自主憲法さえ作れなかったあの時代は、この国の在り方に大きな禍根を残している。だが、菅政権はこの震災対応の中、国の主権を米国に売り払うことで、自らの権力を守り切ろうとしている――。

この国の政府は震災発生以来、「第2の進駐」を受けている。首相官邸ではそれを如実に物語る光景が繰り広げられていた。

菅首相や枝野幸男・官房長官、各首相補佐官らの執務室が並ぶ官邸の4、5階は記者の立ち入りが禁止されているが、そこでは細野豪志・首相補佐官、福山哲郎・官房副長官らがある部屋に頻繁に出入りしていた。部屋の主は、米国政府から派遣された「アドバイザー」で、名前も身分も一切明らかにされていない。

官邸の事務方スタッフは、その素性と役割についてこう説明する。

「その人物は米原子力規制委員会(NRC)のスタッフとされ、官邸に専用の部屋が与えられ、細野補佐官とともに原発事故対応の日米連絡調整会議の立ち上げ作業にあたった。常駐していたのは原発対応のために横田基地で待機していた米海兵隊の特殊兵器対処部隊(CBIRF)が帰国した4月20日頃までだが、その後も官邸に顔を出している。福島第一原発の水素爆発を防ぐために実行された窒素封入や、格納容器の水棺作戦などは、そのアドバイザーとの協議を経て方針が決められた」

原発事故対策統合本部長を務める菅首相に代わって、“決裁権”を握っていたというのだ。

官邸へのアドバイザー派遣は、菅政権の原発事故発生直後にオバマ政権が強く要求したものだった。当初、菅首相や枝野長官は難色を示したが、ルース駐日大使は福島第一原発から80km圏内に居住する米国人に避難勧告を出し、横田基地から政府チャーター機で米国人を避難させるなどして、“受け入れなければ日本を見捨てる”と暗に圧力をかけた。菅首相は3月19日、ルース大使との会談で要求を呑んだとされる。

外国の政府関係者を官邸に入れてその指示を受けるなど、国家の主権を放棄したも同然であり、GHQ占領下と変わらない。

しかも、その人物は「ただの原子力の専門家」ではなかったと見られている。

米国は震災直後にNRCの専門家約30人を日本に派遣して政府と東電の対策統合本部に送り込み、大使館内にもタスクフォースを設置した。3月22日に発足した日米連絡調整会議(非公開)にはルース大使やNRCのヤツコ委員長といった大物が出席し、その下に「放射性物質遮蔽」「核燃料棒処理」「原発廃炉」「医療・生活支援」の4チームを編成して専門家が具体的な対応策を練っている。

「原発事故対応のスペシャリスト」だというなら、統合対策本部や連絡調整会議に参加する方が、情報収集という意味でも効率的な働きができるはずだ。にもかかわらず、その後1か月間も官邸に常駐する必要があったのは、原発対応以外の「特別の任務」を帯びていたからだろう。



米民主党のブレーンから興味深い証言を得た。

「ホワイトハウスが、菅政権に原発事故の対処策を講じる能力があるかどうかを疑っているのは間違いない。だが、すでに原発処理についてはいち早くフランスのサルコジ大統領が訪日したことで、同国の原子力企業アレバ社が請け負う方向で話が進んでいる。

むしろ米国が懸念しているのは、これから震災復興を手掛ける菅政権が危うい状態にあること。オバマ大統領は、普天間基地移設をはじめ、日米間の懸案を解決すると約束した菅政権が続くことを望んでいる。

そのため、ホワイトハウスでは国家安全保障会議などが中心になって、日米関係を悪化させることがないように指導するオペレーションを震災後から展開している。“特別な専門家”の派遣もそのひとつと考えていい」



菅政権は米国の指導の下、国会では震災復興より米国への“貢ぎ物”を優先させた。3月末に年間1880億円の在日米軍への思いやり予算を5年間にわたって負担する「在日米軍駐留経費負担特別協定」を国会承認し、428日には、日本政策金融公庫の国際部門である国際協力銀行(JBIC)を独立させる法案を成立させた。

JBICは米軍のグアム移転費用を低利融資する窓口になっているが、法改正によってこれまでは途上国向けに限られていたインフラ輸出への融資を拡大し、先進国も対象にできることになった。

経産省幹部はこう指摘する。

「菅政権は米国への新幹線輸出を進めているが、JBIC独立により、その資金を日本が拠出できることになる。アメリカも満足だろう」

※週刊ポスト2011年5月20日号 (引用終)



ところで、日本銀行が「東日本大震災」後の3月14日から8営業日連続で総額102兆6千億円の資金を銀行や証券会社向けのいわゆるコール市場、短期金融市場に投入していたことにも注目すべきである。(3月24日の朝日新聞)。

日銀、8営業日連続の資金供給 短期金融市場に2兆円
http://www.asahi.com/business/update/0324/TKY201103240098.html
 日本銀行は24日午前9時半過ぎ、銀行や証券会社などが必要な資金をやりとりする短期金融市場に2兆円の資金を供給する公開市場操作(オペ)を実施した。28日に金融機関に貸し出す分。日銀による大量資金供給は東日本大震災後の14日から8営業日連続で、資金供給の総額は102兆6千億円になる。


日銀が震災直後から銀行に資金供給した102兆6千億円はどこ に消えたのか?

 日銀は102兆6千億円もの金をすでに金融機関に流していた。しかしながら、この資金が震災被災者の救援や被災地の復興に直接役立っているという話は一切聞こえてこない。ではこの資金はいったいどこに行ったのか?
 日銀が資金供給した金融機関は3大メガバンク(三菱UFJフィナンシャル・グループ、みずほフィナンシャルグループ、三井住友フィナンシャルグループ) と2大証券会社(野村証券、大和証券)である。この資金の使い道は「大震災の救済復興」を担当する政府ではなく直接は関係しない3大メガバンクと2大証券が握っている。3大メガバンクと2大証券は融資の回収リスクがあったり、融資リターンが低い案件には決して融資も投資もしないから、102兆6千億の資金の大部分はいわゆる「円のキャリートレード」として国際金融資本(ゴールドマン・サックス、シティグループ、モルガン・スタンレー、メリル・リンチ、JPモ ルガン)に低金利で貸し出されていたことになる。

米国ユダヤ系投資銀行=国際金融資本はこれらの資金を投機資金としてBrics各国へ投資し現地経済をバブル化させ、先進国の株、債券、国債へ投機して国家財政を破綻させ、原油、金、食料への買占めで価格暴騰を引き起こしている。
 3月11日にマグニチュード9の大地震に見舞われた日本の株価を630円も暴落させ円を76円代まで暴騰させたのは、人の不幸に乗じて金儲けをたくらむ強欲な米国国際金融資本の仕業であることは言うまでもない。
 経済ニュースで時々報道されるように、巨額の財政赤字と貿易赤字をハイパーインフレで一気に解消しようとする目論むオバマ政権とFRBは大量のドルを印刷して米国ユダヤ系投資銀行に流している。
 日本銀行は米国支配層の要請に応じて表向きは「大震災対応資金」と称して大量の円を印刷してゼロ金利で3大メガバンクと2大証券会社に流し、その大部分は米国に流れ莫大な投機資金となっている。このように震災後、日本銀行は、国内対応とは打って変わって迅速に米国のためには本当にいい仕事をしている
 不思議の国、日本である。

 どうも、日本人が意識していない日本人の独自性というものが、厳然と存在しているようだ。

そしてそのことが、日本という国、日本人の世界での生存を危ういものにしている可能性も否定できない。かつて、グレゴリー・クラーク氏が「ユニークな日本人」(講談社現代新書)という本で次のような論旨を展開したことがある。

 日本人のユニークさは、たんにヨーロッパ人と比してだけではなく、インド人や中国人と比しても際立っている。要するに日本人と非日本人という対比がいちばん適切なほどにユニークである。 

そのユニークさは、日本以外の社会には共通しているが日本にはないものによってしか説明できない。それは外国との戦争、すなわち外国からの征服である。
 明治維新までの日本には、幸せなことに異民族に侵略され、征服され、虐殺されるというような悲惨な歴史がほとんどなかった。日本人同士の紛争は多くあったが、その紛争でも一神教の欧米のように徹底した虐殺に至ることは、ほとんどなかった。しかし相手が異民族であれば、自民族こそが正義であり、優秀であり、あるいは神に支持されているなどを立証しなければならない。「普遍的な価値観」によって戦いを合理化しなければならない。
 他民族との戦争を通して、部族の神は、自民族だけではなく世界を支配する正義の神となる。武力による戦いとともに、正義の神相互の殺し合い、押し付け合いが行なわれる。社会は、異民族との戦争によってこそよりイデオロギー的になる。
 ところが日本は、異民族との激しい闘争をほとんど経験してこなかったために、西洋的な意味での神も、イデオロギーも全く必要としなかったのだ。イデオロギーなしに自然発生的な村とか共同体に安住することができた。だから日本の都市には西洋や中国、朝鮮のように城壁が築かれたことがない。闘争の歴史に明け暮れた西洋人は、当然のごとく一神教の宗教やイデオロギーのよう原理・原則の方が断然優れていると思っている。「イデオロギーを基盤にした社会こそが進んだ社会であり、そうしないと先進文化は創れない」と盲信している。

