坂東玉三郎さんがついに人間国宝になったようである。素晴らしい!

2008年にNHKで放送された「プロフェショナルの流儀」という番組で彼の超人的な精進ぶりを紹介していたことが思い出される。その努力が梨園の御曹司でない玉三郎を人間国宝にしたことは、間違いない。

しかしながら、若い頃の彼の妖しい、不思議な美しさも決して忘れることはできない。かつて、三島由紀夫は、玉三郎の出現を現代の奇跡と言った。以下、引用(国立劇場プログラム 昭和45年 8月より)



玉三郎君のこと

 

「女形は歌舞伎の花である。老練な偉大な女形が必要な一方では、莟の花の若女形がいなければ歌舞伎は成り立たぬ。しかし今の時代に、このような花は、培おうとしても土壌がなく、ひたすら奇蹟を待ちこがれるほかはない。その奇蹟の待望の甲斐あって、玉三郎君という、繊細で優婉な、象牙細工のような若女形が生まれた。歌舞伎というものの異常な生命力の証である。痩せているのに傾城もできる「ぼんじゃり」した風情があり、なおやかでありながら、雲の絶間姫もやれる芯の強さやお茶っぴい気分もある。この人のうすばかげろうのような体が、舞台の上でしなやかに揺れるときに、或る危機感を伴った抒情美があふれる。そして何より大切なのは、気品のある美貌なのである。

 美貌が特権的に人々の心をわしづかみにする。この力を歌舞伎が失ったら、老優の深い修練の芸の力のみで、歌舞伎を維持できるものではない。世阿弥以来、日本の芸道は、少年の「時分の花」と、老年の「まことの花」とが、両々相俟って支えてきたのである。

玉三郎君という美少年の反時代的な魅惑は、その年齢の特権によって、時代の好尚そのものをひっくり返してしまう魔力をそなえているかもしれない。

 昨年拙作「椿説弓張月」が国立劇場で上演され、私自身が演出を担当したとき、はじめて玉三郎君を扱って、その稽古の行儀正しさ、素直さ、真剣さ、セリフを一字一句まちがえずに大切にすること、等から父勘弥丈のきびしい躾と、立派な教導を感じた。しかしまじめなばかりで花がなければ何にもならぬ。山塞の場の白縫姫の冷艶、かよわい美のみが持つ透明な残酷さ、等は、正に私の狙ったものそのもので、時折、舞台を見ていて私は戦慄を感じた。

 又、海上の場で一転して、純情で一途な姫になり、わが子との別れで舳に崩折れてさしのべる人形風な手の美しさ、のけぞる形の人形風な誇張、愛する良人為朝の手をふり切って入水するときの、身をしなしなと左右に激しく振るうしろ姿の一瞬の鋭い優雅、、、、

すべて演出家の意をよく伝えた演技を見せてくれた。」

歌舞伎研究家、渡辺 保氏の女形・玉三郎より

「玉三郎が演じているのは一人の女であると同時に女の美しさであり、女をこえた美しさそのものである。小林秀雄は美しい花はあるが、花の美しさというようなものはないといったが、そのこの世にはない美という観念を玉三郎は演じ続けている。

美を演じる一人の俳優――――――だからこそ現代の妖精なのである。」

日本の伝統文化の伝承を若い人たちにすすめるためにも玉三郎さんのさらなるご活躍を期待したい!

 

 

20120721 スポーツ報知より

芸能坂東玉三郎、人間国宝に…歌舞伎女形では5人目」

 

人間国宝6 件に決まり、喜びを語る坂東玉三郎 歌舞伎界きっての人気立女形の坂東玉三郎(62)が重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されることが20日、分かった。文化審議会が平野博文文部科学省に答申。京都・南座で会見した玉三郎は「役の向こう側の世界を感じていただける俳優でありたいですね」と喜びを語った。

 

 女形としては長身の173センチに、梨園の生まれではない“ハンデ”を背負っていたが、中村歌右衛門さんや尾上梅幸さんら女形の名優たちと肩を並べた。歌舞伎の女形では、中村芝翫(しかん)さんが1996年認定されて以来5人目。時代物から新歌舞伎まで幅広い分野での高水準の演技が、認定の理由だ。

 

 人間国宝6 件の認定には「功成り遂げた方がなるもので、そういう立場にないと考えていた」と、躊躇(ちゅうちょ)する思いもあったが「後輩の指導」と「歌舞伎界の発展」に向け、前向きにとらえた。「肩書(人間国宝6 件)が付くことで、演出しても物が言いやすくなると思う。うれしさより責任を感じますね」

 

 これまでの半生は「好きでやって来ましたから、苦労というものの、実感もありませんでした」と笑顔。今後は後輩の指導はもちろん、立女形の第一人者としての活躍にも期待が高まる。

 

 人間国宝認定とともに再び大名跡「守田勘弥」襲名の声が上がりそうだが「勘弥は江戸三座の座元。女形はいませんでしたから、これまでも考えたことはありません」と否定した。

 坂東 玉三郎(ばんどう・たまさぶろう)本名・守田伸一。1950年4月25日生まれ。57年12月、坂東喜の字(きのじ)の芸名で東横ホール「寺子屋」の小太郎で初舞台。64年6月に14代目守田勘弥の芸養子となり、歌舞伎座「心中刃は氷の朔日」で5代目坂東玉三郎を襲名。「桜姫東文章」の桜姫などの気品のある姫役をはじめ「助六由縁江戸桜」の揚巻や「壇浦兜軍記」の阿古屋などを演じ、立女方の地位を確立。商業演劇や中国の崑劇(こんげき)、太鼓集団「鼓童」の演出、映画監督など多方面でも活躍。屋号は大和屋。

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