2020年の東京オリンピックに関して、新国立競技場の問題や、エンブレム盗用疑惑問題など、色々な問題が出ていたことを覚えておられる方も多いだろう。

2020年東京オリンピック

そもそもオリンピックという4年に1回開かれる世界運動会とは一体何なのだろうか。

 

「オリンピック開催の本当の意味」とは何か、ということに関して、以前、藤原肇氏が大変面白いことを書かれていたので記憶に残っている。

 

藤原肇『小泉純一郎と日本の病理』(光文社)という本に問題の書が2005年に出版されたことを覚えておられるだろうか。

 

この本は、小泉純一郎氏の隠された暗い過去を暴きながら、そのような人物が持てはされる現代日本の政治経済の病理的状況を鋭く分析したものである。

読者を通常のマスコミ評論では考えられない異次元まで連れて行ってくれる本である。

小泉純一郎と日本の病理

著者の藤原肇氏はもともと地質学の専門家で石油が専門であるが、国際政治の分野でも活発な評論活動をしている。最近では廃刊になった「財界にほん」でも加計学園問題で鋭すぎる発言をしていた。

以下。

参照:「日本を破壊したゾンビ政治と愚民化のための言論統制」

http://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/article/zaikai201804.html

藤原 肇(ふじわらはじめ)プロフィール

1938年に東京の神田で生まれた江戸っ子。

十代は文学少年として教養小説に耽溺したが、次第に岩登りに熱中するようになり、その頃の記録は「山岳誌」(東明社)の解説に詳しい。埼玉大学で地質学を専攻した後で、フランスのグルーノーブル大学に学び、アルプスの構造地質学を修めた理学博士。札幌市のオリンピック代表や、グルーノーブル市のオリンピック・アタッシェを歴任。

 

アフリカや中東やヨーロッパの大陸棚の石油開発を体験した後、カナダに移住して北極洋の石油開発を幾つかの多国籍石油企業で担当し、四十代の人生の始まりと共に石油コンサルタントとして独立する。米国のカンサス州に進出して石油開発に従事したことは、「地球発想の新時代」(東明社)にある通り。その後はビジネスから半ば引退して、国際政治や経済の動きを注目しながら、フリーランサーに近い活動をしている。

 

現在はカリフォルニア州のパームスプリングに住み、メタサイエンスについての論陣を展開している。また、現代社会の遊軍的な存在として、独特なエネルギー史観に基づいた視点を駆使しながら、国際政治や石油戦略についてのアドバイスをしたり、生命現象や宇宙論について思索を行ない、必要に応じてコンメタリーの提供を行なったりしている。

 

藤原肇氏は、リュージュ競技の選手として冬季プレオリンピックに出場経験があり、そして1968年のグルノーブル大会では役員として、主催都市の五輪アタッシェの仕事をやったことで、オリンピックとは何かについて知ることができたということだ。

 

リュージュ競技は過酷で、藤原氏は選手として自分が奴隷ではないかと感じたので、1年だけで選手はやめた。そして、そのような奴隷を競わせて楽しむ人々がいて、それがスポーツの祭典を装っており、オリンピック選手という美名での実態が剣闘士に似ていると気付いたという。そして、その「奴隷の主人」に関心を持ち、グルノーブルや札幌でオリンピック関係者と付き合いながら、1つの重要な結論に達したのである。

 

グルノーブル冬季五輪大会では、私は市長のアタッシェに就任していたため、各国の選手団長と同格のCパスを持ち、ほとんどどこでもフリーパスで入れた。このCパスの上にはBパスを持つ人々がいて、それはグルノーブル市長やIOCの役員だった。だが、さらにその上にはAパスを持つ人々がいて、それが「雲の上の人々」“people above the low” だったのである。この人々が王侯貴族たちだったことで私の目からウロコが落ちた。

私はリヒテンシュタイン Liechtenstein の総監督を務めていたプリンスと親しくなり、そして、彼を通してヨーロッパの貴族 aristocrat たちを知る機会に恵まれた。そして、彼らと話して、オリンピックの実態は、王侯貴族たちが4年に1度集まるためにあり、スポーツ大会の上にサロンがあると初めてわかった。しかも、貴族たちはオリンピックのパーティーを使い、息子や娘たちのお見合いの席にしていたのだ。

機会に恵まれてあるパーティーに出席したが、そこにはモンテネグロ Monte-Negro 大公妃が出席していた。そしてさらに驚いたのはキエフ大公 Grand-Duke of Kiev の子孫までいて、「どこに住んでいるのですか」と聞くと、「パリ Paris に住んでいます」と言うのである。つまり、ヨーロッパには一般が知り得ないサロン社会があって、厳然と活動をし続けているのであり、地図から消えたはずの国が今でも存在するのだ。

 

つまり、私が垣間見たのはヨーロッパの核心であり、この人々と市民たちが近代社会(モダンソシエティ)を作っていて、歴史の教科書ではすでに姿を消した、1815年のウィーン体制 Metternich System が生きていた。これは移植された近代と民主主義(デモクラシー)の下で育って、教科書で近代を学んだだけの私たちには理解不能 out of thought な世界の話だから、それを知っただけでも私は幸運だったと思っている。

(p.147-148)

 

 

こうして藤原氏は、「人間が築き上げている世界の成り立ちについて、真の意味を知」ったということである。

 

オリンピックが所詮そうしたものであれば、庶民にとっては結局の所どうでもいい行事であり、醒めた目で見るしかないだろう。

 

新国立競技場やエンブレムなどは瑣末な問題で、そもそもオリンピックなんてそんなにありがたがるべきものではないようである。

 

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