 ところが日本は強力な宗教やイデオロギーによる社会の再構築なしに、村落的な共同体から逸脱しないで、それをかなり洗練させる形で、大人しくしかも安定した、高度な産業社会を作り上げてしまった。ここに日本のユニークさの源泉があるというのだ。
 このような日本人の特質は、ヨーロッパだけではなくアジア大陸の国々、たとえは中国や韓国と比べても際立っているという。中国人や韓国人は、心理的には日本人より欧米人の方にはるかに近い。欧米風のユーモアをよく理解するし、何よりも非常に強く宗教やイデオロギーを求めている。中国人や韓国人は、思想の体系や原則を求めるが、日本人は求めない。
 西欧だけではなく、アジアのほかの国々とも区別される日本人のユニークさは、自然条件だけでは説明できるものではない。日本が稲作中心の文明であったことは重要だが、それが日本文化のユニークさを生んだ主因ではない。韓国も稲作中心だったが、クラーク氏がいう日本人のユニークさと共通のユニークさがあるわけではない。結局、彼は大陸の諸国に比べ、異民族との闘争が極端に少なかったという要因こそが、イデオロギーに拘泥しない(あまりに人のいい)と言われる日本人のユニークさ:独自性を作り上げているというのである。
 クラーク氏は、日本の社会の素晴らしさの一つとして平等主義を挙げている。日本人の態度のうえにもそれが見られ、その素晴らしさは世界一ではないかという。店に入っても、まちに行っても、どこに行っても階級的な差がまったく感じられないというのだ。イデオロギー社会では、こういう平等性が成り立たない。
 その理由を著者は明確にしているわけではないが、日本に、西欧に見られるような階級差が見られないのは、やはり異民族に征服された経験がないからだろう。その点は、同じ島国でありながらイギリスと好対照をなしている。イギリスの階級差は、明らかに征服民と被征服民の差を基盤としている。
 さて、以上のようにクラーク氏は、日本人のユニークさの要因を、異民族との闘争のなさだけに求めている。

 しかし、それも確かにひとつの大切な要因であるが、このひとつの理由だけで日本人のユニークさを論じるのはやはり無理がある。

私は、日本人のユニークさは狩猟・採集を基本とした「縄文文化」が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けていることが一番大きな要因だと考える。

それを哲学者・梅原 猛氏は「森の文化」だと言っている。日本人は、「ギルガメシュ神話」のように「森の神」を殺さなかったのだ。そして、ユーラシアの穀物・牧畜文化に対して、日本は穀物・魚貝型とで言うべき大陸とは全く違うユニークな文化を形成していったのである。
 世界でも稀な縄文時代という土器文化を異常に長く続けた歴史こそ、おそらく日本人のユニークさの源泉なのであろう。このような歴史を歩めた幸運が日本人の独自性を創り上げたと考えるべきだと思われる。

また、日本語を母国語とすることによる脳の使い方の違いも考えるべきであろう。角田忠信博士が書いた「日本人の脳」という本はそのことを解明した画期的な本であった。

東京医科歯科大学の教授であった角田博士によると、日本人と西洋人とでは、脳の使い方に違いがあるという。すなわち、日本人の場合は、虫やある種の楽器(篠 笛などの和楽器)などの非言語音は言語脳たる左半球で処理される。もしそれが事実とするならば、欧米人が虫や楽器の音を 単なる音として捕らえるのに対して、日本人はその一部を言葉的に捕らえる、つまり意味を感じていると考えることができる。この事は日本人の認識形態、文化に取って非常に重要だ。一般的に意味、つまり、言葉を発する主体は意識体として認識される。しかしながら、日本人にとって楽器などの奏でる非言語音がその一部とは言え、言語脳を刺激して語り掛けているならば、それが人間から発せられるものでない以上、別の意識体、つまり、霊魂、神々、魔物 などの霊的意識体として感じ取られる感受性の高さに結び付くのではないか。また、その事が日本人の精神の基層を為していると考えることもできるからだ。

このことから日本語を使う日本人の脳は本来的にアニミズム的であり、多神教的であると言えよう。そして、おそらくは日本特有の言霊の概念もこの様な認識の上に成り立つ。

ところで、角田氏に拠ると幼年期を欧米で過ごし、英語やフランス語などで育った日本人は欧米型の脳に成り、日本語で育った欧米人は日本型の脳に成る。つまり、幼年期に使う言葉によって、脳の機能が決定されることになる。母国語は、脳にとってパソコンのOS(オペレーションシステム)のようなものであるらしい。

もし、日本語がその様な脳を作り出す特性を持っているとしたら、どのような異文化が流入しても、日本の根底に在る文化、精神は変化しないのか。また、この様な日本語の特質は果たしていつ頃からできたのか。博士の研究に拠ると、この日本人特有と思われたパターンが他の民族からも見付かっている。いわゆる黄色人種の中には日本型の脳はなかった。日本人に最も近いとされる韓国人にしても欧米型であった。しかし、太平洋に点在する島々の住人、つまり、その現地語を話すミクロネシアなどの人々は日本型と判断された。ポリネシアの言語もその形態の近い事から同様の脳を作ると考えられる。

実を言えば、現在、縄文人の直系の子孫と思われるアイヌの人々は遺伝的にポリネシアンに近い事が分かっている。また、哲学者梅原 猛氏が言うようにアイヌ語は縄文の言語の形態を色濃く残していると考えられている。最近の研究ではミクロネシアン、ポリネシアン、縄文人、アイヌなどは氷河期以前のモンゴロイドと言う意味で旧モンゴロイドと名付けられ分類をされている。ミクロネシア系の言語が日本型脳を作るのなら、そして縄文語から発展した日本語が日本型の脳を作るのなら、アイヌ語も日本型の脳を作ると推測できる。つまり、旧モンゴロイド系の言語は本来的にアニミズム的な多神教的な脳を産み出すと考えられる。むろん、文明を持つ以前の人類は、アルタミラの洞窟壁画を見ればわかるように旧モンゴロイドに限らず、アニミズム的な世界観を抱いていた。もちろん、自然との対話から直感を得、自然との関わり方を学ぶ能力は旧モンゴロイドの専売特許ではなかったことは言うまでもない。しかしながら、人類の多くはその様な能力を伝える言語を失った?が為に、文明の進展と共にその様な能力を失っていった。使われぬ能力が退化をするのは自然の摂理だ。

しかしながら、我々日本人の言語はその様な能力を脳に与える潜在的力を秘めている。この能力は非常に貴重であり、文明の進んだ今日こそ、改めて見直されるべきであることは言うまでもない。

日本語はおそらく、縄文語が渡来人の言語を取り入れる事で進化をした言語である。そういった変化の中でも、縄文時代からの基本的な部分、つまり、日本型の脳を基礎付ける要素:母音中心の言語であることは変わらなかった。そのために我々日本人は、縄文の心性を無意識の内に持ち続けることになったと考えてもいいのではないか。

 ところで、現在の日本人がしっかり肝に銘じなければいけないことは、一部の欧米の超エリートたちには、普通の日本人が意識していないこの日本人の独自性というものがどうにも我慢ならないということである。彼らから見ると、「原始の尻尾」を引き摺っている野蛮人の日本人がハイテク技術の最先端を行っているのが許しがたいという処だろう。



 

  今回は、そのことを本当によく伝えているわが郷土が生んだ珍しい本を紹介したい。

それは、「自由民権 村松愛蔵とその予告」(柴田良保著)である。昭和55年に地元の東海日日新聞に連載されたものをまとめたほんとうに不思議な本である。

 田原出身の村松愛蔵という戦前、衆議院議員を何期か務めた自由民権の運動家でもあった政治家の評伝である。

 明治維新以降の近代史を知る上でいろいろなエピソードの(吉田が徳川家康所縁の地であったために豊橋に改名を命じられ、維新政府に冷遇されてきた等の)一つ一つが興味深いがやはり、一番は題名の一部にもなっている予告の部分であろう。



 この本の中で二回、ユダヤ人と思しき恐るべき学識の人間が登場し、日本という国と世界の仕組みについてそれぞれ講義をするのだが、驚くべきことは、明治30年に村松愛蔵氏がパリでロシア系ユダヤ人に聞かされた内容と昭和55年にこの本を書いた柴田良保氏が東京においてあるユダヤ人から受けた講義の内容が全く同じだったと言うことだろう。

明治30年に村松氏はこのように言われた。

 「世界の経済を動かしているもの、それはロスチャイルド、モルガン、ロックフェラーのユダヤ財閥である。その背後にフリーメーソンがある。フリーメーソンはキリスト教国が異教徒に占領されることを許さない。」



「日本政府はキリスト教を弾圧している。よろしくない。なぜ、弾圧するのか。キリストは唯一の神である。天皇を唯一の神とする日本に、唯一の神であるキリストが入ることが許せないからだ。そしてやがて、日本は、キリスト教国と戦争する日がくる。その時は、キリスト教国が連合して日本を叩きのめすだろう。」



「いまの神道を国教とする天皇教国、日本はいつの日かキリスト教連合国と大戦争をやって敗北するだろう。」



そして、昭和55年、この評伝を書いた柴田良保氏の前に、またしてもユダヤ人が現れて同様の講義を彼に聞かせるのである。



「太平洋戦争は、キリスト教連合と天皇教大日本帝国との戦争であった。すなわち、宗教戦争であった。」



GHQ(連合国総司令部)の日本占領政策は、フリーメーソンの意図による「天皇制宗教」の打破撲滅であった。」



「日本人が自発的に日本人でなくなる道をとるなら、それは日本民族の集団自殺であるが、それでも良い。だが、もしも日本人がその歴史的民族的伝統を復活させるようなことが、あれば我々キリスト教、ユダヤ財閥、フリーメーソン連合はただちに日本を包囲して今度こそ、日本民族を一人残らず、皆殺しにする作戦を発動するであろう。」



とんでもない恐喝である。

しかしながら、フリーメーソン、ユダヤ財閥、キリスト教徒という言葉に惑わされないで考えると、これらの言葉の中には、欧米の超エリートが日本人に対して本質的に考えていることがはっきり表明されているのではないかと私には思われる。かつて山本七平氏は、「日本教徒」という本の中で、日本には、仏教徒、キリスト教徒、神道教徒というものは存在しない。日本教徒仏教派、キリスト派、神道派がいるだけだというようなことを書いていたが、全くその通りで、意識する、しないは別として、日本人は一万五千年前から、アニムズム的共生思想の中で生き続けてきたのである。

そして、どうも地球上の日本以外の地域ではそのような幸せな歴史を歩むことができなかったようなのである。そういった意味では、「文明の衝突」という本でサミュエル・ハンチントンが言うように「日本文明」は世界の中で孤立した文明なのであろう。というより本当の意味で地球オリジナルの文明として唯一残ったのが日本文明だと考えることができるかもしれない。

 であるならば、我々日本人が二十一世紀を生き抜いていくためには、今一度、日本人としてのアイデンティティの確立が求められているのではないだろうか。



*村松愛蔵は田原藩の家老の家に生まれ,藩校成章館や豊橋の穂積清軒(ほづみせいけん)主宰の洋学校好問社 で儒学(じゅがく)・英語などを学んだ。16歳で上京した後,東京外国語学校(現東京外国語大学)ロシア語学科に編入する。彼はそのころ盛んになりつつあった自由民権運動に関心をもち,田原に帰郷後,同士を集めて恒心社という政治結社をつくり, 国会開設の運動を盛り上げた。また,25歳の時に新聞に発表した「日本憲法草案」は,一院制の国会,国民の権利を無制約的に保障し,税額を問わず国税納付者・婦人戸主・満18歳以上の男子の選挙権を認めるなど,当時としては非常に斬新なものであった。しかし,長野県飯田の自由党員たちと挙兵暴動計画に加わり,事前に発覚したため処罰され,服役した(飯田事件)。
 その後,憲法発布の大赦により釈放された後は,大同団結運動,立憲自由党に加わった。そして,1898年(明治31)に衆議院議員に初当選後,1909年(明治42)に政界を去るまで,立憲政友会に所属して政界で活躍した。晩年は宗教人として生涯を終えた。

 

グレゴリー・クラーク(Gregory Clark, 1936年5月19日 – )

イギリス生まれ、オーストラリア育ち、日本在住の外交官・学者である。

現在、国際教養大学副学長。多摩大学名誉学長。日本人論の論客。専門は政治学。父親は産業分類で知られる著名な経済学者コーリン・クラーク。

<経歴>

1936年 イギリス・ケンブリッジ生まれ

1957年 オックスフォード大学卒業

1956年 オーストラリア外務省勤務(中国担当官、駐ソ大使館員)

1965年 対外投資研究のため来日

1976年 上智大学教授に就任

1995年 上智大学退職、多摩大学学長に就任

2000年 教育改革国民会議委員

2001年 多摩大学学長退任

2004年 国際教養大学副学長



梅原 猛(うめはら・たけし)

1925年、宮城県仙台生まれ。京都大学文学部哲学科卒。立命館大学教授、京都市立芸術大学学長、国際日本文化センター所長などを歴任。『隠された十字架 法隆寺論』(毎日出版文化賞)、『水底の歌』(大佛次郎賞)など著書多数。近著に五木寛之氏との共著『仏の発見』(平凡社刊)など。

  

*参考資料 「日本人の脳」 角田忠信著より
 右脳と左脳、それぞれの機能の特徴(欧米人の脳モデル)。

【左脳】
【右脳】
言語脳、理性、デジタル的、ストレス脳。
イメージ脳、感性、アナログ的、リラックス脳。
顕在意識(意識)、理解・記憶を求める、段階的に少量ずつ受け入れる、低速で受け入れる、直列処理する、手動処理、意識処理。
潜在意識(無意識)、理解・記憶を求めない、一度に大量を受け入れる、高速で受け入れる、並列処理する、自動処理、無意識処理。
言語、観念構成、算術処理などに適し、分析的、抽象的、論理的。
音楽、図形感覚、絵画、幾何学処理などに適し、合成的、全体的、感覚的、直観的。
 もちろん、右脳と左脳はバラバラに働いているのではなく、普通は協働的に機能している。ただし、「言語」が発せられたとき、言語脳である左脳が優位となる。例えば、楽器の音色を聴いているとき、右脳が受容処理の主体となっているが、言葉が聞こえてくると、その音楽を含めて左脳で処理され始めるのである。しかしこれは多数派のWindowsのOSで働く脳の場合である。
 Mac-OSとでも言うべきOSで働く日本人の脳の場合は、最初から特殊である。洋楽器の音色こそ右脳受容であるが、三味線など邦楽器となれば初めから左脳で受容されるのである。前述したが、虫の音も左脳(欧米人は右脳)だし、言語は母音・子音とも左脳(欧米人は母音は右脳、子音は左脳)である。さらに、日本人は情動(感情、パトス)も左脳にその座がある。音関係について、まとめよう。

 
〈左脳で受容〉
〈右脳で受容〉
【日本人の脳】
言語(母音・子音)、情動的な人声(喜怒哀楽の声、ハミング)、虫や動物の鳴き声、波や雨音、邦楽器音
 洋楽器音、機械音
【欧米人の脳】
 言語(子音)
言語(母音)、情動的な人声(喜怒哀楽の声、ハミング)、虫や動物の鳴き声、波や雨音、邦楽器音、洋楽器音、機械音
 それぞれ〈右脳で受容〉の音だけが聞こえている間は右脳優位となるが、〈左脳で受容〉の音が聞こえ始めた途端、左脳優位となり、〈右脳で受容〉の音も左脳経由で処理される。

 西欧思想を学ぶ者にとって、ロゴス(論理)とパトス(情念)というのは基本タームであり、この二項対立が西欧思想を形作っていることは常識である。例えば、理性と感情、霊魂と肉体、精神と身体などというのは、このヴァリエーションである。ここからデカルト的にさらに引き延ばせば、思惟と延長、精神と物体、人工と自然、人間と世界などの二元対立項も引き出せる。

 欧米人のこの二元論思考には、実に生理学的根拠があったのだ。彼らのOSでは、

【左脳】
【右脳】
 ロゴス(言葉)
パトス(言葉ではないもの)、人間以外の自然、もの(物体、延長)
と脳は作動している。
 ところが、日本語OSに従う日本人の脳の場合はどうか。

【左脳】
【右脳】
こころあるもの(ロゴス、パトス、自然)
 こころがない、ただの「もの」(物体)

日本のエネルギー問題を考える上で大変興味深い指摘をしている増田悦佐氏の論文を知人が送ってくれたのでご紹介させていただく。

 

「史上最大の詐欺事件、『地球温暖化危機』説の化けの皮を剥ぐ」 

 
 
    
2011.06.10
だれがなぜ、こんな大がかりな詐欺を仕組んだのか 


カナダ人地球物理学者ノーム・カルマノビッチは、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)に群がる御用学者ではない。また、半分引退したような生活をしている彼は、この問題について少数派として声を上げたら科学者としてのキャリアにドロを塗られるなどということはちっとも恐れていない。彼は、まちがった「環境政策」のおかげで国際的な食糧危機が急拡大していることを深く憂慮している。そして、御用学者とちがって、京都議定書のインチキぶりもはっきり弾劾している。

人間が二酸化炭素の排出量を増やしすぎたことが地球温暖化の原因だと言い始めたのは、1988年にアメリカ航空宇宙局(NASA)に採用されたジェームズ・ハンセンという若手科学者だった。この熱心な気象モデル作成屋は、アメリカ議会で「もし今のまま近代産業がハイペースで石炭やガソリンを燃やしつづけたら、人類はこの地球を殺してしまうだろう」と証言した。
 カルマノビッチによれば、「これだけ大騒ぎをしている問題としては非常に奇妙なことだが、地球が温暖化しているという主張を支持する証拠としては、気象モデルたった一つしか使われたことがない」そうだ。しかも、そのモデルは簡単に言えば、「二酸化炭素の排出量増加と地球上の大気温の上昇には、強い相関性がある」というだけのものなのだ。
下に示すのが、そのたった一つのモデルだ。



出所:フリー百科事典『Wikipedia』、「温室効果」のエントリーから転載
 

 今の時代に経済学を研究しようとする学者の卵は、必ず数量モデルの作り方について訓練を受ける。そして、相関性を検証する回帰分析は、数ある数量モデルの中でもいちばんひんぱんに使われる。だが、このモデルを使う前に教えこまれるのは、「相関性の存在を証明できたとしても、それは因果関係を立証したことにはならないし、ましてやどちらが原因でどちらが結果かを決めることはできない」ということだ。
 そして、ジェームズ・ハンセンを始めとするIPCCを牛耳る自然科学者たちは、数量モデルの特徴や限界について、根が文科系の経済学者の卵たちよりずっとよく知っているはずだ。ところが、彼らが拠りどころとするたった一つの回帰分析モデルは、このできるはずのない「因果関係の存在」と、「二酸化炭素の排出のほうが原因で温暖化は結果だ」という結論をあたかも論証しているかのように悪用されているのだ。
 二酸化炭素が温暖化の原因とされる理論的根拠は「温室(ガス)効果」と呼ばれる現象だ。ふつうは、地球に入ってくるエネルギー量と地球から出ていくエネルギー量は均衡を保っていて、大気温も変動したりしない。だが、大気中に特定の気体(ガス)が増えると、熱を発散することを妨害することによって温室内の気温が高く保たれるように大気温を高止まりさせてしまう。
「こうしたやっかいな性質を持った気体による大気温上昇効果を調べると、水(水蒸気・雲)が90パーセント、二酸化炭素が数パーセントの影響をおよぼしている」というのが、気象学者たちの多数派見解だ。目一杯二酸化炭素の影響を重視する少数派の見解でも、水が66~85パーセント、二酸化炭素が9~26パーセントとなっている。

 当然、温室効果を真剣に憂慮するなら、二酸化炭素の発生より水の循環が大気温に及ぼす影響のほうを重視すべきだろう。ところが、「二酸化炭素=地球温暖化の元凶」説の支持者たちは、じつに奇妙な論理の歪曲でこの当然の結論を拒絶する。
「水が水蒸気というかたちで大気中に存在する期間は平均で10日間と短く、また人為的に水蒸気の発生量を増やしたり、減らしたりしても、自然に逆方向のメカニズムが働いて人為的な増減を打ち消してしまう。だから、水の循環は無視しても構わない。それに比べて、二酸化炭素はいったん発生すると5~200年も大気中にとどまると想定されるので、こっちが温暖化の元凶に違いない」という論理なのだ。

読者のみなさんは、この論理のどこにトリックが隠されているか、お分かりになっただろうか? まず、何が論争の焦点なのか、思い出していただきたい。仮に地球は本当に温暖化しているとして(それ自体、紛糾している論点なので、あとでくわしく検討する)、それはいったい人為的な要因によるのか、自然の循環の一局面にすぎないのか、というのが核心のはずだ。
 ところが、「人間が水蒸気の排出量を増やしても、自然に減少させるメカニズムがあるから問題とする必要はない。でも、一度二酸化炭素の排出量を増やすと長期間残留するからこっちが元凶に違いない」という論理は、自然の循環ではなく人為的に増減させたものが原因だと決めつけている。つまり、証明しなければならない「人為的原因説」を前提に使って、真犯人探しをしているのだ。

「10日間で消えてしまうものなら心配する必要はないが、消えてしまうまで5年から200年もかかるものなら大変だ」、というのは、あくまでも寿命がたかだか70~80年の人間の感覚だ。自然にとっては、フィードバックサイクルが10日だろうと、200年だろうとなんの違いもない。
「いや、そんな悠長なことを言っても、その200年のうちに地球が焦熱地獄になって人っ子ひとり住めなくなっていたら、どう責任を取るのか」と息巻く向きもいらっしゃるかもしれない。そういう方々は、地球温暖化危機を声高に叫びたてている連中がどの程度気温が上がると言い張っているのか、ご存じだろうか?

 おそろしく過激で、およそ実証データとは合致しないデタラメを言う連中でさえ、想定しているのはせいぜい1世紀で2二度の大気温上昇だ。ちょっと大げさという程度にとどまっている連中は、1世紀で1度上がると主張している。上にご紹介したグラフをご自分の眼で確かめていただきたいが、自然科学的に検証できるかぎりで順当な予測は1世紀に0.5~0.6度の上昇といったところだ。
1世紀に0.5~0.6度の気温上昇というのは、400~500年続けば人間も差を実感するだろうが、それも医療技術が急速に進んで突然人間の寿命がそこまで伸びたらという、ありえないような仮定の上での話だ。7、80年から、そうとうがんばっても100年くらいまでしか生きられない人間としては、生まれたときと死ぬときの大気温の差が実感できるのはよほど気候に鋭敏な感覚を持った人だけだろう。
 いったい、どこを押せばこの程度の変化で、「地球が滅亡する」とか、「人類が死に絶える」とかの極端に悲観的なシナリオを振りかざすことができるのか、本当に不思議だ。やっぱりこれは、太平無事な安全圏でぬくぬく暮らしている人間ほど怖い話を聞きたがるという、太古の昔からの人間の習性に迎合した「エンターテイメントとしての悲観論」なのかもしれない。
 地球の大気温は、ハンセンが予測したような急上昇を示さなかった。それどころか、世界中に5つしかない地球全体の気象に関するデータベースは、過去10年間に化石燃料を燃やして人類が発生させた二酸化炭素の量は記録的な上昇を示したにもかかわらず、地球上の大気温にはまったく上昇の兆候は見られなかったことを示している。


出所:ブログサイト『Climate Realistic Article』2009年5月20日のエントリーから転載


 いちばん直近の小氷河期が終わったのは、1830年代だった。それ以降、地球の大気温は100年間で約0.5度ずつ上昇している。もちろん、1830年代というのは、やっと石炭焚きの蒸気機関利用が本格化しはじめた時期で、人為的に排出される二酸化炭素の量は、1900年代以降のガソリンエンジン搭載の自動車が普及した時期よりはるかに少なかった。
 ようするに、100年で0.5度の温暖化は人間のすることとは無関係に進む温暖化・寒冷化をくり返すサイクル上の動きとして認知されているのだ。最近の温暖化論者たちが騒ぎ立てている100年間で0.6度の大気温上昇のうち、人為的な影響を原因とする分は最大でも0.1度分だけということになる。
 そして、実証データは、温暖化と寒冷化のサイクルが二酸化炭素の排出レベルとはまったく無関係に起きていたことを示している。具体的には、190042年までは二酸化炭素がたった14パーセントしか増えていないのに大気温は0.5度も上昇していた。その後、194275年の33年間では、二酸化炭素が通算で500パーセントも伸びたのに、大気温は0.2度下がっていたのだ。

 20世紀のうちで、地球温暖化危機論者が言うとおりに、二酸化炭素排出量が大幅に増えて、大気温も上がった時期は1975~98年の23年間だけだった。この期間には、二酸化炭素の排出量が激増を続ける一方、大気温は0.6度上がっていた。だが、20世紀全体の通算ではどうかというと100年ものときが経ったというのに、やっぱり大気温は0.5パーセントしか上昇していない。
それだけではない。続く1998~2009年の11年間で、地球上の大気温は1975年から1998年に達成した0.6度の上昇を全部吐き出してしまったのだ。具体的に言うと、1998年には1979~98年の平均値より0.8度高かった大気温が、2009年には平均値よりわずか0.2度高いだけになってしまった。この点も、上のグラフで確かめることができる。
あまりにも変化が激しいので、2002年以降を切り取ったグラフも掲載しておこう。



出所:同上
何がいちばん大きく変わっていたのかというと、それまで増加傾向を維持していた太陽の黒点活動が2000~02年をピークに激減に転じたということだろう。地球から観察できる黒点の数は、2000~02年には100から175にのぼっていたが、2009年末から2010年初めにはほぼゼロまで落ちこんでしまった。



出所:ブログサイト『Market Oracle』、2011年3月30日のエントリーから転載

 太陽の表面では、つねに水素をヘリウムに変換する爆発が起きている。そして、この爆発は磁気嵐をともなう。その磁気嵐のつむじに当たるのが太陽表面に出る黒点なのだ。つまり、地球上で観察できる黒点が多いということは、太陽表面での水素→ヘリウム変換が活発だし、黒点が少なければ不活発だということになる。当然のことながら、水素→ヘリウム変換が活発なら地球上に降り注ぐ放射熱の量も多いし、不活発なら少ないわけだ。
 最近になって、ようやくIPCC系の気象学者たちも、渋々ながら1998年に彼らが騒ぎ立てていた「人類滅亡の日」を呼び寄せるような大気温変化はまったく起きなかったことを認めはじめた。しかし、地球が温暖化から寒冷化に転じてからすでに9年も経つというのに、「人為的な地球温暖化」を唱える御用学者には科学者としての使命感も良心も、かけらさえ見受けられない。
カルマノビッチは、特定の気象学者グループが基本的な倫理を踏み外し、京都議定書を人類全体に対する犯罪に貶(おとし)めてしまったと糾弾している。その論文を読めば、この一見大げさな主張が実はしっかりした根拠のある議論だと納得できる。二酸化炭素排出量を増やさない自動車燃料という触れこみで大々的に推進されたバイオエタノールを抽出するために、世界中で膨大な量の穀物が食料から燃料へと転換されているからだ。
いったん牛の群れの大暴走のような事態が起きてしまうと、止める手立てはない。今や本来なら食料を収穫するための何百万エーカーもの農地が、世界の食料市場から取り下げられて、燃料市場に振り向けられてしまっているのだ。
 国連の「専門家」たちによると、きたるべき理想郷(ユートピア)では、バイオ燃料が既存燃料よりずっときれいで、動植物に優しい燃料になっているはずだということになる。深刻なのは、世界各国の政府がこの作り話を承認してしまったことだ。
 カルマノビッチの表現によれば、「これは科学的な分析の上での、ささいなまちがいではない。なぜなら、このインチキな国連京都議定書が命ずるとおりに、燃料用に850憶リットルのエタノールをつくるために、世界中で生産された穀物のうち6.5パーセントが食料供給から取り下げられてしまうからだ」ということになる。彼の衝撃的な結論を聞いてみよう。
「世界的な食糧供給から取り下げられたのは、主食になるような基本的な穀物ばかりだ。世界で66億人の人口のうち、裕福な連中にとっては〈穀物価格がだいぶ高くなったな〉程度のことですむだろう。だが、貧乏な人たちはこれで飢え死にすることだってある。だからこそ、京都議定書は、本当に人類に対する犯罪なのだ。そして、この犯罪の根拠となるエセ科学をでっち上げてきた連中も、この人類に対する犯罪の共犯者なのだ」
これはまた、アメリカ人の倫理を問いただす問題でもある。なぜなら、世界中でアメリカがいちばん大量に食料供給を減らして燃料用エタノールに変換するという愚行をくり広げているからだ。つまり、アメリカは人類に対する犯罪の主犯格なのだ。食料として消費すべき穀物からエタノールをつくっているうちのなんと39.7パーセントが、アメリカでのエタノール生産なのだ。
下の表で、最新の実績になる2010年の数値を見ると、世界中で生産された189億3400万ガロンのエタノール燃料のうち、アメリカの生産量は75憶1800万ガロンで、39.7パーセントのシェアとなっている。


出所:当サイトに2011年5月25日に掲載されたボブ・ホウイ「統制主義者の啓示が悪夢に変わるとき」エントリーから転載

 この問題で本当にやりきれない思いがするのは、「バイオエタノールは自動車を運転しながら二酸化炭素の排出量を減らすことで、地球環境の改善に貢献できる」というあまりにも虫のよすぎる話を欧米の富裕な連中が信じこむための免罪符として、まったくのムダなエネルギー浪費を正当化しているというところにある。
まず、バイオエタノールとして自動車燃料に使えるエネルギー量は、バイオエタノールをつくるために使った化石燃料のエネルギー量より確実に少なくなる。とうもろこしなどの穀物からバイオエタノールをつくる過程で必要なエネルギー量は、かろうじてバイオエタノールとして使えるエネルギー量より小さい。つまり、エネルギー収支はなんとか黒字という建前になっている。
だが、この計算には穀物を栽培して収穫するまでに必要なトラクターや、コンバインや、肥料・害虫駆除剤散布用の小型飛行機の燃料代は入っていない。これを入れれば、バイオエタノールとして使えるエネルギー量よりはるかに大量の化石燃料のエネルギー源を投入してバイオエタノールをつくるという愚行を演じていることは確実だ。
 さらに、ブラジルだけで生産されているバイオエタノール100パーセントでも、ガソリン100パーセントでも燃料に使える完全両用車をのぞけば、バイオエタノールをガソリンに混ぜられる比率は非常に低い。アメリカでは10パーセントまで、日本では3パーセントまでと法律で決められている。アメリカでさえ、「環境に貢献しているんだから、おおっぴらに乗り回していいんだ」と思って、それまでより1割長距離走行すれば、ガソリンの節約にさえならないのだ。
 しかも、とうもろこしのバイオエタノールへの変換には、世界中で実施されている再生可能エネルギーへの補助金中で最高額という、2009年時点で77億ドル(1ドル80円換算で6160億円)もの優遇措置が講じられている。バイオエタノールをガソリンと混合して自動車に使うと、ガソリンだけよりも費用がかかるにもかかわらず、税制上も優遇されているのだ。その結果、バイオエタノールは製油業界にとって大きな儲け口になっている。

2010年の実績見込みではアメリカで生産されたとうもろこしの41パーセントをバイオエタノールに変換したことになるが、これはじつに全世界のとうもろこし生産量の15パーセントに当たる。これだけ膨大な量のとうもろこしが、アメリカのカードライバーが「自動車を運転しながら環境保護にも貢献している」という自己満足ないし見栄のために、食料供給から取り下げられてしまったのだ。
 おまけに、このバカバカしいほど気前のいい補助金を出させた張本人、アル・ゴアは「自分が大統領になりたいという野心を満足させるために出した補助金だったが、結果的には大失敗だった」と、ほとぼりも冷めてから正直に認めている。キプロスの有力銀行の後援で、2010年11月にアテネで開催された「グリーンエネルギー・ビジネス会議」で講演したゴアは、以下のように述べている。

「私の見るところ、第一世代植物エタノールへの補助はまちがいだった。エネルギー変換効率は、ベストのコンディションのもとでも、非常に低かった」

「バイオ燃料需要が食物としての需要と競合することによって農作物価格が上昇したのは、掛け値なしの真実だ」

「こういうプログラムがいったん実施されてしまうと、何がなんでも存続させようとする業界団体のロビー活動を克服して廃止するのはとてもむずかしくなる」

「私がこの政策に賛成するというまちがいを犯した理由は、選挙区のテネシー州の農民たちの動向を特に注視していたことと、大統領選出馬を控えてアイオワ州の農民たちには特別な愛着を感じていたことだ」

最初の三つの引用については、「お前よく今ごろになって、こんなことをシレっと言ってのけるな。腹を切るとか、首をくくるとかして責任とれよ」とどやしつけたくなると言う以外にコメントの必要はないだろう。最後の引用だけ、ちょっと説明しておこう。

例年、民主党公認の大統領候補選出については、アイオワ州民主党幹部会の投票結果が大きな影響をおよぼす。しかも、アイオワ州は典型的な農業州だ。当然、農民票を取りやすい政策を打ち出した候補が有利になる。そこで、民主党公認の大統領候補になりたいという野心を抱く候補は、アイオワ州の民主党幹部会投票の直前に、なるべく農民に好意的な政策を打ち出す傾向がある。

つまり、アル・ゴアは大統領になるための票を買うという目的で、表向きは環境保護、じつは農民の歓心を買うためのとうもろこし価格支持政策を取ったというわけだ。そんなことは当人が告白しなくても、見る人が見ればかんたんに推理できる。だが、燃料需要を増やせば、食料需要と競合して価格を上げる、したがって最貧国で餓死者が何千人、何万人という規模で増えることまで分かった上でやったと堂々と言ってのける神経は大したものだ。

2000年のドットコム・バブル崩壊に際して、徹底的に潰すべきだったバブルを延命させるために、サブプライム・ローン証券化商品という劇薬をばら撒いておいて、「あのときはそれが正しいと思っていたが、結果としてまちがいだった」と言って平然としているアラン・グリーンスパンといい勝負の鉄面皮だ。

ヨーロッパ各国は、いろいろ文句は付けるが、実態としては完全にアメリカのエピゴーネン(ものまね屋)に成り果てている。まるで立派なことでもしているように、「EUの再生可能エネルギー政策が計画する量のエタノール燃料を生産するための増産努力は、2011年が正念場だ」と呼号している。この1年間で、ヨーロッパ諸国だけで五四億リットルのエタノールを生産する計画だが、これは2010年比15パーセント増なのだ。



出所:同所から転載

 世界再生可能燃料連盟は、国際的にバイオ燃料の普及促進政策を推進しているため、現在44ヵ国のバイオ燃料生産の65パーセントに関与している。この大メシ食らいの事業分野に成長の可能性があると考えているのだろうが、その思惑どおりにバイオ燃料生産が急成長を続けたとしたら、その分だけ、世界中で餓死者が増えることになるだろう。しかも、この政策を推進した張本人が認めているように、エネルギー効率はすさまじく悪いのだ。
 アメリカ国民は、この「グリーン・エネルギーが地球を救う」というキャンペーンが骨折り損のくたびれ儲けに終わるという冷酷な現実にぶち当たりつつある。政府が風力発電や太陽光発電への補助金を大盤振る舞いするようになってから、通常の火力発電所建設計画は大幅に減速している。そのため電力代はうなぎ登りに上がっているが、消費者にとってはピーク時の電力供給能力はちっとも増えていない。

アメリカが直面する倫理的問いかけは、次のとおりだ。

もしアメリカ政府が本当に国民の利益を守ろうとするなら、エネルギー関連でもっとも良い投資は、天然ガスと石炭の液化プラントを建設することではないのか? もしこれが実現すれば、自動車用燃料は石油への全面依存から解放されるので、ガソリン価格もガロン当たり2ドル50セント以下に下げられる。そうすれば、オバマ大統領は、ガソリン代を上げ、世界中で飢餓をふやす効果しかないバイオ燃料に補助金を出すこともやめられる。
連邦政府は、そしてアメリカ国民は、この問いかけに誠意をもって答えられるのだろうか?
読者の中には、それでも釈然としないとおっしゃる方がいるだろう。「どうしてもそこまで悪意のこもった欺瞞行為が公然と行われたとは思えない」というのは無理もない。これが詐欺事件だと納得できない人が多い理由は、大きく言って次の二つだろう。



一つは、「IPCCのような大きな自然科学者の団体が、学者の良心に反するような運動の旗を振りつづけていられるはずがない。必ず内部告発が起きるだろう」というものだ。

二つ目は、「これが詐欺だとしたら、いったい誰がそうとう豊富な資金を提供して二酸化炭素元凶説を広めて、その投資額に見合うような儲けを得ているのか」という点だろう。どちらもとてもまっとうな反応だと思う。
内部、外部双方から告発は起きている。いちばんいい例が、2009年秋の「クライメートゲート事件」だろう。IPCCの長期気象データが改ざんされていたという事件で、『地球温暖化スキャンダル』(2010年、日本評論社)という本も出ている。かんたんに言えば、IPCCに属する科学者たちが、「中世ヒプシサーマル期(日本語では温暖期とか最適期と訳されることが多い)」と呼ばれる時期が存在していたことを気象データから抹消してしまったという事件だ。



まず、下のグラフをご覧いただきたい。IPCCの息のかかっていない独立系の自然科学者団体が掲載した、過去1000年間のヨーロッパの大気温変化を示したものだ。



出所:当サイトに2009年9月17日に掲載されたボブ・ホウイ「深刻な大底に突き進む太陽活動極小期」エントリーから転載

そして、IPCC自体も全面的に「地球温暖化=二酸化炭素元凶」説に加担する直前までは、ほとんど同一の気温変化があったことを認めていたのだ。下のグラフがその証拠だ。


出所:同所から転載

 ところが、「地球温暖化の原因は、人間が化石燃料を燃やすことで排出している二酸化炭素だ」という「理論」を強引に認めさせようとしたIPCCは、西暦1200年前後の大気温は現代と同じか、現代より高いくらいだったという証拠を、データ操作で消してしまった。それが、クライメートゲート事件で一躍脚光を浴びた「マイケル・マンのホッケー・スティック図」と呼ばれるグラフだ。


出所:同所から転載

 もし、IPCCに自分の学者生命がかかっているというようなメンバーが多かったとすれば、大変な騒動になっていたはずだし、IPCCの権威も地に墜ちていたはずだ。だが、かんたんに言えば、「ああいかにもありそうなことだ」で片付いてしまった。
 結局、自然科学者も人の子だ。大きな組織になるとメンバーのほとんどは、事なかれ主義、さわらぬ神に祟りなし、長いものには巻かれろというごくふつうの人間的な弱みの持ち主になってしまうのだ。だから、強靭な意志の力と潤沢な資金力を持ったリーダーたちは、強引に自分たちの考えを押し付ける運営ができている。
 医者や学校教師や福祉関連事業の職員の大部分が聖職者意識を持っていないのと同様、自然科学者の大部分も聖人君子ではないということだ。あんまり幻想を持たないほうがいい。また、聖職者意識にこり固まった自然科学者ばかりという世界も、とんでもない目標に向かって猪突猛進しそうでこわいものがある。

 二つ目の疑問はちょっと手ごわい。いったいだれが、この詐欺でうまい汁を吸っているのだろうか。二酸化炭素排出権取引市場は、まだ発足して間もないというのに、庶民感覚で言えば膨大な金額のカネが動く世界に育っている。だが、大きな自然科学者の団体を引き回すのに必要な資金が出せるほどの規模ではない。
原子力利権はどうか。排出権市場ほど小さくはないが、やはり無理だろう。
 まず、ウラン鉱山運営企業の大部分は世界的な資源市場の規模から言えば、中小企業クラスが多いうえに、大手石油会社などの子会社だというケースが多い。親会社に逆らって火力発電を原子力発電に転換させようというキャンペーンを張るのはむすかしい。
それに、原子力の平和利用全体が非常に防衛的な宣伝・啓蒙活動に多額のカネを使わざるを得ない境遇にある。現に福島第一原発の事故で、ドイツ政府は原発全廃の方向に踏み切った。もし、「二酸化炭素=温暖化の元凶」説の黒幕に原子力利権があったなどということがバレたら、世界的に原子力産業の存続が危ないというほどの危機に見舞われるだろう。
 口コミで「二酸化炭素排出は放射能汚染よりこわい」というデマを広める連中にこっそりカネを出す程度のことはするかもしれない。だが、証拠の残る可能性がある大々的なキャンペーンに資金を出すのは、リスクが大きすぎてできないだろう。



「先進国が新興国・後進国にエネルギー節約を押し付けるための陰謀だ」という説にいたっては、噴飯ものだ。たとえアメリカが京都議定書を批准していたとしても、「今までさんざんエネルギーを浪費していい思いをしてきたくせに、今さら何をヌカすか。」でおしまいだろう。ましてや、先進諸国で最大のエネルギー浪費国家、アメリカが参加していない国際協定でこれらの国々を縛ろうなどとは、おへそが茶を湧かすくらいチャンチャラおかしい話だ。

 現に、中国は「二酸化炭素元凶」論ではとくに悪役視されている石炭の消費量を、1990年代から現在までで約3倍増している。




出所:ブログサイト『Gregor.us』、2010年1月6日のエントリーから転載
インドも中国ほど大激増ではないが、石炭消費量を急拡大している。インドの伸び方がややおとなしいのは、決して意欲や努力が足りないからではなく、そもそも中国のように物資やエネルギーを浪費する産業ばかり育てていないというだけのことだろう。




出所:同所から転載


 もし二酸化炭素元凶説が先進国による後発諸国のエネルギー消費抑制のための陰謀だったとしたら、もろ逆効果だったわけだ。そして、石炭の煤塵除去や脱硫化に真剣に取り組んでいる先進諸国、とくに日本の積滞使用量を抑制しながら、公害対策がはるかにルーズな中国やインドに使い放題で石炭を使わせる結果になるというのは最悪の事態だ。しかし、そんなことを読めないバカが先進国首脳陣にたったひとりでも混じっているとは思えない。(もちろん、日本政府の首脳をのぞく。)

 この詐欺事件の黒幕がなかなか見えてこないのは、世間には企業経営についてまったく実態とかけ離れた先入観があるからだ。世間では、「企業は自社の製商品を少しでも多く造りたい、売りたいという本能のようなものにつき動かされている」と思いこんでいる。

だから、二酸化炭素元凶説最大の受益者が、石油利権・天然ガス利権を持つ産油国、産ガス国、石油・ガス供給業者であるにもかかわらず、この連中がそんな自国資源・自社製品を貶めるような議論を積極的にあおるはずがないと決めつけているのだ。



「企業には増産・増収本能がある」という説のまちがいから、ときほぐしていこう。企業が持ち合わせている本能は、利潤最大化。これだけだ。同額の利益を確保できるなら、生産量、販売量は少なければ少ないほどいい。それが企業行動の基本だ。
 ときとして、企業が増産本能を持っているように見えることもある。どの企業も自社シェアが市場規模の数百分の一とか数千分の一という、いわゆる「完全競争」状態の市場に参加している企業は、自社が増産しても市場全体の需給への影響は無視できるほど小さいから、必死に増産努力をする。だが、それは増産しても価格は変わらないので、増産した分だけ利益も増加すると思っているからこその行動だ。
自社シェアが市場規模の何割かを占めるというような寡占企業になると、増産すれば価格を引き下げることによって利益率を低下させてしまう。むしろ、減産すれば利益率が上がるので、減産のほうが望ましいと思っている。そうできないのは、そんなことをすれば競合各社に自社のシェアを取られてしまうからだ。

 だから、寡占化した業界では、有力企業同士が共謀してなんとか業界全体で減産・価格上昇を実現しようと画策する。そして、1930年代のGMのように事実上の独占状態を達成した企業は、大不況の中で平然と自社の操業率を七割も削減して大量の労働者を路頭に迷わせながら、自社の利益は確保するという血も涙もない所業におよぶ。
これが企業の本質なのだ。ついでに言えば、希少な天然資源の埋蔵量シェアが大きな国々も、寡占企業と全く同じような行動を取る。だから、自社が属している業界、自国が潤沢に持っている資源について減産・価格支持を堂々とやらせてくれるような「理論」は、だれがどこでどんな理由で提唱しようと大歓迎なのだ。
たしかに「貴重なものだから、大事に節約すべきだ」というのと、「害があるから使うべきではない」というのでは、表面的にはほとんど180度の大転換に見える。しかし、冷静に考えてみると、どちらも生産規模の縮小と価格の上昇を容認どころか奨励しているという点では、まったく同じ機能を果たしているのだ。
 それに、1980年代末から90年代初めごろには、大手石油各社は「資源枯渇」論では生産縮小も価格上昇もままならないという教訓を苦い経験を通じて学んでいた。というのも、エネルギー資源枯渇論は、何度も何度も危機を叫びたてながら一向に危機がやってこないという典型的なオオカミ少年として悪名高くなってしまっていたからだ。たとえば、資源エネルギー庁編『エネルギー 2004』には、化石エネルギーの可採年数について、以下のような表が掲載されていた。


出所:大澤正治『エネルギー社会経済論の視点――問い直すエネルギーの価値』、(2005年、エネルギーフォーラム)、35ページから転載
ところが、70年以上も前の統計資料には、はるかにきびしい可採年数の予測が掲載されていた。


出所:『石油/天然ガス レビュー』2003年11月号所収の田中紀夫「エネルギー文明史――その1」から転載


 これだけ派手なオオカミ少年ぶりを70年以上にわたって発揮していれば、信憑性が低くなるのは当たり前だ。それに、「貴重なものは節約しよう」という議論より「害があるから使うな」という議論のほうが一層望ましいとさえ言える。買うたびに罪悪感を覚えるけど、それでも買わずにはいられないという商品を売るのは、企業にとっていちばんおいしいポジションだからだ。そして、大手石油会社はなんの実例もないのに、思考実験だけでこの大転換が石油産業にとって有益かつ無害だという結論に跳びついたわけではない。石油産業全体で二酸化炭素悪玉論に肩入れするようになるについては、確実に参考にしたはずの前例がある。

 タバコの有害表示が義務付けられたのは、1966年のアメリカが最初だろう。その後、世界各国に有害表示義務付けが広まり、今ではまったく有害表示の付いていないタバコを売っている国を探すのがむずかしいほど普及している。その結果、タバコ産業は滅亡したか? そこまで望むのは無理としても、収益が悪化したか? 全然そんなことはない。
 全世界での販売量は多少減少したかもしれない。葉タバコの生産量が1991年の766万トンから、2002年の635万トンまで下がっているので、ほぼ確実に減少しているのだろう。だが、タバコ製造各社の利益率は、まちがいなく上昇しているはずだ。
 ちなみに、フォーチューン500の常連の中に、アルトリア・グループという会社がある。1995年には売上高10位で利益総額5位、2000年には売上高も利益総額も9位、2005年には売上高は17位まで落ちたが利益総額は9位、2010年には売上高が61位まで急落したが、それでも利益総額は15位と、売上高が不安定な割に利益額ではいつも好位置につけている。ご想像のとおり、フィリップ・モーリスなどの有名ブランドを糾合したアメリカ最大のたばこ会社だ。
 フォーチューン500データからこのアルトリア・グループの売上高利益率を計算すると、以下のとおりの推移だった。1995年には8.8%、2000年には12.4%、2005年には14.6%、2010年にはなんと25.7%まで上がっている。
 あまりにも利益率が上がっているので、特別利益が出ているのかもしれないと思って、2008年、2009年の実績もチェックしてみた。2008年度も2010年度と同じ25.7%、2009年度にいたっては30.9%まで上がっていた。だから、これは特別利益で膨らませた利益率ではない。平常年における実力の利益率なのだ。買うことに罪悪感を持ちながら買っている消費者は、そうとうな暴利をむさぼられても、唯々諾々とついていくものらしい。
「健康に害があるから吸ってはいけない」とか「吸わないほうがいい」とかの議論は、タバコ税の増税には天下無敵の援軍だ。そして、増税のたびに便乗値上げをしても、ほとんど不満は表面化しない。喫煙者は肩身の狭い思いをしながら、黙々と煙を吹いて重税と高価格を負担しつづけている。
 世界中どこでも、各国の厚生労働省に当たるタバコ産業監督官庁・税務当局とタバコ産業各社は、表面的には規制と被規制の敵対関係にあるはずだ。だが、実態としては、彼らはどこでも仲睦まじい共生関係にある。さらに、マスコミには「高価格で将来のニコチン中毒患者を減らすのはいいことだ」というようなアホなことを言う連中もしゃしゃり出てくる。

 そして、二酸化炭素悪玉論が蔓延してからのアメリカ国民が、まさにこの「罪悪感はあるけど、生きていくためにはガソリンを買い続けなければならない」というかわいそうな立場に置かれているのだ。いや、アメリカだけではない。今は、ヨーロッパ各国でも、ロンドンやパリのような巨大都市の都心部以外ではクルマなしの日常生活は不可能に近い。
 日本では、東京・大阪の二大都市圏に住んでいれば徒歩、電車、自転車で行けないところはほとんど皆無だ。だから、ガソリンなど一滴も買わなくても、何ひとつ日常生活での不便はない。
「ガソリン代が上がるのは、地球の汚染を防ぐためにはいいことだ」というようなことをうそぶく環境保護運動の活動家は、たいては上流か中産階級の上のほうの家庭で育った連中だ。この連中に蔑(さげす)まれ、自分でも罪悪感を抱きながら、それでも高いガソリンを買いつづけなければ生活できない欧米の一般大衆の痛みは、残念ながら環境保護運動をやっているお坊ちゃん、お嬢ちゃんたちにも、クルマなしでもまったく支障なく生きていける日本の大都市圏居住者にも分からないのだ。

 石油業界が、二酸化炭素悪玉説を大歓迎した理由はほかにもある。それは、石油業界につきまとう増産=価格暴落体質だ。石油というのは大変やっかいな商品で、埋蔵量の大きな油田を掘り当てたりすると、追加的なコストはほとんどゼロでいくらでも増産できることが多い。原油が自力でどんどん噴出してくる油井などの場合には、むしろ減産をすることに非常に大きなコストがかかる。
だから、石油産業は近代的な産業として確立された直後から寡占化が進んでいた業界にしては珍しいほど、新たに発見された巨大油田からの供給量急増で価格が暴落したという事例の多い業界だった。ようやく第二次オイルショックをめぐる混乱も収まった1988年に刊行された瀬木耿太郎著『石油を支配する者』には、こう書いてある。

原油価格は誰かが管理していないと暴落するという性質をもっている。
――瀬木『石油を支配する者』(1988年、岩波新書)、182ページ
だからこそ、石油産業の歴史は有力企業、有力資源国による生産・価格両面にわたるカルテルの歴史だった。
 1949年には当時セブン・シスターズと呼ばれていた国際石油大手7社で全世界の原油埋蔵量の65パーセント、原油生産量の55%を支配していた。独立系石油会社の多かったアメリカと完全国営だったソ連をのぞくと、世界市場支配率は埋蔵量の82パーセント、生産量の88パーセントという圧倒的なシェアに達していた。しかも、世界最大の産油地域、中東では埋蔵量も生産量も事実上100パーセント独占していた。

 OPEC諸国による突然の値上げ通告直前の1973年にいたっても、セブン・シスターズの支配率は埋蔵量で自由世界の64パーセント、生産で同61パーセントだった。だが、OPECの台頭によって石油元売り各社の支配力は落ちた。1985年にはシェブロンによるガルフの吸収合併で6社に減って「シックス」・シスターズとなったオイルメジャーの支配率は、埋蔵量で自由世界のたった4パーセント、生産量でも20パーセントまで落ちていた。
 変わって石油産業の主導的なカルテルの地位についたOPECは、1986年には埋蔵量の68パーセント、生産量の41パーセントを支配していた。だが、現在は埋蔵量ではなんとか約75パーセント台まで上げているが、生産量では30パーセント前後だろう。

出所:若林宏明『安価な石油に依存する文明の終焉――蘇る文明と社会』(2007年、流通経済大学出版会)、77ページから転載

 過去の可採年数データでも分かるとおり、埋蔵量ベースでのシェアというのは、あとからあとから新しい地域での埋蔵量が発見されるのであまり当てにならない。実際にどの程度生産量シェアを抑えているかが重要なのだ。
 つまり、本来生産量をしぼって価格を維持するカルテルなしではやっていけない業界なのに、そのカルテルの柱になるべき団体がどちらも弱体で頼りにならない。この先どうやって儲けを確保すればいいのか……と思案投げ首だったところに登場した救いの神が、二酸化炭素悪玉論だったわけだ。
 この神様、まことに霊験あらたかだった。アメリカのガロン当たりガソリン価格を、2010年ベースの実質価格で追ってみよう。



出所:ブログサイト『Carpe Diem』、2011年1月7日のエントリーから転載
 
 狂乱の1920年代と言われたインフレ期の初めごろに、3ドル50セントを超えたことがあった。そして、大不況の1930年代は意外にもカルテルによる減産がやりやすかったので、ずっと3ドル台を維持していた。そのあとは、1970年ごろの2ドル割れまでズルズル下げたが、第二次オイルショック直後の1980年に一挙に暴騰して3ドル30セントの第二次大戦後最高値を記録した。しかし、OPECの価格支配力が衰えるにしたがってまたしても延々と下げつづけ、1996~98年には1ドル30セント前後まで下がっていた。
 ちょうどそのころから、地球温暖化の元凶は二酸化炭素だという説が強力にプロモートされ始めた。いや、資金はもっと前から潤沢には行っていたのだろうが、そのころからさまざまな環境保護団体の中でも、二酸化炭素悪玉説グループの羽振りのよさが目立ち始めた。大手石油会社の資金力、マスメディア動員力が関与しているのはまちがいない。

 そして、ガソリン価格は急騰し、ついに2010年末から2011年初夏にかけて前人未到の4ドル台をつけてしまった。6月8日現在の最新情報では、全国平均でレギュラーがガロン当たり4ドル13セント、プレミアムになると4ドル55セントもする。セブン・シスターズやOPECの黄金時代より高いガソリン価格を達成したのだ。もちろん、M&Aの連続で大手の企業数は減った。だが、生き残っているメジャーは、大増益で我が世の春を謳歌している。
 第二次オイルショックに直撃されて惨憺たる状態だったはずの1980年のアメリカ石油産業は、売上・利益とも大盛況だった。フォーチューン500ベースで言うと、売上10傑中じつに6社が石油会社、利益総額でも1位、4位、5位、6位、7位、9位、11位、12位を石油会社が占めていた。1985年になるとやや陰りが見えるが、それでも売上20傑中11社が石油会社、利益総額では2位、7位、8位、9位、10位、19位を占めていた。なお、利益総額8位のシェルと10位のBPアメリカはアメリカ法人だけの収益なので、世界的な利益総額ではずっと上位に入っていたはずだ。

 そして、ガソリン価格が底値圏に向かって下げつづけていた1995年には、売上20傑中4社のみ、利益総額では2位、8位、20位の3社とぐっと淋しくなる。2000年には、ガソリン価格はやや回復に転じていたが、売上20傑で3位、利益総額で4位だったエクソンモービル1社を残して、その他の石油会社はすべて売り上げも利益総額も21位以下となってしまった。ただ、このころにはもう石油各社は次の一手を打っていたようで、地球温暖化=二酸化炭素元凶説を唱える団体のカネ回りはかなり良くなっていた。

 そして、翌2006年に自著『不都合な真実』の出版を控えて地球環境の守護神ヅラをしてアル・ゴアが全米キャンペーンで飛び回っていた2005年には、石油会社の収益もほぼ完全回復を遂げる。売上20傑では2位、6位、7位、利益総額では1位、5位、13位を占めていた。
 直近の2010年では、売上20傑中に2位、3位、5位、16位の4社が入り、利益総額では1位、5位、10位を占めていた。そして、利益総額上位5社はエクソンモービルの406億ドル、GMの387億ドル、スプリント・ネクステルの296億ドル、GEの222億ドル、シェブロンの187億ドルとなっていたのだが、このうち2位のGMと3位のスプリント・ネクステルの利益には前年度の破たん処理や巨額損失から生じた莫大な特別利益が入っている。

 つまり、実力のランキングでは、1位エクソンモービル、2位GE、3位シェブロンと1位と3位を石油大手が占めていたのだ。しかも、首位エクソンの利益総額は実力2位GEの2倍近い金額だ。すべてが二酸化炭素悪玉説だけのおかげとは言わないが、地球温暖化論争の盛り上がりは決して石油会社にとって不利ではなかったことだけは、どなたにも納得していただけるだろう。

二酸化炭素悪玉説の黒幕が産油国・産ガス国・大手石油会社連合だということが分かると、いろいろ今まで腑に落ちなかった謎が解けてくる。

 たとえば、なぜ石炭だけを狙い撃ちで最悪のエネルギー資源と言いつづけるのかといったことだ。下の表で分かるように、石油・天然ガスと石炭では、同じ熱量を出すときに排出する二酸化炭素の量は、約4割石炭のほうが多い程度だ。逆に言えば、同じ熱量を出すときに石油が排出する二酸化炭素は、天然ガスより35パーセントも多い。


出所:若林宏明『安価な石油に依存する文明の終焉――蘇る文明と社会』(2007年、流通経済大学出版会)、41ページから転載

 決して石油や天然ガスは二酸化炭素を出さないが、石炭は出すというような極端な話ではない。だが、二酸化炭素悪玉論者は石油・天然ガスは一まとめにしておいて、この二つと石炭のあいだには天と地ほども大きな差があるような言い方をする。

「石油や天然ガスはなるべく使わないほうがいいけど、どうしてもやむをえない場合には使ってもいい。しかし、石炭は論外だ。あれだけは金輪際使ってはいけない」という感じなのだ。まるで、石炭には石油や天然ガスには入っていない毒でも混入されているかのような騒ぎをしている。

 石油と天然ガスはだいたい埋蔵量の多い地域も重複しているし、同系統の資本が支配している。だが、石炭は石油が天下を取る前にエネルギー産業の王者だった資源で、埋蔵量の多い地域も違うし、資本も石油・天然ガスとは別系統だ。そして、石油の推定埋蔵量は、だいたいにおいてあと30~40年分、天然ガスがあと40~70年分とされているのに対して、石炭の推定埋蔵量はあと170~300年分と圧倒的に長持ちする想定になっている。

 せっかく石油や天然ガスの生産量を圧縮しても、需要が石炭に流れてしまったら元も子もない。だから、二酸化炭素悪玉論者は「石油や天然ガスを使うのは仕方がないが、石炭だけはダメだ」と強調するのだ。
そして、なぜ二酸化炭素悪玉論者は数ある再生可能エネルギーによる発電法の中でも、太陽光と風力というとびきり効率が低くてコストの高い方法ばかり誉めちぎるのかも、分かってくる。真剣な競争相手には育つはずのない技術なら、研究開発の助成金も普及のための補助金も安心して出せるからだ。 

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